[裁判関連] 『帝国の慰安婦』裁判、判決文(全文)

Translated by H.H.

ソウル東部地方裁判所

第11刑事部

判    決

事   件  2015コハプ329 名誉毀損
被   告  朴○○(57****-2******)、教授
住居 ソウル
登録基準地 ソウル
検   事  クォン・パンムン(起訴、公判)、イ・ユンヒ(公判)
弁 護 人  1.法務法人 ユジン
担当弁護士 キム・ヨンチャン
2.法務法人 エイチス
担当弁護士 ホン・セオク
判 決 宣 告  2017年1月25日

主    文

被告は無罪。
この判決の要旨を公示する。

理    由

公訴事実の要旨

告訴人のイ**、キム**、キム**、ユ**、カン**、チョン**、パク**、キム**、キム**、イ**、イ**は、日本軍慰安婦被害者らで、実際は日本国の売春婦とは異なり、本人たちの意思に反して日本軍によって慰安婦として強制動員され、その監視の下で戦時状況の中国、東南アジア等の地に設置された慰安所に閉じ込められ、最小限の人間らしい生活も保障されないまま、一日に数十人の軍人たちの相手をし、性的快楽の提供を強要された「性奴隷」にほかならず、本質的に売春婦ではなく、日本国と日本軍に愛国的または自矜的に協力したことはなく、日本軍は上記の通り設置された慰安所を設置・運営し、慰安婦を国外に送り出す過程で広範囲に介入する等の行為をした。
それにもかかわらず被告は、2013年8月12日、ソウル麻浦区西橋洞541-28にある「プリワイパリ(根と葉)」出版社から、「日本軍による朝鮮人慰安婦動員の非強制性を強調(日本軍の強制動員または強制連行を否定)し、朝鮮人慰安婦が基本的に売春の枠組みの中にある女性であるとか、自発的に行った売春婦であり、朝鮮人慰安婦が日本帝国の一員として日本国に対する愛国心または自矜心を持って日本人兵士たちを精神的・身体的に慰安する慰安婦として生活しながら、日本軍と同志的な関係にあったことを示し、「朝鮮人慰安婦の苦痛が日本人の娼妓の苦痛と基本的に変わらないという点をまず知る必要がある。」、「「慰安」は、過酷な食物連鎖構造の中で、実際にお金を稼ぐ者は少なかったが、基本的には収入が予想される労働であり、その意味では「強姦的売春」であった。または「売春的強姦」であった。」、「朝鮮人「慰安婦」を呼ぶ「チョーセン・ピー」という言葉には、朝鮮人に対する蔑視が露わである。この軍人たちが彼女たちをこうも簡単に強姦できたのは、彼女たちが「娼婦」だったからでもあるが、何よりも「朝鮮人」だったからである」、「1996年の時点で「慰安婦」とは根本的に「売春」の枠組みの中にあった女性たちであることを知っていたのである。」、「そして、「自発的に行った売春婦」というイメージをわれわれが否定してきたことも、やはりそのような欲望、記憶と無関係ではない。」、「日本人・朝鮮人・台湾人「慰安婦」の場合、「奴隷」的ではあっても基本的には軍人と「同志」的な関係を結んでいた。」、「それは朝鮮人慰安婦と日本軍の関係が基本的には同志的な関係だったからである。」、「ホロコーストには、「朝鮮人慰安婦」が持つ矛盾、すなわち被害者でありながら協力者でもあったという二重の構図はない。」、「そのような精神的な「慰安」者としての役割――自分の存在に対する(やや無理な)矜持が、彼女たちが直面した過酷な生活に耐え抜くことのできる力にもなりえたということは、十分に想像できることである。」、「「朝鮮人慰安婦」は被害者であったが、植民地人としての協力者でもあった。」、「そして少なくとも「強制連行」という国家暴力が朝鮮人慰安婦に関して行われたことはないという点。」、「「慰安婦」たちを「誘拐」し、「強制連行」したのは、少なくとも朝鮮の地では、そして公的には、日本軍ではなかった。」等、別紙犯罪一覧表に記載したように、虚偽の事実が摘示されている『帝国の慰安婦』という本(以下、「本件書籍」という)を出版し、その後、全国の書店等を通じて配布し、公然と被害者たちの名誉を毀損した。

判断

1.被告と弁護人らの主張
被告と弁護人らは次のように主張し、この事件の公訴事実を争っている。
○別紙犯罪一覧表に記載の各表現は、被告が自らの意見を表明したものに過ぎず、具体的な事実を摘示したものではなく、上の各表現は、検事が上の表の「備考」欄で主張しているような内容でもない。
○被告は、別紙犯罪一覧表に記載の各表現で、「朝鮮人日本軍慰安婦」という集団の名称を使用したものであり、上の各表現は集団の構成員すべてを指摘している内容ではく、例外を認める一般的な平均判断に過ぎず、上の集団の構成員である告訴人らが被害者として特定されていたとはいえない。
○被告は、本件書籍において日本軍慰安婦の強制動員を認め、慰安所は強制売春の形態で、慰安婦が「性奴隷」であったことを認めており、日本国の責任を否定する否定論者たちを批判し、日本政府の責任を問おうとする意図で本件書籍を著述した。したがって、被告には名誉毀損の犯意がない。
○被告が本件書籍に叙述した内容は、さまざまな国際報告書と国内委員会の発刊資料等に叙述された内容と同一のもので、虚偽ではなく、被告は慰安婦問題の解決を望む気持ちから既存の国内慰安婦支援団体の運動と日本の否定論者たちを批判するために本件書籍を著述したもので、仮に被告が告訴人らの名誉を毀損する事実を摘示しているとしても、これは真実であり、公共の利益のためのものであるから、違法性が阻却される。

2.事実の摘示に当たるかどうか

カ.検事の主張
検事は、被告が別紙犯罪一覧表に記載の各表現のうち、①番号2~4、7、11~13、15、16、27、30、34に記載の各表現(以下、便宜上番号のみ記す)を通じ、「慰安婦は本質が売春だった」という事実、より具体的には「朝鮮人日本軍慰安婦たちは、すべき仕事の内容が何であるかを知りながら、本人または両親の選択によって自発的に行ったので、その本質は売春だった」という事実を摘示しており(以下、「第一主張」という)、②番号1、6~10、13、14、17~19、21~25、28、29、31~33、35に記載の各表現を通じては、「朝鮮人日本軍慰安婦たちは日本国または日本軍の愛国的または自矜的協力者で、日本軍と同志的関係にあった」という事実を摘示しており(以下、「第二主張」という)、③番号5、16、20、26に記載の各表現を通じては、「日本国または日本軍による慰安婦強制動員または強制連行がなかった」という事実を摘示している(以下、「第三主張」という)と主張している。

ナ.被告と弁護人らの主張
これについて被告と弁護人らは、①被告が本件書籍で「売春」という単語を使用したのは、日本軍慰安所が「管理売春」の形態で運営されていたという点を説明するためであって、慰安婦たちが「自発的」な売春婦だったという意味で上の単語を使用したのではなく、②被告は朝鮮人日本軍慰安婦たちが植民地人として日本国によって協力と愛国を強要された「軍需品としての同志」だったと叙述したものであって、慰安婦たちが愛国心または自矜心を持って日本軍や日本国に協力したと叙述したのではなく、③被告は本件書籍で帝国主義、植民地支配、資本主義、家父長制等の社会構造的次元での強制性を意味する「構造的強制」という概念を通じて、直接的で物理的な強制連行のみを意味する「狭義の強制動員」と区別される「広義の強制動員」を主張しつつ、そのような広義の強制動員について日本が責任を負うと叙述しただけでなく、狭義の強制動員があったという事実も否定したことはなく、ただそのような狭義の強制動員が「公的に」日本軍によってなされたものではなかったと叙述しただけである、と主張している。

タ.関連法理
1)「事実の摘示」の概念
刑法第307条第2項の名誉毀損罪が成立するためには、問題となった表現が「事実の摘示」に該当しなければならない。ここで「事実の摘示」とは、価値判断や評価を内容とする意見表明に対置される概念で、時間的・空間的に具体的な過去または現在の事実関係に関する報告や陳述で、その表現内容が証拠によって証明可能なものをいう(最高裁2007年10月26日宣告2006ト5924判決等参照)。すなわち、「事実」とは、五感の働きで感知できる程度に現実化され、証拠により証明できる特定人の過去または現在の具体的事件または状態をいうものであり、「意見」は単純な事実と区別される価値判断で、事実関係や人に対して何らかの意識や見解を持ったり、評価したり、判断したり、態度を決定したりする等の、精神的活動の表現を意味する(最高裁2004年2月26日宣告99ト5190判決参照)。
また、摘示された事実は、これによって特定人の社会的価値や評価が侵害される可能性があるという程度にまで具体性を帯びていなければならない。特定人の社会的価値や評価を低下させるに十分な具体的事実の摘示があるというためには、必ずしもそのような具体的事実が直接的に明示されていることが要求されるわけではないが、少なくとも摘示された内容の中の特定の文句によって、そのような事実がただちに類推されうる程度になっていなければならない(最高裁2011年8月18日宣告2011ト6904判決等参照)。他人の社会的評価を侵害する可能性があるという程度にまで具体性がある事実を明示的に摘示した表現行為が名誉棄損になりうるのはもちろんであるが、意見ないし論評を表明する形式の表現行為だとしても、その全体的な趣旨に照らして、意見の根拠になる隠された基礎事実に対する主張が黙示的に含まれているうえに、その事実が他人の社会的評価を侵害しうるならば、名誉棄損に該当しうる(最高裁2015年9月10日宣告2013タ26432判決参照)。

