批判が向う地点はどこなのか? – 鄭栄桓(チョン・ヨンファン)の『帝国の慰安婦』批判に答える

批判が向う地点はどこなのか? – 鄭栄桓(チョン・ヨンファン)の『帝国の慰安婦』批判に答える[1]

2015年 8月 31日 午後 4:50

鄭栄桓が私に対する批判を始めたのはずいぶん前のことだ。全部読んではいないが、彼が日本語のブログに連載した批判がSNSを通じて広がっていたので、一部読んだこともある。それに答えなかった理由は、まず時間的な余裕がなくて、彼の批判が悪意的な予断を急かすものだったからだ。

しかし、2月に私の本に対する仮処分判決が下されたとき、鄭栄桓の文章はハンギョレ新聞で私に対する批判として使われ、今は『歴史批評』という韓国の有力雑誌に掲載されるに至ったので、遅まきながら反論を書くことにする。

ところで、紙面を30枚(400字15枚)しかもらえなかった。わずか30枚で彼の批判に具体的に答えるのは不可能なことだ。幸か不幸か、また別の若い学者たちがほぼ同じ時期に『歴史問題研究』33号に「集談会」という形で『帝国の慰安婦』を批判したが、これに対する反論は100枚(400字50枚)が許されたので、論旨に関する具体的な反論はその紙面を活用することにする。

 民族とジェンダー

私が彼に初めて会ったのは、2000年代初め、私が最も関心を持っており、提案をしたこともあった日本のある研究会でだった。その研究会は日本の在日僑胞問題、沖縄問題など帝国日本が生み出した様々な問題に対する関心が高い場であったし、何より知的水準がとても高い場であったため、その存在を知ってからは機会があれば参加していた場であった。文富軾(ムン・ブシク)、鄭根埴(チョン・グンシク)、金東椿(キム・ドンチュン)などがその研究会で関心を持って招いたりしていた人々だった。

徐京植(ソ・キョンシク )もその研究会で非常に大切にされている存在であることがまもなく分かったし、私もまた彼に好感を持っていたので、彼と本を交換したりもした。ところが、私が在日僑胞社会の家父長制問題について発表してから、彼らの態度は変わった。徐京植は「ジェンダーより民族問題が先」だと露骨に話したこともあった。当時研究会のメンバーの中には、公的な場ではそう話す徐京植を批判しなくても、私的な場では徐京植を批判する人もいた。

いってみれば、徐京植、尹健次(ユン・コォンチャ)、そして今や鄭栄桓に代表される在日僑胞たちの私に対する批判は、基本的に「ジェンダーと民族」問題をめぐるポジションの違いから始まったのだ。興味深いことに、私に対して公式的かつ本格的に批判を行ったのはみんな男性の学者たちである。女性の場合は金富子(キム・プジャ)や尹明淑(ユン・ミョンスク)など慰安婦問題研究者に限られている。この構図をどのように理解するかが私と彼らの対立を理解する第一のヒントになるだろう。韓国で徐京植から始まった私に対する批判に加勢した学者たち―李在承(イ・ジェスン)、朴露子(パク・ノジャ)、尹海東(ユン・ヘドン)など―もみんな男性の学者であった。(もちろん、女性の学者、または女性学専攻者たちの中にも訴訟に反対したり、私に好意的に反応したりした人は極めて少なかった)。

後でまた書くだろうが、彼らの批判は約束でもしたかのように、私の論旨が「日本を免罪」するという前提から出発している。鄭栄桓が繰り返し強調するのもその部分だ。

 戦後/現代日本と在日僑胞知識人

鄭栄桓も言及したように私に対する批判は、10年前に書いた『和解のために』の刊行後から始まった。初めて批判したのは、挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)に関与した在日僑胞女性学者の金富子であった。少し経って、尹健次、徐京植は「詳しいことは金富子に任せて…」と言いながら極めて抽象的な批判を始めた。それにもかかわらず、金富子にも、徐京植にも、私は先に言及した研究会で知り合いになったために親しみを感じていたし、時間が経って私の本をもっと読んだら、理解してくれるだろうと思った。それを期待しつつ、その頃に出た『ナショナル・アイデンティティとジェンダー』を送った。

