(HUFFPOST寄稿)不信と諦めを乗り越えて「日韓協議体」を

朴 裕河パク・ユハ 韓国・世宗大教授

これ以上手遅れにならないうちに、いったい何が問題だったのか、この四半世紀の葛藤から振り返る必要がある。

日韓関係が最悪の方向へとエスカレートしている。

帝国・植民地時代が残した様々な問題が90年代以降本格的に提起されて以降、日本と韓国の両政府は初期には比較的協調していた。

政府間協調が軋みだしたのは、90年代後半に元「慰安婦」を対象に日本政府が主導して民間基金の形で作った<アジア女性基金>が、慰安婦支援団体の強い反対を受けて受け入れられず、韓国政府が元「慰安婦」たちに補償金給付を実施して以来のことである(それでもこの時は60人あまりの元慰安婦たちが、補償金とともに日本の総理の謝罪の手紙を受け取った)。

それでも2002年にワールドカップ大会を日韓両国が共同開催できたのは、当時はまだ政府間の協調機能が生きていたということである。金大中元大統領という、日本でも尊敬されていた存在がまだいたからかもしれない。

2005年にも独島(竹島)問題が一触即発の事態を招いたが、両国の平和を維持すべく努力した人たちが当時はいて、事態は一段落した。平和な解決の背後には思慮深く有能な外交官たちがいた。

反復的に葛藤を引き起こしながらもなんとか平和を維持した日韓の間に、微細な亀裂が入り始めたのは2011年末、駐韓日本大使館の前に「慰安婦」を象徴する少女像が建てられてからのことだ。諦めの声がその頃から日本側から聞こえ始めたのである。「私は韓国が好きなのに、韓国はいつまでも日本を憎んでいる」といった声を、経験を積んだ政治家から若い学生までが発するようになっていた。彼らは、「韓国とどのようにつきあえばいいのか分からなくなった」と、悲しみあるいは怒りを込めて言ったものである。

しかし、韓国にはそうした日本の声があまり伝わらなかった。たまにそうした諦めの感情が伝わっても、90年代と2000年代を通して被害者支援団体が強調してきた「謝罪しない日本・厚かましい日本」のイメージを内面化してきた多くの韓国人たちは、反省もしないくせに、とか、日本との関係などどうなってもかまわないといった「プライド」高い態度を貫き通した。

日本は多くの努力を払ったが、植民地支配という過去が作った必然的な「感情」についてもう少し理解しようとする努力をしなかったし、韓国は現代日本が過去清算をめぐってどのような努力をしてきたのかを、見ようともしなければ評価もしなかった。相手と正面から向き合おうとする思慮深い態度を持つ人々が両方で減っている今日の状況はその結果である。

しかし知るべきは、現在両国民が相手について持っている認識の多くが、学者や支援団体など当事者周辺にいる人々、あるいはごく一部の歴史学者や法学者が作ったものだということである。メディアは、そのなかから自分の気に入った認識を争うように拡散したが、その競争は左右の闘争、言い換えると冷戦体制終息後のアイデンティティ闘争でもあった。

たとえば、現在問題視されている徴用工裁判の判決は、一部のリベラル系の学者が90年代以降ずっと主張してきた考え方に基づく判決である。つまり、1910年の日韓併合は不法行為によるものだったとする「日韓併合不法論」、1965年日韓協定を破棄すべきだとする論、そして慰安婦問題など過去の「国民」動員問題の解決策として、日本が法的に賠償し責任を負うべきだとする論を、最近の判決は深く反映している。もちろん、並行して韓国で現在行われている、過去の裁判所と政府関係者たちに対する再審—捜査・取り調べ・処罰もまた同様である。近い過去の判決が徹底的に右派の考え方によるものならば、現在行われていることは左派的考え方によるものである。

問題は、「左派」なのか「右派」なのか自体にあるのではない。その考え方が(1)学問的に正しいのか、(2)未だ議論が続いている諸説(学問)のうちの一つを司法が無批判的に使っていいのか、(3)左派と右派が混ざっている「国民」を代表する政府が、そうした司法判断をそのまま受け入れていいのか、にある。そして私は、今の韓国政府が過去の政府の愚行を引き継がないことを願っている。

