(5) 元慰安婦、もう一つの考え:「敵は100万、味方は自分ただひとり

ぺさんは、早くに親を亡くし、祖母の下で育ったということだった。慶尚道出身で、小学校に5年生まで通っていたという。そして友だちと一緒に職業紹介所に行ったのが慰安婦になったきっかけと話した。

女性として小学校教育を受けたということは、無学が多かった当時にしては相当な学力といえる。ペさんは慰安所の名前などを紙に漢字で書いて見せたりしたが、驚くほど達筆でもあった。

その後、私とぺさんの話が主に電話を通してのものになったのは、この日のナヌムの家の警戒の結果である。家族のいないぺさんは、私によく電話をかけてこられた。そしてそのように心を開いてくださったことが私はありがたかった。ぺさんはよく日本語を混ぜて話された。おそらく、私が日本語を知っているということが、日本語で教育を受けたはずのぺさんの心を開かせた一因だったのだろう。

私はぺさんの許可を得て二人の対話を録音することにした。

以下は、その録音内容の一部である。最初の録音は12月18日。ペさんからの電話で、その日わたしたちは一時間以上話した。

長くなりすぎないように、話を整理し、文脈がわかるように私の話を入れたところもある。この日ペさんは、強制連行を含む慰安婦問題に対する考え、韓国社会の対応に関する考え、ナヌムの家の元慰安婦の方々との葛藤、ナヌムの家の事務所との関係などについて語った。尊敬語は適宜省略する。

話の端々に、ぺさんがこれまで経験した孤独がにじみ出ていた。言うまでもなく、ぺさんの考えや意見だけが正しいと言いたいわけではない。重要なのは、この日もまた「敵は百万、味方は自分ただ一人」と語ったことである。ぺさんはそのように孤独を訴えたが、私は結局、その孤独な状態を変えてあげることができなかった。

(会話に出てくる個人名は伏字とした。録音状態が良くなく内容が確認できないところも一部ある。括弧部分は私がハルモニに対して語ったことや、この文を書きながら追加した私の考えである。意味が確かでないところのうち、把握・類推可能なところは補完し、語尾など形を整えた部分も多少ある。省略処理した部分は、公開する意味がないと思われるものや、他の元慰安婦の方との葛藤の部分である。)

(録音日2013年12月18日 18:19:24)

<不信>

ぺさんは何度も、慰安婦問題をめぐる周辺の状況について批判していた。この日は、慰安婦が軍隊を追っかけていたと記述した教学社の教科書が問題化した日だったようである。ナヌムの家に記者たちが取材に訪れた話をし、記者たちに対するナヌムの家の対応に対して不満を述べた。

ぺさんは、教学社の教科書を否定するためにナヌムの家が出した資料について「テレビでは相変わらずそれだけを十数年、、、私がここに来てから十八年になるのに、いつもその写真一枚だけ出している」と考えていた。

そして「あの場面は中国ではない。フィリピンか、他の国だろう」と話しながら、「東洋の軍人が服を脱いだ姿で」映されている写真について「そんなことになったら大変だよ。憲兵たちがしょっちゅう見張ってるのだから」とも。そして

「昔、私たちも見たけど、日本人たちが朝鮮で何の、、、そんな商売した人は朝鮮にも中国にもいない、、ここだけの話だけど、みんな、朝鮮人だよ、、、中国では中国人が経営したし、朝鮮人たちが中国語を習って、、、全羅道の人?テアン(?)の人たちがやったよ。日本人は、昔キャバレー、キャバレーや飲み屋みたいなのはやったかもしれないけど、そこで、お客相手に体を売るような商売はしてないよ。日本人は。中国にもいない。」

(でもハルモニたちは日本人もたくさんいたと仰ってますよ)

(日本人業者がいなかったとい発言について、私はぺさんが間違っていたか、日本人業者がそこに少なかったゆえのことかもしれないと考えていた。最近見たある資料によるとハルビンには各種業者のうち朝鮮人が占める割合が90パーセントだったという。(韓錫正『満州モダン』、2016)

「あれはめちゃくちゃなこと言ってるのよ。ならば住所とか、、どこで、そういうことしたというのか(聞きたいものだよ)。そういう人たちに、自分がいた場所を聞いてみないと。そういうの、私が思うには、まあ、また言うけれど、この世では通るかしらないけど、あの世では通らないよ。」

(そういう話、他の人にされたことないのですか?)

