[反論]日本軍慰安婦問題と1965年体制 – 鄭栄桓の『帝国の慰安婦』批判に答える

日本軍慰安婦問題と1965年体制 – 鄭栄桓の『帝国の慰安婦』批判に答える[1]

朴裕河(世宗大学教授)

1. 誤読と曲解― 鄭栄桓の「方法」

在日同胞学者、鄭栄桓が拙著『帝国の慰安婦―植民地支配と記憶の闘い』に対する批判を『歴史批評』111号に載せた。まずこの批判の当為性の有無について語る前に、批判そのものについて遺憾の意を表する。なぜなら私は現在、本書の著者として告発されている状態であり、その限りにおりてあらゆる批判はその執筆者の意思とは関係なく、直・間接的に告発に加担することになるからである。

実際に2015年8月に提出された原告側の文書には、鄭栄桓の批判の論旨が借用されていた。しかも李在承の書評も丸ごと根拠資料として提出されていた。仮処分の裁判期間中に裁判所へ提出された原告側の文書には、尹明淑や韓惠仁の論旨が具体的に引用されていた。2014年6月に提出された最初の告発状には、私が10年前に出した本『和解のために―教科書・慰安婦・靖国・独島』への批判の論旨がそのまま使われていた。

私に対する批判に参加した学者・知識人がこのような状況を知っているかどうか、私には分からない。しかし、批判がしたいのであれば、訴訟を棄却せよという声を先にあげるべきではないだろうか。まさにそれこそ「裁判所に送られた学術書」に対して取らなければならなかった「学者」としての行動ではなかっただろうか。

早くから始まった上に『ハンギョレ新聞』に引用されることで、私に対する世論の批判に寄与したにもかかわらず[2]、鄭栄桓の批判にこれまで答えなかった理由は、彼の批判が誤読と曲解に満ちていたからである。彼の文章は、彼が私のものだと述べた「恣意的な引用」で鏤められていたし、結論に先立つ敵対感情がベースになっていたので、実は読むこと自体が憂うつだった。よって、具体的な反論に入る前に、まずは私の立場と論旨を確認しておくことにする。

1) 慰安婦問題に関する日本の国家責任についての私の立場

鄭栄桓は私が「日本国家の責任を否定」(482~483頁、以下「頁」は省略)しているとし、「植民地主義批判がな」(492)いため、「植民地支配の責任を問う声を否定しようとする「欲望」に、この本はうまく呼応する」と述べ、しかも「歴史修正主義者たちとの密かな関係性を検討しなければならない」(491)とまで述べている。しかし、私は慰安婦問題で日本国家の責任を否定したことはない。私が否定したのは「法的」責任のみであって、当然日本国家の責任を問うた。日本語版には「国会決議」が必要だとも書いた。にもかかわらず、鄭栄桓はそのようなことには沈黙するだけでなく、「歴史修正主義者」と韓国で批判されている人々の名前を呼びあげて、彼らと同じような存在だと思わせるような「歪曲」を自分の批判の「方法」として用いている[3]

鄭栄桓のいうとおりならば、この本についての日本人の反応―「この問題提起に、日本側がどう応えていくかが問われている」(杉田敦、書評、『朝日新聞』2014.12.7)、「「どこも同じ」と言い募らず、帝国主義的膨張を超える思想を新たに打ち出せるなら、世界史的な意義は大きいのではないか?[という朴裕河の問いに]反対する理由を、私は思いつかない」(山田孝男、コラム、『毎日新聞』2014.12.21)、「私はこれを読んで元慰安婦たちへの心の痛みをいっそう深めただけ」(若宮啓文、コラム、『東亜日報』2014.7.31)等はすべて誤読した書評だということになってしまう。しかもある右派の人は私の本について、従来の戦争責任の枠組みでのみ捉えられてきた慰安婦問題を植民地支配責任の枠組みの中で問おうとしているといい、「日本の左派より怖い本」だといったり、「固陋な支配責任論を持ち出してきた」と非難したりまでした。