2)事実の摘示に該当するかどうかを判断する方法
ある表現が事実を摘示しているものなのか、意見を表明しているものなのか、意見を表明していると同時に黙示的であれその前提になる事実を摘示しているものなのかを判断するためには、その表現の客観的内容と合わせて、一般読者が普通の注意深さでその文章に接することを前提として、使用された語彙の通常の意味と用法、証明可能性、問題となった言葉が使用された文脈、その表現が行われた社会的情況等、全体的情況を考慮して判断しなければならない(最高裁2011年9月2日宣告2010ト17237判決等参照)。
このように、論争になっている表現の客観的意味は、その言語的文脈およびその表現がなされた周辺の状況によって決定されるものであるため、たとえ表現内容の中の一部の趣旨がはっきりせず、誤解の余地があったり、ここに相手方に対する批判が加えられていたりしたとしても、その表現内容の中のほかの部分とともに全体的・客観的に把握することなく、趣旨のはっきりしない一部の内容だけを取り出して、名誉棄損的事実の摘示と断定してはならず(最高裁2008年5月8日宣告2006タ45275判決等参照)、さらに客観的な表現形式や内容等に照らして見るとき、これを事実の摘示ではなく、単純な意見表明と捉えることができるにもかかわらず、その文章が批判的な観点から作成された等の主観的な事情を考慮して、このような表現行為を名誉棄損に当たるものと断定することは許されない(最高裁2009年4月9日宣告2005タ65494判決参照)。したがって、ある表現が主体と行為を指摘していて、一見、意見または論評を表現すると同時にその前提になる事実を摘示したものと見える場合であっても、その表現の前後の文脈とその表現がなされた当時の状況を総合して見るとき、その表現が比喩的、想像的であり、多義的で、具体的内容、日時、場所、目的、方法等が特定されず、一般的に受け取られる核心的意味を捉えがたく、読者によって異なる見方をする余地がある等で、立場表明という要素が決定的であれば、その表現は事実の摘示と見ることはできず、意見の表明というべきである(最高裁2004年2月26日宣告99ト5190判決参照)。

ラ.第一主張に関する判断(順番2、3、4、7、11~13、15、16、27、30、34に記載の各表現)

1)検事が「摘示された事実」と主張する内容について
検事は、この部分の各表現が「慰安婦は本質が売春だった」という事実、より具体的には「朝鮮人日本軍慰安婦たちは、すべき仕事の内容が何であるかを知りながら、本人または両親の選択によって自発的に行ったので、その本質は売春だった」という内容の事実を摘示したと主張している。しかし、いろいろな側面を持つ、ある対象の本質的要素が何であると見るかということは、必然的に主観的な評価が介入せざるをえない価値判断に属するものであり、その判断の当否を問うのならともかく、証拠によってその事実の存否を証明することはできない。これは、検事がより具体化された形で提示した陳述が、「…なので、その本質は…だった」となっており、推論の文章口調をとっていることを見ても明らかである。したがって、被告が「慰安婦は本質が売春だった」という内容の叙述をしたという検事の主張は、その主張自体が事実の摘示ではなく、意見の表明を問題としているに過ぎない。
ただ、もし検事の主張のように、この部分の各表現が、明示的または黙示的に「朝鮮人日本軍慰安婦たちは、すべき仕事の内容が何であるかを知りながら、自発的に慰安婦になった」という内容を摘示したものであれば、これは時間的・空間的に特定の事実関係に関するもので、証拠によってその事実の存否を証明することが可能なので、事実の摘示に当たると見る余地がある。以下では、この部分の各表現がはたして検事が主張する上の内容のような事実を摘示したものと見ることができるかどうかを判断する。

2)番号2~4、11、30に記載の各表現

本件の弁論と記録によって認められる次のような事情に照らして見るとき、この部分の各表現は意見の表明に該当するに過ぎず、明示的にはもちろんのこと黙示的にも「朝鮮人日本軍慰安婦たちは、すべき仕事の内容が何であるかを知りながら、自発的に慰安婦になった」という事実を摘示していると見ることはできない。
〇この部分の各表現の客観的な内容は、慰安婦の「本質」が何であるかを説明したり(番号2、3)、一般的な慰安婦の大多数には「二重性」という属性があると述べたり(番号4)、朝鮮人女性が慰安婦になった構造的・制度的次元の原因と起源を説明したりしている(番号11、30)ものである。ある現象の本質や属性が何であるかを明らかにすることは、主観的な評価が必然的に介入せざるをえない価値判断に属し、ある歴史的現象について、その背景になっている社会構造や制度との因果関係を明らかにすることもまた、主観的な分析と評価に伴う推論の性格を持つ。
〇被告は「からゆきさんの後裔」、「「からゆきさん」のような二重性を帯びた存在」、「構造の中のこと」等の抽象的・比喩的表現を使用し、「基本的には変わらない」、「それに従って…場合もあっただろうが、…見なければならない」と述べ、通常、主観的な判断や推測を表すときに使う表現を使用している。このような語彙の通常の用法と意味、文章の全体的な流れと文句のつながり方に照らして見るとき、この部分の各表現を通じて、時間的・空間的に特定可能な具体的事実関係をただちに推論するのは難しい。
〇この部分の各表現の前後の文脈と、本件書籍の全体的内容、すなわち△「日本では近代初期から幼い少女たちを誘拐まがいの方法で連れて行き外国へ売り渡すことが多かったが、その女性たちは韓国、中国をはじめとした外国に作られた公娼へ売られて行き、このような女性たちを故郷の人々が「からゆきさん」と呼んだ」という趣旨の記述(27~28頁)、△人々はからゆきさんを軍人になぞらえ「娘子軍」と呼ぶこともあったが、これは「国家の欲望実現のために動員された者たちが、いつのまにか国家の勢力拡張に役立つ存在として、「国家のための」役割をする者たちと認められるようになって(もちろん動員のための国家のレトリックに過ぎない)生まれた言葉だった。後の慰安婦たちもまた「娘子軍」と呼ばれ、「慰安婦」たちはそのようにして国家と男性による被害者でありながら、国家による「愛国者」の役割を担わなければならなかった者たちでもあった」という叙述(31頁)、△番号2に記載の表現の直後に出てくる「国家間「移動」がより容易になった近代に、経済・政治的勢力を拡張するために他国へ渡った男性たち(軍隊もその一つである)を現地につなぎとめておくために動員された者たちが「からゆきさん」だったのである」という叙述、△番号3に記載の表現の直後に続く、「その中に差別が存在していたのは事実だが、慰安婦の不幸を作ったのは、民族の要因よりもまず、貧しさと男性優越主義的家父長制と国家主義であった。」という叙述、△番号11に記載の表現の直前に出てくる「何よりも、性労働の加害者は女性を「教育」から排除し、経済的自立の機会を与えず、父親や兄がモノのように売ることができた時代、女性の所有権を男性が持っていた時代の、家父長制的国家だった。」という叙述(112頁)、△番号30に記載の表現の前に登場する、「慰安婦は日本の戦時にだけ存在したものではない。それよりずっと前から存在し、今も存在する。今の基地村女性たちもまた現代の「慰安婦」であり、軍隊が存在する所なら「慰安婦」はどこにでも存在した。」という叙述(290頁)、△そのほか「貧しい女性たちの海外移動を助長したのは、家父長制と国家主義だけではなく、何よりもまず自国の勢力を海外へ広げようとした帝国主義だった。」という叙述(278頁)、△「「慰安婦問題」は国家の問題であるだけでなく、より本質的には資本の問題である。…慰安所は表面的には近代の戦争遂行のためだけのものに見えるが、その本質はそのような「帝国主義」と、人間を搾取し利潤をあげようとする資本主義にある。」という叙述(279頁)、△「家父長制と資本主義により支えられてきた近代国民国家体制は、国家勢力を拡張したり維持したりするために軍隊を組織し、故郷を離れ「お国のために」働く彼らを「慰安」すべき女性たちの組織を維持してきた。その意味では、日露戦争の時代の日本人慰安婦も、太平洋戦争の時代の朝鮮人慰安婦も、解放後の韓国に駐屯することになった米軍のための慰安婦も、基本的にはすべで同じく国家(安保または経済)のためという名目で動員された被害者である。」という叙述(287頁)等に照らして見るとき、この部分の各表現で、被告は、日本軍慰安婦被害発生の根本的な原因が国家主義、帝国主義、家父長制、資本主義等の社会構造的側面にあると捉える立場を前提として、日本で「からゆきさん」と呼ばれていた人々と朝鮮人日本軍慰安婦は、どちらも国家の勢力拡張の過程で、社会の最下層にある貧しい女性たちが国家によって動員されたという側面において同一の点があり、今日貧しい女性たちが売春業に従事するようになることと、過去朝鮮人女性たちが日本軍慰安婦になったことには、どちらもこのような社会構造的原因があるという趣旨の主張をしているものと見られるに過ぎず、朝鮮人日本軍慰安婦たちが自発的に慰安婦になったという趣旨の主張をしているものとは見がたい。
〇被告がこの部分の各表現を通じて主張した「朝鮮人女性たちが日本軍慰安婦になったのは、国家主義、帝国主義、家父長制、資本主義等の社会構造が原因になった」という陳述は、時間的・空間的に特定される事実関係に関連するものでないだけでなく、こうした分析と評価は、その当否を問い、賛否の見解を提起することはできても、証拠によってその事実の存否を証明することはできない。