後日、私が反論を書くようになったきっかけは、徐京植がある日ハンギョレ新聞に載せたコラムだった。私を高く評価した日本のリベラル知識人が、私を利用して自分たちがしたい話をしているのだと彼は書き(「妥協を強要する和解の暴力性」、2008/9/13ハンギョレ新聞)、翌年、私に対する批判を含んだ尹健次の本がハンギョレに大きく紹介されたときだった。

当時、金富子などの批判に同調して批判したのはごく少数の日本人だったし、広がることはなかった。もっとも彼らが韓国で私への批判を始めたことに、私は驚かずにはいられなかった。なぜなら『和解のために』は刊行されて3年も経っていたし、彼があえて批判しなければならないほど韓国で影響力があった本ではなかったからだ。

そんな私の本を、彼らが韓国という空間で突然批判した理由を私はいまだ正確には知らない。問題は、徐京植が目指したのが現代日本の「リベラル知識人」(進歩知識人)だけでなく、彼らが築いてきた戦後日本に対する批判だったという点だ。日本のリベラル知識人たちは、実は植民地支配に対して法的責任を負いたがらないという彼の根拠のない推測は、その後韓国リベラルの日本不信に少なからず影響を及ぼしただろうと私は考えている。

ところで、私はこのときに反論を日本語で書いて日本のメディアに発表した。金富子の論文が載せられたのは日本のメディアだったからだ。ところが2年後の2009年の夏と冬に、ハンギョレ新聞の韓承東(ハン・スンドン)記者が尹健次教授の本の紹介に「日本の右翼に絶賛された『和解のために』を批判した本」だと書くという事態が起きた。韓国で「日本の右翼に絶賛」されるということがどんな波乱を起こすのか知らない人はいないはずだ。私はこの歪曲報道に接して驚愕した(これに関する経緯については『帝国の慰安婦』のあとがきにも書いた)。

 知識人の思考と暴力

徐京植の考え方(戦後日本と現代日本の知識人に対する批判)が彼の人気とあいまって韓国で確実に根を下ろしたという証拠は、2014年6月、私に対する告発状に徐京植の考え方(私が語った「和解」と赦しをあたかも日米韓の国家野合主義的思考であるかのように片付けてしまう思考)が書かれていたという点だ。私はそのとき、言論仲裁委員会に行かなかった私の5年前の選択を初めて後悔した。

すなわち、私に対する告発は、直接的にはナヌムの家という支援団体の誤読と曲解から始まったのだが、実は彼らをそうさせたのは裏で働いていた私に対する警戒心だった。そのような警戒心を作り、また見えないように支援していたのは知識人たちだった。私に対する最初の告発は、慰安婦についての記述が「虚偽」だという内容だったが、私が反駁文を書くと、原告側は途中で告発の趣旨を変えて私の「歴史認識」を問題にした。一連の過程において、自分たちと異なる不慣れな考え方は無条件に排斥し、手っ取り早い排斥手段として「日本の右翼」を持ち出したという点で知識人も、支援団体も変わりはなかった。

韓国の革新陣営で流通していた徐京植と尹健次などの本が、私についての認識を「日本を免罪しようとする危険な女性」と見做す認識を拡散させたと私は考える。もちろん慰安婦問題を否定し「日本の法的責任を否定」するというのが理由だ。

徐京植や尹健次は、私の本が日本右翼の思考を「具体的に」批判した本でもあるという点を全く言及せず、ただ「親日派の本」として目立たせたがっていた。

彼らの他にも私が知っている限り、私の本以前には慰安婦問題に対する否定派の考え方を具体的に批判した人は殆どいなかった。韓国や日本の支援者たちは慰安婦問題に否定的な人々に対しては頭ごなしに「右翼!」という言葉で指差しており、金富子が私に対して「右派に親和的」という言葉で非難したことはその延長線上のことだ。

それに比べれば鄭栄桓はそれなりにバランスを取ろうと努めており、その点は一歩進んだ在日僑胞の姿ではある。しかし、鄭栄桓は私の「方法」が何か不純な意図を持ったものに見せかけようとする方法を使っている。本全体の意図と結論を完全に無視し、文脈を無視した引用と共にフレームアップして「危険で不道徳な女性」と見せることが彼の「方法」だ。そのために私の本が結論的に「日本の責任」を問う本であるということは、どこにも言及されない。彼らは日本に責任を問うやり方が自分たちと異なるということだけで、私を非難しているのである。

