『帝国の慰安婦』 起訴対象箇所 日本語翻訳

『帝国の慰安婦』 名誉毀損起訴 対象箇所

○以下は『帝国の慰安婦』(初版本:2013)のうち、司法の判断により削除対象となった38個所〔仮処分および損害賠償判決文における整理番号では34項目〕 と起訴の際追加された一箇所を訳して示したものである(下線部:39か所)。おおむね直訳となっている。起訴の際追加されたものは、最後に示した。

○ 日本語資料を引用する場合の訳は、初版本(韓国語)から日本語にそのまま反訳した。日本語原文を参照しなおすよりは、提示した韓国語をそのまま反訳したほうが、韓国人読者が読んで受け取った印象をそのまま把握しうると考えたためである。

○番号は、削除部分に前から順番に番号を振ったものであり、頁数は初版本による。


1.2.(19頁)

千田が述べた慰安婦の数は後程あらためて見てみるが、問題がないことはない。しかしこの本が“慰安婦”の悲劇に着目し、社会的な関心を喚起させようとした最初の本であるということだけは確かである。

千田は“慰安婦”を、“軍人”と同様に、軍人の戦争遂行を自身の体を犠牲にしつつ手助けした“愛国”を行った存在であると理解している。国家のための軍人たちの犠牲に対する補償はあるのに、なぜ慰安婦にはないのかというのがこの本の関心事であり、主張でもある。そして結論から言うと、そうした千田の視角は以後に出たそのいかなる本よりも慰安婦の本質を正確に捉えたものであった。

事実、慰安婦らの証言集をただ一冊だけ開いてみても、“慰安婦”という存在が私たちに知られた一つのイメージのみで決して十分ではない多様な側面を持っていたということにすぐに気づく。そうした意味では、これまで支援者たちと否定者たちが慰安婦について持ち続けてきた相反するイメージは、自身たちが見たいイメージから外れる証言は見なかったり無視した結果のものである。


3.(31~32頁)

“ナンジャグン”とは娘子軍、社会の最下層で苦痛の中で働いていた女性たちを“軍人”にあてはめて呼んだものである。国家の欲望の実現のために動員された者たちが、いつの間にか国家の勢力拡張に助けとなる存在として、“国家のための”役割をする者たちとして認められるようになる過程で(もちろん動員のための国家の修辞であるのみである)生じた言葉であった。のちの慰安婦らもまた“娘子軍”と呼ばれ(『毎日グラフ』別冊『日本の戦歴』の慰安婦写真説明文と写真、<写真2>参照)、“慰安婦”たちはそのように国家の男性に対する被害者でありつつも国家によって“愛国者”の役割をしなければならない者たちでもあった(『和解のために』)。

それは、明らかに国家の不条理な策略であったが、外国で哀しい陰の生活をしていた彼女たちには、その役割は自身に対する矜持となり、生きていく力となった可能性もある。“シンガポール近郊ではほぼ6000名のからゆきさんがおり、1年に1000ドルを稼いだが、そのお金を日本人らが借りて商業をし”(232頁)たという話は海外のからゆきさんたちが日本国家の国民として堂々たりえたことを示している。

“からゆきさんの後裔”、“慰安婦”の本質はじつはまさにここにある。国家間“移動”がよりたやすくなった近代に、経済・政治的勢力を拡張するために他国に流れた男性たち(軍隊もそのうちの一つである)を現地にとどめておくために動員された者たちが“からゆきさん”であったのである(からゆきさんの最初の相手が日本の港に停泊したロシア軍人であったという事実は象徴的である)。そして、彼らの役割は“性的な慰め”を含めた“故郷”の役割であった。


4.(33~34頁)

このように日本人女性を対象とした人身売買には、近代初期から朝鮮人たちも深く関与した。女性を慰安婦とし商品化した業者にも、慰安婦を性売買した利用者―軍人や軍属の中にも朝鮮人たちは少なくなかった。いわば、慰安婦を“強制で引っ張って行った”直接的な主体は業者たちであった。

