四方田犬彦, 朴裕河を弁護する

朴裕河を弁護する

四方田犬彦

 

 

比較文学は人文科学の領域にあって、ひどく効率の悪い学問である。

まず自国語のみならず、複数の外国語に精通していなければならない。少なくとも自在にそのテクストを読み、学会の場で意見交換ができなればならない。自国語で書かれたテクストだけを、自国の文脈の内側だけで解釈する作業と比較するならば、はるかに時間と労力、そして情熱が必要とされる。にもかかわらず、人はどうして比較文学なる分野に魅惑され、それを研究することを志すのだろうか。比較文学は人に何を与えてくれるのだろうか。

ごく簡単にいう。それは人をして(政治的にも、文化的にも)ナショナリスムの頚城から解放するという効用をもっている。『源氏物語』の巻名である「総角(あげまき)」の一語が、韓国で未婚男子を示すチョンガーと書記において同じだと知るならば、人は日本でしばしば口にされている文化純粋主義なるものが、稚拙な神話にすぎないことを認識できる。朝鮮の李箱と台湾の楊熾昌を中原中也のかたわらにおいて読むことは、1920年代から30年代にかけて、東アジアもまた世界的な文学的前衛運動の圏域内にあったことを理解することである。それはともすれば一国一言語の内側で自足した体系を築き上げているかのように見える文学史が、実は他者との不断の交流のうちに成立した、偶然の現象にすぎないことをわれわれに教えてくれる。一国の文学こそが民族に固有の本質をすぐれて表象するという前世紀の素朴神話の誤りを、告げ知らせてくれるのだ。比較文学がわれわれに教えてくれるのは、文化と文学をめぐるナルシシックな物語の外側に拡がっている、風が吹きすさぶ領野を指し示してくれることである。

だがその一方で、比較文学者はしばしば、思いもよらぬ偏見の犠牲者であることを強いられることになる。コロンビア大学でこの学問を講じていたエドワード・W・サイードを見舞った受難が、その典型的な例であった。

大学でヴィコとアウエルバッハを篤実に論じていたサイードが、ある出来ごとが引き金となって、出自であるパレスチナ問題について発言を開始した。何冊かの著書がアメリカの狭小なアカデミズムの枠を越え、国際的な影響力をもつにいたったとき、彼は大きな誹謗中傷に見舞われることになった。サイードを非難攻撃し、ありえぬゴシップを振りまいたのは、もっぱらユダヤ系アメリカ人の中東地域研究者である。彼らはサイードが中東史の学問的専門家ではないと断定し、アマチュアにはパレスチナについて論じる資格がないというキャンペーンを展開した。サイードを誹謗中傷したのはイスラエル人ではなく、主にアメリカ国籍をもち、合衆国に居住するユダヤ人であった。イスラエルには冷静に彼の著書を紐解き、その果敢なる言動に共鳴するイラン・パペ(後にイスラエルを追放)のようなユダヤ人の中東史専門家がいた。しかし反サイード派はサイードの著書が事実を歪曲する反ユダヤ主義者だと主張し、彼がパレスチナでインティファーダに賛同し、石を投げている写真なるものを捏造して、平然とテロリスト呼ばわりをした。彼らの多くは、いうまでもなく政治的シオニスムの賛美者であり、国家としてのイスラエルこそ離散ユダヤ人の究極の解決の地であるという信念において共通していた。

こうした事実を知ったとき、わたしはかつて自分がテルアヴィヴ大学で教鞭をとっていた時期に見聞したことを思い出した。わたしが知るかぎり、イスラエルに生まれ育ったユダヤ人の多くはパレスチナ人の存在を自明のものと見なし、事態の悲惨を前に肩を竦ませながら、状況をプラクティカルに眺めていた。それに対し、アメリカから到来したユダヤ人は両民族の対立をきわめて観念的にとらえ、パレスチナ人に対し常軌を逸した憎悪を向けているのだった。

わたしは狂信的ユダヤ系アメリカ人学者たちがサイードに向けた攻撃性の深層が、漠然とではあるが推測できなくはない。彼らはこのパレスチナ出身の比較文学者を自分たちの「専門領域」から排除するという作業を通して、合衆国にあってしばしば希薄になりがちな、ユダヤ人としてのアイデンティティーを構築したかったのである。現実にイスラエルに居住せず、ヘブライ語もできないがゆえに、逆にイスラエルを約束の地として純化して夢見ている者にとって、サイードとは自分がユダヤ人であることを確認させてくれる貴重な媒介者であったのである。