3)番号7に記載の表現

本件弁論と記録によって認められる次のような事情、すなわち、〇この部分の表現は、朝鮮人慰安婦は当時、日本人慰安婦たちが軍人たちのために働くという気持ちで慰安所で働いていたというある日本人業者の証言を引用した後、その証言に付け加えた陳述である点、〇この部分の表現は、被告が「軍人たちが戦争を遂行する間、それに必要ないくつかの補助作業をさせるために動員されたのが慰安婦であった。その意味でも、戦場で強姦の対象になった「敵の女」と慰安婦は、軍との関係において根本的に異なる存在であった。」(57頁)、「「朝鮮人慰安婦」は、そのように中国やインドネシアのような占領地/戦闘地の女性たちと区別される存在であった。植民地になった朝鮮と台湾の慰安婦たちは、どこまでも「準日本人」として帝国の一員であり(もちろん実際には決して「日本人」たりえない差別があった)、軍人たちの戦争遂行を助ける関係であった。それが「朝鮮人慰安婦」の基本的役割であった。」(60頁)、「慰安婦たちは当時「日本人」として動員された。…「朝鮮人慰安婦」とは、そのように日本の帝国拡張戦争を遂行するために動員された存在でもあった。」(80頁)と叙述して、朝鮮人慰安婦は占領地または敵国の女性とは違う植民地人であり、日本帝国の一員として扱われていたために、日本軍との関係において占領地や敵国の女性と異なっていたことを強調する脈絡において登場する点、〇この部分の表現の直後に続く、「そうでなければ、敗戦前後に慰安婦たちが負傷兵を看護したり、洗濯や裁縫をしたりした背景を理解することはできない。」という叙述を見れば、被告がこの部分の表現で述べている「基本的な関係」とは、慰安婦が日本軍を助ける行為をすることもあったという現象を説明するためのものであることがわかる点、等に照らして見るとき、この部分の表現は「朝鮮人慰安婦も日本帝国の慰安婦であったので、軍人たちとの関係においては、上の証言に出てきた日本人慰安婦と基本的に同じである」という内容であり、下のマ1)項で見る通り、「慰安婦は日本帝国の一員として動員され、戦場で軍人たちを精神的・身体的に慰安する役割を果たすことを要求され、その意味で日本軍とは同志的関係と評価されうる」という意見を表明しているものと見ることができるに過ぎず、「朝鮮人日本軍慰安婦たちは、すべき仕事の内容が何であるかを知りながら、自発的に慰安婦になった」という事実を暗示している内容とは見がたい。

4)番号12に記載の表現

本件の弁論と記録によって認められる次のような事情に照らして見たとき、この部分の各表現は意見の表明に当たるに過ぎず、明示的にはもちろんのこと黙示的にも「朝鮮人日本軍慰安婦たちは、すべき仕事の内容が何であるかを知りながら、自発的に慰安婦になった」という事実を摘示しているものと見ることはできない。
〇この部分の表現の客観的な内容は、「日本軍慰安婦には売春の要素と強姦の要素がともに存在している」というものである。このように、ある歴史的対象について、ある要素ないし属性が存在していると表明することは、主観的な評価が必然的に介入せざるをえない、価値判断に属する。
〇被告はこの部分の表現で、「基本的には」、「要素を含んだもの」、「強姦的売春」、「売春的強姦」、「その意味では」等、抽象的な語彙と比喩的表現を使用しており、その意味を一義的に確定しにくく、一般的に受けとれる核心的意味を捉えるのも難しい。
〇被告は、 △この部分の表現の前の部分(81~86頁)で日本軍が直接的・間接的に慰安所を管理していたが、これを直接運営したのは民間人業者たちまたは抱え主たちであり、これらの抱え主たちが慰安婦たちに性労働を強要していたと記述しつつ、性労働の対価については、「舎監は女性たちの借金の程度によって彼女たちの稼ぎの中から50~60パーセントの上前をはねた。」という米軍報告書の内容と、「お金を払えば主人たちがみな持っていくのよ」、「報酬はもらえず」という慰安婦たちの証言を直接引用しつつ、「慰安婦たちの中にはお金を稼いだ者もいるが、ほとんどはお金をもらえなかったそうだ。」と叙述し、「抱え主たちは幼い少女に無理やり性労働をさせ、労働の対価を搾取」したと書いている。△また、110頁では「日本軍による性暴力は、一回限りの強姦、拉致性(連続的)の性暴力、管理売春の三種類が存在した。「慰安婦」たちの場合、この三つの状況が少しずつ重なる場合もあるが、朝鮮人慰安婦のほとんどは、先に見た通り、三番目の場合が中心であった。」と叙述しているもので、それと同じく朝鮮人慰安婦の場合、ほとんどは「管理売春」に当たると主張しつつも、それもまた「日本軍による性暴力」に当たるという点を明示している。△そしてこの部分の表現より後の246頁では、国連人権委員会のいわゆる「クマラスワミ報告書」を引用しつつ、「そのようなクマラスワミでさえ「慰安婦」の状況を「強要された売春」と認識している。慰安婦たちを三種類――自発的な売春業、食堂や洗濯婦として行ったが「慰安」をさせられた場合、強制連行――に分類する等、「慰安婦」の姿が一つではなかったということも知っていた。1996年の時点で、「慰安婦」とは根本的に「売春」の枠組みの中にあった女性たちであるということを知っていたのだ。」と叙述している。
〇上のような複数の叙述内容を見れば、被告は慰安所の状況を、軍の管理下で抱え主たちが慰安婦たちに無理やり性労働をさせ、その対価は抱え主たちが搾取する「強要された売春」と認識しつつ、その形態(「枠組み」)が売春、すなわち性売買業だったことを指摘しているものと理解され、この部分の表現にも、このような前後の叙述とつながる「実際にお金を稼いだ者は少なかったが、基本的に収入が予想される労働であり、その意味では」という言い方が登場する点を考慮すれば、この部分の表現において被告が「売春の要素がある」と述べたことは、検事が主張するように、慰安婦が自発的に性売買に従事したことを意味するものというよりは、被告が主張するように、日本軍慰安所は管理売春の形態で運営されていたことを意味するものと見る余地が大きい。

5)番号13、15、27に記載の各表現

カ)関連法理
意見を表明しつつ、その意見のもとになる事実まで別途明らかにしている場合、それとともに摘示された基礎事実そのものによって名誉棄損が成立しうることは別の議論として(最高裁2009年4月9日宣告2005タ65494判決等参照)、そのような基礎事実を根拠にして表明した意見部分は、いわゆる「純粋意見」であって、事実の摘示に当たると見ることはできず、名誉棄損は成立しえない(最高裁2001年1月19日宣告2000タ10208判決、最高裁2007月10月26日宣告2006ト5924判決等参照)。
ナ)具体的判断
番号13に記載の表現の場合、〇その前の部分で「慰安所で阿片の注射を打たれた慰安婦もおり、慰安所の運営者である「主人」が慰安婦に阿片注射を打ってやることもあった」という内容の証言、「私も一回打ってみたけれど、世の中が私のものになるの、こんなに気持ちいいなんて。…軍人たちがこっそり打ってくれたんだけど、いっしょに阿片を打って、アレをすればすごくいいんだって言いながら、女にも打ってやり、自分たちにも打って、そんなふうにしたのよ」という証言等、実際の慰安婦たちの証言をそのまま直接引用し後に登場する点、〇被告はこの部分の表現で、「証言によれば…であった。」、「…のものと見るべきである。」等、通常、推論と評価を意味する語彙と文句を使用している点、等に照らして見るとき、この部分の表現は、上のような内容の証言に表れた現象を根拠として、被告が「ほとんどの場合、慰安婦たちに阿片を直接無理やり注射したのは主人や商人たちであって、日本軍人ではなく、慰安婦が軍人といっしょに阿片を使用した場合は楽しむために使用したものだ」と、そのような現象に対する自分なりの分析と評価を提示しているもので、たとえそのような分析と評価に誤謬があるとしても、どこまでも意見を表明しつつ、その意見のもとになる事実まで別途明らかにしている「純粋意見」に当たるに過ぎず、事実の摘示と見ることはできない。
また、番号15に記載の表現は、被告が、作家田村泰次郎が書いた「蝗(いなご)」という小説を紹介しつつ、その小説の中の朝鮮人慰安婦たちが日本軍によって列車で移送される途中、日本軍人たちが彼女たちを「チョーセン・ピー」と呼び、無理やり引きずり下ろして強姦する場面を描写した部分をそのまま引用した後に登場するもので、「チョーセン・ピーという言葉には…露わである。」、「この軍人たちが…強姦できたのは…だったからである。」として、その小説の中で使用された用語や登場人物たちを直接指し示しつつ、通常の用法上、主観的な推論と判断を表す語彙と文句を使用したものであり、この部分の表現は、被告が当該小説の中の場面に描写された日本軍人が、その描写されたものと同じ行為をするようになった理由について、自分なりの意見を提示している内容である。したがって、この部分の表現もまた、意見を表明しつつその意見のもとになる基礎資料まで別途明らかにしている「純粋意見」に当たるに過ぎず、事実の摘示と見ることはできない。
番号27に記載の表現の場合も、先にラ4)項で見た通り、〇その直前の部分で1996年に出た国連人権委員会のいわゆる「クマラスワミ報告書」でも、日本軍慰安婦の状況を「強要された売春」と叙述しており、日本軍慰安婦の類型を単一のものとして捉えておらず、自発的な売春業、食堂や洗濯婦として行ったのに慰安婦になった場合、強制的に連行された場合の三つに分類したと述べ、クマラスワミ報告書の内容を紹介した後に登場する点、〇「根本的に」、「売春の枠組み」等抽象的で比喩的な語彙を使用した点、等に照らして見るとき、被告がクマラスワミ報告書の特定内容を根拠にして、それに関する自らの評価と分析を提示しているもので、意見を表明しつつその意見のもとになる事実まで別途明らかにしている「純粋意見」に当たる。したがって、被告がここで開陳した意見そのものが妥当であるかどうかは別問題として、被告がこの部分の表現を通じて事実を摘示したものと見ることはできない。

