日韓関係、問題はどこにあるのか ― 2.「歴史司法化」を超えて (1)新日鉄徴用判決を読む<4>

<4>国際法学者の考え

 今回の判決は2012年に原告が敗訴した日本の裁判所と、韓国の下級審で敗訴した訴訟に対して原告勝訴の判決が下されて高等法院に送られて再上告された結果である。つまり、今回の判決と2012年の判決とは、内容的にそれほど変わらない。
 しかし、アカデミズムの方からは2012年判決に対する批判が提起されていた。たとえば、ソウル大の李根寬(イ・グングァン)教授はこの時の判決について、「国内法的な思考をそのまま国際的な次元へ投射」した判決だとして批判する。「釜山高等法院とソウル高等法院が徴用者たちの控訴を承認したのは、外国の判決に対しての承認に関する法理を誤解」した結果だと述べるのである。
 李教授は先述した少数の判事たちと同様に、個人請求権は日韓協定に含まれて消滅したと主張している。会談過程の文書に「被徴用韓国人の補償金」と明記されていると言うのである。
 また、「両国および両国の国民間の請求権(未収金および補償金)は解決」されたとする考えが、協定後の韓国政府の公式解説書、1966年以降の(徴用者などのための)国会立法、2005年に日韓会談文書が公開されてから作った国務総理傘下の官民共同委員会の公式意見において確認され、2009年に日本から受け取った3億ドルに個人請求権が含まれていたので請求権の行使は難しいとする外交部の報道用資料もあるという事実を付け加える。
 判事の多数は、韓国政府が会談過程で「強制動員被害に対する補償」を要求したことを認めつつも、それは「公式見解」ではなく担当者の交渉資料でしかないため、そのような要求が日韓協定に含まれたとは認めがたいと判断した。しかし李教授は、当時の韓国は「生存者、負傷者、死亡者、行方不明者、そして軍人・軍属を含んだ全体的な被徴用者に対する補償を要求」したがゆえに、たとえその資料が参考資料であっても、韓国が「個人の被害に対する賠償を請求権交渉の対象に取り入れたという事実を示す」ものになるとしている。
 また、受領金額の名分をめぐって両国の政府が激しく対立したことを紹介しながら韓国側にとって請求権問題は単なる金銭的な問題ではなく「日韓の間の不幸な過去の清算という、決して譲れない名分と関係することを明らかにしたもの」であり、「この協定において不幸な過去の清算という象徴的な意味は大きく、韓国人の被害に対する補償を含ませることが協定受容における絶対的な条件であった」と言う。まさにその理由で文面が「請求権問題の解決および経済協力」というふうに折衷されたと言うのだ。最後まで日本はその金額が「植民地支配に対する賠償ではない」と主張したがったが、当時受け取った金額を単なる「経済協力資金に決めつけてしまうことは韓国政府が一貫して主張してきた立場と食い違」うだけではなく、植民地支配を否定した「日本の立場を追随する」ことになる、というのが李教授の主張である。
 さらに李教授は、この問題を考える上で大きな参考となる重要な事実を教えてくれる。それは、たとえ日本が「日韓合併不法」を認めなかったとしても、それは請求権問題の解決とは関係ない、ということだ。李教授の言葉に従うなら、「日本は併合の不法性を認めていなかったので、協定で受け取ったお金に賠償的な性格を持つ金額が含まれることにはならない」と考えた判事たちの前提そのものが崩壊してしまう。
 李教授は、「国際関係において片方の国が国際法上の責任を認めない基礎の上で、一定の金額を支給して他方の当事国との紛争を解決する場合はしばしば存在する」とし、国内法においても和解という名のもとで折衷するケースに言及する。日本が併合の不法性を認めているか否かに関係なく(つまり日韓協定を通じて受け取ったお金に賠償の性格があってもなくても)日韓両国の政府は植民地支配問題が「協定対象にされ、解決されたという点においては意思の合致を見せている」と言うのである。すなわち、喧嘩した後に合意にたどり着く場合も、その和解金の意味に関してはそれぞれの当事者が自分の都合のいいように考える場合が多く見られるが、国家間の場合も同様だ、ということになる。
 この判決の要は、「1910年の併合は不法だったのですべての労務動員は基本的に強制かつ不法だ」ということの他に、「1965年の協定において植民地支配による被害は棚上げにされた。よって、賃金問題などが解決されたとしても動員と労働の過程で被った被害に対する「慰謝料」は請求されなかったし補償も行われなかった。したがって、個人請求権は有効である」というところにある。だが李教授は、協定に植民地支配に対する補償のことが文中に明示されていなくてもなかったとしてそのような内容が含まれていると考えるのである。
 李教授は、「人権」に関する認識が強化されつつあるにも触れながら、国家が処理した事柄に対して個人の権利を求める動き自体は必然的な現象だとし、個人請求権の提起そのものには否定的でない。また、国際法はこのような動きに関して国内法の動きに追いついていないところもあるため、国際社会も個人の権利を考慮するように勧告している、という説明も忘れていない。
 しかし同時に、国際社会は「外交的保護権の行使と関連し、まだ国家に相当の裁量権を与えている」と述べる。人権問題はもちろん重要だが、「厳然たる国際社会の現実とかけ離れて先走ってしまう場合は国家間の紛争を頻発させ、当為的立法論を現実的解釈論として誤認させる恐れ」があるとも言うである。
 実際、イギリスやアメリカなど、人権問題に厳しい民主国家においても外交問題に対する「司法自制の原理」が宣言されたと述べて「慎重な態度が必要だ」とするのが、2018年と類似した判決を下した2012年の徴用問題判決に対する李教授の意見である。フランスなどにおいても、特に外交問題に関しては(最終的な判断は司法府が下すが)、大概は伝統的に行政府の意見を照会し、尊重すると言う。「ある一つの国家が外交問題をめぐって二つの声を発してはならない」と考えるためだと言うのである。
 もう一人の国際法学者鄭印燮(チョン・インソップ)教授も、「ある国家が他国との間で、自国民の請求権に影響を与え得る合意にたどり着くことができなければ、国際関係において国家間の外交交渉と妥結は、その存在意義がなくなる。一般的に言って、国家間の合意とは、個人権利をめぐる紛争を最終的に解決するための最後の手段として試みられるもの」だと主張している。

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