朴裕河の『帝国の慰安婦』はまず韓国で刊行され、しばらくして日本語に翻訳された。それは少なからぬ日本の知識人、それも日本で支配的な右派メディアに対しつねに異議申し立てをしてきた知識人の側から共感をもって迎えられ、いくつかの賞を受賞した。この賞賛・受賞と時を同じくして、韓国の朝鮮史研究家たちが彼女に激しい攻撃を開始した。またそれが慰安婦を侮辱しているという理由から刑事訴訟の対象になった直後から、在日韓国人の朝鮮史専門家が、朴裕河の著作は事実無根な記述に溢れているというキャンペーンを展げた。わたしは彼らが専門家としての怨恨や嫉妬から、またアイデンティティー危機の回避のために朴裕河を中傷したなどといった情けないことは、ゆめにも思いたくない。とはいえ彼らが、日本帝国主義に郷愁を抱いている日本の右派を悦ばせるために『帝国の慰安婦』は執筆されたといった口吻をもし漏らしたとすれば、それは意図的になされた卑劣な表現であろうと考えている。それは彼らの積年の研究をみずから侮辱するだけに終わるだろう。

とはいえわたしがただちに想起したのが、サイードが体験した受難のことであったことは書いておきたい。朴裕河とサイードは歴史家ではなく、比較文学の専門的研究者である点で共通していた。また朴は初期の著作である夏目漱石論や柳宗悦論に顕著なように、『オリエンタリズム』の著者から理論的な示唆を受け、社会に支配的な神話を批判するための勇気を受け取っていた。そしてサイードが「アマチュア」という名のもとに誹謗されたように、朴裕河もまた慰安婦問題の専門家ではないのに発言をしたという理由から、熾烈なる非難攻撃を受けた。

わたしは以前に自分が受けた嫌がらせと脅迫のことを思い出した。1995年のことであったが、映画が考案されて百年になるというので、NHK教育TVがわたしに12回連続で世界映画史の番組を作るようにと依頼してきた。わたしはそれに応じ、黒澤明やジョン・フォード、フェリーニといった、いわゆる世界の名画を紹介することを続けた。ただ最終回だけは、もうこれで最後というので、思い切って16ミリの個人映画をTV画面で放映することにした。取り上げたのは山谷哲夫が1979年に撮った『沖縄のハルモニ』という作品で、監督の手元にある一本しか存在していないというフィルムを、好意的に貸していただいた。そのなかで元慰安婦であった女性は、日本にはやっぱり戦争に勝ってほしかったと繰り返し語り、美空ひばりと小林旭がいかに素晴らしいかを語った。今さら国になど、とても恥ずかしくて帰れないよという言葉が、わたしに強い印象を与えた。現在のNHKではまずありえないことだとは思うが、番組は割愛されることなく放送された。

公共放送でこの16ミリ映画の一部が2分ほど放映された直後から、すさまじい抗議がNHKと当時わたしが奉職していた大学宛に寄せられた。手紙には「非国民」「売国奴」といった表現に加え、韓国人と被差別部落民をめぐるさまざまな罵倒語が連ねられていた。「故郷のソ連に帰れ」という文面もあった。わたしは恐怖こそ感じなかったが、手紙に記された表現の貧しさに驚きを禁じえなかった。どうして誰もが均一的な語彙に訴えることしかできないのだろう。この時の体験が契機となって、5年後にソウルの大学で教鞭を執ることになった時、わたしは挺身隊対策協議会(「挺対協」)が主催している水曜集会に参加し、和菓子をリュックサックに詰めてナヌムの家を訪れ、元慰安婦たちといくたびか話をすることになった。

もっとも朴裕河への誹謗中傷は、規模とその後性格において、わたしのそれとはまったく異なっている。それは比較にならぬまでに深刻であり、はるかに大掛かりなものだ。(韓国語でいう、あまりいい言葉でなないが)「無識」な者によってなされた突発的なものではなく、一定の知識層の手で体系的に、そして戦略的に準備されたものである。中傷者は元慰安婦の名のもとに彼女を刑事犯として告訴し、国民レヴェルでの世論を操作して、彼女が「大日本帝国」を弁護しているという悪意あるデマゴギーに終始した。彼女が韓国に居住するかぎり、孤立と脅威を感じるように、集団的な行動に訴えた。その迫害の激しさは、日本のあるドイツ文学者に、アイヒマンを論じたハンア・アーレントの名を口に出させるほどであった。

