『帝国の慰安婦』 刑事裁判 二審判決文を読む

朴 裕河

1、恣意的な判決

2017年10月27日、ソウル高等裁判所は私の著書『帝国の慰安婦~植民地支配と記憶の闘い』を、慰安婦に対する名誉を棄損した本と判断し、罰金1000万ウォン(約100万円)の有罪判決を下した

2017年1月の一審での無罪判決以降、有罪とするべき新しい証拠が出たわけでもないにもかかわらず、無罪判決をひっくり返したのである。つまり、二審は同じ本に対する判断を、証拠ではなく恣意的な解釈だけで有罪とした。

当然ながら認めるわけにはいかず、私と弁護士はすぐに上告した(2017年10月30日)。裁判所に出す上告理由書はより詳しく具体的に書くことになるが、以下は裁判所だけでなく、より多くの人たちにこの事態を理解してもらうべく、ひとまず書いた文章だ。 二審判決の内容をまとめると以下のようになるだろう。

『帝国の慰安婦』は、「日本軍によって強制的に連れていかれて性奴隷になった朝鮮人慰安婦」とは異なる慰安婦像を提示している。同時に著者は「朝鮮人慰安婦」の苦痛に関しても同書に書きとめている。

しかしそうした認識を本の記述全てにおいて書いているわけではない。そのため、「自発的売春婦だった日本人慰安婦とは異なる性奴隷の朝鮮人慰安婦」といった、韓国社会と国際社会が共有する認識とは異なる認識を読者が持つようになる可能性がある。すなわち「朝鮮人慰安婦=自発的売春婦」といった認識だ。

また、国連報告書など国際社会と日本の河野談話の認識によれば、慰安婦を「自発的売春婦」だとするのは明確に虚偽である。著者の認識の方を虚偽とみなすのは、国際社会の認識こそが最も正しい認識だからである。そうした国際社会の認識を著者はよく知っていたはずでありながら、それとは異なる認識を語った。言うなれば虚偽を書いたのみならず、そうした事柄について書くことによって対象の社会的評価が低下されることを認識していたかどうかをめぐる判断も名誉棄損の判定においては重要だが、著者は長い間慰安婦問題を研究してきており、そうした本がもたらす結果を知っていたはずだ。したがって虚偽の「事実」提示と執筆目的において「故意(犯意)」が認められるので有罪とする。

シンプルに言えば、二審の判決は、「読者の読解に著者が責任を持つべきである」との判決であった。「著者が持つべき責任」の金額として私に課された「罰金1000万ウォン」をもって、検事が求刑した懲役3年より軽いのでよかったと言う(あるいは軽過ぎると非難する)人々がいた。しかしこの金額は懲役ならば5年に値する、名誉棄損関連の処罰が選択しうる最高金額だ。裁判所は寛大な処分を出したかのように強調したが、懲役刑を選択しなかったに過ぎず、実際には3年以上の懲役刑にあたる処罰とも言える。でありながらも、裁判所はあたかも学問の自由を擁護したかのようなポーズをとった。

名誉棄損で有罪が成立するためには、問題とされた内容が事実であることが最初の条件となる。無罪とみなした一審は検察側が「犯罪」として指摘した35カ所のうち30箇所を「意見表明」とみなし、残る5箇所は「事実」に関する記述としながらも、慰安婦の社会的評価を低下させる表現ではない、あるいは個々人を特定した表現ではないので名誉棄損ではない、とした。また、著者に名誉棄損をする目的(故意)があるとみなすことはできないとして、「慰安婦問題は国民が知るべき公共性・社会性を持つ公的関心事項であるので、活発な公開討論と世論形成のために表現の自由を幅広く保障」するべきとして無罪を言い渡したのである。

このように判断するまで一審のソウル東部地裁は1年に渡って、準備裁判を含むと10回以上、本裁判以降は毎回朝から夕方まで長い時間をかけて裁判を行った。検事は私を批判した学者の論理を掲げて私の「犯罪」を主張し、結局、法廷での攻防は学術セミナーのような内容となった。それに比べて二審は4回しか開かれず、毎回1、2時間にしかならかった。であれば一審に提出された膨大な資料を詳細に検討してこそ、この事件をまともに判断できたはずだが、二審判決を見る限りそうだったようには見えない。

2、歪曲と訴訟の本質

この判決のもっとも大きな問題点は、検事が提出した、歪曲された内容をそのまま使っているということだ。以下に引用しておいたが、一方では私の本の趣旨をある程度理解しまとめておきながらも、結局は読者の誤解のないようにもっとも気を配って書いたところに関して、裁判所は検事が勝手に曲解した要約を持って来て、あたかも私が書いた内容そのものであるかのように歪曲している。

しかし私は、慰安婦は強制連行されていないとは書かなかった。日本軍の募集と関与・管理も否定するどころか、むしろどのように関与したのかを詳しく書いた。

「朝鮮人慰安婦がやるべき仕事の内容を知っていながら、本人あるいは親の選択によって自発的に行った」と要約されたところもいいかげんな要約であり、「本人の意志に反して慰安婦になる場合はなかった」というのは私の言葉ではなく、そのように主張する人たちを批判するところで引用した、慰安婦問題を否定する者たちの言葉である。

「1996年の時点で慰安婦とは根本的に売春の枠組みの中にいた女性たち」(42)というのも国連報告書の内容である。こうした論理なら、「朴裕河が”慰安婦は自発的売春婦”と書いた!」と言ったすべてのメディアと個人も名誉毀損で訴えられなければならないことになる。

また、私は、「法律上の賠償責任や公式謝罪を受けることができない」(2)とは言っていない。そうした形のみを唯一の解決方法と考えて来た支援団体の運動のあり方や論理に疑問を提示したまでである。「公式謝罪を受けることはできない」と書いたのではなく、20年以上、法的責任のみを主張してきた支援団体の考えにも問題があるから、日韓で協議体を作って議論し直すことが必要、と本には書いた。韓国語版刊行の後に出た日本語版では国会決議が必要と書いた。

「被告が主張する解決方式を提示」(39)したという言葉は検事の主張だが、先に書いたように、私は韓国語版では解決方法を具体的には提案していない。にもかかわらず原告側も検事も、裁判中繰り返しこうした言葉で非難したが、実はこうした主張こそが『帝国の慰安婦』訴訟の本質を示しているものである。原告側(支援団体)が訴訟を始めたのは実際、「慰安婦の名誉」というより運動体の運動の正当性を守るためのものだった。実際にそのことは告訴状に明確に現れている。『帝国の慰安婦』は、「植民地支配と記憶の闘い」とのサブタイトルを通して表したように、90年代以降の慰安婦支援運動の問題を批判した本でもあるが、それこそが告訴の原因となった。しかし、支援団体が主張してきた「法的責任」について知る人は、少なくとも私が会った慰安婦の方々の中にはいなかった。

3、「事実を摘示」との前提について

この判決は『帝国の慰安婦』についてこうも書いている。

被告人がこの事件の図書において、全ての朝鮮人慰安婦が自発的に慰安婦になったのではなく、直接の暴行・脅迫・あるいはだましや誘惑によって慰安婦になった場合があり、日本国や日本軍が公式に強制連行をした証拠は存在しなくとも責任がないとはいえず、民間人の抱主(売春斡旋業者)や業者によって強制力が施され、性的虐待の代価として支給されたのは少額であり、それさえも搾取され、一部(だけ)の朝鮮人たちが日本軍と協力的な関係を結んでいたなど、内容をともに記している。(32)

被告人はこの事件の図書において「朝鮮人慰安婦を募集した主体は日本軍ではなく業者だったがその過程において不法な方法が使われた。一部の慰安婦たちは日本軍によって強制的に連行された場合もある。朝鮮人慰安婦たちは貧困、家父長制、国家主義によって慰安婦になった。慰安所内で民間人抱主や業者によって強制力が使われ、性的虐待の代価で支払われたのは少額であり、それさえも搾取された。朝鮮人慰安婦たちは植民地の人として愛国が強制され、一部の慰安婦は日本軍と同志的関係にあった。」と記述している。(37)

被告人の主張するように日本軍慰安婦問題には社会構造的な要因が存在し、朝鮮人慰安婦たちの姿やおかれた状況は様々であり、この図書は被告人がすでに出ていた資料をもとに、現在の韓国社会の主流的な観点とは異なる立場から慰安婦問題に関する自らの主張を披瀝する内容であり、この図書の所々に例外的な姿や多様な慰安婦の姿やおかれた状況が記述されている。(41)

「例外的」と記述するところなど、すでに書いた人の見方が見えていて、必ずしも全て正しいわけではないが、それでもある程度私の本の趣旨を理解した要約と言える。であれば、いったいどうして有罪としたのだろうか?

実のところ、私は名誉毀損を巡る訴訟では「意見」なのか「事実」なのかが重要だと聞いたので、学術的な本の全ての記述は基本的に「意見」であるほかないと述べた。もちろん学問とは「真実」を求める過程でもあるが、どんなに自らの知る事柄を「事実」と主張したとしても、自らが信じた「事実」もまた、いつでも新しい探求と学説によって否定されうることを知っているからである。そうした意味では全ての学問は「意見」でしかない。

実際に、ヘイドン・ホワイトの『メタヒストリー』(1973)以降、客観的な事実を記述したかのように見える歴史書さえも、入手された資料を前に学者が文学的想像力で編んだ「文学」であるほかないとの認識は、常識になりつつある。多数の支持と検証を経た仮説が歳月や空間を乗り越えて「真理」や「事実」と定着してはきたが、そのすべては文学的プロットを必要とし、そうしたプロットを作るのは見えないイデオロギーだとの見方は、過去の歴史に謙虚になるためにも必要な認識である。言うなれば、全ての歴史書・学術書は真実・事実を追求するものではあるが、一つの事柄を最終的な「真実」と断定できる者は論理的にはいない。あくまでもその時点での「認識」を語るものでしかないのである。

しかも指摘された部分は、文脈を見ても分かることだが表現自体も「意見」として表したところが多い。『帝国の慰安婦』は歴史自体より、証言を含む歴史をめぐる言説を分析した学術的批評書だからである。

4、「社会的な評価を低下させる」との認識について

裁判所は結果的に、私の本を元慰安婦の方々の「社会的な評価を低下させる」ものと判断している。裁判所が言う「社会的評価の低下」とは、元慰安婦が強制連行を主張しているのにそれに反するような言葉を発するのは、そうした元慰安婦の主張に問題があると読者に受け止められる可能性がある、という意味である。

しかし、『帝国の慰安婦』を読んだ人々の中にはむしろ、「慰安婦問題にもっと共感するようになった」とか、「それまで感じることのなかった悲しみを感じた」と言ってくれた人たちが多い。必ずしもそうした読解のみが正しいとは主張しないが、この判決はそう読んだ全ての人々を無視した判決である。代わりに、著者の意図とは異なった読み方をする(しうる)人々の存在と、そのように仕向けた人々の「誤読」の可能性を偏向的に優先した。私に対する有罪判決はそのようにくだされたものだ。