もちろん、こうした事実らを直視することは心苦しいことではあるが(訳注:この部分は伏字版では削除)、“慰安婦”の本質を見るためには“朝鮮人慰安婦”の苦痛が、日本人娼妓の苦痛と基本的には変わらないという点をまずは知る必要がある。その中で差別が存在したことは事実であるが、慰安婦の不幸を作ったのは民族の要因よりもまず、貧しさと男性優越主義的家父長制と国家主義であった。そして、“朝鮮人慰安婦”という存在が発生することとなるのは、これらの位置を朝鮮人女性たちが代替した結果であった。そのようになった背景には韓国の植民地化と植民地へと移植された公娼制度があり、中間媒介者らはそうした過程で発生した存在であった。


5.6.(38頁)

日本軍は、既存の公娼と私娼だけでは足りず“慰安婦”をさらに募集することにしたことであろう。それに伴い業者に依頼することもあったが、一般的な“慰安婦”の大多数は“からゆきさん”のような二重性を持った存在と見なければならない。300万名を超える軍隊がアジアと南太平洋地域にまでとどまりながら戦争をすることになったため、数多くの女性たちが必要とされたところに過酷な状況に置かれることになったのが“慰安婦”であった。しかし、“現地の娘たちが公娼に合流”したという事実はすべての慰安婦が一様に日本軍に“誘拐”や“詐欺”にあったわけではないという事実も示している。

“日本軍慰安所”は一つではない。つまり、軍人がある日、独自で考案して慰安所を作ったのではない。早くから国家の拡張とともに存在した売春施設を利用していたところ駐屯兵力が多くなるや軍が場所を拡大し、管理するために指定したところがいわゆる“慰安所”であった。いわば、日本軍が利用したからと言って、アジア全域にあった、そうした類の施設らをすべて“日本軍慰安所”と見なすことには無理がある。

もちろん、軍人や憲兵によって引っ張って行かれた場合もなくはないように見え、個別的に強姦を受けた場合も少なくなかった。しかし“慰安婦”たちを“誘拐”して“強制連行”したのは少なくとも朝鮮の地では、そして公的には日本軍ではなかった。いわば、需要を作ったことがそのまま強制連行の証拠になるのではない。


7.(61頁)

国家が日本人をはじめとする“帝国の慰安婦”に託したもっとも重要な役割はまさにこうしたものであった。性的な搾取にあいつつも、死を目の前にした軍人を“後方の人間”を代表して“前方”で“慰安”し、彼の最期を見守る役割。いわば慰安婦には身体的な“慰安”のみならず、精神的な“慰安”までも要求されていた。彼女たちが“皇国臣民の誓詞”を暗唱し、何かの日であれば“国防婦人会”の服を着て、着物の上にたすきをかけて参与したのはそのためであった。それは国家が勝手に課した役割であったがそうした精神的な“慰安”者としての役割―自身の存在に対する(多少無理した)誇りが彼女たちの処していた過酷な生活を耐え抜くことのできる力となりえたであろうということは充分に想像することができることである。


8.(62頁)

千田がインタビューしたある業者は、自身が連れて行った彼女らが借りたお金を完済して自由の体になることができたときにもその仕事をやめようとはしなかったとしている。

 

 応募した時もそうでしたが、こんな体になった私も軍人たちのために働くことができる、国のために身を捧げることができると考えて、彼女らは喜んでいました。ですから自由になって内地に帰っても、また体を売る仕事をするしかないことを知っていましたので、女性たちは軍人たちのために全力を尽くすことができたのです。もちろんお金も稼ぎたかったでしょうが。(26頁)

 

もちろん、これは日本人慰安婦の場合である。しかし朝鮮人慰安婦もまた“日本帝国の慰安婦”であった以上、基本的な関係は同じであるといわねばならない。そうでなければ敗戦前後の慰安婦らが負傷兵らを看護した、洗濯や裁縫をしたりしていた背景を理解することができない。朝鮮人慰安婦らが“さゆり”、“鈴蘭”、“桃子”のような日本名で呼ばれた(古山高麗雄「白い田圃」12頁)というのも、植民地人が“慰安婦”となることというのは“代替日本人”になることであったということを示している。