鄭栄桓は同じようなやり方で私が「韓日併合を肯定」したと書いている。しかし、私は韓日併合無効論に懐疑を示しながらも、「もとより現在の日本政府が慰安婦問題をはじめとする植民地支配に対する責任を本当に感じているなら、そしてそれを敗戦以降、日本が国家として正式に表現したことがなかったという認識が仮に日本政府に生まれるとしたら、韓日協定が「法的には終わっている」としても、再考の余地はあるだろう。女性のためのアジア平和国民基金の国内外における混乱は、そうした再考が元から排除された結果でもある」(『和解のために』235)と書いた。つまり、私は韓日併合も韓日協定も「肯定」していない。

私は慰安婦を作ったのは、近代国民国家の男性主義、家父長主義、帝国主義の女性・民族・階級・売春差別意識であるから、日本はそうした近代国家システムの問題であったことを認識し、慰安婦に対し謝罪・補償をすべきたと書いた。それなのに、鄭栄桓は「朴裕河は韓日併合を肯定し、1965年体制を守っており、慰安婦のハルモニの個人請求権を認めない」と言っているのである。私は「学者」によるこうした歪曲は、犯罪レベルのものだと考えている。

鄭栄桓の批判の「方法」は、徐京植や金富子、その他の在日同胞の私に対する批判の仕方と酷似している。彼らもやはり、『和解のために』の半分は日本批判であるという事実に言及しなかったし、私を「右翼に親和的な歴史修正主義者」だというふうにいってきた。

2) 韓日協定についての私の立場

鄭栄桓は私が「1965年体制の守護を主張」(492)しているという。しかし再協議は無理という考えが直ちに「守護」になるわけではない。実際に、私は日本に向かって書いたところで、韓日協定は植民地支配に対する補償ではなかったと書いた。鄭栄桓のいうような「守護」どころか、その体制に問題があったと明確に指摘した。韓国政府が請求権を潰したことを指摘したのは、1965体制を「守護」するためではなく、自分たちが行ったことに対する「責任」意識は伴わなければならないと考えたからだ。

3) 方法について

鄭栄桓と異なり、批判したいと思うほどに自らも顧みようというのが私の「方法」だ。歴史学者や法学者にはなじまないやり方であるかもしれないが、問題そのもの以上に、両国の「葛藤」の原因と解消に大きな関心を持っている研究者として必然的な「方法」でもある。

鄭栄桓は本書の日本語版と韓国語版が異なる理由として何か陰険な「意図」があるかのように話しているが、この本が、対立する両国の国民に向かって、できるだけ事実に近い情報を提供しつつ、「どう考えるべきか」に中心を置いた本である以上、日本語版が日本語の読者を意識しながら書き「直される」のは当然のことだ。また、刻一刻と悪化する韓日関係を見つめながら、できるだけ早く出さなければならないという思いに捕われていた韓国語版には、当然粗いところが多かった。したがって日本語版を書くようになったとき、そうしたところが修正されたのも当然のことである。「韓国の問題」、「日本の問題」を別々に見ることができるように構成を変えたのも、そうした脈絡からのことに過ぎない。

2. 「方法」批判について

1) 的外れな物差し

鄭栄桓は私の本が概念を「定義」しなかったので、紛らわしいと述べている。しかし、多くの資料を使いながらもこの本を学術書の形で出さなかったのは、一般読者を念頭に置いたためであり、一般読者は誰もそのような問題提起をしていない。この本が鄭栄桓に「読みやすい本ではな」(474)くなったのは、概念を定義しなかったためでなく、この本の方法と内容が鄭栄桓に不慣れなものであるためであろう。

2) 貶め

鄭栄桓は、私が慰安婦の差異について言及したところを問題視して、「差異があったという主張自体は取り立てて珍しいものではな」(474)く、「数多くの研究が日本軍の占領した諸地域における「慰安婦」徴集や性暴力の現れ方の特徴について論じている」と述べている。だが、私は朝鮮人と日本人のポジションの類似性(もちろん彼らの間の差別についても既に指摘した)を指摘しながら、大日本帝国に包摂された女性たちと、それ以外の地域の女性たちとの「差異」を指摘した研究を知らない。鄭栄桓の「方法」は、私の本が「売春」に言及したことを挙げて、実はかつて右翼がした話だと貶めるやり方と似ている。しかし、私の試みはただ「慰安婦は売春婦」ということにあるのではなく、そのようにいう人々に向かって「売春」の意味を再規定することにあった。