繰り返すが、『帝国の慰安婦』は、歴史書というよりは歴史をめぐる言説を分析した「メタ歴史書」である。韓国と日本の異なる読者を対象に書かれ、一つの「真実」自体より目の前にある「真実」(対象・状況)らしきものと「どのように」向きあうべきかを模索した理由でもある。必要に応じて「事実」に接近しうるように努力したが、それ以上に、その「事実」をめぐって対立している人々がお互いをもっと深く理解し合えることを目指しながら書いた本なのである。接点を見いだすべく両国の政府と支援団体を批判したが、慰安婦に関しては否定も批判もしなかった。

私が試みたのは、むしろこれまで支援団体が見過ごしたり隠蔽してきたりした声をよみがえらせることだった。長い間意識・無意識に埋もれてきた全ての声に耳を傾けることこそが、過去との対面において誠実なやり方――望ましい「歴史との向き合いかた」と考えたからである。

にもかかわらず裁判所は、私のそうした試みを認めながらも「例外」とみなし、私の本に反発した支援団体(と検察)の『帝国の慰安婦』に対する曲解を額面通りに受け止めた判決を出した。裁判所でさえある程度素直に読んでいた痕跡を残しながらも、この判決は結局、裁判所自らも含む全ての読者を無視した結論を出したのである。

判決文に一部要約されたように、私は「慰安婦の自発性」を強調するよりは、むしろそうした構造を作った日本の植民地支配を批判した。たとえ自発的に行った人がいるとしても、そのほとんどは家族のために自ら犠牲になったケースとも書いた。「(管理)売春」という単語は裁判所が引用した国連報告書や多くの学者が使用している、価値の評価とは関係のない、中立的な一つの状況説明でしかない。文脈や意図と関係なく単語を使っただけで有罪となるのなら、1996年に国連報告書を作成した国連の報告者、そして日本軍慰安所を国家が管理した公娼から派生したものと見ているほかの多くの学者も起訴され、有罪となるべきだ。

5、「虚偽」との認識について

裁判所が<帝国の慰安婦>を「虚偽」とみなすために引用した資料は、90年代半ば、つまり20年以上も前の資料である。たしかに河野談話は日本政府が調査を経て出した見解であるが、ほかの国連報告書や国際司法委員会の資料は、慰安婦問題が問題として発生しはじめた初期に、支援団体などが提出した資料などを専門家でない人たちが検討して出した資料である。

もちろん国連のクマラワスワミ報告は日本や韓国、そして北朝鮮から学者や慰安婦の証言を聞いてまとめた報告書だ。そして彼らの意見を公正にまとめたものとも言える。

しかし、この報告書は基本的に今では否定されている吉田証言(慰安婦問題解決のために長い間努力してきた和田春樹教授さえも、昨年出した本で同証言を否定した)などを根拠にして出された報告書である。しかも、慰安婦問題を同時代の東ヨーロッパなどの内戦で起きた強姦・虐殺と同じものであるかのように理解した痕跡がある。

しかし学界はその後20年以上研究を進め、今では学界において「日本軍による朝鮮人慰安婦の物理的強制連行」を主張する人は私の知る限りいない。強制連行を主張していた学者たちは今では、動員における強制性ではなく慰安所で不自由だったというように、内容を変えて同じ「強制性」であるかのように主張している。

もちろん、学者や支援団体関係者たちがそうした状況を知らないはずがない。それでも相も変わらず「強制連行」に執着する理由は、関係者が主張して来た「法的責任」を守るためである。その方法のみが正義に近い謝罪方法と考えるからだ。そして支援団体が私の本を「虚偽」として訴えた理由は、私が元慰安婦を侮辱したからではなく、支援団体が長い間主張してきた「法的責任」の可能性に私が疑問を呈したからだ。

にもかかわらず支援団体の考え方に疑問を提起した私を「日本を免罪」するとして声を大にして非難し、挙げ句の果てに民事提訴・起訴に至った原告側と検察の主張を、二審判決はそのまま受け入れた。裁判所の判決文は、一審で私が提出した膨大な量の資料を完璧に無視したことを露にしている。

裁判所は『帝国の慰安婦』を「朝鮮人慰安婦たちは自発的に慰安婦となって経済的代価をもらって性売買をした(31)」「日本国と日本軍は強制動員や強制連行をしなかった」 と要約している。

そして「朝鮮人慰安婦の多くは、日本国や日本軍の指示に従って自らの意志に反して強制的に動員され、日本軍慰安所の中で性的虐待を受けながら性奴隷としての生活を強制された」(31)ということこそが「事実」だとしている。

しかし、私はそのようには書いていない。募集はしたが日本軍が拉致やだますことを許可した状況が見あたらず、「公的には」(すなわち公式的には強制連行を指示した痕跡がなく、むしろそれに反する状況が証言や手記などに見える)むしろそうした状況を取り締まった状況が見えると書いただけだ。

だからといって元慰安婦たちの語る強制連行を否定したわけでもない。当事者の証言は基本的に尊重したかったからだ。(ただ、警察と一緒にあるいは一人で現れた「軍人」のように見えた人は、軍属待遇を受けて軍服も支給されていた業者である可能性が高いと考える)。なのにそうした状況に反する説明を付け加えなかったという理由だけで、その部分を「犯罪」と断定した。しかしそうした部分はほとんど、そう語った人たちを批判する文脈、あるいは全体内容をまとめる部分で使った内容である。指摘された部分のほとんどに反論・批判が入っているにもかかわらず、そうした文脈を無視して単語にのみ反応したことになる。

裁判所は国連報告書の中の「日本政府が強姦収容所(レイプセンター)の設立に直接に関与した」「慰安婦の調達のために軍部は物理的暴力、誘拐、強制やだますことをした」(34)、日本軍が女性や少女たちに「自発的に申請したかのように取り繕うため、業者に積極的な支援策を与えた」(36)ということこそが真実としている。『帝国の慰安婦』はこうした「重要なところが事実と合わない」ため「虚偽」だというのである。

裁判所が国連報告書を真実と考えるのは、「国際社会」という単語を無条件に権威と考えるからである。もちろんそうした判断は原告側と検察がそのように主張したからである。原告側は、これまで出た国連報告書や河野談話を、私の「犯罪」を主張する資料として裁判所に提出した。彼らの告訴(起訴)の趣旨は、言うなれば「国際社会はもちろんのこと、日本さえも共有する認識を朴裕河一人が否定している」だった。

しかし私は河野談話を否定するどころか、かえって高く評価した。ただ異なる形で解釈しただけだ。支援団体は昔は、河野談話を「強制性を否定した」とみなして不十分なものとみなして批判していた。ところが安倍政権で河野談話が検証対象になると、突如河野談話を「強制性」を認めたものとみなして「河野談話を守る」行動に出た。

ところで河野談話を出した河野洋平元官房長官は、私の起訴に反対する声明参同してもいる(2015・11)。私の解釈が間違っていたとしたら、河野氏が声明に参加することはなかっただろう。

裁判所は国連報告書の「性奴隷」認識が正しく、私の本はそれに反するものであるかのように言っているが、私は支援団体の「性奴隷」認識には疑問を投げかけたが、同時に慰安婦はうたがうべくもない「性奴隷的」存在と書いた。

にもかかわらず裁判所は「しかし被告人は、初めは一部そうしたケースもあるとしたり、いろんなケースがあるというような記述をしたりしておきながら、こうした例外的なケースを除いて叙述したり、断定的な表現を使用したりすることで、こうした表現に接する読者は<全体ではなくてもほとんどの、あるいは多くの朝鮮人慰安婦は自発的に慰安婦になって経済的代価をもらって性売買をし、愛国的に日本軍と協力し、ともに戦争を遂行し、日本国と日本軍は朝鮮人慰安婦を強制動員したり強制連行したりしなかった>と受け止めるように記述しており、こうした内容が客観的な事実と異なるのは明らかである。この事件の表現は虚偽の事実に当てはまる」(37)と言う。

こうした裁判所の認識は「自発的売春婦」ならば被害者ではないという認識が作ったものでもあるが、もとはといえば支援団体の認識でもある。言うなれば、慰安婦問題の中心にいた人々は、むしろ「売春」に差別的な考え方を自ら持っていたり(彼らがひたすら「純潔な少女像」にこだわる理由もそこにある)、20年以上人権運動をしてきながら社会が必要としつつ差別してきた問題を、問題として変える努力をしていない。そしてそのことを試みた私を罪人とみなし訴えたのである。

裁判所はそうしたことを知らないまま、「社会が慰安婦を差別(社会的な評価低下)しうるのだから(著者の意図がそうでなくても)処罰する」としたことになる。

6、人物の特定について

裁判所は『帝国の慰安婦』が特定の慰安婦を指し示して名誉毀損をしたという。しかし一審はそのようには判断しなかった。そして二審の主張が正しいなら、むしろ原告として名前のあがっている11人の元慰安婦の「日本軍の強制連行」が個別的に証明されないといけないだろう。しかし私はそのようなことはしたくなかったので、誰の名前も意識せずに本を書いた。ところが原告側が私の「虚偽」を証明するために裁判所に提出した、元慰安婦の共同生活施設「ナヌムの家」居住者5人の口述書によれば、誰もそうした体験をした人はいない。しかもそのなかには「報国隊」へ行ったと話した人もいる。

しかし裁判所は私が執筆目的について書いた序文から、

「いうなれば日韓両国は、20年余りの歴史問題の葛藤を経て深刻なコミュニケーション不全症に陥った。(中略)その葛藤の中心に慰安婦問題があり、彼ら(日本の否定論者)は、韓国が世界に向けて嘘をついてまで日本の名誉を損なっていると考えている。そこで私はもう一度原点に戻って慰安婦問題について考えてみることにした』(韓国語版38−39)と書いた序文の一部と、以下に引用する部分を持って来て、私が具体的に問題解決のために先頭に立っている慰安婦を特定したとしながらこのように主張する。

「しかし現在韓国と日本の間に横たわる慰安婦問題の中心には、自ら慰安婦だったことを明かして日本の謝罪と賠償を要求する元慰安婦の被害者がいる。被告人もこの図書で<慰安婦たちと支援団体はその後も、日本政府と世界を相手に謝罪と補償を要求している。それは日本が謝罪を認めないためである。そうした意味では世界的な問題とみなされている慰安婦問題とは、実は数十人の元慰安婦と慰安婦支援団体が主体となった韓国人慰安婦問題でもある>(171)と書いたとしながら、「自ら慰安婦だったと公表した人にのみ名誉毀損問題が生じる」ので、「第三者が日本軍慰安婦を考える時は、全ての韓国人慰安婦より、まずは自ら日本軍慰安婦だったと公表した<元慰安婦の被害者>を思い浮かべることになる」と。こうした理由から私が慰安婦を「特定」したとみなすことができるというのである。

しかし、上記の引用部分で私が強調したのは「日韓の葛藤の中心に慰安婦問題がある」という事実であって、「葛藤を引き起こしている特定の元慰安婦」ではない。この部分においても本全体においても、私は元慰安婦が間違っているとか謝罪を要求することが問題だとは言っていない。一部の元慰安婦に与えられた情報が果たして正確だったのか、そう考えるように導いた支援団体の考え方が果たして最善の考え方だったのかを疑問視しただけだ。