9.10.(65頁)

戦闘を終えて帰ってくる軍人たちは乱暴でサックもあまり使おうとはしなかった。顔、服、履物などが完全に土埃だらけであった。戦闘に出ていく人たちは多少温順で、もう自分には必要がないと小銭を置いて行ったりもした。戦闘にいくのが怖いと泣く軍人たちもいた。そんなとき、私は必ず生きて帰ってくるようにと慰労したりもした。本当に生きて帰ってきたらうれしく喜んだ。こうするうちに常連の軍人もかなりになった。「愛している」「結婚しよう」とも言われた。(『強制1』53頁)

 

騙されて行った場合であれ、志願して行った場合であれ、“慰安婦”の役割は根本的にこうしたものであった。家族と故郷を離れ、遠い戦地で明日には死ぬかもしれない軍人たちを精神的・身体的に慰労し、勇気を奮い立たせる役割、その基本的な役割は、数多くの例外を生んだが、“日本帝国”の一員として要求された“朝鮮人慰安婦”の役割はそうしたものであり、だからこそ愛も芽生えることがありえた。“数日戦争やって、あの山に行ったら、中国女性たちがいれば強制的に脱がせて、寝させるんだとさ。軍人たちがそうしたと言っていたよ。そんなときは、可哀想に中国女性はそうだったのかと思ったよ。(私たちに対しては)無条件という形で脱がしたりはしない”(『強制5』133頁)という言葉にあるように、中国人女性と朝鮮人慰安婦は日本軍には明らかに異なる存在であった。


  1. 12. (67頁)

もちろん、こうした記憶たちはあくまでも付随的な記憶でしかありえない。仮に、守られて、愛し、心をゆるした存在がいたとしても、慰安婦たちに慰安所は、抜け出したいところでしかありえないからである。かといって、そこにこうした類の愛と平和が可能であったことは事実であり、それは朝鮮人慰安婦と日本軍の関係が基本的には同志的な関係であったためである。問題は彼女たちには大切であったはずの記憶の痕跡を、彼女たち自身が“みな捨ててしまった”という点である。“それを持っていると問題になるかと思って”という言葉は、そうした事実を隠蔽しようとしたのが、彼女たち自身であったということを示している言葉でもある。そして、私たちは解放後、そのように“記憶”を消去させながら生きてきた。


13.(99頁)

ビルマのラングーンにいて、戦争末期に爆撃を避けて他国に身を移したこの慰安婦たちもまた、日本軍の案内で日本まで来て帰国したケースである。彼女らが“戦争犯罪人”、すなわち戦犯たちがいるところへ行くことになった理由は、彼女たちが“日本軍”とともに行動しつつ、“戦争を遂行”した人たちであったためである。それは、たとえ、彼女らが過酷な性労働を強要されていた“被害者”であったとしても、“帝国の一員”であった以上、避けることができない運命であった。


14.(112頁)

何より、性労働の加害者は、女性を“教育”から排除させて、経済的な自立の機会を与えず、父と兄が物のように売ることができた時代、女性の所有権を男性が持っていた時代の家父長制的な国家であった(『和解のために』)。したがって“朝鮮人”が最初からターゲットになる理由もなかった。朝鮮人女性が慰安婦になったのは、今日でも変わることなく、ほかの経済活動が可能な文化資本を持たない貧しい女性たちが売春業に従事するこことなることと同様の構造の中のことである。彼女たちの中には兄の学費をまかなうために、工場に行く女工のように、家族のために自身を犠牲にした女性が少なくなかった。


15.16.(120頁)

慰安婦問題を否定する人たちが‘強制性’ を否定するのは彼らが慰安婦に関する記憶のうち”彼らだけの“記憶に執着するためである。彼らの中には慰安婦問題を完全に否定する人たちもいるが、多くは‘強制連行’か‘20万人という数字’を問題にしている。そしてそのように考える私たち(韓国人)の考えに問題がないわけではないということはこれまで見てきたとおりである。
慰安婦問題を否定する人たちは“慰安”を“売春”としてのみ考えたし、私たちは“強姦”としてのみ理解したが、“慰安”とは基本的にはその二つの要素を両方包むものであった。言い換えると、“慰安”は過酷な搾取構造の中で実際にお金を稼ぐ人は少なかったが、基本的には収入が予想される労働であり、そうした意味では“強姦的売春”であった。あるいは“売春的強姦”であった。