3) 「方法」に対する理解の未熟

鄭栄桓は朝鮮人慰安婦の「精神的慰安者」としての役割についての私の指摘が「飛躍」であり、「推測」であるという。しかしこのような部分は、まず証言から簡単に見つけることができる。そして私が指摘しようとしたことは、心の有無以前に朝鮮人慰安婦がそうした枠組みの中にいたということだ。「国防婦人会」のたすきをかけて、歓迎・歓送会に参加した人々がたとえ内心その役割を否定したがっていたとしても、そうした表面的な状況についての解釈が否定されなければならないわけではない。根拠のない「推測」はもちろん排除されなければならないが、すべての学問は与えられた資料から「想像」した「仮説」を構築する作業にならざるを得ない。何より私は全ての作業を証言と資料に基づいて行った。本に使わなかった資料も、追って別途整理して発表するつもりだ。「同志」という単語を使ったのも、まずは帝国日本に動員されて、「日本」人として存在しなければならなかったということを指摘するためであった。

鄭栄桓は、軍人に関する慰安婦の「思い出」を論じた部分を挙げて「思い出」についての「解釈」を「遠い距離がある」(475)と批判している。しかし学者の作業は、複数の「個別の例」を分析して総体的な構造を見ることだ。私が試みた作業は、「証言の固有性が軽視」されるどころか、それまで埋もれていた一人一人の証言の「固有性を重視」し、結果を導き出すことだった。「対象の意味」を問う作業に自分が慣れていないからからといって他人の作業を貶めてはならないだろう。

同じ文脈で鄭栄桓は、「日本人男性」の、それも「小説」の使用は「方法自体に大きな問題がある」(475)と述べている。このような批判は、日本人男性の小説はその存在自体が日本に有利な存在であるかのように考える偏見がそうさせているものだが、私は日本が慰安婦をどのように残酷に扱ったかを説明するための部分で小説を使った。慰安婦の苛酷な生活が、他でもない慰安婦を最も近くで見た軍人、後に作家になった彼らの作品の中に多く現れていたからだ。強いていうなら、日本人に向けて、自分たちの祖先が書いた物語だということを述べるために、また、慰安婦の証言は嘘だという人々に向け、証言に力を加えるための「方法」として使ったにすぎない。鄭栄桓は、歴史研究者によく見られる「小説」軽視の態度を表わしているが、小説が、虚構の形態を借りて、ときには真実以上の真実を表わすジャンルでもあるということは常識でもある。

鄭栄桓は、自分の情況を「運命」と語った慰安婦について私が評価したことを批判しているが、慰安婦の証言に対する評価もやはり「固有性を重視」する作業である。「運命」という単語で自分の情況を受け入れる態度を私が評価したのは、世界に対する価値観と態度に肯定的な何かを見たためだ。個人の価値観がさせるそのような「評価」が否定されなければならない理由もないが、それと相反する態度に対する批判が慰安婦の「痛みに耳を傾ける行為と正反対」(476)になるわけではない。学者ならばむしろ、証言に対する共感に終わるのではなく、付随する色々な状況を客観化できなければならない[4]。しかも、偽りの証言までも黙認されなければならないという話は、尚更違うだろう[5]。そのような状況の黙認は、かえって解決を難しくする。

何よりも、私が「運命」と語る選択を評価したのは、ただ、そのように語る慰安婦も存在するという事実、しかしそのような声は聞こえてこなかったという事実を伝えたかっただけだ。日本を許したいと話した人の声を伝えたのも同じ所以だ[6]。私は「異なる」声を絶対化してはいないし、鄭栄桓の言葉のように、ただ「耳を傾けた」だけだ。そのような声がこれまで出てこられなかった理由は、異なる声を許容しない抑圧が彼らにも意識されていたためだ。言い換えれば、鄭栄桓のいうところの「証言の簒奪」はかえって、鄭栄桓のような態度と考え方を持った人々の側から起こるということが、私がこの本で指摘したことでもある。