何よりも、300ページを超える『帝国の慰安婦』を読んで慰安婦の悲しみを感じたとする人たちは、ほとんどが原告の言う「特定された慰安婦」ではなく「名もない慰安婦」「戦場に動員された慰安婦」を思い浮かべた人たちであろう。そうした読者が実在する限り、二審の判断は偏向的で恣意的と言わざるをえない。

もし私が慰安婦問題をただ「謝罪や補償を要求する特定の慰安婦の問題」と考えたなら、「慰安婦の悲しみと苦しみ」を伝えるような本を書こうとはしなかったはずだ。むしろ私は慰安婦問題を否定する人たちを具体的に批判した。これまでの支援団体のような糾弾ではなく、彼らがそのように考える理由に耳を傾けながら問題的な考えを批判したのである。

私たちの前には「過去の慰安婦」の実像を示す抽象的な「慰安婦」があり、現在の日韓問題の中心となる具体的な「元慰安婦」がいる。私の本は後者にも注目したが、考察対象はあくまでも前者だった。検察が売春・強制性・同志的関係、この三つの部分を問題視したということは、前者を問題視して起訴したということでもある。「過去の、名も知らない慰安婦」を含む全ての(抽象的)慰安婦について書いた部分に注目しておきながら、私が「謝罪と補償を要求する(現在の具体的な)元慰安婦」を特定したという言葉は、彼らの起訴内容に照らし合わせても論理的ではない。たとえ私の本を読んで現在の元慰安婦だけを思い浮かべる人がいたとしても、私がそれを意図しないかぎり、それは著者の責任ではありえない。

私の考察対象があくまでも戦場で死亡した慰安婦を含む「彼女たち全て」だったのは、慰安婦について説明した本の第1部を以下のように締めくくったことでも明らかであろう。(2部と3部は90年代以降の葛藤について書き、4部は現代が過去を反復している構造について書いた)

思うに、私たちが今耳を傾けるべきは、誰よりもこうした女性たちではないだろうか。戦場の最前線で日本軍と最後まで一緒にいて命を失った人々――声を発することのない彼女たちの声。日本が謝罪すべき対象はもしかしたら誰よりも先に彼女たちなのかもしれない。言葉と名前を失ったまま、性と命を「国家のために」捧げなければならなかった朝鮮の女性たち。「帝国の慰安婦」たちに。(『帝国の慰安婦』104)

7、目的(故意)について――「社会的評価」を下げたのは誰か

裁判所は、『帝国の慰安婦』が多様な慰安婦の姿を示したものとみなしながらも「しかし被告人は、この事件の表現では、例外的な場合を除いて叙述しなかったり、断定的な表現を使ったりすることで、これに接する読者はあたかもほとんどの、あるいは多くの”朝鮮人慰安婦”たちが自発的に慰安婦となって経済的代価を受けて性売買をし、愛国的に日本軍に協力し共に戦争を遂行し、日本国と日本軍は朝鮮人慰安婦を強制動員したり強制動員したりしていないと受け止めうる。被告人もこの点を認識していながら、この表現を記述したと見える」とした(41)。

そして、 「こうしたことを考えると、被告人がこの図書を執筆した目的、この事件図書の性格および全体内容を勘案したとしても、被告人はこの表現の中で嫡示した事実が虚偽であることと、その事実が被害者の社会的評価を低下させうるものであることを認識したとみられる。被告人に名誉毀損の故意が認められる」(41-42)というのである。

つまり裁判所はただ「可能性」を処罰しようとし、その可能性を防ぐために本の全ての部分において、裁判所自らが正しく要約してもいる本の趣旨を反復すべきだったと言っているようなものだ。本という媒体が一人の個人の表現でもある以上、こうした考え方は個人の表現のスタイルにまで国家が関与すべきとしたものである。

私は韓国と日本の読者を同時に念頭におきながら本を書いた。したがってそれぞれのところでその読者を思い浮かべながら書いていった。同じ素材をもって少し異なるニュアンスで記述したところがあるのもそのためだ。先ほど書いたように、真実をできるだけ見ようとしながらも、より大切なのはその真実を「どう考えるのか」の方だと考えるからである。

原告側と検察と裁判所は、私の本がまさしく「慰安婦は売春婦」と主張する人たちを批判する本でもあることを知りながらも、そうした部分を完全に無視して単語だけに執着した。しかし単語だけが問題なら、私を訴えて以降、メディアが私を非難しながら「”慰安婦は自発的売春婦”と書いた朴裕河」などと繰り返し報道してきたこの3年半の時間こそが、元慰安婦にはつらい期間だったであろう。

私は慰安婦を誹謗する意図がないことを、普通の読解力を持つ人なら分かるように書いた。本の趣旨を理解できなかったり、さらには「悪意をもって」読む読者がいたりしたとしても、それは著者の責任ではない。

私がこの本で強調したのは「強制的に連れて行かれた純潔な少女」だけを被害者と考える韓国社会の認識が、そうしたケースではない女性たちを排除し、差別する状況だった。たとえ自発的に行ったとしてもその事実が隠蔽される理由はないと強調した理由でもある。解放以降50年近く、慰安婦だった人々が沈黙しなければならなかった理由も、まさしく彼女たちが声を上げられるように助けた支援者さえも、そうした構造を固めてしまったのは、単なる誤解や時代的な問題によるものとみられるが、以後の運動の拡散のために戦略的に変わっていった側面がある。私はそうした戦略を理解するが、時がすぎ、そうした戦略が決して問題を解決しないことが明らかになったので異議申し立てをしたのである。

にもかかわらず裁判所は、明確に記しておいた私の執筆目的を曲解してまで、支援団体が主張するとおり故意・犯意を見ようとした。

もちろん、韓国社会の売春に対する認識――「社会的評価の低下」を裁判所が憂慮するのはありうることだ。しかし本が出た後、私の本を根拠に「慰安婦は売春婦」と考えて慰安婦に批判的になった人は私の知るかぎりいない。そのように読んだと主張する人たちは、ただ私の本を曲解して、すでに自分たちが主張してきたことを補完するために利用した人たちのみである。重要なのは売春したかどうかではなく、その女性たちの人生を理解できるかどうかである。私はただ、昔の少女・女性の苦痛に満ちた人生を、より多くの読者が理解できることを目指して資料と文のスタイルを選んだ。

そうした私の本を歪曲した点では、その反対側に立っている人たちも変わらなかった。私は対立してきた人々の接点を探すため本を書いたが、結果的に私の本をあるがままに受け止めてくれたのは、彼らとは関係のない一般読者であった。今回の判決は、そのように「誤読する読者」あるいは「意図的に歪曲する読者」を優先した、社会的成熟をむしろ退行させる判決だ。

8、植民地のトラウマ

原告側と検察と裁判所の考えと判断の底辺には、私たちの植民地トラウマがある。

たとえば裁判所は、私が日本人慰安婦と朝鮮人慰安婦が日本軍と「基本的な関係は変わらない」と書いたところを問題視した。もちろん私はまったく同じではないと明確に書いたし、朝鮮人は基本的に差別構造の中にあったと書いた。しかし国家に動員され、多数の軍人を相手にしないといけない生活がもたらした「女性」としての苦しみに差異があるはずはない。韓国挺身隊問題対策協議会の元代表をはじめ何人もの学者が、慰安婦の中にあえて日韓の差異を見ようとするのは、彼らが人のアイデンティティーを性より民族として見ようとした結果でしかない。

しかし人間のアイデンティティーは多様で、朝鮮人女性が慰安婦になった理由が「女性」だったからなのか「朝鮮人」だったからなのかは一言で決めることはできない。そして私はその両方に理由があると書いた。しかし古くからの慰安婦研究者は、「女性の人権」を唱えて運動と研究をしてきながらも「日本」国籍を持って生まれた「女性」の人権はあえて無視したり見過ごしたりしてきた。それは世界の連帯のため「女性問題」であることを主張しながらも、朝鮮人慰安婦の「女性」としての苦難は実のところ度外視したということでもある。彼女たちは「女性」でありながら公には「男性」を批判できなかったし、自分たちを搾取した「階級」の問題を語ることもできなかった。もちろん証言ではそうした構造を十分に語ったが、誰も耳を傾けてはいなかった。私はそのように埋もれていた言葉を言語化しただけである。

私は自分の考えのみが正しいとここで言うつもりはない。しかし、支援団体と一部の学者は、自分たちの認識だけが絶対的に正しいものとみなし、異なる考えを持つ人の口を塞ごうとした。あるいは裁判中に私を批判することで直接・間接的に告訴に加担した。歴史学者は「歴史書」を目指したわけではない私の本を指して「歴史書」の形式を取らなかったと非難した。しかも彼らは、『帝国の慰安婦』がいわゆる日本の右翼の本のようなものではないことを知っていながらも、日本の右翼と変わらないと主張することで、私に対する国民の非難を誘導し、大衆によるおぞましいミソジニー的な非難と脅迫を放置した。それが、韓国と在日の「フェミニスト」と慰安婦関連の学者と支援団体関係者たちのこの3年半の姿であった。しかし二審は結局彼らの手を上げたのである。

裁判所は「同志的関係」も虚偽と判断したが、私は「軍需品としての同志」と明白に書いた。裁判所は判決文に私の本が「愛国を強制」したと書いたと認定しているのだから、私が強調したメッセージは確実に受け止めたことにもなる。にもかかわらず裁判所は原告側と検察の歪曲された要約をそのまま引用し、『帝国の慰安婦』は「慰安婦が誇りを持って愛国的に協力した」と書いている(もちろん、実際に誇りを持っていたと自ら語った資料も存在している。私たちがすべきことは、そうした声までも含めて、慰安婦の声を「聞き直す」ことであるべきだ。一人の人間を本当に尊重したいのなら)。

原告側の訴え、検察の起訴、そして今回の刑事二審判決まで、彼らが歪曲して言及するごとに、そして彼らの言葉をそのままメディアが報道しSNSで拡散されるたび、彼らの「虚偽」の拡散によって学者としての私の名誉は傷つけられる。

そうした意味で、『帝国の慰安婦』の刊行によって実際に「社会的な評価が低下」したのは私である。そしてそれこそが原告側――私を訴えた者たちのもくろみだった。私にこの3年半注がれたおびただしい数の非難と脅迫は、彼らの目的が成功したことを証明している。

公正に評価すべき司法府が、自ら国家の顔をした民間人の手をあげて一人の学者に刑事処罰を下した、2017年の韓国の空間が私にはめまいのするほかない理由でもある。

(これは11月4日にハフポスト韓国版に掲載した韓国語の寄稿文を自ら訳したものである)