6)番号16、34に記載の各表現

番号16に記載の表現は、「日本人の否定の心理と植民地認識」という表題の章で、被告が日本軍慰安婦問題を否定する日本の否定論者たちの見方に対する批判的な意見を開陳している文脈の中に登場する。上の表現で被告は、「そのような類の業務に従事していた女性が自ら望んで戦場へ慰問しに行った。」、「女性が本人の意思に反して慰安婦をさせられるケースはなかった」という、日本の否定論者木村才蔵の見解を直接引用した後、このような見解が「「事実」としては正しいこともありうる。」と述べ、その文章構造や語彙の通常の用法上、ほかの人の見解を別途明らかにした後、これについての自身の評価を叙述している意見表明の形式をとっている。そして番号34に記載の表現もまた、「イメージを否定してきたこと」、「欲望、記憶と無関係ではない。」という比喩的・抽象的な表現を使用しており、その文言自体からは、時間的・空間的に特定される具体的は事実関係を陳述しているのはどうか、はっきりしない。
しかし、被告は番号16に記載の表現の直前の段落で、「慰安婦の強制連行は、戦場で、朝鮮人女性ではなく敵国女性たちを対象にしてなされたものと見られる」という内容の叙述をしているが、これは証拠によってその存否の証明が可能な事実関係に該当する陳述であり、被告が引用した木村才蔵の主張の内容も「日本軍慰安婦は自らの意思にしたがって慰安婦になった、本人の意思に反して日本軍慰婦になった人はいない」というもので、証拠によってその存否の証明が可能な事実関係に当たる。また、被告もやはり「「事実」としては正しいこともありうる。」と述べ、このような木村才蔵の見解を事実関係の側面からは認めることができることを明示的に明らかにしており、直後に続く文章でも「明らかに彼女たちの中には、貧しさの中で「白いご飯」を夢見たり、女が勉強することを極端に嫌悪していた家父長社会から逃れ、一個の独立した主体たろうとしたりする者たちも多かった。」と述べて、時間的・空間的に特定可能な事実関係に関する陳述を付け加えている。このような点を総合的に考慮すれば、この部分の表現は、たとえ意見表明の形式をとっているとしても、そのような意見の前提になる具体的事実として「朝鮮人日本軍慰安婦の中には、自発的な意思にしたがって慰安婦になった人がいる」という事実を暗示していると見なければならない。それゆえ、この部分の表現は事実の摘示に該当する。
また、番号34に記載の表現は、被告が、これまで解放後の韓国社会では韓国民族を「完璧な被害者」としてのみ見ようとしており、日本の植民地支配に対する抵抗と闘争の記憶のみを持とうとしていたと主張しつつ、そのような態度を批判する脈絡(294~298頁)に登場するもので、被告はこの部分の表現の前の部分で、「「朝鮮人慰安婦」を、「日本軍」が直接「強制的に連れて行った」存在で、彼女たちを「監禁」したのも日本軍で、すべての軍人は暴悪で、すべての慰安婦は「純真な幼い少女」としてのみ見なすということは、そうした姿に見えないもう一つの慰安婦(いわゆる「売春婦」を含む)たちを排除することでもある。それはわれわれの、被害者像を薄めたくないという、被害者としての欲望がなせるわざであるが、表面的な姿が「完璧な被害者」として見えないからといって、彼女たちもまた被害者であり、犠牲者であった。」(295頁)と述べ、いわゆる「売春婦」を含む別の慰安婦たちの存在を認めるべきだという趣旨で叙述している。このような前後の文脈と合わせ、先に見た番号16に記載の表現の内容まで総合的に考慮すれば、この部分の表現は結局、「われわれは、韓国民族を被害者としてのみ見ようとする欲望と、日本の植民地支配に対する抵抗と闘争の記憶のゆえに、日本軍慰安婦の中には自発的に慰安婦になった人もいるにもかかわらず、「自発的な売春婦」というイメージを否定してきた。」という内容と見られ、したがって被告は、この部分の表現を通じても、「朝鮮人日本軍慰安婦の中には、自発的な意思にしたがって慰安婦になった人がいる」という事実を、その表現の前提として暗示していると見なければならない。それゆえ、この部分の表現も事実の摘示に該当する。
ただ、その摘示された事実の具体的な内容に関して見ると、〇被告は番号16に記載の表現で、「正しいこともありうる。」と述べ、留保的な表現を使用している一方、その直後の文章で「彼女たちの中には…者たちも多かった。」と述べて、日本軍慰安婦の中の一部に関する陳述であることを明確にしている点、〇番号34に記載の表現の場合にも、上で見た「そのような姿に見えない別の慰安婦(いわゆる「売春婦」を含む)たち」という叙述に見られるように、その脈絡上、いろいろな姿の慰安婦の中の一部を指すものであることがわかる点、〇さらに被告は、本件書籍全体に渡って「日本軍慰安婦たちは多様な姿で存在し、ある一つの姿だけで全体を説明することはできない」という趣旨の叙述を繰り返し〔たとえば、「「慰安婦」は実際決して一つで説明しうる存在ではない。それにもかかわらずこれまでわれわれは「慰安婦」に関して一つのイメージだけを思い浮かべてきた。」(6頁)、「「慰安婦」たちが慰安婦になるまでの情況は、このように一つではなかった。」(54頁)、「「慰安婦」の状況――「慰安所」に行くまでの状況と慰安所での状況が一つではなかったように、「日本軍」もまた一つではなかった。」(70頁)等〕述べている点、等を総合的に考慮すれば、この部分の各表現が、「すべての朝鮮人慰安婦たちが自発的に慰安婦になった」という事実を、黙示的にであれ摘示していると見ることはできず、ただ「朝鮮人日本軍慰安婦の中には自発的な意思にしたがって慰安婦になった人がいる」という事実、すなわち「朝鮮人日本軍慰安婦の中の一部は、自発的な意思にしたがって慰安婦になった」という事実を摘示しているものと認めることができるに過ぎない。

マ.第二主張に関する判断(番号1、6~10、13、14、17~19、21~25、28、29、31~33、35に記載の各表現)