17.18.(137頁)

‘性奴隷‘という単語は、アメリカやヨーロッパ、あるいはほかの被害国家を相手に日本軍の残酷さを強調するのには効果的だったが、必ずしも正当な闘いだったとばかりはいえない。にもかかわらず、そうした概念が定着されるつれて結果的に世界は今、’人身売買‘の主体を日本軍と考えている。

さきにも見たように、日本人、朝鮮人、台湾人“慰安婦”の場合、“奴隷”的ではあっても基本的には軍人と“同志”的な関係を結んでいた。言い換えると、同じ“帝国日本”の女性として軍人を“慰安”するのが彼女らに与えられた公的な役割であった。彼女たちの性の提供は基本的には日本帝国に対する“愛国”の意味を持っていた。もちろんそれは、男性と国家の女性搾取を隠蔽する修辞に過ぎなかったが、“日本”軍人だけを慰安婦の加害者として特殊化することはそうした部分を見れなくしてしまう。


19.(158頁)

 

4、‘愛国’する慰安婦

‘自発性’の構造

慰安婦の‘強制連行’は戦場でのみ行われたように見える。先も引用した吉見義明教授は、インドネシアの“アンボン島で強制連行・強制使役が存在したのは確かである”(「日本軍‘慰安婦’問題についてーワシントンポストの‘事実(ファクト) “広告を批評する」と言うが、そうした強制性は朝鮮人女性とは異なるケースと見るべきである。

そうした意味から見た時、“そうした類の業務に従事していた女性が自ら希望して戦場に慰問しに行った”とか“女性が本人の意思に反して慰安婦をすることになるケースはなかった”(木村才蔵)と見る見解は“事実”としては正しい可能性もある。明らかに彼女たちの中には貧しさの中で“白米”を夢見たり、女性が勉強することを極端に嫌悪していた家父長社会から抜け出て、一つの独立した主体となろうとした人たちも多かった。そうした人たちを“自発的”に行ったと考えることもありうることである。


20.21.(160頁)

しかし、業者の徹底的な監視の中、自分の意志では帰りえる道がないこと理解するようになった慰安婦たちが(もちろんその中には契約期間が終わって帰った人たちもいる)時間が経つにつれて最初に着いたときの当惑と悲しみと怒りを自分の中で消して“自分を売り込むために積極的に”(訳注;小野田寛郎)行動するようになったとしても不思議なことはない。そうした積極性は放棄と諦め、あるいはただ生きるために自らに与えられらたトリックでもありえた。とすれば、“愛嬌をふるまう”ことは悲惨さと背馳するものではない。つまり、彼女たちに与えられた役割だった’慰安’に忠実にあろうとしたとしても、それが‘慰安婦の苦しみ’を否定していい理由にはならない。

むしろ、彼女たちの“ほほえみ”は売春婦としてのほほえみではなく、兵士たちを“慰安”する役割を与えられた“愛国娘”としてのほほえみと見なければならない(『和解のために』)。仮に、“同情を引いてお金をとって、自分の利益とした女性”(小野田寛郎)がいたとしてもそれによって多くないお金をみな使ってしまって後悔した兵士がいたとしても、彼女たちを日本が植民支配構造の中で兵士たちを“慰安”するために動員した以上、彼女たちを非難することはできない。耐えがたい状況であったにもかかわらず、明るい表情で“愛国娘”としての役割に忠実であったならば、彼女らをそのようにさせた日本としては、むしろ感謝して当然のことである。