Source: http://www.huffingtonpost.jp/park-yuha/girl-statue_a_23271549/

[裁判関連] 刑事訴訟 公判記4

[裁判関連] 刑事訴訟 公判記4

11月8日に4回目の公判があった。今回は私と弁護人が提出した書証(主張の根拠を表す資料)を説明する番だった。しかし時間が充分ではなく、5月に提出した43の証拠資料についての説明しかできなかった。ひとつの文書の中でいくつかの資料を示した場合もひとつにまとめたため、実際にはさらに多い。結局参考資料として提出した150あまりの文書については個別に説明できなかった。ペ・チュニさんと交わした会話の映像と起こしたものも参考資料として提出した。

私の本が虚偽ではないことを主張するには協力や自発性自体を主張しなければならなかったため、今回の公判は特に気が重かった。私の本はそうしたことを強調するためのものではなかったからだ。法廷でのやりとりは本の趣旨を狭める行為だった。もちろんそれは私が始めたことではない。

私は、朝鮮人慰安婦問題をめぐる状況を理解しやすいように、資料を時代順に準備した。
日本人慰安婦の資料を最初に持ってきたのはそのためである。そして30年代の人身売買をめぐる状況、40年代の総力戦体制の中で「愛国」の構造が作られていく状況に関する資料をおいた。同時代の軍人や慰安所管理人など周辺の人たち、そして周辺人を尋問した米軍の資料。そして戦後(解放後)の資料と「問題」化された90年代以降の資料をおき、最後に学者たちの意見を追加した。

時間が不十分で裁判所で言えなかったことも、簡単ながら括弧の中に「補足」と記して追加しておいた。

弁護人:貧しい女性が売春業に従事したという事実がクマラスワミ報告書、ICJ勧告書にも出てくる。クマラスワミ報告書には村長が工場の働き口を約束し、また家が貧しくて受け入れたという話が出てくるし、ICJ勧告書でも慰安婦のほとんどは「貧しい小作農家出身」だとしている。また、千田夏光の本では日本軍慰安婦問題が呈する植民地支配問題、家父長制の問題を正確に見ることができないと原告側の告訴補充書に書かれているが、このような問題を指摘したのはまさに被告人だ。その意味では告訴補充書の内容と被告人の『帝国の慰安婦』の内容に大差はない。近代公娼制のもとで形づくられた女性の人身売買メカニズムと農村経済の疲弊から始まった貧困な社会が「慰安婦」動員の背景になったのだ。

それなのになぜ「慰安婦は自発的に行った」と被告人が話したと主張できるのか?検事の論旨ならば慰安婦と「売春」を連係させて言及したクマラスワミはもちろん、政府委員会報告書の作成者、原告側代理人さえこの場に立たなければならない。

検事:『帝国の慰安婦』にはそのように書かれている。

弁護人:起訴内容12番にある「強姦的売春、売春的強姦」の意味は「慰安」とは、売春と強姦の両方が含まれるということだ。クマラスワミ報告書にも「対価として金を受け取ったり、金の代わりに伝票を受けとったりした。戦争が突然終わって自分や家族の食いぶちを稼ぐという希望も意味がなくなってしまった」という慰安婦の証言が引用されている。マクドゥーガル報告書には「性的奴隷には強制売春のほとんどすべての形が含まれる」と書かれている。そして強制売春についても「名誉と尊厳を深く傷つける行為」だと認めた。「戦争法に違反した強制売春、強制強姦」などの表現が出てくる。

また、検察が証拠資料として提出した政府刊行証言集『聞こえますか? 12人の少女の話』にも収益に関する部分が明確に出てくる。ICJ報告書には最初から料金表まで出ている。

裁判官:整理すると弁護人の主張は、『帝国の慰安婦』に出てくる売春、強姦の混用表現がこの本だけではなく、クマラスワミ、マクドゥーガルなどさまざまな国際報告書にも出てくるというものだ。

検事:この本には「慰安婦を否定する人々は慰安婦を売春とだけ考え、私たちは強姦とだけ考えた。しかしそのふたつの要素の両方が含まれていた」という文章が記されている。慰安は売春と強姦のふたつの要素を含んでいるということだ。「慰安」にどんな売春的要素が含まれていたというのか。

弁護人:日本軍は慰安婦を管理売春の形で運営した。その指摘が誤ったものだという話か?

検事:日本軍が体系的な料金・労働時間を策定して慰安婦制度を初めから徹底的に計画・管理していた。弁護人が言った報告書の趣旨は、むしろそれだけ体系的に管理して反人道的な罪を犯したという趣旨に理解される。報告書は売春として認知したという趣旨のものではない。

裁判官:いずれにせよマクドゥーガル報告書にも強制売春という表現が出てくるのではないのか?

検事:慰安婦になったのは自発的なのでなく本人意思に反して、詐欺や誘引という方法によるものだった。これが中心にある。ところがこの本はその事実を否定している。この本で売春も慰安のふたつの要素の中のひとつと書いたのは、慰安は売春であり自発性に基づいたものだという意味だ。これが問題だということだ。

弁護人:被告人が慰安婦の性的奴隷性を否定したということか?しかし被告人は本にこのように書いている。「もちろん慰安婦は自分の体の主ではなかったという点で性的奴隷であることに間違いはない。植民地になった国の民として、日本国民の動員や募集を構造的に拒否できなかった。精神的な自由や権利を奪われたという点では明らかに奴隷だった。彼女たちが総体的な被害者だったことは間違いない」。被告人は性的奴隷性を否定していない。

検事:慰安婦は自発的に行ったのではない。本人の意思に反して行ったものだ。ところで被告人が言う性的奴隷というのは慰安所での生活を指すものだ。私が言う性的奴隷とは本質的に違う。むりやり連れてこられたという話がこの本のどこにあるか?296ページを見てみよう。「自発的売春婦という記憶を否定」。それは私たちが熱心に否定してきたということではないのか?

弁護人:「根本的に売春という枠組みの中にあったとのことを知っていたのだ」という部分も起訴対象になったが、この部分はクマラスワミ報告に対して言及しただけだ。女性たちが騙されて性的奴隷になったということだ。

性的奴隷性を主張したいのなら検察の主張と結局違わない。

起訴された30番を見てみよう。「朝鮮人慰安婦とは、このようにして朝鮮や中国の女性たちが日本の公娼制度に組み入れられたものだ」。この部分も他の学者の言葉を引用した部分なのに起訴された。韓国政府傘下の委員会報告書や発刊書でも、公娼制に組み入れられたという形で、同じ趣旨で説明している。

検事:ならば慰安婦制度は合法か?違う、違法だ。それなのに今このように同じように扱っていたから、名誉を傷つけたと主張している。

裁判官:当時、日本帝国下で公娼は合法だったとわかっている。慰安婦の場合はどうなのか?

検事:当時の国際法上違法だ。(裁判官:では日本の法律上は?)

多くの学者が、日本で未成年者の売春は法律で禁じており、慰安婦には未成年者が多かったため違法だと考えている。

裁判官:慰安婦が違法な制度ということは被告も検事も認めている部分だ。検察は、慰安婦は合法制度ではないのにその制度に慰安婦を組み入れたとの主張だ。

弁護人:合法か違法かがなぜ問題になるのか理解できない。本には「自発的な売春婦というイメージを私たちが否定してきたことは、やはりそのような欲望の記憶と無関係ではない」と書いてある。しかしクマラワスミ報告書を見ると、(1)すでに売春婦であり自発的に仕事をしようと思う女性や少女、(2)食堂や軍人のために料理や洗濯をして高い報酬がもらえる働き口を提供するという術策に騙されて来た女性たち、(3)大規模な強制的・暴力的女性拉致、このように多くのいきさつがあったと書かれている。

慰安婦のイメージを否定してきたという文章はいろいろに解釈できる。何よりこの部分は明らかな引用だ。「彼ら(日本の右翼)が主張する自発的な売春婦」というイメージ。そして私たちが自発的売春婦というイメージを否定してきたことははっきりした事実であるとも解釈することができる。このようにさまざまに解釈できる文章をひたすら「被告人が自発的売春婦だと主張した」ということこそ恣意的なものだ。このような形ならば、クマラスワミ、マクドゥーガル、告訴補充書、さらには各種委員会が発刊した冊子、慰安婦のかたの証言書、これらすべてから部分的に抜粋してあなたの趣旨は売春強調ではないかと言いながら名誉毀損の疑いをかけることができる。

検事:これが引用だという証拠があるのか? 脚注もない。引用したのならば、どこから引用したのか書かなければならない。そしてこの本にはそのように書かれていないが、他の引用には括弧の中に文献名とページが書いている。検察の1人がこの本に問題があると言っているのではない。この本が出た後、多くの歴史学者や研究者が額を突き合わせて討論し出版された本があるが読んだのか?

朴裕河:この部分はまとめのところだ。つまり前に話した内容を振り返ったもので、以前の部分に出てくる「自発性の構造」という節の内容を反芻している。言ってみればその部分の内容を持ってきた部分だったため引用符を打った。文献引用は前の部分にある。
名誉毀損になるならば対象が特定されるべきだが、検察は声を上げた人の数が少なく特定されると言い、女性家族省にある資料に生存している慰安婦の方の名前が出ているとも言った。しかし、その中には偽名を使った方もいらっしゃる。支援団体が出した証言集も同じだ。つまり特定などされない。

韓国挺身隊問題対策協議会が一昨年だったかにソウル市の支援を受けて作った慰安婦問題関連の大学生イベントのポスターには「20万人の朝鮮の少女が連れていかれて、2万人あまりが虐殺され、二百数十人だけが帰ってきた」と書かれている。私は慰安婦の経験をした朝鮮人全体を対象に本を書いた。中でも特に感情移入したのは、戦地で亡くなった方々だった。生き残って声を上げた人だけが被害者であるわけではなく、支援団体の主張によれば20万人にもなるのに、本に書いた話が特定の誰かであるとどうして言えるのか。

昨年日本で『日本人「慰安婦」』という本が出た。サブタイトルは「愛国心と人身売買と」だ。編者は「戦争と女性への暴力」リサーチアクションセンターという、慰安婦問題解決のために永らく努力してきた支援団体だ。日本人慰安婦問題はこれまでとりあげられなかったが、遅ればせながら問題化され始めた。

重要なのは、サブタイトルにあるように慰安婦をめぐって「人身売買と愛国」の枠組みが中心だったという事実が認識され始めたという点だ。表紙には「『売春婦』なら被害者ではないのか?」とも書かれている。まさにこれが私の問題意識でもあった。検察は「売春婦」という言葉に非難を込めて言う。私の本でその単語は引用であるだけだが、何より検察が言うその意味での「売春婦」という言葉は使わなかった。

強制性に関しても、「公的では」なかったと書いた趣旨は、日本軍は慰安所を作って管理もしたが、拉致や術策まで使って連れてこさせたのは日本の公式方針ではなかったという意味だ。

現場に到着した時、幼すぎる子は業者に送り返させたという証言が存在している。よそに就職させたという資料もある。その場合、業者を処罰しなかったのが問題だと言う学者もいるが、業者に制裁を加えなかったと記されているわけでもなく、慰安婦の実質的雇い主は金を与えて買ってきた業者だったのだから、制裁にも限界がありえただろう。植民地や本土の誘拐現場を取り締まるのとは異なる状況と考えなければならない。