1)番号1、6~10に記載の各表現

本件の弁論と記録によって認められる次のような事情に照らして見たとき、この部分の各表現は意見の表明に当たるに過ぎず、明示的にはもちろんのこと黙示的にであれ、「朝鮮人日本軍慰安婦たちが、実際に日本軍と同志意識を持って、日本国または日本軍に、愛国的または自矜的に協力した」という事実を摘示していると見ることはできない。
〇番号1に記載の表現は、千田夏光が書いた『声なき女性8万人の告発、従軍慰安婦』という本に表れている認識と主張を紹介した後、そのような千田夏光の見方について「慰安婦の本質を正確に突いたもの」と叙述している内容で、その表現の文言口調上、千田夏光の本に関する被告の主観的な論評に当たる。被告はこの部分の表現で千田夏光の見方を受け入れ、肯定的に評価しているので、結果的に自身の紹介した千田夏光の見方と同じ内容の表現、すなわち「慰安婦の本質は、軍人と同じように戦争遂行を自らの体を犠牲にして助けた「愛国」した存在だ。」という表現をとったものと見ることができ、上のような表現もまた時間的・空間的に特定できる事実関係に関する陳述ではないだけでなく、さまざまな側面を持ったある対象の本質的要素を何と見るかということは、典型的に主観的な価値判断の領域に属するもので、証拠によってその存否を証明することは不可能である。
〇番号6から10までに記載の各表現は、慰安婦の生活をしている間に看護員の役割をしたこともあり、着物を着て演芸会をし、軍事訓練を受けることもあったという証言、軍人たちと故郷の話をしたこともあったという証言、日本人慰安婦たちが「私も国のために身を捧げることができる」と思ったという日本人業者の証言、軍人たちを労ってやったこともあり、軍人たちから「愛している」、「結婚しよう」と言われたこともあるという慰安婦の証言、戦争が終わった後日本に来て、戦争犯罪人を収容する所に行くことになったという慰安婦の証言、等を直接引用した後に登場するもので、使用された語彙の通常の用法と意味その文章口調上、そのような証言に表れた現象をもとにして、それと同じ現象が発生しえた原因についての、自分なりの分析や推測を提示している内容である。これは被告が意見を表明しつつ、その意見のもとになる事実まで別途明らかにしている、いわゆる「純粋意見」に当たり、被告が根拠として摘示した基礎事実の存否、そこから被告が主張している意見を導き出すことが妥当かどうかは別問題として、上のラ5)項で見たのと同じ理由で、この部分の各表現を事実の摘示と見ることはできない。
〇先に見た通り、被告は本件書籍において、日本軍慰安婦被害発生の根本的原因は国家主義と帝国主義、家父長制と資本主義等の社会構造的側面にあるという基本的立場をとりながら、当時朝鮮は日本の植民地であったために、植民地人として日本帝国主義の一員となり日本の戦争遂行のための役割を担った朝鮮人慰安婦たちは、日本軍と戦争をした敵国の女性たちと、日本軍に対する関係において違いがあったという点を強調している。とはいえ、被告はこのような朝鮮人慰安婦の戦争遂行のための役割担当について、「それは国家が勝手に与えた役割」(番号6)、「「日本帝国」の一員として要求された「朝鮮人慰安婦」の役割」(番号8)、「彼女たちに与えられた公的な役割」(137頁)と表現している一方、朝鮮人慰安婦については、「日本の帝国拡張戦争を遂行するために動員され存在」(80頁)、「過酷な性労働を強要された「被害者」」(番号10)、「日本の「植民地」になった「半島」出身「日本」女性――「帝国治下の国民」の資格で軍人に対する性の提供を要求された存在」(111頁)と規定し、そのような戦争遂行の役割は日本帝国によって一方的に与えられたという趣旨で叙述している。また、慰安婦たちの「矜持」や「愛国」に関しても、「自己存在に対する(多少無理な)矜持」(番号6)というように、留保的・制限的表現を使用したり、慰安婦が「自身を売るために積極的に」行動した場合があったとしても、「その積極性は、投げやりと諦め、またはただ生きるために自らに与えたトリック(ごまかし)だったということもありうる。」(160頁)と叙述したり、「目の前に与えられた「嘘の愛国」と「慰安」に没頭することは、彼女たちにとっては一つの選択でもありえたという事実を無視することはできない。」(62頁)、彼女たちの性の提供は、基本的には日本帝国に対する「愛国」の意味を帯びていた。もちろんそれは、男性と国家の女性搾取を隠蔽するレトリックに過ぎなかったが、…」(137頁)と叙述し、「自らに与えたトリック(ごまかし)」、「嘘の愛国」、「搾取を隠蔽するレトリック」等と表現している。このような本件書籍の全体的な内容を考慮すれば、この部分の各表現は、「朝鮮人日本軍慰安婦は、当時の植民地支配下において日本帝国の一員として扱われ、日本の帝国主義戦争遂行のために国家によって動員された存在で、そのような意味で日本軍の敵ではなく、同志のような関係と評価されうる」と、被告が自分なりに社会構造的次元の分析と評価を提示したり、「慰安婦たちは過酷な状況を耐え抜くために自らに与えられた、軍人たちに対する精神的慰安者としての役割について、矜持や愛国心を持っていたこともありうる」と、主観的な推測を提示したりしている内容に見えるに過ぎず、朝鮮人日本軍慰安婦たちが、実際に日本国に対して、自矜心と愛国心を持って、日本軍に協力したという事実を、明示的または黙示的に摘示したとは認めがたい。

2)番号13に記載の表現

上のラ5)項で見た通り、この部分の表現は慰安授たちの証言を直接引用した後、それについて論評を記述したもので、意見を表明しつつその意見のもとになる事実まで別途明らかにしている「純粋意見」に当たるに過ぎず、具体的な事実を摘示していると見ることはできない。

3)番号14、19、21ないし25、28、29、31、32、33、35に記載の各表現

本件の弁論と記録によって認められる次のような事情に照らして見たとき、この部分の各表現は、上のマ1)項で見たものと同じく、慰安婦たちの複数の証言をもとにして、「朝鮮人日本軍慰安婦は、当時の植民地支配下において日本帝国の一員として扱われ、日本の帝国主義戦争遂行のために国家によって動員された存在であり、その意味で日本軍の敵ではなく、同志のような関係と評価されうる」という、被告の自分なりの分析と評価を提示したものの延長線で、同一の分析と評価を繰り返し叙述したもので、意見の表明に当たるに過ぎず、明示的にはもちろんのこと黙示的にも「朝鮮人日本軍慰安婦たちは、実際に日本軍と同志意識を持って、日本国または日本軍に、愛国的または自矜的に協力した」という事実を摘示しているものと見ることはできない。
〇この部分の各表現は「基本的には」、「同志的な関係」、「意味を帯びていた。」、「構造的には」、「「同志」の側面を帯びた複雑な存在」、「「準軍人」のような存在」、「被害者でありながら協力者という二重の構図」、「植民地人としての協力者」のように、時間的・空間的に特定される事実関係をたやすく推論しにくい抽象的・比喩的語彙を使用し、通常、ある対象に対する価値判断と評価を表すときに使用する文章口調をとっている。
〇上のマ1)項で見たものと同じく、被告は本件書籍において帝国主義と国家主義等の社会構造的側面が日本軍慰安婦被害の根本原因になったという基本的立場を前提にして、植民地人だった朝鮮人女性は敵国の女性と異なり、日本軍人と同じように日本帝国の戦争遂行のために動員され、戦争遂行のための役割を担ったと分析している。しかし、先に見た通り、本件書籍で被告は、国家により慰安婦たちにこのような役割が一方的に与えられたものと叙述しており、「愛国心」や「自矜心」もまた本物ではないという趣旨で叙述している。このような趣旨は、この部分の各表現の文言とその前後の文脈、特に、△番号14に記載の表現にすぐに続けて、「もちろんそれは、男性と国家の女性搾取を隠蔽するレトリックに過ぎなかったが、「日本」軍人だけを慰安婦の加害者と特殊化することは、そのような部分を見えなくさせる。」(137頁)という叙述が出てくる点、△番号21、22、23に記載の各表現の後には、「「朝鮮人慰安婦」とは、朝鮮人日本軍と同じように、抵抗したが屈服し協力した植民地の悲しみと屈辱を一身に経験した存在である。「日本」が主体になった戦争に「引っ張られて」行っただけでなく、軍が行くあらゆる所に「引っ張り」回されなければならなかった「奴隷」であることは明らかだが、同時に性を提供し、看護し、戦場に出る兵士に向かって「生きて帰って」と言った、同志でもあった。…言い換えれば、朝鮮人日本軍と同じように「植民地の矛盾」を最も凄絶に生き抜いた存在であった。」(207頁)と述べ、朝鮮人慰安婦たちが植民地支配に抵抗したが屈服し協力せざるをえなかったという趣旨で叙述し、同じような趣旨で、番号24に記載の表現でも、「協力しなければならなかった「慰安婦」の悲しみ」に言及している点、△番号28、29に記載の各表現は、慰安婦たちはその出身国によってそれぞれ直面した状況が違い、特に朝鮮人女性は植民地人だったという点で、戦争の相手である敵国女性や占領地の女性と異なると主張している部分(264~265頁)に登場する点、△番号33に記載の表現の直後に続けて、「それは彼女たちが望もうが望むまいが、朝鮮が植民地になった瞬間から取り払うことのできなくなった矛盾であった。」という叙述が出てくる点、等を通じても表れている。

4)番号17、18に記載の各表現

この部分の各表現は、〇「日本軍慰安婦たちが兵士たちに近づいて積極的な姿を見せ、明るく楽しげな姿を見せることもあった」という皮相的観察を根拠に、日本軍慰安婦が性奴隷だったことを否定する日本の否定論者の見解を紹介した後、被告がこれについて反駁する文脈の中で登場する点、○被告が「見るべきだ」、「に過ぎなかった可能性もある」と述べ、通常の意味と用法上、主観的な価値判断と評価や推測を表す語彙を使用している点、〇先に見たような、本件書籍の全体的な内容と前後の文脈、特にこの部分の各表現のすぐ前に登場する、「抱え主たちの徹底した監視の中で、自らの意思では引き返す道がないということを知った慰安婦たちが(もちろんその中には契約期間の満了によって帰った者たちもいる)、時間が経過し、最初に着いたときの当惑と悲しみと怒りが消え、「自身を売るために積極的に」行動するようになったとしても、おかしなことではない。その積極性は、投げやりと諦め、またはただ生き抜くために自らに与えられたトリック(ごまかし)だった可能性がある。」という叙述内容等を総合的に考慮すれば、この部分の各表現は、前に出てくる番号6に記載の表現で、慰安婦の証言をもとにして、「慰安婦たちは過酷な状況を耐え抜くために自らに与えられた軍人たちに対する精神的慰安者としての役割について、矜持や愛国心を持つこともありうる」と主観的な推測を提示したことの延長線で、それと同一の推測ないし評価を繰り返して叙述したものと見るべきである。したがって、この部分の各表現は、意見の表明に当たり、黙示的にも「朝鮮人日本軍慰安婦たちは、実際に日本軍と同志意識を持ち、日本国または日本軍に、愛国的または自矜的に協力した」という事実を摘示していると見ることはできない。