植民地人として、そして“国家のために”戦うという大義名分を持っている男性たちのために最善を尽くさねばならない“民間人”“女性”として、彼女たちにゆるされた誇り -自分の存在の意義、承認―は“国家のために戦う兵士らを慰労している(木村才蔵)”という役割を肯定的に内面化する愛国心のみでありえた。“内地はもちろん朝鮮、台湾から戦地に行くことを希望する人が絶えることがなかった”(同書)とすれば、それは日本国家がそうした“愛国”を植民地人たちにまで内面化させた結果であるのみである。


22.(190頁)

一個人としての“慰安婦”のもう一つの記憶が抑圧され、封鎖されてきた理由もそこにある。“日本軍人と”恋愛“もし、”慰安“を”愛国“することと考えてもいた慰安婦たちの記憶が隠蔽された理由は、彼女たちがいつまでも日本に対して韓国が“被害民族”であることを証明してくれる人として存在してくれないといけなかったからである。“慰安婦”たちに個人としての記憶が許されなかったのもそのせいである。彼女たちはあたかも解放以後の生を飛び越えたかのように、いつまででも“15歳の少女被害者”であったり“戦う闘士ハルモニ”としてとどまっていなければならなかった。


23.(191頁)

“朝鮮人慰安婦“たちが慰安所で経験した強姦や過酷な労働の原因は植民地支配と国家と男性中心主義と近代資主義がもたらした貧困と差別にある。さらに、彼女たちをそうした空間に追い込んだ家父長制にある。言い換えれば、具体的にそのシステムを作り利用したのは‘日本軍’だが、直接的な責任はそうした責任を黙認した国家にある。

しかし、国家が軍隊のための性労働を当然視したのは事実でも、当時、法的に禁止されていなかった以上、それに対して“法的な責任”を問うことは簡単なことではない。また強制連行と強制労働そのものを国家と軍が指示しなかった以上(日本軍の公式規律が強姦や無償労働、暴行を制御する立場であった以上)強制連行に対する法的な責任を日本政府にあると言うのは難しい。言い換えると、慰安婦たちに行われた暴行や強制的な無償労働に関する被害は1次的には業者と軍人個人の問題として問うほかない。


24.(205頁)

少女像がそうした姿をしているのは、“抵抗して戦う少女”の姿こそ、韓国人が自身とオーバーラップさせたいアイデンティティとして、理想的な姿であるからである。少女像がチマチョゴリを着ているのは、実体像を反映したものでもありうるが、リアリティの表現であるというよりは“慰安婦”を望ましい“民族の娘”と見せるためのものである。

しかし、実際、朝鮮人慰安婦は“国家”のために動員され日本軍とともに戦争に勝とうと彼らの面倒を見て、士気を高めた人たちでもあった。大使館の前の少女像は彼女らのそうした姿を隠蔽している。


25.26.(206頁)

彼女たちが解放後に帰れなかったのは、日本だけでなく私たち自身のためでもあった。すなわち“汚された”女性を排斥する純血主義と家父長的認識も長い間彼女たちを故郷に帰れなくした原因であった。しかし、そこにあるのはただ性的に汚された記憶だけではない。日本に協力した記憶、それもまた彼女たちを帰れなくさせたのではなかっただろうか。いうならば“汚された”植民地の記憶は“解放された韓国”には必要なかった。それで大使館前の少女像は協力と汚辱の記憶を当事者も、見る人も、ともに消し去った“民族の被害者”としての像であるのみである。

少女が“聖なる娘”としての“純血”と“抵抗”のイメージのみを盛り込んでいるのはそのためでもある。そうした意味からは、少女像は、恥ずかしい記憶を忘却したり糾弾して“私たち”の外に追い出してきた解放後60年あまりの歳月を象徴するものでもある。言わば解放後、60年間、ただの一度も総体的な私たち自身を引き受け、乗り越えようとしなかった歳月の象徴でもある。そうである限り、“被害者”少女にマフラーを巻き付け、靴下をはかせて、傘をさしてあげている人々が、彼女たちが日本の服を着て、日本の名前を持った”日本人“として”日本軍“に協力したという事実を知ることになると、全く同じ手で、彼女たちに指を指すのかもしれない。慰安婦になる前にそのように幼い”少女“を追いやった”手“もまた、私たちの中のまた別の手であったということは忘れたまま。