なるほど彼女はこれまで慰安婦問題を生涯の主題として研究してきた歴史家ではない。先に記したように、日本文学研究を中心とした、一介の比較文学者である。だが、彼女を「アマチュア」という名のもとに断罪しようとする動きに対しては、わたしは反論を述べておきたい。知識人とは専門学者とは異なるものだと前提した上で、それは本来的にアマチュアであることを必要条件とするというサイードの言葉を引いておきたい。サイードは『知識人とは何か』(大橋洋一訳、平凡社、1995年)のなかで、次のように記している。

「アマチュアリズムとは、専門家のように利益や褒章によって動かされるのではなく、愛好精神と抑えがたい興味によって衝き動かされ、より大きな俯瞰図を手に入れたり、境界や障害を乗り越えてさまざまなつながりをつけたり、また、特定の専門分野にしばられずに専門職という制限から自由になって観念や価値を追求することをいう。」

もしわたしが朴裕河事件をサイードの受難に比較することが正当であるとすれば、これからわたしが書くべきことは、『帝国の慰安婦』が提出している「より大きな俯瞰図」について語ることである。それは、些末な事実誤認や資料解釈の相対性の次元を越え、日本と韓国におけるナショナリスムを批判しながらも、日本がかつて行った歴史的罪過を批判的に検討するヴィジョンを提出することに通じていなければならない。わたしがこの著書から学びえたことを、以下に記しておきたい。

 

歴史的記憶にはいく通りもの層が存在している。単なる事実と統計の列挙が歴史認識とは異なることを知るためには、まず記憶とそれを語る声の多層性という事実を了解しておかなければならない。とりわけそれが戦争や革命といった動乱時の記憶の場合、いかなる視座をとりうるかによって、いくらでも異なった(能動的な、反動的な)評価がなされうる。

記憶のもっとも頂点には、国家的な記憶、つまり現政権である体制が承認し、メディアにおいて支配的であるばかりか、教科書の記載を通して教育制度の内側にまで深く食い込んでいる物語が存在している。この物語は「神聖にして犯すべからず」といった性格をもっている。

この国家記憶に準じるものとして、特権的な声が造り上げる定番(ヴァナキュラー)の言説がある。それは社会において充分にカリスマ化された人物、神話化された「当事者」の証言であったり、メディアに決定的な影響力をもつ著名人の発言であることが多い。ヴァナキュラーな言説はつねにメディアの関数である。それはメディアによって戦略的に演出され、記録され、イデオロギー的形成物として公共に投じられる。正確にいえば、それは歴史というよりは、ロラン・バルト的な意味合いで「神話」と呼ぶべきであろう。神話が携えているイデオロギー的権能の強さは、この言説を国家記憶とは別の意味で、社会に支配的な言説、公式的と呼べる言説として機能している。

三番目に、記憶の下層にあって、その時代を生きた名もなき人間、忘れされてしまった人間、不当に貶められ、その声に接近することが困難となってしまた者たちの声がある。それはまさに「生きられた時間」の「生きられた体験」(ミンコフスキー)による、生々しい証言であるはずなのだが、メディアを経過していないため、論議も継承もされることなく、ヴァナキュラーな記憶によって抑圧されるがままになっている。知識人やメディアに携わる者を濾過器として通過しないかぎり、この声は立ち現れることができない。

だがこの声はまだ困難を克服していけば到達できる可能性をもっているだけ、そのさらに底辺に拡がっている最後の、第四の声よりはましであるかもしれない。第四の声とは文字通り沈黙である。世界のもっとも低い場所に生きることを強いられたサバルタンが生きているのが、そのような状況である。彼らはけっして語らない。語るべき声をもたない。いかなる啓蒙的な契機を前にしても、牡蠣のように口を閉ざし続ける。

現下に問題とされている従軍慰安婦問題に即していうならば、最頂点にある国家の言説とは、2016年に朴槿恵大統領と阿部首相が取り交わした日韓の合意がその最新ヴァージョンにあたる。そしてこの問題は、日本が十億円を韓国に払うことで決着をみたというエピローグまでが添えられている。