そして私はそのような黙認も含めて責任を問うた。私が強調したのは「日本軍による物理的強制連行」が決して慰安婦動員の中心となったのではないということだった。

検事:21才以下は中国などでの移動を許可しなかった。しかしそのような取り締まりは日本本土だけで適用され、植民地では違った。多くの学者がこの本を批判した。

朴裕河:通牒文が植民地で発見されていないからといって、存在しなかったという証拠はない。実際に植民地警察も誘拐などを取り締まっていた。そのような資料は強制性を主張する日本の学者も見ていない可能性が高い。私は25年前に慰安婦の方に会い、10年前に慰安婦問題について本を書いた。検事は短時間で猛勉強されたようだが、知らないことが相変らず多い。それなのに既存の研究や支援団体の話だけを信じるのはなぜなのか? 多くの学者がこの本を批判したと言うが、批判者のうちに慰安婦問題の研究者は少ない。つまり実際の資料に接した人たちではない。私のために証人になると言ってくれている歴史学者もいないわけではない。検察と、両方とも証人を採択しないことにしたのでお願いしなかっただけだ。

検事:被告人は「自発的な売春婦」の引用符が引用の印だと言ったが、その部分の引用符はシングルクォートだ。被告人は他の引用にはダブルクォートを使っていた。だから引用ではなく強調だ。

裁判官:シングルクォートは引用する時も強調する時も使う。検察は引用ではないと言い、被告は引用だという。見解の違いがあるのでこれは判断に任せる問題だろう。

弁護人:では証拠資料に対して説明する。まず証拠第1号、『マリヤの賛歌』。日本人慰安婦が書いた手記だ。日本人も人身売買の枠組みの中にあったことがわかるように提出した。「2,500円貸してもらい、それで神楽坂の借金を返して700円を父にあげて台湾に渡った」と書いてある。

もうひとつの資料は同じ本から抜粋したものだが、日本人女性も一日に何人もの軍人を相手にしたという事実がわかる。被告人が「慰安婦の苦痛は日本人の娼妓と異ならない」と書いた部分についての補足説明資料だ。「1人の女に10人も15人もたかるありさまは、まるで獣と獣との戦いでした」と書いてある。

検事:証拠第1号は日本人慰安婦についての内容であり、この事件の起訴内容とは関係ない。『マリヤの賛歌』が発刊されたのは1971年だ。91年8月の金学順さんの陳述後について書かれたのが『帝国の慰安婦』だ。起訴内容とは無関係だ。

判事:「日本人の娼妓」という起訴箇所に関係する部分であり、差し支えない。

弁護人:証拠2『赤い瓦の家』。日本軍慰安婦になった韓国人女性の話だ。植民地を船で離れる時、日本人女性が2人いたと記している。朝鮮半島に住んでいだ日本人女性も慰安婦になっていたことがわかるように提出した。植民地といっても「日本帝国」の国民になっている以上、軍人が強制的にひっぱていくことができる構造ではなかった。

検事:日本の売春婦は性病感染者が少なくなかった。だから朝鮮人女性がたくさん連れて行かれた。日本の娼妓の一部は金を稼ぐために自発的に慰安婦になった。
(補足:日本人女性でも貧しい家の少女が朝鮮に売られてくることもあった。彼女たちも慰安婦になった。そのような存在が見過ごされている。朝鮮人の少女ももちろん多かったが、結婚して子どもがいる女性もいた。植民地は純潔でなければならないという強迫観念が作った考えだ。当時、朝鮮社会は性病が蔓延して深刻な問題にもなった)

朝鮮人慰安婦と日本人慰安婦は待遇に差があり、直接差別されたりもしたが、家父長制下の貧しい女性だったため動員された構造は同じだった。

裁判官:被告人は避けられない状況でなければ発言しないように。弁論は原則的に弁護人がしなければならない。

弁護人:証拠第3号1、2、3は慰安婦動員が主に人身売買によって成りたち、後半には14才以上40才までの400万人が国家のための勤労奉仕隊などさまざまな名前で総動員されたことがわかる資料だ。この時、遊郭の娼妓まで愛国青年団に加入させられるなど、愛国を強要された。

職業紹介所が騙して送り出した情況、そんな職業紹介所を警察が取り締まった状況、許可を規制しようとする状況などがわかる。植民地の日本人女性も一緒にしたし、「病院船」で仕事をしなければならなかった状況も出てくる。

3-3は、当時の人々が「満州」を夢の地と考えて移住しようとしたことがわかる資料だ。そのような枠組みの中で業者が人身売買などによって女性を集めて連れていった。もちろん依頼を受けた場合もあるが、受ける前から動いていた人々もいる。

当時も詐欺などによる人身売買は処罰された。被告人は戦争を起こして植民地の貧しい女性たちが戦地に動員されたことが植民地化の結果だと考え、そのような情況も構造的強制性だとした。業者への処罰が必要だとしたのは、当時も詐欺による人身売買は違法であり処罰されたからだ。軍の介入自体は充分に述べた。

第4号はペ・チュニさんの映像だ。エプロン(割烹着)をつけて軍人のために千人針を縫ってもらいなどしたことを話し、慰安婦は「軍人を世話する存在」とも言った。

第5号の『聞こえますか?』にも、同じように物理的拉致の主体が日本軍ではなく誘拐犯だという事実が多く記されている。両親のためにこっそり慰安婦になったり、紹介業者を通じてなったりしたケースも多い。紹介所が洗濯婦だと嘘をついた場合もある。

検事:人身売買で来ても黙認した場合が多かった。

裁判官:日本軍が人身売買であるとわかっていて黙認したのか、それとも知らなかったがとにかく慰安婦が必要だったから引き受けたのか?

弁護人:『帝国の慰安婦』には、日本軍は黙認していたしその責任を負わなければならないと記されている。

裁判官:結局、憲兵が来て直接捕まえて行ったのではないから物理的強制性はなく、黙認したことについては責任があると主張したと考えればいいのか?(被告人を見る)

朴裕河:そうだ。しかし、部隊ごとにその処遇には違いがあり、さまざまなケースがあったと考える。軍が管理したというのは、業者を通じて部隊に来た時に業者が契約書を両親から受け取ったのかを確認するのが原則であったという話だ。騙されたと泣く場合は他の所に就職させたり、幼すぎれば送り返したりした場合もあるが、だからといってすべての部隊がそのようなケースで送り返したはいえない。公式的な規律では業者に契約書を確認させた事実があることをいえるだけだ。

裁判官:20万人の慰安婦がいる。8万なのか20万なのかわからないが、その場合は原則通りにしなかったケースだが、原則が守られなかったケースの方が多いのか確認されているのか?

朴裕河:それは確認しえない。

弁護人:『奪われた青春、戻ってこない魂』という証言集には「3~40代に見える男が来て、お腹いっぱいなれるし良い靴もくれる所を教えてあげるからついて来いと言った」と書いてある。行ってみると旅館に農民の娘が14~15人いたという。何のためにどこに連れて行かれるのかもわからずに。錠前がかかっていて逃げられもせず。現場に到着するとカーキ色の軍服を来てゲートルを巻いた3人の日本軍人が待っており、中国の上海駅に行ったなどの話がある。経済的に厳しい農民の娘を対象に慰安婦が集められていたことがわかる。

検事:この話はむしろ強制的に慰安婦が集められ、軍人が募集過程に加担していたと考えなければならない。強制動員、強制連行の主体は日本軍だ。それが歴史的事実だ。しかしこの事件図書には強制動員、連行の主体が決して日本軍でないと叙述されている。

弁護人:物理的主体が日本軍だということか?

検事:物理的、構造的主体すべて日本軍だ。

裁判官:起訴内容を見ると、日本軍や国家が強制連行を指示したと考える証拠はないという立場だ。業者がどのように連れてこようが、これを黙認したことに対する責任はあっても…日本国が強制連行と言って連れてきたという証拠がないというのだから。

弁護人:第7号の1-3。以下は『強制的に連行された日本軍慰安婦』という韓国挺身隊問題対策協議会が作った証言集だ。慰安婦が国防婦人会に加入して協力を強要された状況が出てくる。たすきをかけて帽子をかぶり兵士を見送ったり訓練を受けたりした。皇国臣民の誓詞を覚えなければならず、君が代を歌い防空演習や看護活動もした。「中に入って階級の高い人に会った。朝鮮に行きたいと言った。看護婦が足りないから行くかと聞かれた。看護婦は3階で寝た」。性労働以外の戦争協力を強要されたという話で、強要された愛国、強要された協力についての証言資料だ。

検事:この証言集に朝鮮に送ったと出てくる。しかしその前に新しい朝鮮人女性が補充されてきたという内容がある。

動員では日本人が連れていった場合も多い。9-3には銃剣を突きつけて聞き取れない日本語を叫びむりやりトラックに乗せられ連れていかれたと出てくる。これは直接的にむりやり連行されたということだ。(呂福実のケース)

弁護人:被告人は本に「軍人や憲兵に連れて行かれた場合もある」と明示した。ただしその場合は個人的逸脱と考えなければならないとしただけだ。

朴裕河:現在の学界の理解では、占領地では強制連行もありえるが植民地ではそのような理由がないというのが中心だ。学界や関係者ならばみな知っている話が一般人に知られていなかっただけだ。私がした話は、日本軍が募集と管理はしたが手段や方法を選ばず連れてこいとは言わなかったという意味だ。もちろん軍人が強制的に連れていったケースを完全に排除はできないが、その場合は個人的逸脱としなければならない。植民地といっても表面的には国民のひとりであり、強制的に連行するのは違法だからだ。軍人だと話す場合は証言の中ではむしろ少数で、その場合も軍服を着た業者だった可能性が高いと考える。

(補足-もちろん本当に軍人が一緒に来ることもあるがその場合、むしろ形式的にはより志願の形が目立つような情況が『女の兵器』に見られる。それがまさに植民地統治の方式だ)

裁判官:業者が軍服を着ていたかもしれない。個人の逸脱であることもある。業者が軍服を着ていたという資料はあるか?