  1. (207頁)

協力の記憶を去勢し、一つのイメージ、抵抗し、闘争するイメージだけを表現する「少女」像は、協力しなければならなかった“慰安婦”の哀しみは表現できない。“慰安婦”となる前の純粋な姿だけを記憶することは、“汚される”前の私たち自身を想像し、胸に持つことで私たち自身を慰安することはできるが、それは植民地が何であったかを見ることからやはり目をそらしているのである。したがって、大使館前の少女像は“朝鮮人慰安婦”ではなく私たち自身でもありうる。

 

28.(207~208頁)

そうした意味では、残酷な存在ではあるが、“朝鮮人慰安婦”はただユダヤ人であるという理由だけでみなが排斥と抹殺の対象となったホロコーストとは異なるとせざるをえない。挺対協は最近になって慰安婦問題を“ホロコースト”に比肩させるが(「ホロコースト・慰安婦が来月歴史的な出会い」『聯合ニュース』、2011.11.21)、ホロコーストには“朝鮮人慰安婦”が持つ矛盾、すなわち被害者であると同時に協力者であるという二重の構図はない(もちろんまったくないわけではないが、ごく少数であるため、慰安婦とは構造が異なる)。挺対協は世界に向けた運動で慰安婦をホロコーストと似た位置に置こうとしているが、それはその違いを無視したことである。それは私たち自身を“完璧な被害者”として想像しようとする歪曲された欲望の表現であるのみである。


29.(215~216頁)

しかし、日本政府は謝罪し、2012年春にもふたたび謝罪を提案した。そして今後も挺対協が主張する国会立法がなされる可能性はない。その理由は1965年の条約、そして少なくとも“強制連行”という国家暴力が朝鮮人慰安婦に関して行われたことはないという点、あるとすればどこまでも例外的な事例で個人の犯罪と見るしかなく、そうである限り“国家犯罪”ということができない点にある。


30.(246頁)

ところが、そうしたクマラスワミでさえ“慰安婦”の状況を“強要された売春”として認識している。慰安婦たちを三つ―自発的な売春業、飲食店や洗濯婦として行って“慰安”をすることになった場合、強制連行―に分類するなど“慰安婦”の姿が一つではなかったということも理解していた。1996年の時点で“慰安婦”というのは、根本的に“売春”の枠の中にあった女性たちであるということを理解していたのである。


31.(264頁)

すでに見たように、インドネシアや中国やフィリピンの場合は基本的には“占領地”、すなわち戦地でのことであった。もちろん、その中でも違いはあったであろう。

“オランダ”女性とインドネシア女性と朝鮮人女性は日本軍との基本的な関係が異なっている。日本軍にとってオランダ女性は“敵の女性”であったが、インドネシアの女性は占領地の女性であり、朝鮮人慰安婦は同じ日本人女性としての同志的関係であった。彼女らが受けた被害の形態は基本的な関係によって規定されたが、そうした基本関係を外れた関係もいくらでもあった。

それにもかかわらず、“基金”はそのような個別的な違いも日本との関係の違いも区別はしなかった。もちろん、いまだに“慰安婦”の定義に対する社会的な合意がない状況であるので、当時の状況ではやむをえないことでもあった。日本としては“朝鮮人慰安婦”が初めて世に出てきただけに、朝鮮人慰安婦の事例を中心に対処したものであって、誠実な対応であったともいえる。


32.(265頁)

韓国や台湾で補償事業が円満に遂行しなかった理由は、何よりも二つの国が過去に日本の植民地であったという関係性にある。その理由は“朝鮮人慰安婦”が“戦争”を媒介とした、明確に被害者と加害者の関係に分けることができる存在なのではなく、植民支配下で動員された“帝国の被害者”でありつつ、構造的にはともに国家協力(戦争遂行)をすることとなった“同志”の側面を帯びた複雑な存在であったからである。これまでも韓国の慰安婦だけが“問題”として残っているのは、そうした部分が原因となった側面が大きい。二つの国の女性たちは、ほかの国よりもさらに“矜持”を棄損されてはならない立場にあったのでそうした心理的構造もまた“基金”の補償を容易に受け入れることができないようにさせた原因の中の一つであった。