(ぺさんの考えがどこまで正しいのか、私にはわからない。いずれにしても、ぺさんは、他の元慰安婦のかたの一部が嘘をついていると考えていた。ぺさん がナヌムの家で孤独だった根本的な理由でもあるだろう)

「たまに、私が、他のことでね、まぁこのこともそうだけど、`あらまあ、この世では通るかもしれないけどあの世では通らないわよ`〜というと、拗ねちゃって、、、」

(中略)

<ナヌムの家と元慰安婦>

「***が美しい財団(注:現ソウル市長朴源淳氏が始めた市民団体)に、日本政府からの秘密の、政府の金じゃなくて民間の金を五千万ウォンもらって、それに自分の五千万ウォンを、、。美しい財団に寄付したのね。(中略)ところが、二千五百万ウォンを事務所にあげた。事務所も、寄付してくれるならありがたいと、受け取ったのよ。だけど、おばあさん同士で争いが起きると、、、(中略)。」

(ハルモニたちが事務所にお金をあげることもあるんですね。知りませんでした。)

(ここで言及されている方は、アジア女性基金を受け取った方である。聞く所によると、ナヌムの家に居住している方はみんな基金を受け取ったという。ところがぺさんですらそのお金を「日本政府の金でじゃなく民間の金」と理解していた。そしてそのお金が美しい財団に寄付されたという。美しい財団は、その金が元慰安婦のための「日本国民のお金」でもあることを知っていながら受け取ったのだろうか。皮肉と言うほかない。

私は朴市長がソウル市長選に出た時、彼を支持した。朴市長は二〇〇〇年に東京で女性国際戦犯裁判が開かれたとき「検事」として参加してもいる。ソウル市長当選後、少女像設置の許可のほか挺対協に対するソウル市の支援が目立っているのもそうした関係の延長線上のことなのだろうか。

<懐疑>

(中略)

「まったく、あれこれ、ここ、全然わけがわからない。(中略)学校出た人がいるんだか。。本人の話じゃ2年生だった時、、なんとかいうけれど、あそこに行けば、娘さんがいる、誰々さんのところに行けばその家の娘がいるとか、、、(というけれど)おばあさんたちがそれを全部知るわけないでしょ。おかしいじゃない。」

(知ってるのがおかしいとうことですか?)

「ここの人たちに、、、連行された、と言うから。外にいたのに連れていかれたとか、、」

(あ、どこの家に娘さんがいるのか、村人じゃないならどうやってわかるのかということですね?)

「その人たちがどうやってそれを知って連行しに行くの?。。おかしいじゃない。」

(中略)

(ぺさんは、一貫して支援団体と一部の元慰安婦の方のいわゆる「強制連行」主張に対して懐疑的だった。

(私を非難する運動家たちは、挺対協が纏めた証言集にそうした話も全て入っているのだから元慰安婦たちの声を押さえつけたことになるわけではないと言う。
しかし、重要なのは、なぜ外への伝達過程で「異なる声」が排除されたのかという点だ。また、国内メディアと日本社会と国際社会に向けての運動で、なぜこうした声とは反対の声だけが強調されたかという点である。わたしはその理由について、最近ようやく理解できた気がしている。それについては後述することにする。

<憐憫・孤独>

(ぺさんは、自分は尼になるべき運命と言われたのにそれとは「反対」の人生を生きることになったと自嘲的に語った。アフリカの貧しい子供たちを助けたいと考え、一緒に暮らす元慰安婦の方に促してもいたという。ところが「私たちの方がもっと可哀想だ」と言われ、同調してもらえなかったことに残念な気持ちを繰り返し語ってもいた。そうした情けの気持ちは、あるいは「尼になるべき運命」への自覚からきていたのかもしれない。

ぺさんは中国で日本からの独立を迎え、韓国戦争の頃日本に渡ったという。そこで長く暮らし、56歳になってから健康を壊して韓国に戻った。帰国の時は甥に韓国から来てもい、永住権を返還して韓国に来られたようだ。)

「日本を離れる時、故郷に帰ったところで誰もいない。どうして私はこんな運命になったのだろう、、、という気持ちになってね。故郷に帰ってみたら、いとこたちが9人もいたのに皆死んで一人だけ残ってたの。あと、腹違いの弟が一人、プチョン(?)にいた。(中略)、、、これはもう小説にも書けない。。、」

(最初のうちは慶尚南道の倭館で暮らし、九十二年、金泳三大統領の時代に元慰安婦を探している放送を見たという。)

「あの時、腹違いの弟もいたし、こんなこと知られちゃいかんと思って知らんぷりしたのよ、、」

「(ところが)金泳三が、あの方が、そういう経験ある人はあらいざらい書いて申し出ろって、そういう経験のある人は申し出ろって言って。正直、私は大邱出身で、つれて行かれたわけじゃなく、大邱に行って、人事紹介所、そこに行って、そういう話をしたのが、、、」

「あの時は郡庁とかで、チラシで広告だしてて、スウォンからどこどこに行けばいいっという、そういうチラシをたくさん出していたから、それを見て、(申し込みに)行ったんだ。」