それは多分、鄭栄桓が紹介した通り、彼らが20年余り守ってきた思考の強大な影響力が揺らぐ事態を迎えたためかもしれない。彼はそうした情況があたかも日本が責任を無化させる方向へ進んでいるかのように言っているが、それは鄭の理解でしかない。この数年間、慰安婦問題に極めて無関心だった日本人たちが、そして少女像が立てられた2011年以後に反発し始めた日本人たちが、私の本を読んだ後、慰安婦問題を反省的に見直すことができたと語ってくれている。

先日私は偶然、徐勝(ソ・スン)/徐京植兄弟に対する救命運動を20年以上してきたという日本人牧師の夫人が、慰安婦問題解決運動会の元代表だという事実を知った。直接的には関係がないように見えた徐京植も実際には慰安婦問題関係者と深い関係があったわけだ。私があえてこの文章で徐京植について言及する理由は、鄭栄桓が『和解のために』を批判した際、徐京植の批判を持ってきたからだ。『和解のために』に対する批判に出た人たちはほとんどが慰安婦問題に関与してきた人たちだったが、徐京植もまたそのような「関係」から完全に自由ではなかったわけである。私に対する徐京植の批判の論旨が告発状にそのまま援用されていたことを指摘したのは、「知識人の責任」を問うためであったが、ひょっとしたら彼の論旨自体、「無謀な」支援団体以上に、現実的なポジションと人的関係の影響から出たものかもしれない。

彼らの論旨は構造的に敵対と「粛清」を要求する。支援団体が国家権力を前面に出し私を告発したのはその結果でもある。私に対する糾弾を通じてあらわになったそうした彼らの方式と思考の欠陥がどこにあるのか、今後私はもう少し具体的に語っていくつもりだ。彼らのやり方が20年以上平和をもたらすこともできず、不和を醸してきた理由がまさにそのような思考の欠陥にあるからであり、それでは未来の平和も作ることができないからだ。

 批判とポジション

彼らは「戦後日本」を全く評価しない。そしてそのような認識が韓国に定着するのに大きく寄与した。

端的にいうと、良し悪しにかかわらず2015年現在の韓国の対日認識は、彼ら在日僑胞が作ったものと言っても過言ではない。もちろん彼らと連帯して20年以上「日本は軍国主義国家!」と強調し、「変わらない日本/謝罪しない日本/厚かましい日本」観を植え付け、2015年現在韓国人の7割が日本を軍国主義国家だと思い込ませた、挺対協をはじめとする運動団体の「運動」と、彼らの声をただそのまま書き取り続けてきた言論も少なからず役割を果たした。

彼らは、朴裕河は「日本(加害者)が悪かったのに韓国(被害者)が悪かったと言う」と、私が批判したのは「韓国」ではなく少女を守らなかった村共同体や、育てていながら売り飛ばした里親であり、そうしたことを許した思考である。鄭ほか批判者たちは私が日本を批判しないかのように人々に思い込ませたが、私が彼らの日本観を批判しながら指摘したかったのは、まさにそのような不正確でモラルを欠く「態度」であった。

私は彼ら在日僑胞が日本を批判するなら、自分たちを差別しないで教授に採用した日本についても言及した方が公正だと思う。金石範(キム・ソクボム)という作家が20年以上『火山島』を一つの文芸紙に連載して生活が可能になったのも戦後/現代日本でだった。

決してその変化が早いわけでもなく完璧であるわけでもないが、日本社会は変わったし、変わりつつある。それでも決して見ないようにしてきた葛藤の時間の末に、現在の日本はまさに私たちが知っているような姿に回帰中であるようにも見える。誰がそうさせたのか。関係というのはおおむね相対的なものである。