ヴァナキュラーな声とは、挺対協とその周辺にいる同伴者的歴史学者の手になる、韓国で支配的な言説のことである。慰安婦はつねに民族主義的な精神に満ち、日本軍に対して抵抗することをやめなかったと、彼らは主張している。彼女たちを慰安婦に仕立て上げたのはもっぱら日本軍であり、いかなる韓国人も、いかなる場合にあっても被害者であった。慰安婦はいかなる場合にも高潔であり、無垢であり、模範的な韓国人であった。こうした主張のもとに、声は特定の映像を造り上げる。そして挺対協は自分たちが元慰安婦の声の、唯一にして正統的な表象者であることを自認している。

第三の声は、1990年代に次々と名乗りを挙げた、元従軍慰安婦の女性たちのものである。それはどこまでも個人の声であり、本来はきわめて多様かつ雑多な要素に満ちたものであるが、先に記したように、残念なことにもっぱら第二の声、すなわちヴァナキュラーな声によって秩序付けられ、ノイズを取り去った状態でしか、われわれの眼に触れることができない。

では、第四の声はどこにあるのだろうか。それは韓国で名乗り出なかった元慰安婦たちの記憶である。また韓国と異なり、みずから名乗り出ることが皆無に等しい、日本の元慰安婦たちの内面に隠された記憶である。奇妙なことに慰安婦問題を口にする者たちは、もっぱら韓国におけるそれを論じるばかりで、夥しく存在していたはずの日本人慰安婦の存在を、当然のように無視している。その原因は、彼女たちの声が存在していないからだ。

 

朴裕河はなぜ誹謗中傷の対象とされたのか。簡単にいって、彼女がヴァナキュラーとされた支配的な声に逆らい、ありえたかもしれぬalternative今ひとつの声を、膨大な元慰安婦証言集から引き出すという行為を行なったからだ。慰安婦物語の絶対性に固執する者たちの逆鱗に触れたのは、彼女のそうした身振りであった。

朴裕河は彼女いうところの「公式の記憶」が近年にわたって、いかに慰安婦神話を人為的に築き上げてきたかを丹念に辿り、勇敢にもその相対化を試みた。この記憶=物語がこれまで隠蔽し排除してきた慰安婦たちの複数の声に、探究の眼差しを向けた。そのさいに参照テクストとして、韓国人と日本人が執筆した小説作品から韓国の映画、漫画、アニメに言及し、韓国社会における慰安婦神話の形成過程を分析する手がかりとした。

誤解がないように明言しておくと、こうした作業はどこまでも比較文学者の手になるものであることだ。彼女はひとつの言説をとりあげるとき、それを絶対的な事実としてではなく、ある視座(イデオロギー的な、文化的な)から解釈された「事実」と見なしている。ここで『道徳の系譜学』のニーチェを引き合いに出すのは、なんだか大学の初級年度生を前に講義をしているようで気が引けるが、いかなる事実もその事実をめぐる解釈であるという認識論的な前提を了解しておかないと先に進めないことは、まず断っておくことにしたい。朴裕河とは朴裕河の解釈の意志のことである。彼女は先にわたしが述べた三番目の声に向かいあった。さまざまな多様性をもち、個人の生涯をかけた体験に基づくものでありながら、ヴァナキュラーな支配原理のもとでは不純物として排除され、切り捨てられてきた声のなかにそっと入り込み、そこから公式記憶と相反する物語を引き出すことに成功した。

何が彼女のこうした作業を動機づけているのか。それは慰安婦問題をより大きな文脈、すなわち帝国主義と家父長制を基礎として形成されてきた、東アジアの近代国民国家体制の文脈の中で認識し、それをより深い次元において批判するためである。この大がかりなヴィジョンを理解することなく、その著作にある資料的異動をあげつらい、歴史実証主義者を僭称してみたところで、不毛な演技に終わり、彼女を批判したことにはならない。歴史的と見なされてきた「事実」とは、つねに特定のイデオロギーに携われて「事実」として定立されるという、古典的な命題が確認されるだけにすぎない。

 