したがって、私の「方法」が「倫理と対象との緊張関係を見逃した方法」であり、「歴史を書く方法としては適切でない」(476)との批判は、私の「方法」を理解できなかったことに起因する批判に他ならない。

3. 『和解のために』批判について

鄭栄桓は10年前に私が上梓した『和解のために』も批判しているが、『帝国の慰安婦』が「当時論じられた問題点を基本的に継承」(477)しているというのがその理由だ。だが、ここでも先の問題点をそのままさらけ出している。

1) 道徳性攻撃の問題

鄭栄桓は金富子を引用しながら、私が既存の研究者の文章について「正反対の引用」(477)をしたと述べている。これは鄭栄桓が私に論旨のみならず、道徳性にも問題があるかのように思わせるため選択した「方法」だ。

だが、鄭栄桓が分かっていない点がある。あらゆるテクストは必ずしも、その文章を書いた著者の意図に準じて引用されなければならないわけではない。言い換えれば、あらゆる文章は著者の全体的な意図とは別の部分も、いくらでも引用される可能性があるということだ。鄭栄桓自身が私の本を私の意図とは正反対に読んでいるように。重要なことはその過程に歪曲があってはならないという点だが、私は歪曲していない。

吉見義明のような学者が「「強制性」を否認している」というために引用したわけではない。日本の責任を追及するいわゆる「良心的な」学者ですら「物理的な強制性は否認しているのだから、その部分は信頼すべきではないのか」と述べるために使っただけだ。その後、軍人が引っ張って行ったというような強制性に対する問題提起が受け入れられるにつれ、論議が「人身売買」へと移っていったことは周知の事実だ。今では「構造的な強制性」があるという者は少なくないが、「構造的な強制性」という概念はまさに私が『和解のために』で初めて使ったものだった。慰安婦を売春婦だという者に向けて「当時の日本が軍隊のための組織を発案したという点からみれば、その構造的な強制性は決して弱まりはしない」(改訂版、69)と私は述べた。

だが、彼らは私の本を決して引用しない。最近ではこの問題を植民地支配の問題として見るべきだという私の提起まで、引用なしに使う者が現れている。これについては近いうちに改めて書くつもりだ。

2015年5月、米国の歴史学者らの声明が示したように、もはや「軍人が引っ張って行った強制連行」だとは世界はもちろん、支援団体すら主張していない。だが、多くの者が「強制連行」とばかり信じていた時点から私は強制連行でないと分かっていたので、「強制性」について否定的な者たちによるこの問題への責任の希釈を防ごうと、10年前に「構造的な強制性」について述べた。また『帝国の慰安婦』で「強制性の有無はこれ以上重要ではない」と書いた。

2) 誤読と歪曲

鄭栄桓は私が慰安婦は「一般女性のための生贄の羊」(『和解のために』、87)でもあったと書いた部分を指して、まるで私が「一般女性の保護を目的」(金富子)としたかのように非難している(478)。だが「日本軍のための制度」だという事実と「慰安婦が一般女性のための生贄の羊」だったという認識は対峙しない。

歴史研究家である鄭栄桓がテクスト分析において、文学研究者ほどの緊張がないのは仕方ないことだが、「批判」の文脈ならば、ましてや訴訟を起こされている相手に対する批判ならば、もう少し繊細に接近すべきであった。加えて鄭栄桓は一般女性にも責任がないわけではないという私の反駁まで非難しながら、「敵国の女性」に責任があるということなのかという(金富子)の誤読に加え「日本軍の暴力をどうしようもない当然のものだと前提」(478)し、「戦場の一般女性が自らの代わりに強姦された慰安婦に責任がある」という主張であるとすら述べている。