私が『和解のために』で話そうとしたのはそういったところだった。その本は2001年に教科書問題が起きて初めて、日本にいわゆる「良心的な知識人と市民」が存在するということをようやく知ったほど、戦後日本についての知識が浅かった10年前、韓国に向けて先ずは戦後日本がどんな出発をし、どんな努力をしてきたかを知らせようとした本だ。私たちの日本についての認識は、実は転倒した部分が少なくないと。

相手を批判するためにはまず、総体的な日本を知ってから行うのが正しい。それでこそ正確な批判ができるのではないだろうか。ところが様々な理由で私たちには総体的な日本が知らされていなかった。私は鄭栄桓の言うように日本のリベラル知識人が話したがっていたのを代弁したわけではなく、総体的な日本についてまず知らせようとしただけだ。否定的な部分を含めて、である。それはそうした作業に怠慢だった韓国の日本学研究者の一人としての反省を込めた作業だった。徐京植の批判は、私にはもちろんのこと、日本の革新・リベラル知識人に対する侮辱でしかない。

徐京植の批判は、私たちにようやくその存在が知らされた日本のリベラル知識人を批判からすることで、戦後/現代日本に対する信頼を失わせた。

もちろん日本に問題がないと言っているわけではない。問題は彼らの批判が決して正確ではないという点だ。しかも、日本がさらに変わるためにはリベラル知識人との連帯は当然必要である。それなのに、彼らを敵に回して鄭栄桓は誰と手を組んで日本を変化させようとしているのだろうか。徐京植や鄭栄桓の批判は、極めてモノローグ的だ。モノローグでは相手を変化させることはできない。

私は政治と学問、一般人と知識人に対する批判において「違い」を意識しながら書き、話す。鄭栄桓ら私を批判する学者との最も本質的な違いは、おそらくこの点にある。つまり、私は夏目漱石を批判し、彼をリベラル知識人として祭り上げた日本の戦後知識人と現代知識人を批判したが、それはそれくらい知識人の責任が大きいからだ。知識人の思考はときに政治を動かすこともある。しかし、ただ普通の生活を営むだけの一般人に対する批判は、その構えを異にするべきだというのが私の考え方だ。これが私の「方法」だ。モノローグよりダイアログの方が、論文においても実践においても生産的な「方法」になり得る。

 「日本の謝罪」を私たちはどこで確認するだろうか。

首相や天皇がいくら謝罪したところで、国民同士が同じ心情を持たなければ、日韓の一般人たちは最後まで疎通できず、不和にならざるを得ない。私たちは天皇や首相と対話するわけではないからだ。

日本の90年代は確かに曖昧だったが、日本政府と圧倒的多数の国民が謝罪する心を持っていた時代だった。私がアジア女性基金を評価したのはそのような政府と国民の心が込められたものだったからだ。批判者たちはそのような日本政府の謝罪と補償を「曖昧」だと非難したが、鮮明さ自体が目的である追及は、正義の実現という自己満足をもたらしてくれることもあるが、大慨は粛清につながる。当然、生産的な言説にもならない。実際に私に対する告発がそれを証明した。

「告発には反対するが…」と前置きしながら私を批判した人たちの中で、誰も実際に訴訟を棄却させようと行動に出た人はいなかった。批判者たちは韓国政府と支援団体の考え方と違った意見を述べるという理由で、彼らが私を抑圧することを当然視し、批判に乗り出すことで私への抑圧に加担した。学問的な見解を司法府が道具と使うように放っておいたり、自ら提出したりした。ところが、歴史問題に対する判断を国家と司法府に依存する行為こそ、学者にとっての恥辱ではないだろうか。私はそう思う。だから惨憺たる心境だ。(『歴史批評』112号、2015・8)


[1] 『歴史批評』に最初この文章を先に送ったが、具体的な反論ではないという理由で掲載されなかった。他の文書に差し替えたが、この文書の方がより重要だと今も考えている。『歴史批評』112号に掲載した文章とは多少重なる部分がある。その文書で私が言及した鄭栄桓の問題は、他の男性学者の書評や論文にもおおむね見受けられる。これについては「東アジアの和解と平和の声」発足記念シンポジウム文(「記憶の政治学を越えて」、2015・6)でも、その一端を指摘したことがある。そしてこの問題については今後もまた書くつもりだ。

出典 : 朴裕河 フェイスブックノート