中沢けい, 法理に基づいた「帝国の慰安婦」無罪判決 少女像問題めぐり再び緊張する日韓関係を憂慮

中沢けい

1月25日、ソウル東部地裁は刑事上の名誉毀損で懲役3年を求刑されていた「帝国の慰安婦」の著者朴裕河氏に無罪判決を出した。ハフィントンポスト日本語版は、韓国版から以下の部分を引用している。「被告人が本で開陳した見解については批判と反論が提起されることも予想され、慰安婦が強制的に動員されたことを否定する人々に悪用される恐れもあるが、あくまでも価値判断を問う問題であり、刑事手続きにおいて法廷が追及する権限や能力を超える」。刑事責任を問う場合は抑制的であるべきだという常識に乗っ取った判決と言えるだろう。

無罪判決に安堵

朴裕河氏が起訴された直後の2015年11月26日に有識者らが「朴裕河氏の起訴に対する抗議声明」を発表、私も賛同人の一人として記者会見に応じた。抗議声明は発表後も新たな賛同人を得ている。最近ではノーム・チョムスキー・マサチューセッツ工科大学名誉教授、ブルース・カミングス・シカゴ大学教授が加わり、賛同人は70名ほどになった。当初からの抗議声明賛同人であった私は今回の判決に安堵を覚えている。

しかし、安堵を覚えることはできても、喜びを感じることができない。その理由は2017年に入り日韓関係が慰安婦問題を巡って再び緊張していることにあるのは言うまでもない。

2015年12月の日韓両政府の慰安婦問題妥結には、その唐突さに当惑せざるを得なかった。しかし、この政治的妥結が慰安婦被害者の救済を進ませ、戦時における女性の人権侵害をどう防ぐかという冷静な議論を深める端緒になってくれることを願わずにはいられなかった。その点は今も考えは変わっていない。

韓国国内にはこの妥結を是とはしない意見があることは承知している。確かにこの妥結はあまりにも唐突で、慰安婦被害者の了解を十分に得ていたとは言えない。妥結後、韓国政府が慰安婦被害者の説得に努めてきたことは、聯合ニュース、朝鮮日報などの日本語版で知ることができた。また、各社の日本語版の報道は妥結に反対する人々が、抗議のために慰安婦被害者の苦難を象徴する少女像を各地に建てていることも報じていた。このようなせめぎあいの中で日本政府から慰安婦救済に当たる財団設立に伴い10億円が支払われたのは2016年8月だ。慰安婦被害者の納得を得るのは極めて難しく忍耐のいる仕事であることは想像できる。

誤解を広く生み出している安倍首相の処置

釜山の日本領事館近くに少女像が新たに設置されたことを理由に、日本政府が韓国政府へ妥結を誠実に履行するように求めたのは2017年に入ってからのことだ。続いてテレビ出演した安倍首相は少女像を「遺憾」と表明、さらには駐韓日本大使などを一時帰国させるという強い処置にでた。1月31日現在、一時帰国した外交官はまだ韓国へ戻っていない。日本政府、いや安倍首相がとったこの処置は、日本国内に少女像の撤去が財団設立資金提供の見返りであったかのような誤解を広く生み出している。また極右保守派の中には「少女像を公道の不正使用で撤去すればよい」などと内政干渉と取られかねないようなことを唱える向きさえある。

本来ならば財団設立資金提供と少女像の撤去は等価ではないことを丁寧に説明しなければならないのが、外交上の約束を交わした日本政府の果たすべき義務だ。二国間の取り決めで負っているはずの義務を果たすことなく、安倍政権は資金提供の見返りに少女像撤去が約束されていたかのような誤解を放置し日韓の対立を生み出している。また外交官を帰国させるという強い措置は、いたずらに問題を肥大化させてしまった。慰安婦被害者の説得にあたっている韓国政府の背中を蹴り上げるような措置だ。妥結は「金を払ったから言うことをきけ」というような雑駁なものではなかったはずだ。

慰安婦を中傷する展示を放置

日韓双方の妥結は双務的であるので、日本政府は国内の慰安婦被害者に対する侮辱を繰り返す勢力に対して、問題理解を求める必要がある。にもかかわらず、日本政府がそうした努力をした形跡を認めることはできない。北海道新聞が報じるところでは、虚偽もしくは誇張された内容で慰安婦被害者を誹謗中傷する慰安婦展が公共施設でくり返し開催されている。慰安婦中傷を材料にヘイトスピーチを繰り返してきたグループによるものだ。声高に「日韓断交」を叫び、ヘイトスピーチを繰り返してきた在特会とも関係するグループであることが分かっている。慰安婦被害者を中傷誹謗、侮辱し、それをそのまま韓国人へのヘイトスピーチに展開させるこれらの人々の行為について、ヘイト対策法が成立しているにもかかわらず日本政府は公共施設の利用を止めようとはしない。もし、それが市民による表現の自由の範疇に入るのだと言うのであれば、少女像の建立も公権力がいたずらに介入できないことは自明である。前者はヘイトスピーチを繰り返すという点で違法行為である。

少女像を「日本に対する嫌がらせ」と捉えることに問題

そもそも少女像を日本に対する嫌がらせと受け止めるところに、政治的妥結の精神を裏切るものが潜んでいる。もし少女像が公道にあることに不都合を感じるのならば、日本の在外公館の敷地を提供し、今後は両国が一致協力して戦時における女性の権利を守るためになにをしなければならないかを追求して行く象徴とすればよい。そういう方法も考えられるのである。

そのほかにもこれを日韓対立の象徴と捉えなければ知恵はでるものだ。そうした前向きな知恵が出ないのは、極右保守派の、慰安婦問題は日本に対する嫌がらせだとして、日韓の対立と見る見方、考え方に縛られすぎているのである。極右保守派は慰安婦問題を国内政治のために利用してきた。左派リベラル攻撃、朝日新聞攻撃などの材料に使ってきた。そして排外主義者たちはこれをヘイトスピーチの材料にしてきた。そこには外交的視点も普遍的問題に対応しようとする視点もない。これらの人々は安倍首相の今回の無謀な措置を歓迎している。しかし、それは日本のごく一部の見方、考え方であることも申し添えておく。もしこのまま誤解を含んだ韓国敵視の雰囲気の放置を続ければ日韓関係が緊張するだけではなく国際社会からも日本は非難を浴びることになるだろう。ここ数年は東京の大学院への韓国人留学生は激減している。すでに影響は出ているのである。

このような雰囲気の中で結審を迎えた朴裕河氏の名誉毀損事件の無罪判決に「慰安婦が強制的に動員されたことを否定する人々に悪用される恐れ」への言及があることは当然だと言わなければならない。またそのような中でも法理に基づいた無罪判決を出したソウル東部地裁に敬意を表する。朴裕河氏の著作の悪用は著者の責任範囲を超えるものである。悪用されたものについては厳しく批判されてしかるべきであるが、その責任を著者が負う必要はない。残念なことに1月26日、韓国の検察は控訴を決定した。控訴審においても公平な判断を期待したい。

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