朴裕河が従来の公式的な慰安婦神話に対して突きつけた疑問は、大きくいうならば次の二点に要約される。

ひとつは慰安婦たちがかならずしも民族意識をもった韓国人として、日本軍に対し抵抗する主体ではなかったという指摘であり、もうひとつは、彼女たちを幼げで無垢可憐な少女として表象することが、その悲惨にしてより屈辱的であった現実が巧妙に隠蔽されてしまうという指摘である。

慰安婦たちは日本兵のために、ただ性を提供したばかりではなかった。彼女たちは故郷と家族から遠く離れ、残酷な戦場で生命を危険に晒している若者たちのため、文字通り慰安を与えるべき存在であった。慰安婦と日本兵の違いは、前者が性を差し出したのに対し、後者が生命を差し出すことを強要されたというだけで、いずれもが帝国にとっては人格的存在ではなく、代替可能な戦力にすぎなかった。朴裕河は慰安婦の証言のみならず、多様なテクストを動員しながら、慰安婦が日本軍に協力しなければ生き延びることができなかった苛酷な状況を想像せよと、われわれに求める。この一節を読んだだけでも、彼女が元慰安婦を売春婦呼ばわりし、侮辱したという韓国での起訴状が事実無根のものであり、明確な悪意のもとに準備されたものであることが判明する。

朴裕河の分析が秀でているのは、被植民者である朝鮮人慰安婦が、その内面において日本人に過剰適合し、しばしば外地において日本人として振る舞ったことを調べあげた点である。これは従来の公式記憶からすればあってはならない事実であった。だが朴裕河は彼女たちを非難するわけではなく、逆にこうした帝国の内面化こそが帝国のより赦されざる罪状であると指摘している。日本軍兵士と慰安婦を犯す/犯されるといった対立関係において見るのではなく、ともに帝国主義に強要された犠牲者であると見なす視点は、今後の歴史研究に新しい倫理的側面を提示することだろう。それは日本帝国主義による強制連行が朝鮮人・中国人にのみ行使されたのではなく、長野県や山形県の農民が村をあげて満洲国開拓に動員された場合にも指摘しうるとする立場に通じている。

朝鮮人慰安婦たちはチマ・チョゴリといった民族服を着用することなど、許可されていなかった。彼女たちは少しでも日本人に似るように、名前も日本風に改め、着物を着用することを命じられていた。これはその姿を一度でも目撃したことのある韓国人にとっては、これ以上にない屈辱であろう。ソウルの日本大使館の前に建立され、現在では韓国の津々浦々にレプリカが並ぶことになった少女像に対し、朴裕河が強い違和感を覚えるのは、その像が現実の慰安婦が体験した屈辱の記憶を隠蔽し、理想化されたステレオタイプの蔓延に預かっているためである。この少女像は、たとえ韓国がいかに日本に蹂躙されたとしてもいまだに処女であるという神話的思い込みに対応する形で制作された。その意味で、敗戦後アメリカに占領された日本で、原節子が「永遠の処女」として崇拝され、現在でも日本を代表する表象であり続けていることを思い出させる。

だが、なぜ少女像なのか。朴裕河を非難攻撃する者たちは、慰安婦の平均年齢の高さからしてこの彫像は不自然であるという彼女の主張に対し、なぜにかくも目くじらを立てて反論するのか。問題は統計資料をめぐる解釈の次元にはない。慰安婦が純潔な処女でなければならないと狂信している韓国人の神話の側にある。だがここで朴裕河を離れて私見を語れば、歴史的な犠牲者を無垢なる処女として表象することは、何も慰安婦にかぎったことではない。31独立運動で虐殺された柳寛順(ユ・グワンス)も、北朝鮮に拉致されて生死が定かでない横田めぐみ(日本では「ちゃん」をつけなければいけない)も、沖縄の洞窟で大部分が殺害された「ひめゆり部隊」の面々も、すべて少女であり、それゆえに悲劇の効率的な記号として喧伝されてきたからだ。これは政治人類学的にいって東アジアに特有の病理にほかならない。朴裕河の少女像批判は、戦後の日本人までが無意識下において、このステレオタイプの象徴法に操作されてきたという事実へと、われわれを導いてゆく。