バ.第三主張に関する判断(番号5、16、20、26記載の各表現)

1)番号5、20、26に記載の各表現

この部分の各表現は、使用されている語彙の通常の意味と用法、本件書籍の全体的な内容と前後の文脈を総合的に見るとき、「日本国や日本軍が、法令や指示等の公式的な政策を通じて、朝鮮人女性たちを誘拐したり物理的に強制連行したりして、日本軍慰安婦にした事実はない」という内容を明示している。このような内容は、時間的・空間的に特定される事実関係で、証拠によってその存否の証明が可能である。したがって、この部分の表現は、事実の摘示に当たる。
ただ、その摘示された事実の具体的な内容に関して見ると、〇「公的には」(番号5)、「公式規律」(番号20)、「あるとすればどこまでも例外的な事例であり、個人の犯罪と見ざるをえず、そうである限り「国家犯罪」とは言えない。」(番号26)という表現を使用した点、〇番号5に記載の表現のすぐ前の文章に「もちろん軍人や憲兵により連れて行かれた事例もないわけではなかったと見られ、個別的に強姦された事例も少なくなかった。」という叙述が登場する点、〇そのほかに、本件書籍のほかの部分でも、「強制連行があったとすれば、国家政策によるものではなく、国家政策のように見せかけて連れて行った、一般人が行なった行為と見るべきである。」(48~49頁)、「軍が物理的に行使した「強制連行」を文字通り「強制」「連行」と考えれば、その意味での「強制連行」が朝鮮人を対象に行われた事例は多くないように見える。…植民地で無差別的「強制連行」はなかったものと見られるが、それはどこまでもそのような行為を「有法化しても問題にならない、非日常的空間ではなかったために過ぎない。」(152頁)等、軍人による物理的強制連行があったという事実は一部認めながらも、法令や指示等国家政策によってなされたことはなかったという内容の叙述がある点を考慮すれば、被告がこの部分の各表現を通じて、日本軍が朝鮮人日本軍慰安婦を強制的に連行した事実が「まったく」ないという事実を摘示したものと見ることは難しく、上で見た通り、日本国または日本軍が「公式的な政策を通じて」朝鮮人女性たちを「物理的に」強制連行して慰安婦にしたことはないという事実を摘示したものと認められるに過ぎない。

2)番号16に記載の表現

この部分の表現は先に見たものと同じく、たとえ文言そのものは意見を表明する形をとっているとしても、前後の文脈に照らして見れば、そのような意見の前提になる具体的事実として、「朝鮮人日本軍慰安婦の中には、日本国または日本軍によって強制動員または強制連行されたのではなく、自発的な意思にしたがって慰安婦になった人がいる」という事実を暗示していると見ることができる。しかし、先に見た通り、この部分の表現に使用されている語彙と前後の文脈、本件書籍の全体的な内容に照らして見るとき、被告がこの部分の表現を通じて、「日本国または日本軍による慰安婦強制動員または強制連行がまったくなかった」という事実、すなわち「すべての朝鮮人日本軍慰安婦たちは、自発的に慰安婦になった」という事実まで暗示しているものと見るのは難しい。

サ.小結論
結局、被告は本件書籍に記載された番号16、34記載の各表現を通じ、「朝鮮人日本軍慰安婦の中には、自発的な意思にしたがって慰安婦になった人がいる」という事実を摘示し、番号5、20、26に記載の各表現を通じて、「日本国や日本軍が、法令や指示等の公式的な政策を通じて、朝鮮人女性たちを誘拐したり物理的に強制連行したりして、日本軍慰安婦にした事実はない」という事実を摘示したと認めることができる。しかし、残りの番号に記載の各表現の場合は、被告が自身の意見を表明したものであるに過ぎず、具体的な事実を摘示したものと見ることはできず、ほかにその点を認める証拠がない。

3.名誉棄損的事実の摘示に当たるかどうか

カ.関連法理
ある表現が事実の摘示に当たるとしても、その摘示された事実が特定人の社会的価値や評価を低下させる内容でなければ、名誉棄損罪は成立しない(最高裁2007年6月15日宣告2004ト4573判決等参照)。

ナ.判断
告訴人らのような日本軍慰安婦被害者たちが持っている、被害者としての社会的価値や評価の核心は、彼女たちが自身の意思に反して日本軍慰安所で性的虐待を受け、慰安婦としての生活を強要されたということにある。彼女たちが直接的な暴行・脅迫によって強制的に連行され慰安婦になったか、さもなければ学校に行かせてやるとか、就職させてやる等の欺瞞・誘惑によって慰安婦になったかは、彼女たちの慰安婦被害者としての社会的価値や評価にいかなる影響も及ぼさず(わが国の刑法は第287ないし第296条の2で暴行・脅迫を要件とする略取罪と欺瞞・誘拐を要件とする誘引罪に関して、原則的に同等の法的評価をしている)、そのような強制連行または欺瞞・誘惑行為を行なった主体が日本軍人であるか、さもなければ民間人の抱え主や業者だったかもまた、彼女たちの社会的価値や評価に影響を及ぼしえない。さらに、日本国や日本軍が強制連行の方法で慰安婦を動員することを公式的な政策として指示したか、さもなければただ個別の軍人の個人的逸脱行為として強制連行が発生したかも、同じように慰安婦被害者としての社会的価値や評価に影響を及ぼさない。
先に見た通り、番号5、20、26に記載の各表現で摘示された内容は、「日本国や日本軍が、法令や指示等の公式的な政策を通じて、朝鮮人女性たちを誘拐したり物理的に強制連行したりして、日本軍慰安婦にした事実はない」というものである。被告は本件書籍の複数の個所で、たとえ「例外的は事例」に過ぎない「個人的次元の犯罪」と捉えていたとしても、日本軍人によって物理的に強制連行され、日本軍慰安婦になった人もいるという事実を認め、たとえ行為の直接的な主体はほとんどの場合日本軍人ではなく、民間人の仲介業者や抱え主たちだったことを強調しているとしても、慰安婦の募集過程で、工場に就職させてやる等の嘘によって女性たちをおびき出した後、売り渡すという詐欺的手法と、人身売買があったという点、および慰安婦たちが慰安所で監視を受け、暴行等過酷な行為を受けたという点も複数の証言を直接引用しつつ叙述している。このような本件書籍の全体的な内容と前後の文脈を考慮すれば、番号5、20、26に記載の各表現は、「公式的な政策」があるかどうかに焦点を合わせて、「朝鮮人女性たちを強制的に連行し、慰安婦にしたことが、日本国や日本軍の公式的な政策ではなかった」と叙述する内容で、日本軍慰安婦被害者たちの社会的価値や評価を侵害する内容ということはできない。
しかし、番号16、34に記載の各表現は、「朝鮮人日本軍慰安婦の中には自発的な意思にしたがって慰安婦になった人もいる」という内容で、これは直接的な暴行・脅迫によって強制的に連行され、慰安婦になった人または慰安婦になるということを知らずに欺瞞・誘惑の方法で誘引され、慰安婦になった人々については、その社会的価値や評価を低下させる表現に当たる。もちろん日本軍慰安婦被害者の被害者としての地位は、当初慰安婦になる過程での強制性、すなわち自発的慰安婦になったか、さもなければ意思に反して慰安婦になったかだけにかかっているのではない。たとえ最初に慰安婦になる過程で、自発的に募集に応じて慰安所へ行くことになった人だとしても、慰安所内で移動の自由や性的意思決定の自由を奪われたまま性的虐待を受けたならば、同じように日本軍慰安婦被害者に該当するという点は、疑問の余地がない[被告も本件書籍で「戦場の「慰安婦」たちが「もともと売春婦」だったのかどうかは、その点で重要ではない。」(148頁)と、同じ趣旨の指摘をしている]。しかし、韓国社会で日本軍慰安婦たちがどのような経緯で動員され、慰安婦になったかという問題は、従来日本の否定論者たちが直接的な暴行・脅迫による物理的強制連行の有無を重点的に問題視してきたために、重要な問題として取り上げられ、議論がなされてきた。その意味で、もしある慰安婦被害者が自発的な意思で慰安婦になったという事実が知られれば、これはその慰安婦被害者の社会的価値と評価を低下させると見るべきである。

タ.小結論
結局、番号5、20、26に記載の各表現は、日本軍慰安婦被害者たちの社会的価値や評価を低下させる内容ではなく、名誉棄損的事実の摘示ということはできず、そのほかにその点を認める証拠がなく、番号16、34記載の各表現は、彼女たちの社会的価値と評価を低下させうる名誉棄損的事実の摘示に該当する。