朴裕河:業者が軍服を着ていたとみられる資料がある。今後提出する。

(補足:7-4では慰問団に参加した女性の証言が出てくる。それによると慰問団には日本人女性もいた。この証言も朝鮮半島での強制連行が常識的にはありえなかったという証拠だ。

8号証は料金表などの慰安所の規則だ。負傷兵の世話をし、洗濯をし、戦場に見送った話が出てきて、入院した慰安婦を軍人が見舞いに来た話もある。9-1では慰安婦生活の後軍需工場を営んだ女性の話も出てくるが、慰安所での行為を利敵行為と思い、そこでの経験は話さなかったという。9-2には、朝鮮から出て行った日本人女性の話があり、9-3、4にも慰安所での、これまでの常識とは異なる状況が記されている)

弁護人:10号証「強制連行された朝鮮人軍慰安婦ら4」には「国のために行った」という証言が出ている。だから補償しなければならないと。「朝鮮が貧しくて出稼ぎに」行かなければならなかったという話も出てくる。

検事:「国のために」という言葉は日本帝国のために、という意味ではない。当時は(朝鮮人にとって)国なんてなかったのだから。

弁護人:11号証と同様の証言集5冊だ。慰安所の状況を知ることができる。

検事:証言集はむしろ分かりやすくまとめられている。これまでの研究によると軍慰安所はその形態によって軍直営営慰安所、軍専用の慰安所、一般の慰安所のうち軍も利用する慰安所三つに分けられる。軍直営の慰安所、形式上は民間業者が経営しているが軍が管理・統制を担う慰安所、第三は軍が指定した慰安所だ。この吉見義明教授の定義は非常に適切だ。形式上は民間業者が経営しているが、軍が管理・統制する軍人軍属専用の慰安所だった。

(補足:12号『海南島に連行された朝鮮人の性奴隷に対する真相調査』は韓国政府傘下の委員会が作ったもので、日本軍にいた朝鮮人の証言が収録されている。朝鮮人慰安婦が軍人たちより年上だったため「お姉さん」と呼んでいたという話が出てくる。ほとんどが日本人女性だったことや日本人女性の方が朝鮮人女性より若かったなどといった話も出てくる。このような話はごく一部だろうが、かといって無視すべき理由はない。場所や時期によって数多くのいろいろなケースがあったと考えねばならない。

13号証は『日本軍慰安所の管理人の日記』という本だ。慰安所経営に慰安婦の「酌婦許可書」、「就業許可書」、「廃業許可書」が必要で、その書類を軍に提出しなければならなかったということが分かる。慰安所の業者らは共に組合を作ったり、慰安婦に代わって朝鮮に送金したりもした。

慰安婦には移動の自由があり「女性青年隊」として応急処置法を学ぶなど、協力を強要した話も出てくる。)

弁護人:14号証は日本軍にいた朝鮮人が書いた本だ。慰安所に関する内容で翻訳した部分を見ると、慰安所の名前が「愛国奉仕館」だった。日本軍が慰安所の役割を軍人の戦闘力向上を促すものと捉え「愛国」いう名前をつけた、という証拠だ。

15号証は日本植民地時代の作家崔明翊が書いた「張三李四」という短編だ。小説だが、朝鮮人の業者が自主的に日本軍を追って慰安所を運営していたことがわかる。「従軍」したのはむしろ業者の方だった。

検事:「愛国」は起訴内容の一つだ。慰安婦とは愛国心のある同志的関係だった、国のために喜んで行った、たすきをかけた。このように書かれているが、これはすべて朝鮮人についてではなく日本人慰安婦の内面を書いたものだ。この本では何の根拠もなく日本人慰安婦が朝鮮人慰安婦と同じレベルで描かれている。慰安婦たちは自身をつまらない存在だと認識していたが、国家のために奉仕するという自負心を持つようになったという話だ。この本では何の根拠もないが日本人も韓国人も慰安婦は同等で同志的関係だったとしている。

弁護人:本のその部分が日本人慰安婦についての記述であったことは被告人自身が本に明示している。しかしそれ以前の部分で、朝鮮人慰安婦が洗濯し看護したという証言を引用しており、「朝鮮人慰安婦も基本的な待遇は同じであったとしなければならない。そうでなければ敗戦前後の慰安婦が負傷兵の看護をして洗濯、縫い物をしていた背景を理解することができない。朝鮮人慰安婦たちもサユリなどと呼ばれた。『日本人』の代わりになる仕事…」この部分は朝鮮人慰安婦に与えられた役割が日本の慰安婦と同じであったということを表している。しかし同時に「『偽りの愛国』と『慰安』に没頭することが彼女たちにできたたった一つの選択だった」と書いたのだ。

構造的には日本人慰安婦と同じ境遇に置かれていたが、日本人慰安婦とは違ったことについてもはっきりと話している。

(補足:16号は、国防婦人会についての本だ。慰安婦たちがなぜ割烹着を着てたすきをかけて、「愛国」的な行動をしなければならなかったのかを知ることができる資料だ。いわゆる娼妓たちも「我々も日本の女」、「国のために」と、このような動員に積極的に参加するよう仕向けたのは社会の売春に対する差別だった。朝鮮人慰安婦もその枠組みに組み込まれたのだ。

17号は、同時代の慰安婦募集広告だ。紹介所が18歳から30歳の女性を募集したことが見て取れる。新聞にこのような広告が出たということは慰安婦という存在が公的な存在だったということを物語っている。しかし、仕事内容を明示しておらず、このような点が詐欺的な募集を可能にしたのだろう)

弁護人:証18号は慰安所の入り口写真だが、「身も心も捧げる日本女性のサービス」と入口に書いてある。別の写真には、慰安所の名前が「故郷」、「愛国食堂」とある。これは慰安所に課された役割が身体的、精神的な慰めであったことを語っている。故郷に対する郷愁を紛らわすために。

検事:朝鮮人慰安婦は、同志的関係ではなかったのに同志的関係であったと虚偽の事実を表現したとして起訴したのだ。

弁護人:被告人は朝鮮人慰安婦を自発的な同志関係とはしなかった。19号証は当時、日本軍人が慰安婦は「軍属」だったと書いた資料だ。

検事:それは慰安婦に関する日本軍の認識ではないか。起訴内容とは関連がない。

弁護人:20号証だ。『女の兵器』という朝鮮人慰安婦の手記だ。集められ強姦されて泣くことになるが、後に国防婦人会に加入してうれしかったとし、愛国奉仕団の一員となった自分は一般娼妓とは異なる存在と自分のことを認識してえいる。そんなふうに変わっていったケースもある。どうにかして生きていくためであったろう。

(補足:この資料はおそらく書き手が男性ではないかと思われ、出すべきかどうか躊躇したが、村にやってきて「愛国」を掲げて募集する様子と、少女が変わっていく様子が書かれていることにおいて排除できないと考えて使った。もちろん、すべての口述や評伝に聞き手や書き手の視点が入るのは言うまでもなく、重要なのは資料との距離のとり方である)

21号証は日本人慰安婦のケースだが、多くの兵士を相手にしたことによる苦痛が書かれている。

22号証は日本軍の軍医が書いた「漢口慰安所」。ケイコ(朝鮮人慰安婦)を司令官が表彰したという内容もある。軍人が業者の搾取から慰安婦を保護しようとした内容も見られる。この本に出てくる慰安所の名前も「平和館」だ。慰安婦が上官の奥さん扱いを受けた話も出ている。

前述した、詐欺にあって慰安所へ来た後、他の所で働かさせてもらうことになった話はこの資料に出ている。

23号は今年6月に毎日新聞に掲載された資料の原本と翻訳だ。米軍捕虜を尋問した資料で、朝鮮人が証言した部分だ。捕虜たちに日本の植民地統治全般に対する考えを聞いた資料だが、慰安婦について語った内容が出ている。彼らは「韓国売春女性は全員志願者であったか、または親によって売春業者に売られてきた女性たちだった。日本人による強制的徴発があったなら男らが激しく抵抗したはず」と話したと書かれている。

検事:この報告書には軍属と書かれてある。(補足:Civilianとしか書かれていない)民間人イ・バクド、ぺク・スンギュ、カン・キナムといった感じで。慰安所を経営した業者と推定される。そのためこのように言うしかなかったものとみられる。なぜなら慰安所に集めてくることに協力した者は処罰対象になるためだ。当然、志願者と言うほかない。自分が強制的に連れてきたのではなく、自ら来たことにしようとこんなに証言をしたのだ。したがってこの証言は信憑性が低く、慰安婦の自発性を裏付ける供述と見ることはできない。

弁護人:検事の推測だけでこの資料に信憑性がないとは言えない。

裁判官:捕虜たちが述べた内容に信憑性があるかどうか。これは注視しなければならない。

弁護人:24号証は1970年8月14日付のソウル新聞の記事だ。「花柳界の女性を動員していた日本帝国は、次第に人数が不足すると一般の娘まで召集した」との記述がある。

25号は千田夏光のインタビューの内容だ。「一種の売春婦だった」としながら「彼女たち自身が国のためだと信じていた」と話している。「従軍慰安婦」という本にも同じ認識が書かれている。

検事:『従軍慰安婦』という本には、日本人慰安婦には「祖国のために」「軍人のために」という意識があり、自分の行為を愛国心という装飾物で飾った。しかし朝鮮人慰安婦は強制連行され働いていた女性たちだ。朝鮮人慰安婦と日本人慰安婦は異なる。なのにこの『帝国の慰安婦』では日本人と朝鮮人を同等に見ており、同志的関係にあったとしている。

裁判官:強制連行とは、構造的な強制性だという話がなかったときのことではないのか。物理的な強制性のことだから。

弁護人:強制であったとしても業者によるものか、軍によるものかを区別しなければならない。(同意する)

27号は韓国政府報告書だ。韓国外交省の挺身隊問題実務対策チームが1992年7月に発表したものだ。

ここでも軍が慰安所を直接経営していたというよりは、経営は売春業者に任せ、軍は委託管理などを行っていたという認識になっている。募集方法も1938年までは都市地域の女工から募集、飲食店従業員などを人身売買の手法で募集しており、38年から40年までは貧困農民の娘から募ったと書かれている。

慰安婦には収入があり業者と収入を分配していたことなど、管理売春形態であったことが政府にも分かっていた。

検事:この報告書は、日本軍が目的や軍隊のために売春をし、軍隊が直接全面的に介入し徹底的に管理できるようにしていたことを物語っている。慰安所は軍隊に従属した集団だった。売春業という単語だけで韓国政府も売春業と認識していたことを立証のための証拠として提示しているが、韓国政府は慰安婦を売春業と認識してはいない。報告書には、日本軍の視点から見た場合、慰安所は軍隊による強姦予防や性病予防のため、そのために売春業に軍隊が介入し徹底的に管理できるようにしたという内容がある。此の頃は慰安婦研究の出発点であり、そのためタイトルも中間報告書になっている。韓国政府は慰安婦を売春と認識したことはない。

弁護人:当時、韓国政府は慰安婦を管理売春と認識していた。それに基づいて河野談話も作成された。

28号証4は軍の指示文である。この部分は「精神的な慰め」について書かれている。「現在特殊慰安所は慰安婦の数が少なく、ただ情欲を満たすためのものにすぎない。そのためもっと慰安婦の数を増やして精神的な慰安も与えられるよう指導するように」と。身体的な性欲だけでなく精神的な慰めも与えられるようにすることが慰安婦の役割だったという、慰安婦が強要された役割であった証拠資料として提出する。

検事:むしろ計画的に慰安婦は運営されていたということが分かる。資料29号から33号(「従軍慰安婦関係資料集成」)はアジア女性基金が発行した資料だ。

(補足:この資料には契約書、営業許可書、就職許可書が含まれる。許可制にしたのは、未成年を雇用したり詐欺などで連れて来られたりすることがないようにするためだった。

軍人が暴行することもたくさんあったが憲兵による取り締まるもあった。言うならば、暴行はあったが公的に認められていたことはないという話だ。遊郭を慰安所に指定していた様子も出てくる。軍属に制服を着用させていた様子も確認できる。軍属扱いを受けた業者にも軍服が支給されたため慰安婦が軍人と勘違いした可能性もある。慰安婦は最初は同郷の人が集められた。その方が精神的な慰めにはより都合がよいと期待したのだ。慰安団のうちに日本人が90人いたという話も出ている)

弁護人:次は慰安婦問題解決案研究としての『女性家族省の用役報告書』。日帝強占下強制動員被害真相究明委員会が出した報告書だ。研究責任者は、ミンディー・カトラー(アジア政策研究所)だ。カトラー氏は米国下院の決議を引き出すことに貢献した人だが、慰安婦の募集は人身売買を通して行われたものと見ている。

検事:人身売買での売買主体は対象者ではなく「対象者を強制的または騙して連れてきた者と、その者から対象者を買う者」だ。対象者が自発的に自分の体を売るということは決してない。

弁護人:これは単純な強制連行ではなく親に売られた等の形であったことを証明する資料だ。

検事:では、親は慰安婦になると知っていて子供を売ったのだろうか。人身売買の対象としてもそのひとがどのような仕事をするのか知った上で売ったというのか?