私が一般女性の問題を述べたのは「階級」の視点からだ。つまり「旦那さんとこのお嬢さま」(『和解のために』、88)の代わりに自分が慰安婦になったという存在に注目したものであり、彼女たちを送り出して後方で平穏な生活を享受することができた韓・日の中産階級以上の女性たち、そして彼女たちの子孫にも責任意識を促すための文脈だった。もちろんその基盤には、私自身の責任意識も存在する。

3) 総体的な没理解

鄭栄桓は徐京植の批判に依存しながら、アジア女性基金と日本のリベラルな有識者を批判しているが、徐京植の批判はどこにも根拠がない。旧宗主国の「共同防御線」[7]を日本のリベラルな有識者たちの心性と等しくさせようとするなら、具体的な準拠を示すべきだった。

そして、私は韓日の対立の責任を挺対協だけに転嫁しているのではない。日本側も明らかに批判した。にもかかわらず鄭栄桓をはじめとする批判者たちは、私が「加害者を批判せずに、被害者に責任を転嫁している」と規定し、以後その認識は拡散した。

鄭栄桓は私が使用した「賠償」という単語を問題視しているが、挺対協は「賠償」に国家の法的責任の意味を、「補償」に義務ではないという意味を込め、区別して使っている。鄭栄桓が指摘する「償い金」とは本にも書いたように、「贖罪金」に近いニュアンスの言葉だ。もちろん日本はこの単語に「賠償」という意味は込めてこなかったし、私もやはり挺対協が使っている意味に準じて「賠償」という意味を避け、「補償」と述べてきた。これは基金をただの「慰労金」とみなした者たちへの批判の文脈からだった。「償い金が日本の法的な責任を前提とした補償ではない」(479)という点には、私もやはり異論はない。にもかかわらず鄭栄桓は誤った前提で接近しながら、私が使った「補償」という単語が「争点を解消」(480)させたと非難している。

参考までに言及しておくが、日本政府の国庫金を直接使えないという理由で最初は間接的に支援することになっていた300万円ですら、結局は現金で支給した。アジア女性基金を受領した60人の韓国人慰安婦は実際に「日本国家の国庫金」ももらったことになる。依然として「賠償」ではないが、基金がただの「民間基金」だという理解も修正されなければならない。

4. 鄭栄桓の「日韓基本条約」理解の誤り

1) 慰安婦問題に関する責任について

鄭栄桓は私が慰安婦問題の「その責任を日本国に問うことはできない」(480)としたかのように整理している。しかし、私は「法的責任を問うにはまず業者の責任を問わねばならない」と述べただけで、日本国に責任がないとはいっていない。なお、知られていない様々な情況に鑑みて判断すれば、「法的」責任を前提とした賠償の要求は無理、というのが私の考えである。私が「業者」といった中間者の存在に注目するのは、日本国の責任を否定するためではなく、彼らこそ過酷な暴力と強制労働の主体であり、そのような暴力や強制労働から利得をあげた存在であるからだ。誘拐や詐欺などは当時も処罰の対象であったのである。何よりも、慰安婦の中の「恨み」が彼らに向けられている点とも関わっている。

私は、慰安婦問題の「本質は公式な指揮命令系統を通じて慰安所設置を指示」したという吉見の主張を大体は支持するが、女性の「徴集を命令した」という彼の言葉については、物理的な強制連行を想像させ、業者の自律性を無視する表現である以上、より繊細な規定が必要ではないかと考えている。また「兵站付属施設」という永井の指摘も支持はするが、既存の遊郭を使用した場合も多数存在していたという事実の補完も必要であろうと思う。無論、そのようなところに目を向ける理由は、日本の責任を希釈するためではなく、支援者たちが訴え続けている「真実究明」のためである。

私に対する鄭栄桓の批判が、純粋な疑問から逸れた曲解であるということは、需要を創出したこと自体、すなわち戦争を行ったこと自体を批判する私の文章を引用しながら、「上記の引用は、見方によっては、供給が満たされるくらいのものであるなら軍慰安所制度には問題がないというふうにも読まれ得る」(481)という指摘にもあらわれている。しかも、「業者の逸脱のみ問題視するならば軍慰安所制度そのものの責任が免除されるのは、当たり前の論理的な帰結であろう」(481)と書いている鄭栄桓の「飛躍」には驚きを禁じ得ない。