4.被害者が特定できるかどうか

カ.関連法理
刑法上、名誉棄損罪を処罰するのは、人の社会的価値に対する評価である外部的名誉という個人的法益を保護するためのもので(最高裁2016年12月27日宣告2014ト15290判決参照)、名誉棄損罪はある特定の人または人格を保有する団体に対して、名誉を毀損することで成立するものであるため、その被害者は特定されていなければならず、「ソウル市民」や「京畿道民」のような漠然とした表現によっては、原則的に名誉棄損罪は成立しえない(最高裁2000年10月10日宣告99ト5407判決参照)。
特定の人や団体を指し示すことなく、集合的名称を使用して名誉棄損的事実を摘示した、いわゆる「集団表示による名誉棄損」は、名誉棄損の内容がその集団に属している特定人に対するものであると解釈しにくく、集団表示による非難が個別構成員に至ると非難の程度が薄まり、構成員個々人の社会的評価に影響を及ぼすほどに至らない場合には、構成員個々人に対する冒涜が成立しないと見るのが原則であり、その非難の程度が薄まらず、構成員個々人の社会的評価を低下させるだけのものと評価される場合は、例外的に構成員個々人に対する名誉棄損が成立しうる。一方、構成員個々人に対するものとみなされるほどに構成員の数が少ないとか、当時の周囲の情況等から見て集団内の個別構成員を指し示すものとみなされうるときは、集団内の個別構成員が被害者として特定されると見るべきであり、その具体的な基準としては、集団の大きさ、集団の性格、集団内での被害者の地位等を挙げることができる(最高裁2014年3月27日宣告2011ト15631判決参照)。

ナ.判断
先に見た通り、被告は番号16、34に記載の各表現を通じて、「朝鮮人日本軍慰安婦の中には自発的な意思にしたがって慰安婦になった人がいる」という名誉棄損的事実を摘示したと認められる。これは特定人を指し示さないまま、「朝鮮人日本軍慰安婦」という集団の名称だけを示した表現で、次のような理由で、上の集団に属する特定の人々である告訴人らを指し示すものと見るのは難しく、集団内の個別構成員である告訴人たちに至っては、非難の程度が薄まり、告訴人個々人の社会的評価に影響を及ぼす程度にまで至っていないと判断される。
〇被告がこの部分各表現を通じて指し示した集団は、歴史的に存在した「朝鮮人日本軍慰安婦」全体である。被告は、たとえ「「慰安婦」が存在した国家は日本、台湾、韓国、フィリピン、インドネシア、オランダの6か国およびその地域である。…「オランダ」女性、インドネシア女性と、朝鮮人女性は、日本軍との基本的な関係が異なる。」(264~265頁)という表現からわかるように、本件書籍において「慰安婦」という用語を朝鮮人女性に限定しておらず、出身国に関係のない日本軍慰安婦全体を指す意味で使用することもあったが、番号16に記載の表現は、その直前の部分で「慰安婦の強制連行は戦場でのみ行われ、インドネシアでの強制連行は朝鮮人女性とは異なる事例である」という内容を叙述した後に登場し、番号34に記載の表現の場合、被告が「解放後の韓国では朝鮮人慰安婦に対する、一方の側面だけを記憶しようとしている」と主張しつつ、これを批判する脈絡で登場するという点から、前後の文脈上、日本軍慰安婦のうち出身国が朝鮮人だった人、すなわち「朝鮮人日本軍慰安婦」を指していることは明白である。この部分の各表現に使用されている語彙、前後の文脈、本件書籍の全体的な内容等をすべて考慮しても、被告がこの部分の各表現を通じて、歴史的に存在した「朝鮮人日本人慰安婦」のうち特定の範囲の一部の集団、特に告訴人らが属した集団である「日帝下日本軍慰安婦被害者に対する生活安定支援および記念事業等に関する法律(以下「慰安婦被害者法」という)によって日本軍慰安婦被害者として登録した人々」や、「上のように登録した人々のうち現在生存している人々」という下位集団を指し示しているものと見る根拠はない。
〇歴史的に存在した日本軍慰安婦の全体の規模は、資料の限界によって、正確に把握することはできないが、研究者によって、多く見れば40万人から、少なく見れば3万人まで、多様な推算値を提示している。そしてこのような日本軍慰安婦全体の中で、朝鮮人が占める比率もまた正確に把握することはできないが、研究者たちは50%以上、多く見積もれば80%ほどと推算している。このような推算に従えば、歴史的に存在した朝鮮人日本軍慰安婦の規模は、いくら少なく見積もっても1万5000人以上であり、多く見れば32万人に達するもので、被告が「朝鮮人日本軍慰安婦」全体について述べたこの部分の各表現が、慰安婦個々人に対する社会的評価に影響を及ぼしうると見るには、「朝鮮人日本軍慰安婦」集団の構成員数が非常に多い。
〇このような朝鮮人日本軍慰安婦全体の中で、慰安婦被害者法による被害者登録および支援作業が開始されて以来、本人が日本軍慰安婦だったことを自ら明らかにし、被害者として登録した人は230人余りに過ぎず、当時の状況について証言した人々は、その中でも一部である。結局、朝鮮人日本軍慰安婦全体が直面した具体的な状況がどうであったかに関して、現在までに知られている資料は非常に限定的で、確保された資料を見ても、それぞれの慰安婦が直面した具体的な状況はすべてが同一ではない。このように、現在までに知られている情報が制限的である点、および集団の規模が非常に大きい点まで考慮すれば、「朝鮮人日本軍慰安婦」という集団は、その性格が均質的であったり、境界がはっきりしていたりすると見るのは難しい。
〇上のラ6)項で見た通り、この部分の各表現は、「すべての朝鮮人日本軍慰安婦は自発的な意思にしたがって慰安婦になった」という内容ではなく、「朝鮮人日本軍慰安婦の中には自発的な意思にしたがって慰安婦になった人がいる」という内容と見るべきである。すなわち「朝鮮人日本軍慰安婦」という集団全体に対する陳述ではなく、その集団の中の一部だけを指し示して述べた陳述で、例外を認める平均的判断に当たる。したがって、この部分の各表現に名誉棄損的内容が含まれているとしても、それによって「朝鮮人日本軍慰安婦」という集団の構成員たち全体の社会的評価が低められたと見ることはできない。
〇告訴人らは、自ら慰安婦被害者であることを明らかにし、慰安婦被害者法第3条によって生活安定支援対象者として登録した約230人余りの人々の一部であり、告訴人たちの中の一部は実名と顔を公開して日本に対して日本軍慰安婦被害者に対する賠償を要求する活動の先頭に立ってきた。したがって彼らは「朝鮮人日本軍慰安婦」という全体集団の中で、相対的により広く知られている著名な人々ということができる。しかし、本件書籍全体を通して表現されている被告の核心的な主張は、本件書籍で最も目立つ部分である表紙に記載されている、「実はかつての「強制的に連れて行かれた少女」も、今の闘志も、「慰安婦」のすべてではない。「慰安婦」のすべての姿を見ることなしには、問題は永遠に解決されない。」という文句からもわかる通り、「日本軍慰安婦たちは、慰安婦になった経緯や慰安所での経験がきわめて多様な姿で存在していたもので、今までわれわれはその中の一つの姿、すなわち10代の少女時代に日本軍人によって直接強制的に連行され慰安婦になった人の姿だけを知っていたが、それと異なる姿の慰安婦もいたという点も知る必要がある」というものである。そのような基本的な立場を前提に、被告は本件書籍で、従来広く知られていたものとは異なる日本軍慰安婦の姿に注目して叙述しており、そのようにしつつ従来からわれわれが知っていた慰安婦の姿が「すべてではない」、または「例外的な場合だった」と述べているに過ぎず、そのような姿の慰安婦は嘘だとか、実際に存在しなかったと主張しているわけではない。その代表的な例として、日本軍慰安婦問題に関する被告の基本理解が要約されている219頁2~14行で、被告は「「朝鮮人慰安婦」は基本的に「同じ日本人」になり、軍人たちの欲求を受け入れる形で、朝鮮人を含む日本軍を「慰安」するために動員された者たちであった。われわれの前にいる被害者たちは、そのような一般的な「慰安」のシステマチックな加害に加え、個人的な暴力と強姦等の加害をより多く経験した事例である。」と述べ、「われわれの前にいる被害者たち」、すなわち従来われわれに広く知られていた慰安婦被害者たちを慰安婦被害者たち全体の中の一部として表現している。このような本件書籍の全体的は内容を考慮すれば、普通の注意深さでこの部分の各表現に接する一般読者としては、その表現に表れた「自発的な意思にしたがって慰安婦になった一部の慰安婦たち」について、朝鮮人日本軍慰安婦たちの中で自ら慰安婦被害者であることを明らかにしつつ、日本に対する賠償を要求する等の積極的な活動をしてきた告訴人らを指すものと認識するよりも、これまで慰安婦被害を受けたことを明らかにすることができず、世の中に名乗り出なかった残りの被害者たちを指す内容と認識する余地が大きい。

タ.小結論
したがって、この部分の各表現の対象者として告訴人らが具体的に特定されていると見ることはできないので、上の各表現によって告訴人らの社会的評価が侵害されたと見ることはできず、ほかに上のような点を認定する証拠がない。