『帝国の慰安婦』の著者が主張したいのは、かかる問題が戦時に独自のものではないという事実である。慰安婦問題の究極の原因として糾弾されるべきなのは帝国主義であり、そのかぎりにおいて兵士も慰安婦もひとしく犠牲者に他ならない。このヴィジョンは日本と韓国を永遠の対立関係におき、日本側が一方的に歴史を歪曲したと主張する「慰安婦の代表者」の不毛なナショナリスムを、論理的に相対化することになる。韓国における公式記憶が歪曲し隠蔽してきた慰安婦の真実を探求するためには、朴裕河が提出した見取り図の大きさを理解しなければならない。

 

朴裕河は『帝国の慰安婦』の最後の部分で、鄭昌和(チョン・チャンファ)が1965年に監督した『サルビン河の夕焼け』なるフィルムを取り上げている。この書物のなかで映画への言及がなされている、唯一の箇所である。舞台はミャンマーの日本軍駐屯地である。朝鮮人慰安婦の女性が、彼女が配属された「親日派」の学徒兵将校に話しかける。自分は看護婦になるというのでここに騙されてきた。あなたはまだ日本帝国主義が紳士的だと信じているのかと、彼女はいう。この映画の場面から判明するのは、フィルムが制作された1960年代には、韓国人は慰安婦をめぐって、90年代に確立された公式的記憶とは異なった記憶を抱いていたという事実である。この慰安婦はすべての悲惨の根源に日本帝国主義が横たわっていることは充分に認識していたが、自分がここにいるのは強制連行の結果ではないと主張しているのである。『サルビン河の夕焼け』は(今日では「芸術的映画」の範疇に入れられていないため、韓国の映画研究家がそれに言及することはないが)こうして、強制連行の神話が集合的記憶として人為的に形成される以前の、一般韓国人の歴史認識を知るために、貴重な資料たりえている。

朴裕河が韓国のB級映画に言及したことを受けて、映画史家であるわたしは、その後の韓国映画がいかに従軍慰安婦を描いてきたかを、日本映画と比較しつつ補足的に記しておこうと思う。

韓国では1970年代から80年代にかけて、何本かの慰安婦映画が製作されている。1974年の時点で、まずラ・ブンハン監督(不詳)によって『女子挺身隊』なる作品を撮られている。フィルムはもはや現存しておらず、映画研究家の崔盛旭氏が最近発掘した新聞広告を通してしか、目下のところ手掛かりがない(図版参照)。英語題名をBloody Sexといい、「慰安婦8万の痛哭。映画史上最大の衝撃をもった問題の大河ドラマ」と、宣伝文句が記されている。朴正熙軍事政権下では、女性のヌードを含め、エロティックな映画表現は厳しい検閲の対象とされていた。そこで製作者と監督は、日本軍の歴史的蛮行を糾弾するという道徳的口実のもとに、エロ描写をふんだんに盛り込んだフィルムを作ることを思いついた。韓国人による強姦場面はけしからんが、日本の狂気の軍隊が強姦をするのなら歴史的事実として表象が許されるという、韓国人の民族感情を逆手にとった制作姿勢が、ここに窺われる。

わたしが実際に韓国の劇場で観ることのできた慰安婦映画は、李尚彦(イ・サンオン)監督の『従軍慰安婦』である。1980年代初頭のことであった。李監督は野球選手の張本勳の伝記映画を撮った人で、フィルモグラフィーから判断するかぎり、どうやら素材を選ばずに注文次第で監督する人のようだ。『従軍慰安婦』は好評だったので、シリーズ化されていると聞いた。製作意図は先の『女子挺身隊』の延長上にある。朝鮮人の無垢な処女たちが拉致され、慰安所に押し込められると、日夜、日本兵に凌辱される。しかし途中から日本兵だということはどうでもよくなってしまい、単なる男女の性行為だけが何組も続くことになる。この手のフィルムが韓国で社会的に糾弾されず、堂々と政策されてきたのは、おそらく慰安婦問題に関わる知識人が自国の映画というメディアを徹底して軽視にしていて、その存在に気が付かなかったか、学問的対象として論じるに値しないと軽蔑していたからだろう。