私は「軍による慰安所設置と女性の徴集、公権力を通じての連行」(482)を同列に置きながら「例外的なこと」として述べてはいない。私が例外的なこととして述べたのは朝鮮半島における「公権力を通じての連行」のみだ。にもかかわらず鄭栄桓は、上記のようなかたちで要約しており、あたかも私が「軍による慰安所設置」までも例外的なことだと見なしているかのように見せようとしている。

2) 憲法裁判所の判決について

憲法裁判所の判決について、私は間違いなく「請求人たちの賠償請求権」に対して懐疑的である。だがそれは、そのような形式―裁判に依拠した請求権要求という方式とその効果についての懐疑であっただけで、補償自体に反対したことはない。しかし、鄭栄桓は「請求権自体を否認する立場」と誤解されるように整理している。

また私は、支援団体が依拠してきた「婦人及び児童の売買禁止に関する国際条約」に基づいては「慰安婦制度を違法とすることはできな」いので、損害賠償を請求することはできないという相谷の指摘に共感しただけで、「責任がない」と主張するために引用したのではない。相谷の意図は「個人の賠償請求権を否定」するようなものではないが、そのような方法論では「成立しない」ということを述べている論文であることは確かで、私はその部分に注目しただけである。「個人の請求権を否定した研究であるかのように引用」したという鄭栄桓の指摘は単純な誤読か、意図的な曲解に過ぎない。鄭栄桓は常に、形式の否定を内容の否定と等価のものとして置き換える。現に支援団体が自ら「法的責任」に関する主張を変更したという事実も、鄭栄桓は参考にしなければならないだろう[8]

3) 日韓協定について

鄭栄桓は私が金昌緑の論文も「反対に引用」したと言っているが、私は金昌緑の引用した様々な会談の文案を、鄭栄桓の指摘とは異なる文脈で用いた。故に、この指摘も根拠のない非難である。

金昌緑が言っているように、当時議論されたのは「被徴用者の未収金」についてであり、鄭栄桓本人が言っている通り、当時の慰安婦に関する議論は専ら「未収金」だけが問題視されていたのだろう。しかし、慰安婦は「軍属」であったという史料もすでに提出されており[9]、私の論旨に基づいて言えば日本が慰安婦を「軍属」として認めることもできるだろう。朝鮮人日本軍ですら補償が受けられる「法」が存在していたが、慰安婦にはそのような「法」は存在しておらず、このような認識は、慰安婦に関する「補償」を導き出すこともできるというのが私の主張であった。

鄭栄桓は、私が日韓協定の際に日本が支給した金額について「戦後補償」だと述べたというが、私はサンフランシスコ講和条約に基づいてのものである以上、連合国との関わりの枠組みの中で決めることしかできなかったために、日本としては「帝国の後処理」ではなく「戦後処理」に該当する、と述べただけだ。

鄭栄桓は487項から488項にかけて私の本を長く引用しながらも、米国が朝鮮半島における日本人の資産を接受し、韓国へ払い下げ、これをもって外地から日本人を引き揚げさせた費用を相殺したと書いた部分を除いて引用している。しかし、この部分こそ、日本に対して請求権を請求するのは難しいと私が理解するようになったところである。国家が相殺してしまった「個人の請求権」を再び許容すると、日本人にとっても朝鮮半島へ残したままの資産に対する請求が可能になるという問題が生じるからである。

何よりも、私はこのときの補償が「戦争」の後処理でしかなく、「植民地支配」の後処理ではなかったと述べ、65年の補償が不完全なものであったという点について明白に言及した。にもかかわらず、鄭栄桓はこれについては一切触れず、私が1965年体制を「守護」していると述べているのである。

