私は『帝国の慰安婦』で「同志的」関係というワーディングが書かれた脈絡を、こう考えている。- カンダミ

私は『帝国の慰安婦』で「同志的」関係というワーディングが書かれた脈絡を、こう考えている。

著者: カンダミ

初期の挺対協は挺身隊と慰安婦の区別もつかなかった。被害規模もきちんと把握していなかった。そこで挺身隊のような「公的」な強制動員という体系の中で慰安婦問題の証明を試み続けたが、証拠が出るはずもなかった。

こうして、無駄な時間ばかりが過ぎていった。

挺対協は被害者に抗議されてはじめて、こうした立場を撤回すると同時に謝罪した。慰安婦という存在は一体何だったのか、このときからでも直視して研究すべきだったが、戦略を変えて「性奴隷」という概念で国際社会に訴え、日本を外交的に圧迫する方向にシフトした。どうやら、運動の戦略を考えるだけで終わったようだ。

だが、これはそれほど簡単な問題ではない。挺身隊との混同のせいで、動員の過程での強制性(強制連行)の立証に失敗したというなら、「性奴隷」という概念は、慰安所が実際はどのように運営されていたのかを示す様々な証言と相反する面がある。

実際に日々の監禁と暴力で酷使し、奴隷のような環境に追い込んだ主体は業者だからだ。自らを一種の下請けだとし、日本軍が定期的に行う性病検査の管理という次元を超えて、運営に直接かつ具体的に関与していたという証拠もまたない。逆に慰安婦は業者の暴力的な抑圧から少しでも逃れようと、日本軍の保護を受けるために地位の高い軍人と恋愛をすることもあった。慰安婦が看護師の役割をすることもあったし、軍人の歓送迎会に行くことも、亡くなった軍人の墓を世話することもあった。一緒に訓練を受けたり、アヘンを吸ったりすることもあったし、互いの身の上話や戦場から生還しろと激励することも…

強制的に占領地から軍人に引っ張って来られて収容された占領地の女性の証言に、そうした内容があるのを見ただろうか? 明らかに異なる面があったのだ。

日本の右派勢力は動員過程での強制性と同様に、慰安所の風景に関する証言の数々と事実を根拠に、慰安部問題そのものを否定している。

それでは果たして、朝鮮人慰安婦は占領地出身の慰安婦よりも楽な生活をしたかというと、またそれも違う。

暴力と強圧を加えた主体が異なるだけだ。占領地の女性が日本軍に犬扱い・奴隷扱いをされたなら、朝鮮人慰安婦は代わりに民間人の業者-置屋から毎日のように殴られ、監視や監禁のもとで酷使され、犬扱いや奴隷扱いされた。日本軍との関係では、戦争をともに戦う皇国の臣民として「慰安」してやらなければならない愛国者の役割まで強要されていたのだ。

すなわち、朝鮮人の置屋-業者との下請け関係と、慰安と、愛国という、内面化された国民動員のイデオロギーによって、日本軍と朝鮮人慰安婦の間に存在した直接的な暴力の隠ぺいが可能だったいうことだ。

その隠ぺいの構造を明らかにせず、暴力性を証明する証拠探しばかりに集中する運動のやり方は、これといった成果を上げることはできなかった。

同志的な関係とは、占領地の慰安婦とは異なる面、つまりその隠ぺいされた構造を説明するための概念である。そして、この概念はそれなりに重要だと考える。

日本軍の兵士ですら、自分たちが占領地の女性(敵の女性)と朝鮮人慰安婦をはっきり区別し、異なる扱い方をしていたという事実を心の中では「正当化」している。これは日本軍を、韓国軍や他国の軍隊と置き換えても同じことだ。それだけ朝鮮人慰安婦の問題は、より構造的で普遍的な問題だと見る必要がある。

日本軍の蛮行という特殊化された範疇を超え、女性に対する性的搾取を正当化させる「家父長制国家」…そして、主に貧しい女性が標的にされた「階級」の問題などにも目を向けるべきだ。

「慰安」という国民動員のイデオロギーは植民地時代の後にも、韓国軍慰安婦、米軍慰安婦として再生産されるだけでなく、戦時中でなくとも「性売買の合法化」と「公娼性」を主張する男性の意識の中で、内面化されて再生産されている。

男性の性欲解消に役立つから性犯罪の予防になるという戯言は、実は当時の「慰安」というイデオロギーと何一つ変わっていない。女性の性的対象化があまりにも日常的、当たり前になっており、いつでもそれを国家・民族・社会の公的な構造に引っ張り込み、正当化させるという振る舞いに及ぶのだ。

(だから私は「性奴隷」という用語より、日本軍が使用した「慰安婦」という用語の方が、むしろその実態をより露わにする概念だと思う)。

公的に容認・正当化した構造的な強制性として慰安婦制度の問題に接近してこそ、歴史に対するまともな反省を引き出すことができるのではないか。それでこそ、一部の表面的な事実関係を持ち出して慰安婦を否定している、日本の右派の論理も抑えることができる。そうした論理に巻き込まれている間にも、すでに白髪の老人となった慰安婦被害者たちに残された時間は刻一刻と減っていく。暴力性の証拠探し、文書探しのような空振りで無為に時を過ごすべきではない。

それより、日本軍が暴力と強圧の主体として前面に出なかったのに、どうやってあれほど多くの女性が慰安婦に動員され、犠牲になったのか…という点の方が、おぞましい歴史的事実ではないか。

そうした合法的、かつ公的な構造と体制を作り出した張本人として、当時の日本軍-日本政府-国家の責任、ひいては全国民の意識レベルにまで責任を問い、反省させることが慰安婦問題に関する過去史の清算の核心であるとは思わないのだろうか?

そうでなければ、あの正当化の構造はいつでも様々な姿で、様々な国籍で繰り返される可能性もあるのだ。

セウォル号も、ただ朴槿恵政権のせいだとなすりつけ、糾弾したからといって問題は解決するのだろうか? 文在寅が大統領だったら事故は防げて、全員が救助されていたのだろうか? それも構造的な問題として接近してこそ、問題が解決されるはずだ。それと同じことなのだ。

もちろん、だからといって『帝国の慰安婦』が構造的な問題を緻密に、そして入念に探究したと見るのは難しい。もっと忠実に補完されるべき部分も多々ある。そうした面から生産的な批判と論争が成されるのならば、大歓迎というものだ。

だが、現状は文脈もまともに把握できておらず、歪曲のレベルにすぎない体たらくだ。以上。