とはいえゼロ年代になり、韓国でも本格的に(植民地化時代を含めて)自国の映画を分析的に研究しようという機運が盛り上がってきた。だが寡聞にして、こうした慰安婦もの映画が論じられたという話をきかない。解放後の韓国に公式的記憶があり、慰安婦についても公式的記憶が形成されていくなかで、韓国映画史も公式的記憶を作り上げてきた。そこではドキュメンタリー『ナヌムの家』が模範的作品として喧伝されることはあっても、おそらくそれよりははるかに大量の観客を動員したはずの『女子挺身隊』に始まる慰安婦映画は、けっして言及されることがない。それは言及すべきではない、恥辱のフィルムだということなのだろう。

それにしてもわたしに納得がいかないのは、この手の韓国エロ映画を、韓国の男性観客はいったいどのような気持ちで観ていたのだろうかという疑問である。彼らは男性として日本兵士の側に同一化して、女性を犯すことの疑似快楽を得ていたのか。それとも同じ韓国人として、犯される慰安婦の側にマゾヒスティックな感情移入して観ていたのか。

いずれにしてもここで視覚的にも、物語的にも得られる快楽とは倒錯的なものである。わたしはかつて上海の街角を散歩していたとき、荷車のうえに「南京大屠殺」(中国では「虐殺」という語を用いない)についての、毒々しい表紙のゾッキ本が積み上げられているのを見て、きわめて複雑な感情に駆られたことを思い出す。いうまでもなくそれは、歴史的事件を隠れ蓑とした、残虐行為についてのポルノグラフィーであった。おそらくこうした例は世界の他の場所でも存在していることだろう。それを分析するのは歴史学ではなく、メディアの社会心理学である。人はなぜ、自民族の被害者を主題としたポルノグラフィーに快感を感じ、それを商品化してきたのか。

わたしはかつて黒澤明から鈴木清順、そして8ミリの山谷哲夫までが、朝鮮人従軍慰安婦をスクリーンに表象しようとしていかに努力してきたかを辿ったことがある(四方田犬彦「李香蘭と従軍慰安婦、『李香蘭と原節子』(岩波書店、2014年)に収録」。GHQによる検閲下であったにもかかわらず、黒澤は谷口千吉と組んで、田村泰次郎の『春婦伝』を映画にしようと企て、そのたびごとに脚本を許可されず、突き返された。この企画は、谷口が朝鮮人慰安婦を日本人慰安団の女性歌手に置き換えることで、『暁の脱走』(1949)を監督することで決着がついたが、黒澤の正義感はそれでは収まらなかった。

日活の鈴木清順は彼らの挫折を踏まえた上で、1965年、ついに野川由美子主演で『春婦伝』の映画化に成功した。そこには主人公ではないが一人の朝鮮人慰安婦が登場している。彼女は最後まで一言もモノをいわないが、主人公の男女が絶望して死に急いだのを知ると、初めて口を開き、「日本人はすぐ死にたがる。踏まれても蹴られても、生きなければいけない。生き抜く方がもっと辛いよ。死ぬなんて卑怯だ」と語る。これは重要な役であり、重要なセリフだ。清順は彼女を、いかに悲惨な状況にあっても主体性を失わず、世界を透徹した眼差しのもとに眺める存在として描いている。

日本の志をもった映画人たちが困難にもめげず、慰安婦問題に真剣に向かい会おうとしていたとき、韓国の映画人はそれを単なるエロ映画の素材としてしか見ようとしなかった。この落差は大きい。韓国の研究者のなかでこの問題に答えてくれる人はいるだろうか。

 

日本が中国を侵略していた時代のことである。上海では国民党によるテロが横行していた。

あるとき魯迅の弟が、いくら犬が憎くても、水に落ちた犬をさらに打つことは感心しないねといった。別の人物がそれを支持して、中国人には昔からフェアプレイの精神が欠けていると論じた。犬と戦うには、犬と対等な立場に立って戦うべきであり、苦境にある犬を攻撃するのは卑怯であるという考えである。

魯迅は烈火のごとく怒った。たとえ水に落ちたとしても、悪い犬は絶対に許してはいけない。もしそれが人を噛む犬であれば、陸上にいようが水中にいようが関係ない。石を投げて殺すべきだ。中国人によくあるのは、水に落ちた犬をかわいそうと思い、つい許してやったために、後になってその犬に食べられてしまうという話ではないか。犬が水に落ちたときこそいいチャンスではないか。