5.名誉棄損の故意の有無

カ.関連法理
表現の自由と名誉保護の間の限界を設定するときは、問題になる表現の内容が私的関係に関するものであるか、公的関係に関するものであるかによって違いがあることに留意しなければならない。すなわち、当該表現による被害者が公的な存在であるか、私的な存在であるか、その表現が公的な関心事に関するものであるか、純粋な私的な領域に属する事案であるか、その表現が公共性、社会性を備えた事案に関するもので、世論形成や公開討論に寄与するものであるか、そうでないか等を吟味し、公的関心事と指摘な領域に属する事案の間には、審査基準に違いをつけなければならない。当該表現が私的な領域に属する事案に関するものであれば、表現の自由より名誉の保護という人格権を優先することができるが、公共的・社会的意味を持った事案に関するものであれば、その評価を異にすべきであり、表現の自由に対する制限が緩和されなければならず、したがって、その表現による名誉棄損の故意を認めるのに際しても、より厳格に審査しなければならない(最高裁2011年9月2日宣告2010ト17237判決、最高裁2016年5月24日宣告2013タ34013判決等参照)。
また、学問の自由には、言論・出版の方法で学問的研究の結果を発表する自由が含まれるものであるため、結局、研究結果を発表する行為は表現の自由の保護対象になると同時に、学問の自由の保護対象にもなり、ほかの一般的な言論・出版に比べて高度の憲法上の保障を受ける。また、学問の研究は既存の思想と価値について疑問を提起し、批判を加えることで、これを改善したり、新しいものを創出しようとしたりする努力であるので、その研究の資料が、社会で現在受け入れられている既存の思想および価値体系と相反したり抵触したりしても、容認されなければならない(最高裁2007年5月31日宣告2004ト254判決等参照)。したがって、名誉棄損かどうかが問題になっている表現が、学問的研究結果の発表に当たる場合は、このような理由からも、そのような表現に対する制限が緩和され、名誉棄損の故意を認めるのに際しても、より慎重でなければならない。

ナ.判断
上で見た通り、本件の各表現は、すべて告訴人らの社会的評価を侵害する名誉棄損的事実の摘示に該当しないだけでなく、たとえ本件の各表現によって、告訴人ら個々人の社会的評価が間接的であれ低められうると見られるとしても、本件の記録によって知ることができる次のような事情に照らして見れば、被告に告訴人ら個々人の名誉を毀損するという点に対する認識があったと認めるのは難しく、ほかに被告に名誉棄損の犯意を認めるだけの証拠がない。
○被告は、本件書籍の序文で、その執筆目的を明らかにしているが、そのおおよその趣旨は次の通りである。すなわち、被告はまず、慰安婦問題が20年以上にわたって解決されておらず、むしろ慰安婦問題に対する韓国と日本両国国民の認識の違いの乖離はもっと大きくなりつつあり、両国間の葛藤と対立もまたより悪化している状況を批判的に指摘している。被告は、そのような状況の最大の理由は「実際には「慰安婦」は決して一つで説明できる存在ではないにもかかわらず、われわれ(国民)たちの「慰安婦」についての理解が不十分であり、取捨選択された情報だけから作られた一つのイメージと記憶だけを作ってきたため」という主張をしつつ、それによる結果として、日本国民の間に韓国に対する嫌悪または無関心の感情が徐々に高まってきた状況、その原因として韓国国民の慰安婦問題に対する認識が、慰安婦支援団体や少数の研究者たちによって左右されている状況等を記述した後、韓日両国の葛藤と対立を克服して相互信頼と平和に至るために、本件書籍を著述することになったと明らかにしている。上の序文に表れている被告の状況認識や原因診断が妥当で適切であるかどうかについては議論の余地があるが、そのような序文の内容と本件書籍の全体的は内容を見れば、被告が本件書籍を著述した主要な動機が「韓日両国の相互信頼構築を通じた和解」という公共の利益のための目的に発したという点を否定するのは難しく、その意図が朝鮮人日本軍慰安婦被害者たちの社会的評価を低下させようとするものであったと見ることはできない。
〇朝鮮人日本軍慰安婦問題は、韓国と日本の学界と市民社会において、研究と議論が続いている事案で、朝鮮人慰安婦の募集・移送・慰安所での生活等に関する実態、日本軍の慰安所設置・運営・管理等に関する責任、朝鮮人日本軍慰安婦動員に関する植民地期朝鮮の社会経済的要因等、被告が本件書籍で扱ったテーマは、韓国社会全体で国民たちが知るべき公共性・社会性を持っているものとして、公的関心事に当たると見るべきであり、別紙犯罪一覧表に記載の各表現を見ても、これを朝鮮人日本軍慰安婦被害者個々人たちの純粋に私的な領域に関する事案と見ることはできない。したがって、上のように公的関心事に関する内容を含む本件書籍について、それによる名誉棄損罪が成立するかどうかを審査するのにおいては、私的な領域の事案に関する場合と異なり、活発な公開討論と世論形成のために幅広い表現の自由を保障する必要がある。
〇本件書籍は、被告が朝鮮人日本軍慰安婦について新しい史料を提示したり、これまで学界に知られていなかった歴史的事実を発掘して紹介したりする本ではなく、学界ではすでに知られていた既存の史料と先行研究結果を土台にして、韓国社会の主流の見方と異なる立場から、主に一般市民に向けて被告自身の主張を開陳している学術的性格の大衆書である。一部、専門歴史研究者たちは、本件書籍について「被告が史料を取捨選択して分析する方法に誤りがある」であるとか、「被告が展開している推論に性急な一般化や過度の飛躍等の論理的誤謬がある」という批判等を提起している。しかし、そのような批判の内容と本件記録をともに見ても、被告が既存の史料に対する自分なりの評価と解釈に基づいて論争の余地の大きい主張を提起するという程度を越えて、新しい史料を捏造したり、既存の史料の内容そのものを歪曲したりする等の方法で、虚偽の歴史的事実をでっち上げようという意図を持っていたとまで見るのは難しい。また朝鮮人日本軍慰安婦被害者たちについては、韓国の学界と市民社会において、すでにある程度歴史的評価が確立されつつある状態にあるもので、本件書籍で不明瞭な概念や抽象的で模糊とした表現、前後で矛盾していると見られる叙述等が多数発見される点、提示された史料や文学作品等の根拠と、それに基づいて提起された被告の主張の内容の間の論理的なつながり等に照らして見るとき、被告が本件書籍で主張した内容だけで、朝鮮人日本軍慰安婦被害者たちに対する既存の社会的評価に有意味な程度の否定的な影響を及ぼすのは難しいと見られる。
〇本件書籍で被告が開陳したさまざまな見解については、多様な批判と反論が提起されうる。日本軍慰安婦被害について、日本に法的な責任を問うことはできないという被告の主張について批判することもできるだろうし、日本軍慰安婦被害に対する日本の責任を帝国主義や家父長制、資本主義等の一般的な社会構造の次元のものに還元すれば、この問題に固有の側面を看過し、結局、責任を薄めることになるという反論を展開することもできるだろう。たとえ被告の著述意図に悪意がないとしても、本件書籍の論旨は、結局、慰安婦問題否定論者たちに悪用されてしまうだろうと、その副作用を指摘することもできるだろう。しかし、これはどこまでも互いに異なる価値判断と評価の間の当否を問う問題で、それに関する判断は刑事訴訟手続きにおいて裁判所が遂行できる能力と権限の範囲を越えている。学問的表現の自由は、正しい意見だけでなく誤った意見も保護する。正しい意見だけが保護されるなら、意見の競争は存在できないだろうし、その場合、学術的意見の正誤を決定する主体は、結局、国家機関になるだろう。被告の見解に対する当否の判断は、学問の場で専門家たちが、さらに社会的公開討論の場ですべての市民が、互いに自由に意見を交換して、相互検証と論駁を重ねるやり方でなされるべきであり、またそうすることで最もよく達成されうる。実際に、被告が本件書籍を発刊した後、国内外の学界の専門家たちをはじめとした多くの人々が、上のようなさまざまな観点から被告の主張を批判する意見を開陳し、その結果として、本件書籍の主張を批判する内容を含む本(『Q&A「慰安婦」問題と植民地支配の責任』、『帝国の弁護人朴裕河に問う――帝国の嘘と「慰安婦」の真実』、『誰のための「和解」か――〈帝国の慰安婦〉の反歴史性』等)が出版された。これを見ても、韓国社会の公開討論の場は、被告が本件書籍で開陳した主張について、合理的な検証と論駁を行うことで、朝鮮人日本軍慰安婦問題について歴史的真実を明らかにし、適正な意見の歩み寄りに到達できる十分な能力があると見られる。

6.結論
結局、本件公訴事実のうち、番号5、20、26に記載の各表現と、番号16、34に記載の各表現を除いた残りの番号に記載の各表現は、すべて意見の表明に該当するに過ぎず、具体的事実の摘示と見ることはできず、番号5、20、26に記載の各表現は、事実の摘示には該当するが、告訴人らの名誉を侵害する内容と見ることはできず、番号16、34に記載の各表現は、名誉棄損的事実の摘示に該当するが、集団の名称だけを示したもので、上の各表現の対象者としてその集団の個別構成員である告訴人らが具体的に特定されていると見ることはできない。また、本件公訴事実に記載の各表現に関して、被告に名誉棄損の故意も認められない。
したがって、本件公訴事実は、犯罪の証明がない場合に当たるため、刑事訴訟法第325条後段によって無罪を宣告し、刑法第58条第2項にしたがってこの判決の要旨を公示する。

裁判長 判事 イ・サンユン
判事 イ・ジヘ
判事 キム・ウンジェ

犯罪一覧表