弁護人:『帝国の慰安婦』によれば、騙されて連れてこられた場合も自ら行った場合もあるという。

36号証は2015年にアメリカの日本(歴史)学者たちが発表した声明書だ。2015年、元慰安婦たちの側に立って作られた報告書だ。性的暴力と人身売買のない世界を作るため、アジアの平和と友好を深めるためには、過去の過ちを清算しなければならないと言う。それでも慰安婦問題は人身売買と認識している。

検事:慰安婦は軍隊による組織的管理が行われたという点で、そして日本の植民地や占領地で貧しく弱い女性たちを搾取したという点で問題だ。女性の移送と慰安所の管理に日本軍が関与していたことを証明する資料が多数発見された。被害者らの証言にも重要な証拠が含まれている。証言に違いがみられることもあるが全体として控訴力のある公文書で立証されている。証拠も存在せず、証言は一貫性のないように見えるが、全体的な証言は明らかに一つのことを指している。

弁護人:被告人はその部分について意見が変わらない。慰安婦と公娼制度に関する学者の研究も多い。一部を読み上げる。「廃業届には廃業申告書を提出しなければならないが、申告書にはオーナー業者が連名捺印をするようになっていた。業者らが自らの利益に反して娼妓の自発的廃業を認めるはずがない」「軍人の性欲処理と性病予防のために公娼を設置した」…等。

検事:証拠38号から41号は起訴内容と何の関係があるのか。慰安婦と公娼制との関係とはどんな関係があるのか?

弁護人:慰安婦は公娼制度に編入されたとここに記載されている。だから名誉毀損ではないという証拠の提出だ。

検事:慰安婦を集めた場所は日本内地だ。軍ではどうしても直接手を出せないことであったため思いついたのが慰安所だ。軍属となっているが正式な軍所属ではなく、内部で「御用商人」のような存在を利用した。

弁護人:引用した部分は、必要性があり引用しただけだ。同志的関係という枠組みの中で商品扱いを受けたと明らかに述べられており、文字通りオランダ人、中国人慰安婦などの戦争相手国の女性たちと比較する目的で使用しているだけだ。

検事:参考資料として出された聯合ニュースの資料を読んでみたい。挺対協の提案が2015年4月23日掲載された。軍慰安婦問題解決市民団体と金福童が23日、東京で提示した案だ…(省略)被告人は責任を認めたというが法的責任ではない。いったい何の責任を認めたというのか。

弁護人:そんなことをなぜここで問題視しなければならないのか。だが、挺対協も法的責任に関するハードルを下げたと表現している。法的責任を要求事項にはっきりと含めなかったのだ。

裁判官:日本に法的責任があるか否かというのは、本裁判の争点とは関係がない。

朴裕河:簡単に補充する。

1)日本人慰安婦と朝鮮人慰安婦を私が同じ扱いをしたとしているが、違いについても書いた。日本人慰安婦は将校を相手することが多く相手が将校の場合、将校の人数は少ないため環境や立場がより楽だった。ただ朝鮮人慰安婦も将校の相手をした場合がなくはなかった。

朝鮮人慰安婦の中で日本人のように行動した者がいたのはむしろ二重の差別があるためだ。日本人娼婦さえ、一般女性と「同じ日本人女性」の扱いを受けるべく、国防婦人会に積極的に参加し軍人を見送ったりしながら士気を高めるていた。

2)朝鮮半島でも日本人女性たちが慰安婦になった。慰安団にも混ざっていた。朝鮮半島で日本人女性が慰安婦になるのに朝鮮人女性だけを別に強制連行するとは常識的に考えられない。当時、突然連行されたのは主に反体制思想犯だった。占領地と植民地の違いを考慮しなければならない。

検事は、安秉直教授が「慰安団」募集は強制だったと話したとしたが、その中に日本人女性も多かったという事実を見過ごした結果の認識と考える。彼女たちも一日に数十人の相手をすることもあり、程度の差はあるだろうが女性として動員され受けた苦痛の質は同じだ。

3)軍服の支給についての指摘では、慰安所に出入りするときのみと検事は言ったが、業者が慰安婦を集めに朝鮮半島へ来たときも軍服を着ていたと考えられる資料がある。追加提出する。

4)慰安所に行くことを知りながら娘を故意に売った親がいるだろうかと言っていたが、そのような親も少なくなかった。ただし養女である場合も多かった。貧しさから制度の犠牲になったケースが多いと思われる。

『中国に連れて行かれた慰安婦2』の一部を読んでみたい。

「その時十何歳だっただろうね。ああ、十六歳になった頃だと思うよ。飲み屋にも、2年くらいいたからね。祖母、祖父の判子までもらってこいといわれたよ。祖母、祖父まで印鑑を押してくれるはずがないでしょう。そこでね、父は私の話なら信じてくれていたので父の手をひっぱって川べりへ出て事情を話したんだ。『父さん、セクシ(商売女)を買いに来た人がいたの。いくらくれると言うんだけど、私、遠いところにお金を稼ぎに行く』『おい、何言ってるんだ。?私はお前がいてくれることだけを楽しみに生きているのだから。だめだ』『だめなことなんてないよ。お父さんが良い暮らしをするのを見てから死にたい。父さんにはただお金を満足に使って、ただ食べたいものを食べてもらいたい。私ひとりくらいいないものと思って、父さん、私を紹介してちょうだい。ほかに方法がない。水商売のところに2年もいたのだから。、私、もう村にいたくないよ』『どうしてもそうなら、紹介してあげるよ』『そうよ。母さん、父さんの名前を書いて判子を押して』『お婆さんお爺さんの判子も全部押すのだそうよ。どうしよう?父さん』『それじゃあ私が書こう』父が書いて、祖母と祖父の判子を押して、あとから皆の同意をもらった。それを持って博川へ行ったの。到着してから様子を見ては、父さんは『(ほかの人ではない)あなたに娘を売ったのだから、別のところにまた売ちゃだめですよ』そのような約束を(買い手と)したんだ」。

こうしたケースは少なくない。家族のために自分を犠牲にした人たち。

裁判官:重要な資料のようだ。どうして提出しなかった?提出しなさい。

朴裕河:検事の叱責を聞いて、提出の必要性を改めて悟ったためだ。似たような資料は多い。

5)許可申請書は業者側の書類だと検事は言うが、「酌婦」(当時は慰安婦を「酌婦」とも呼んだ)としての本人の許可願も必要だった。また、千田夏光を引用したことを検事は否定的に言うが、千田を本の冒頭に引用したのは「愛国」の枠組みでこの問題を見た者が、私の知る限りセンダしかいなかったためだ。私も10年前、同じ認識を持ち本にも書いたが、その時は本を読んでおらず、後になって知ったため、先立つ認識への礼として引用した。

6)検事は慰安婦が軍属であっても性奴隷だ、と言う。ところが日本の国会での議論について書いた文書を見ると、日本の従軍慰安婦が戦闘者として認識されていたことが分かる。手榴弾を運んだり、洗濯したりしたことについてだ。補償策を作らねばならないという議論があった。後に提出する。

7)18号の連合軍資料は信憑性がないと言っているが、その発言の前後は、日帝の過酷さについて話している。だからその部分だけを検事が願ったニュアンスではなかったという理由で、信憑性がないとする理由はない。しかも、三人の証言者のうち一人の個人調書があるが、その人は炭鉱夫だった。検事が推測する「責任を回避するために嘘をつく業者」ではない。全体的に日本の過酷さを強調しているのに慰安婦関連事項だけを異なる姿勢で話しているとか考えるべき根拠はない。後に提出する。

8)アメリカの歴史学者たちも慰安婦問題に関して私と似たような認識を表した。2015年5月のことだ。私が削除版<帝国の慰安婦>に声明を入れた理由でもある。長い間、慰安婦問題に対してもっとも良心的に報道してきた朝日新聞が2014年8月に奴隷狩りをしたという吉田清治の証言を検証し、虚偽という結論を下した。しかし、韓国ではこのニュースはその趣旨が報道されなかった。

9)「同志的関係」についてもう一度説明しよう。まずは形態的な意味だ。韓国が日本帝国に占領されたため、「日本人」として動員したという意味だ。そんな話をしたのは慰安婦について少女たちをむりやり連れて行き軍人たちが強姦したという認識だけが広く普及されてきたからだ。植民地統治下での国民動員の一種とみるべきだ。そうした時、実際どれほど自らすすんでの行為だったかの判断は極めて難しい問題だ。

そうした状況の中で軍人と慰安婦が社会の最下層の者同士や、故郷を遠く離れた者同士などが、心を通わすこともあった。形態的枠組みは民族的関係だが、実際の関係は男女関係や階級的な関係だ。民族関係としての同志的関係ではないかと恐れ、否定する理由はない。

そのような状況を知ることの出来る資料をもう一つ読んでみたい。『ビルマ戦線、日本軍慰安婦文玉珠』という本だ。亡くなった方だ。

「私は軍人たちの機嫌を損なわないように、楽しんでもらえるようにできるだけ努めた。兵士たちの家族やふるさとの話を聞き、一緒に日本の歌を歌った」「所帯持ちの兵隊たちもかわいそうだった。いつも妻や子供のことを思い出しているようだった。泣きながらこんな歌を歌う人もいた。戦地の軍人たちの思いとわたしたちの思いとは同じだった。ここにきたからには、妻も子も命も捨てて天皇陛下のために働かなければならない、と。わたしはその人たちの心持がわかるから、、一生懸命に慰めて、それをまぎらしてあげるような話をしたものだった」

文さんは好きだった軍人もいたが、戦争が終わると彼は日本に行こうと言われ自分は朝鮮に行かなければならないと言ったところ、その軍人は「それなら自分が朝鮮にいこう。ヨシコが日本人になってもいいし、自分が朝鮮人になってもいい」と言ったと話した。また「一週間に一度ヤマダイチロウがくるのが生きがいになって、わたしは慰安婦の生活に耐えられるようになった」と。