恐ろしい言葉である。つねに国民党政権に生命を狙われ、友人や弟子を次々と殺されていった知識人にしか口にすることのできない、憎悪に満ちた言葉である。

だが最近になって、わたしは魯迅のこの考えにいくぶん距離を抱くようになった。なるほど彼をとり囲んでいた状況は苛酷だった。だからといって敵に対し熾烈な憎悪を向け、その殲滅を願うだけ、はたして状況を好転させることができるのだろうか。わたしがこう書くのは、70年代に新左翼の各派が相互に殺し合いを続けてきたのを、どちらかといえば間近なところで眺めてきたからである。わたしは尊敬する『阿Q正伝』の作者にあえて逆らっていいたい。今こそ犬を水から引き揚げ、フェアプレイを実践するべき時なのだ。少なくとも憎悪の鎖を断ち切るためには。

1930年代の上海から2000年代のソウルと東京まで、人は何をしてきたのだろうか。

誰もが水に落ちた犬を目ざとく見つけると、ただちに恐ろしい情熱を発揮して、溺れ苦しむ犬に石を投げることをしてきた。彼らはもし犬が普通に地上を徘徊していたとしたら、怖くてしかたがないものだから、けっして石を投げなかったことだろう。ところが、いかに罵倒の言葉を投げかけ石を投げたところで、わが身の安全は確保されたとひとたびわかってしまうと、態度を豹変してきた。ここには純粋の憎悪がある。だが魯迅の場合とは違い、その憎悪には必然的な動機がない。それは集団ヒステリーと呼ばれる。

朴(パク)裕(ユー)河(ハ)従軍慰安婦問題をめぐる著作を韓国で刊行したとき何が起きたかを、ここで冷静にもう一度考えてみよう。ずさんで恣意的な引用をもとにして刑事訴訟がなされ、彼女は元慰安婦の一人ひとりに多額の慰謝料を払うことを命じられた。そればかりか、勤務先の大学からは給料を差し抑えられ、インターネットでの嫌がらせはもとより、身の安全においても危険な状況に置かれることとなった。文字通り、心理的に生命の危険に晒されているといってよい。

だが、まさにその時なのだ。韓国人と在日韓国人によって熾烈な攻撃が開始されたのは。これこそ、水に落ちた犬に投石する行為である。

彼らの一部は、日本において朴裕河が高く評価され、少なからぬ知識人がその著作に肯定的な態度を示したことを疑義に感じ、それを揶揄し、その「殲滅」を求めて行動を起こしている。朴裕河が慰安婦の証言資料を恣意的に解釈し、歪曲していると主張して、彼女がこの問題をめぐって永久に口を閉ざすことを求めている。朴裕河を支持する者たちは彼女が韓国にあって被った法的受難と社会的制裁をまず解決し、フェアな議論の場が成立したことを待って、大日本帝国の罪状と被植民者の状況について討議探究を開始すべきであると友好的に考えているのに対し、支持者を非難する側は勝ち負けの次元において声高い扇動を重ね、事情に通じていない日本の無邪気なメディアに働きかけている。

では仮に彼らが「勝利」を獲得したとして、彼らは何を獲得したことになるのか。慰安婦問題に誠実な関心を寄せてきた日本の知識人の多くは、それを契機として問題への無関心を示すことになるだろう。この問題を植民地支配と女性の人権蹂躙の問題として見つめようとする者たちがいっせいに後退してしまったとき、日本の世論に残るのは慰安婦の存在を否定し、植民地支配を肯定的に賞賛する右派の言説である。今日でさえ圧倒的な力をもつこの右派の扇動によって、「嫌韓」主義者はこれまで以上に跳梁跋扈し、さらなるイトスピーチの嵐が巻き起こることは目に見えている。当然の成り行きだろう。慰安婦問題をめぐる日韓の相互了解は、いかに両政府が金銭的な補償による合意に達したとしても、それとは無関係に、これまで以上に困難で錯綜したものと化すだけだろう。朴裕河が果敢にも提示を試みた「より大きな俯瞰図」と、韓国の公式的記憶の相対化が排除されたとき、生じるのがそうした事態であることは目に見えている。

もし朴裕河の批判者たちに研究者としてフェアプレイの精神があるとすれば、まず韓国でなされている法的な措置に抗議し、その解決を待って真剣な討議に入るべきではないか。人は集団ヒステリーの罠に陥らないために、冷静になってモノゴトの順序を考えなければならない。

水に落ちた犬を打つな。