私は日韓協定の金額を「戦争に対する賠償金」と書いていない。「戦後処理による補償」と書いた。また、張博珍の研究を引用したのは、冷戦体制が影響を与えたという部分においてである。「脈略とまったく関係ないところで文献を引用」していないし、張博珍が「韓国政府に追究する意思がなかったと批判」した文脈を無視してもいない。

鄭栄桓がまだ理解していないのは、このときの韓国政府が植民地支配に関する「政治的清算」までしてしまったということである[10]。浅野の論文は『帝国の慰安婦』刊行以後のものである。私は本の中で、日本に向けて「植民地支配に対する補償」ではなかったからまだ補償は残っていると書いたが、浅野の論文を読んでかえって衝撃を受けた。これから日韓協定をめぐる議論は、もう浅野の論文を度外視しては語れなくなるだろう。

5. 生産的な議論のために

鄭栄桓はもはや徐京植や高橋哲哉さえも批判する。高橋はリベラル知識人の中でも際立って「反省的な」視点や態度を堅持してきた人物であり、徐京植と多くの共同作業をしてきた人物でもある。そのような人物まで批判する鄭栄桓に、私の最初の答弁で問うた言葉を改めて問うてみたい。鄭栄桓の批判はどこを目指しているのか。

明らかなことは、鄭栄桓の「方法」は、日本社会を変化させるどころか、謝罪の気持ちを持っていた人々さえも背を向けさせ、在日同胞の社会をさらに厳しい状況に追い込むだろうということだ。むろん日本社会にも問題があるが、それ以上に鄭栄桓の批判には「致命的な問題」があるからだ。その問題は、私に対する批判の仕方が証明している。存在しない意図を見つけ出すために貴重な時間を費やすより、生産的な議論に努めていただきたい。


[1] ページ数に限りがあるため、本稿では拙著の引用は殆ど出来ていない。本稿の論旨を確認したい読者は『帝国の慰安婦』(2015年6月に一部削除版が刊行)と『和解のために―教科書/慰安婦/靖国/独島』(2005初版、2015改訂版)を参考にしていただきたい。これに先立つ序論にあたる文を2015年朴裕河のFacebookの「ノート」に掲載する予定だ。www.facebook.com/parkyuha, parkyuha.org

[2] この反論を執筆していた2015年8月13日に、『ハンギョレ新聞』が鄭栄桓と朴露子の対談を掲載して再び私を批判したという事実を知った。鄭栄桓の私に対する批判の文脈を全体的に理解するためには、批判の前史を理解する必要がある。注1の文章を参考にしていただきたい。

[3] 鄭栄桓がブログに連載した私への批判文の題名は「『帝国の慰安婦』の方法」である。「方法」を全面的に押し出し、私に内容以前の問題があるという認識を与えることで、学者としての資格と道徳性に傷をつけようとする戦略は明らかだ。

[4] 朴裕河、「あいだに立つとはどういうことか―慰安婦問題をめぐる90年代の思想と運動を問い直す」、『インパクション』171号、2009.11。

[5] 元従軍慰安婦の李容洙(イ・ヨンス)さんの証言はこの20年間で何度も変わっている。最近、過去の証言集に対して不満を吐露したが、これは証言の不一致を指摘されたからと見られる。http://www.futurekorea.co.kr/news/articleview.html?idxno=28466

[6] 朴裕河、「慰安部問題、考え直さなければならない理由」、シンポジウム『慰安婦問題、第3の声』資料集、2014.4.29。『帝国の慰安婦』削除版に掲載。

[7] 徐京植、『植民地主義の暴力』、高文研、2010.70頁。

[8] 『ハンギョレ新聞』2015.4.23。

[9] 波止場清、「慰安婦は軍属―辻政信が明言」、『ハフィントン・ポスト』2015.8.3、旧日本陸軍参謀だった辻政信が『潜行三千里』という著書で慰安婦について「身分は軍属」と書いていた事実が確認されている。

[10] 浅野豊美、「『国民感情』と『国民史』の衝突、封印・解除の軌跡-普遍的正義の模索と裏付けられるべき共通の記憶をめぐって」、近刊掲載予定。

出典 : 『歴史批評』 112号