先般の徴用工判決の核心は、賠償金の要求が過去の虐待と差別への「慰謝料」であるということにある。日本が今回の判決をただ批判しているのは、ここのところをきちんと理解していないからのように見える。判決文の趣旨は(中には様々な意見があったことも記しておきたい)自ら明記しているように、植民地支配がもたらした、そしていまだ日本において十分に認識されているとは言えない、帝国統治下におかれていた人たちの精神的・物理的な苦痛に対する賠償金の要求だった。そしてそうした要求自体は、冷戦体制の頃はまだ可能ではなかったという意味で、時代的な要求でもある。

しかし、であるならば、「植民地支配』に対する謝罪要求を、徴用者など日本帝国時代に「国民」として動員された人々が(時代によって状況は異なるが、大きな枠組みではそう考えるべきだ)代表すべきかとなると、それはもう少し議論を必要とするだろう。

「植民地支配」による差別が作った最大の被害者は、「帝国の国民」とみなされて動員された人々以上に、「帝国の国民」のはずが突然「帝国を脅かす敵」とみなされ、道ばたで殺害された関東大震災の被害者だと私は考える。あるいは、物理的な苦痛と無関係でも、総体的な精神的苦痛を受けていた全ての被支配者たちであろう。そこで私は、そうした過去に対する謝罪の心を込めて、植民地支配に対する総体的な謝罪を、日本の国会が国会決議という形で表すのがいいと数年前から主張してきた。「国会」こそ、「国民」の代表だからである。

もっとも、「被害」とは主観的なものでもあって、他者がその大きさを断定していいことではない。大事なのは、どのような被害でも尊重されるべきだということ、そして私たちはそのとき、今は声を出せない死者たちも思い起こさねばならないということである。

同時に、個人の被害が政治・外交問題となり、「国民」の問題となった以上、「国民的合意」を作り出せる時間と努力の枠組みを作らないといけない。それこそが、「国民」を代表する「政府」の役割であろう。朴槿恵政権が作った日韓合意は、両国の外交官たちの努力の賜物だったが、事態に対する正しい理解に基づく「国民的合意」がいまだ存在しないという点を見落としていた。そういう意味では、長い歳月をかけて自分たちの考えを「国民の常識」化することに成功した支援団体の反発が、政府を動かして日韓合意を揺るがし、「和解・癒やし財団」解散という事態をもたらしたのは予想可能なことだった。

日韓両国は過去において、日韓歴史共同委員会を作って接点作りを試みたが失敗した。その失敗は、相手の意見に耳を傾けるよりも自己主張が勝った結果であろう。そもそも、「学問」の領域にあることをめぐって政治的な接点を作るのは初めから無理な試みだったというべきかもしれない。「学問」は動き続けるものだからである。

しかし、「政治」の領域は時に接点を必要とする。集団の問題を扱う共同体領域にあってはなおさらである。共同体とは、個人がそれぞれ歩み寄ることを約束した空間だからでもある。

したがって提案したい。もう一度、過去の歴史がもたらしたいくつかの問題を議論する日韓協議体を作ろうと。そして政府と学者が共に、これまでの不和を乗り越える知恵を見いだそうと。メディアには、議論を傾聴して、問題の論点がどこにあるのか、それぞれの問題とどのように向き合うべきかをめぐって国民的合意を作ってほしい。それだけが、わずか数人の主張がメディアを通して全国民の認識になってしまうような、これまでの構造をゆるがすことを可能にするだろう。

重要なのは、結果以上に対話自体である。対話が続く限り、過去の不幸な時間は克服可能だ。これ以上手遅れにならないうちに、いったい何が問題だったのか、この四半世紀の葛藤から振り返る必要がある。問題はつねに、足下にある。

私は2013年に日韓協議体の形成を提案したことがある。今もう一度、同じことを提案したい。両国の政府と、相手の主張を傾聴するような日韓の学者と、その他の関係者たちが共に議論できる機構を、両国政府が作ってほしい。

「和解・癒やし財団」が残した資金と、韓国政府が新たに設けた資金を合わせて、その対話やその他の和解のための事業に使えるのなら望ましいことだろう。葛藤が残した遺産でも、時に新しい未来を作れるということを、両国政府が次世代に示してくれることを願いたい。

2019・1・11

(この文を韓国語で書いて発表した1月8日の次の日に、日本政府が徴用工判決に関する協議を求めてきたというニュースを見た。韓国政府が日本と対話を始め、徴用工判決以外の問題も、それぞれ議論できる枠組みを作ることを期待したい。)