「その刀は、天皇陛下からもらったものじゃないか。敵に向かって抜くべきものを、はるばるこんな遠くまであんたたちを慰安にきている私に向かって、朝鮮ピ―、朝鮮ピーといってばかにして。わたしたち朝鮮人は日本人じゃないか。」

「世の中というものは、ひっくり返ることがあるのだ。ある日突然立場が逆転すると、こんなふうに人間の関係も変わってしまう。それがわたしには悲しかった。それまで『日本は世界でいちばん強いのだ。日本人はいちばん上等ななのだ』といっていた軍人たちが、国が負けたら小さくなってしまっている。情けなかろうとまた泣けてきた。
その時のわたしは、まだ日本人の心をもっていたのかもしれない」

「私はタテ八四〇〇部隊の軍属だった」

裁判官:その2冊の本を証拠として提出するように。次は被告人尋問を2~3時間行う。資料は次の期日まで受け付ける。最終弁論は3週間ほど後、最終弁論をして結審したらどうだろうか。11月29日午後2時に変えてはどうだろうか。3週間後の12月20日火曜日に結審公判をすることにしよう。

(6)「20億ウォン懐柔説」について

「20億ウォン懐柔説」について

 

慰安婦、もう一つの考え「敵は100万、味方は自分ただひとり」から続く)

12月18日の電話内容を纏めながら省略した部分がある。ナヌムの家のハルモニたちがアメリカで訴訟を準備中で、その裁判で日本に請求する金額が20億ウォンになるだろうというところだ。ぺさんはこの20億ウォンの話を、この日だけで2回、その後も何回か言及していた。内容としてはほとんど、それは途方もない金額という認識だった。当然のことだが、慰安婦の方々の価値観や考えは一つではない。

しかし、20年以上、韓国社会の中でその事実は認識されなかった。周辺にいた人たちにとってはその一人一人が異なる「個人」であったはずだが、多くの韓国人たちにとって「慰安婦ハルモニ(おばあさん)」とは単に「日帝に苦しめられた被害者」以外の姿として存在する機会はなかった。

思えば、1995年に日本がアジア女性基金を設立し贖罪を試み(このとき日本が集めた国民募金に付けた名前は「償い金」だった)、以後、受け取った人が60人以上になるという事実がこれまで全く知られてこなかったことも、「慰安婦ハルモニ」はとことん「慰安婦ハルモニ」としてしか存在し得ないようにしたはずだ。慰安婦ハルモニたちの感情と考えが決して同じではないという、あまりにも当然なことが可視化されたのは、せいぜい日韓合意以降、未だ1年と経っていない。しかも、日韓合意の直後に、合意を受け入れる、と表明した方の声は、すぐに取り消された。

韓国日報、2015年12月28日(韓国語)

また、2000年代に沈美子さんという方が怒りを込めて挺対協を批判したことも、その痕跡はネット上にかずかに存在をとどめるのみで、広く受け止められることはなかった。そのように一人の慰安婦の声が埋もれてしまった90年代半ば以降の10年間、支援運動の声は国内外に広く届くことになる。ぺさんをして、初対面だった私に向けて日本を許したいとの気持ちを漏らさせたのは、おそらくそうした歳月だろう。ぺさんはこの時すでに90歳だった。

そして、その一言は、その後続くことになる長い長い対話の冒頭だったけれど、もしかすると、それ以降の話の核心だったのかもしれない、と私は今になって思う。日本を許したいという話は、法的責任はもちろんのこと、補償すらいらないということだった。さらに、ぺさんは慰安婦問題が問題視されたことすら納得できないとまで話していた。

もっとも、それはぺさんがハルビンの遊郭にいたゆえの、最前線で軍人たちと共に移動することを余儀なくされた慰安婦たちの体験を知らなかったゆえの言葉ではなかったかと思う。しかし、慰安婦問題についてそういうふうに考えている方がいるということを、長いこと関心を持ち続けてきた私ですら知らなかったのだから、自責の念を禁じ得ない。

20億に関するぺさんの話まで書くことになったのは、第三回公判記に書いたように、検事が、ユ・ヒナムさんの偽証を、判事やメディアに向けて私のことを日本のスパイでもあるかのように疑わせる資料として言及しつつ提出したからだ。元は仮処分裁判の時に話されたというが、たまたまその時出席しなかったこともあって長い間まともに反論することもしないまま放置してきた。その理由は、自分の解明が、慰安婦の方々の信用を削がせ、さらに韓国の信用を落とすことを憂慮したからである。

ユ・ヒナムさんが刑事裁判が始まる頃に法廷でふたたび話したとき多くのメディアが私に確認をとらないまま報じるようなことがあった。さっそく解明を出したが私の反論も載せてくれたところはごくわずかでしかない。最も確信犯的に反復報道をしたネットメディア「ソウルの声」は、直接抗議したにもかかわらず、この記事を修正も削除もしなかった。そして、その記事を引用しながら、私のことを「親日売国女」「八つ裂きにすべき女」「汚らしい女」などと非難する人たちは、今でも後を絶たない。

2013・12・18

(夕方・7:28)

まぁ、お金は、政府が月々130万ウォンずつ支給してくれるのよ。返さないといけないわけでもない。死ぬまで支給されるけれど、そんなこと全部無視して、金大中さんがお金をくれたのも無視して(注:アジア女性基金に対抗して政府が4300万ウォンほどの一時支援金を支払った)、全部無視して、いつまでも、、、

ユ・ヒナムも、今回(私のところに)来ては、裁判が始まるから、日本のお金を20億ウォン必要と言え、20億要求しろと。

(私も前回お聞きしました。昔5千万ウォンだったから、今もらうなら5億はもらわないといけないと、仰ってました。)

いや、20億だよ。4ヶ月前位に会議したのよ。私が体調悪い時。病院から帰って体調良くないときに来て、なんて言ったかっていうと、「あんたも20億必要と言えと。」。私は理由がわからんから、何を20億というのか、って聞いたら、「裁判する時一人当たり20億くれろと答えろ」と言ってたんだよ、アイゴ、、

(4ヶ月前というと、2013年7・8月頃の事であり、私がまだナヌムの家に行く前のことである)

(私もその書類は見ました。初めてナヌムノ家を訪ねたとき、キム局長だったかな、、、事務局長、その人が私に書類を見せてくれました。ハルモニのお話を聞くと、その書類のようですね。私への説明では、現状のままでは解決できないから、裁判をやり直すのだけれど、裁判内容は、日本に勝とうというものではなく、合意を引き出す裁判だ、調停をする裁判だと言って、そうすることにしたと、言ってました。その書類にはハルモニたち10人くらいの名前にはんこが押されてました。)

あぁ、体調を崩して病院から帰って見回ってたら、自分たちだけで会議してたのよ。会議して終わって出て来て、金さんも私に「20億、、」っていうからびっくりして、それが、その20億ということかなって。

(キム局長も20億と言ったんですか?)

まぁ、そうだね。最後に、帰るとき私たちの部屋に入って来て、「ハルモニ、金貰うときに20億と、ハルモニもそう言わないとならないから、私が名前書いとくからね」って言って。私は訳がわからなくて、「何が20億じゃ?」って聞いて話を聞くと、ユ・ヒナムの話だって。ユ・ヒナムが20億くれといって、裁判起こすって。全員が要求しないとならないから、名前を全部書いておいたみたい。後から聞いた話だと。

(一人当たり20億ですか?全員で20億じゃなくて?)

いやいや一人。だから私が、、(判読不明)と思って。
アイゴ、20億だなんて。2億でもなく。あの人たち、どうして20億がほしいと言えるのだろうと思ってだまってた。

(それは不可能なのでは、、、もしかしてキム局長やアン所長が言った金額ではないのですか?ハルモニたちが考えてる金額?)

いや、あのユ・ヒナムだよ。

(あぁ、それは不可能。。私、日本側の人たちとも会って話すこともあるけれど、それは難しいと思います。)

そうだよね。荒唐無稽なことを言っとる。

(ユヒナムが)見回ってた時、私のところに来て、「何を言われても20億といってね」って、こんなこと言ってた。「20億が人のうちの名前だとでも?で、理由は?」って言ったら、もう帰っちゃっていない。会議に出た人たち全員帰ったので後から聞いたら、ユ・ヒナムがその意見を出したみたい。

(そうですかあ。。そういうことだと解決は不可能と思います)

ユ・ヒナムは、もともと考えることが大きいじゃない。ほんとうに、とんでもない考えをする人だよ。

ぺさんとの会話が最後に録音された日付は、次の年の5月18日である。初めて電話で話した時も何度も20億ウォンのことに言及されたが、亡くなる一ヶ月前の5月3日にもこの話をしている。この時はまだ、苦痛は訴えても話は普通にできる位お元気だった。そして、私に多くの話を遺言のようにされた。知っておくように、メモしておくように、記憶しておくように、との言葉とともに。

2016・5・3

いや、まぁこの話は知っておけってことなのよ。慰安婦も、日本人たちを、日本を想っている人たちもいる。(なのに)最初から最後まで、商売、、、ユ・ヒナムのように一人当たり20億ウォンずつもらう、そんな人たちがいるからね。

私も金は嫌いじゃないし、誰かさんの言うように、お金くれれば断りはしない。だけど、お金にそんな欲求を持っちゃって、、、

(以下省略)

ぺさんが体調が悪い中こうした話をされた理由を私はいまになって分かるような気がする。「いや、まぁこの話は知っておきなさいって」とか、「(裕河だけが)知っておきなさい」と、何度もおっしゃったものだ。そうした話が公けになった場合ぺさんに及ぼす影響を恐れて、私はペさんの生存中は約束を守った。

しかし、ぺさんが恐れたのは、ご自分の考えが世間に出ること自体ではなかった。むしろ、いつかは知られることを望んでいた。慰安婦としていた遊郭が実際に存在したことを確認してほしいと、そして自分が偽物ではないと(日本への非難を控えていることでそう言われたらしい)証明してほしいとおっしゃりながらメモしなさいと話していたのだから。

20億の話をあえてされたのは、必ずしもユ・ヒナムさんのことを非難するためではなかったように思う。その話はむしろ、誰もが勝手に想像し知悉しているかのように思い込んでいる「慰安婦ハルモニ」が、実は決して一様ではないことを、世の中に訴えたかったゆえのことではなかったろうか。

「日本人たちを、日本を想っている人もいる」との述懐がそれを語っている。ぺさんは間違いなく、ご自分の考えを私だけでなく世間に伝えたがっていた。おそらく、日本にも。

ぺさんは、ナヌムの家に住み始めて以来の20数年の間、多くの日本人に出会っているのだろう。しかし、そうした本音を聞いた日本人はいるだろうか。遅きに失したが、こういう形ででもぺさんの話を伝えておきたい。

もちろん、それとてしょせん多くの中のひとりの考えに過ぎない。しかし、仮にたった一人だったとしたらよけいに、その「声」は大切に記憶すべきと思うのである。同時に、ぺさんが直接伝えられるように環境を整えることをしてあげられなかった私自身の無力さについても、私はこれからも考え続けなければならない。