33.(291頁)

“朝鮮人慰安婦”とは、“このようにして朝鮮や中国の女性たちが日本の公娼制度の最下層に編入され、アジア太平洋戦争期の”慰安所“の最大供給源”(山下英愛、110頁)となって生じた存在であった。そして、戦争が本格化し、数百万人にのぼる軍隊が駐屯して奥地まで入っていくようになり、軍人たちとともにある慰安婦として“朝鮮人”を含む“日本帝国”の女性たちが選ばれたのである(業者や慰安婦自身が選んだ可能性もある)。


34.35.36.(294~295頁)

彼らがそのように戦地にまでともに行くことになったのは、全く同じく“日本帝国”の構成員、“娘子軍”と呼ばれる“準軍人”のような存在であったからである。大部分は業者が引率して行っただろうが、それは“あねさん”が米国のチームスピリット訓練地にまで行ったような“遠征”であった。

“朝鮮人軍人”たちには“朝鮮人慰安婦”は“高くて”利用することが難しい存在であった。“現地の女性は主として兵隊らが相手”したというのは“慰安”という行為が“人間の商品化であり階級化”であったということを示しているが、同時に“朝鮮人慰安婦”が帝国内で置かれていた位置を表してもいる。日本人たちに差別される対象でありつつ、彼女たちは言葉が通じ、容貌が日本人と似ており、同じ“同族”としての機密を守ることのできる存在として“日本人慰安婦”に代わることのできる存在であった。

彼女たちが“娘子軍”と呼ばれたのは、彼女たちが国家の勢力を拡張する“軍隊”の補助的役割をしたからである。“愛国奉仕館”と言うところには朝鮮人女性が多“(ムンテボク・ホンジョンムク、72頁)く、そうしたところを含めた現地の慰安所を朝鮮人軍属たちも”ひと月に一度か二度“(同書、74頁)は許可を受けて利用した。もちろん、彼らもまた`明日死ぬかもわからないものを、遠慮することはない’、みながそんな気持ち”(きよかわこうじ・さくらいくにとし、清川紘二、桜井国俊 65頁)であった。

“朝鮮人慰安婦”は被害者であったが、植民地人としての協力者でもあった。それは彼女らが願おうと願うまいと、朝鮮が植民地となる瞬間から取り除くことができなくなった矛盾であった。私たちが“朝鮮人慰安婦”の多様な姿を長い間見ることができなかったのは、そうした植民地の矛盾を直視したくなかったからである。“1942年、日帝に連行され、中国の延辺などで慰安婦の被害を受けているときに解放を迎えた”や“慰安婦の生活に対する恥ずかしさから帰国することができず2000年6月に、韓国を発って58年ぶりに帰ってきた”と告白(『韓国日報』2011.12.14)した慰安婦の言葉もまた、“大部分が殺された”という私たちの常識に亀裂を起こさせる言葉と言わざるを得ない。


37.(296頁)

“植民地化”は必然的に支配下に置かれたこれらの分裂をもたらす。しかし、解放後、韓国は宗主国に対する協力と従順の記憶を私たち自身の顔として認めようとしなかった。そのように過去のある一面を忘却する方式で解放60年あまりを生きてきた結果、現代韓国の過去に関する中心的な記憶は抵抗と闘争の記憶だけである。“親日派”-日本に協力した者を私たち自身とは別の特別な存在として見なして探し出し、非難することが、相変わらず続いていることも、彼らが“望ましき私たち”に対する幻想を崩す存在であるからである。

 “自発的に行った売春婦”といったイメージを私たちが否定してきたのもやはりそうした欲望、記憶と無関係ではない。


38.(306頁)

今、必要なことは、彼女たちを“正しき朝鮮人闘士”として存在させ“国家の品格”を高めることではない。ただ、彼女たちが “ひとりの個人”に帰れるようにしてあげることである。中国やオランダのような敵国女性らの“完璧な被害”を借りてきてかぶせ、朝鮮女性たちの“協力”の記憶をはぎとった少女像を通じて、彼女たちを“民族の娘”とすることは、家父長制と国家の犠牲者であった“慰安婦”をもう一度、国家のために犠牲にさせることに過ぎない。

 

刑事起訴の際追加された箇所(144~145頁)-

 

“おい、出て来いといっておるではないか。出て来んのか、朝鮮ピー”(中略)

“貴殿は引率者か? 朝鮮ピーたちをすぐに下車させろ。私はここの高射砲部隊長をしておる。おろせ”(中略)

“この者たちは石井部隊専用の女性たちです”

“なに? つまらんことを言うな。どうせ減るもんでもなし、けち臭いことを言うな。新京ではえらく気前がよかったそうだが、なんでうちの部隊はだめなんだね”

“しかし……”

“しかしも何も、いやだと言うなら通過させるわけにはいかんな。この先には決して行かせんぞ。分かったか? 通行税だよ。気分よく出していったらいいんだよ”

 ここに到着する前、開封(カイピョン)を出発していくらも経たずして新京と、もう一か所別のところで彼女らはすでに二回も車から引きずり降ろされていた。そのたびに、その地に駐屯中であった兵士らが休む間もなく順番に、彼女たち五人にとびついた。(田村泰次郎「 蝗」479~481頁)

 

この状況は異論の余地なき“強姦”である。また、彼女たちが“石井部隊専用の女性たち”という言葉は、“慰安婦”らが“部隊”ごとに割り当てられており、兵士らが“専用”意識を持っていたことをうかがわせる。このように、“慰安婦”は日本軍にとって軍服や武器のような軍需品であった。

朝鮮人慰安婦を指し示す“朝鮮ピ―”という言葉には朝鮮人に対する露骨な軽視が表れている。この軍人たちが彼女たちをこんなにも簡単に強姦することができたのは、彼女たちが“娼女” だったからでもあるが、何より“朝鮮人”であったからである。“減るもんでもなし”だとか“けち臭いことを言うな”という表現は、この軍人たちにとって朝鮮人“慰安婦”というのは、正当な報酬を支払って利用するひとり “娼女”でさえなかったことを示している。“朝鮮人慰安婦”とは、専用権を持った部隊が別の部隊所属の軍人たちに“えらく気前よく”しても構わない“物”に過ぎなかった。つまり、売春婦には許容された自分の身体の管理権を、彼女たちは持つことができなかった。それゆえ、彼女たちはただ“通行税”とみなされる使用価値であるのみ、主体的な意思を持った商品でさえない。

そうして、結局、強姦されて戻った彼女たちはこのように述べる。

 

“全く。馬鹿にして。あいつら、やるんだったらお金を払わなきゃいけないはずでしょ。お金も払わずに何をするのよ”(中略)

“分かっとらんな。作戦中にかねを持っとるやつがどこにいる”と、兵士たちは当然の要求を嘲った。(488~489頁)

 

“慰安婦”たちは、このように“無償”労働も強要されていた。とくにはじめて慰安所に到着したとき、彼女たちが将校たちに通過儀礼のように受ける強姦はほとんどが無償であった可能性が高い。

もちろん、報酬を受け取れば問題がないという意味ではない。たとえ報酬を受けたとしても、その報酬は、彼女らの精神的・身体的な苦痛に対する対価として十分なものではなかった。“慰安婦”らが、“高額な料金”をもらったと強調する人たちもいるが、“慰安”であれ“売春”であれ、報酬が仮に高い場合があったとすれば、それはそれだけそれが皆が忌み嫌い、差別的であり、なおかつ過酷な労働であったためである。いわば“高額な料金”はむしろ当然である。その場所が命を抵当にかけなねばならなかった前線であってみれば、言うまでもない。大部分の慰安婦らは、自身らの身代金を抵当に入れられていた不幸な境遇にいた 。また、その搾取の主体が仮に業者だったとしても、そうした搾取構造を黙認して許した(時折、その構造を正そうとした軍人もいたが、それは例外的なことと見るべきである)軍上部に責任がないということはありえない。