(ぺさんの人生もまた、小説のごとく数奇である。幼い頃に親を亡くし祖母に育てられ、おそらく独立のために、職業紹介所にみずから赴いた少女(1923年生まれということだったが、何歳に行ったのかは聞いてない。)友だちも親戚もいない日本で、戦後も長く暮らし帰国した一人の女性。ぺさんの話を聞きながら、私は「天涯孤独」という単語を思い浮かべた。ぺさんが初期に手を挙げたのは、そうした孤独から逃れたかったからかもしれない。)

<沈黙・信念>

(何故、ハルモニの話を聞こうとする人がいなかったのでしょう。他のハルモニたちのお話はほとんど記録されて世の中に出ているのに。どうしてハルモニの話は聞こうとする人がいなかったのでしょうね。)

「いや、わたしだって大体はするけど、あの人たちが書いてるのを見ると、まあ、何を言っているんだか、わからない。小説を書ける人たちはうまく書くのだろうね」

(自分の人生は小説にも書けないと言っていたぺさんは、今度は「小説」という表現を使ってほかの元慰安婦の証言に強い違和感を示していた。一般に通用する「小説」に対する相反した二つの理解(一般人が経験することのできない波乱万丈な「真実体験」。また、その逆の意味としての「虚構」。)をぺさんもまた共有していた。

元慰安婦たちの経験は言うまでもなく重いが、自分とまわりの人の体験に限定される。したがってぺさんが見届けることがなかったというだけで、ほかの元慰安婦が語った事実が存在しなかった、ことになるわけではない。しかし私は、ぺさんの違和感を理解した。

早くに声をあげ、慰安婦問題とほぼ同じ月日を生きてきたぺさんの違和感。長い間共に運動に関与してきた方々が、いつかこの違和感に応えてくれることを願いたい。)

(中略)

(ハルモニのお話はとても興味深いのですけれど、何故他の人たちはその話を聞こうとしなかったんでしょうね。ハルモニが話されなかったのですか?)

(中略)

「研究者たちが来ても、特別に私のところに来て聞く人はいなかった。おばあさんの中には、アルツハイマーになった人もいるし、寝たきりの人もいるし、ものごとへの理解ができてたりできてなかったりするひともいるしねえ。。

知ったかぶりをする若い人たちには、まぁ、何も言いたくないの。まあ、、まためちゃくちゃだろうと思ってね。勝手に話を進めるのだけどそれに向けて、私が、歴史を知りなさいよ、知りなさいよ、、、と(ことさら)言う必要もないしね、、、」

(ぺさんの語る「知ったかぶりをする若い人」が誰だったはわからない。いずれにしても、ぺさんはその人に対してご自分の体験を「語る」ことは無意味だと考えたようだった。口述記録者が、既に決まっている「正解」を期待してとりかかったのだろうか。ぺさんの話が残されてなかった背景にはそうしたことがあった。
他の元慰安婦の健康状態に対してのぺさんの言葉は、ご自分の健康への自信とエリート意識が作ったものなのだろう。真実は、ナヌムの家の関係者たちだけが知っているはずだ。この時から丁度半年後、私はナヌムの家に暮らす九人の元慰安婦の名前からなる告訴状を受け取ることになる。

(中略)

「日本軍につれていかれたと言うし、、軍人が十三歳の子供を殺したとか。。。(しかしわたしは)自分で聞いてない話は聞く必要がない。これは間違いない、そういう質問だったら(答えて)残すかもしれない。しかしこういう話、おかしいな、と思うと、私はもう話さない。」

 (それで話をされなかったのですね。ほかのハルモニたちと話が異なるようです。)
(ぺさんの信念が垣間見える気がした。ぺさんにとっては、ただ自分の話を聞いてもらうことより、真実を残すことが重要だったようである。)

「その人たちも個人向けではあまり話さない。他の人たちが来ると話すかもしれないけれど。、、、)

(そうだったんですね。ありがとうございます。色々話してくださって。)

「あんたはまぁたまたま日本語もできるし、私がしようとしてしてるわけではない。たまたま、その、、喋りたいという、そういう(気持ちが)、、、」

(このあいだも、偶然テーブルで同席しただけなのに、ハルモニが色々お話ししてくださって驚いたけど、嬉しかったです。)

「私は日本と親戚でもないし、日本が特別に、まぁ、私についてきてあれこれやってくれたわけでもない。お金をもらったこともないしね。

私は正々堂々。私はお釈迦様を信じてるから、正々堂々と、私が知ってるのは自分の心のうちだけ。ここにいる人たちにたまに聞いてみると、直接は聞いてないけど、***は、まぁ、口を開けば、全部〜から殺した、〜から殺したと。まぁ殺したとして、噂とはいつも、何ヶ月後にでも噂は立つもので、どこかで何かがあったら噂になる。しかし、私は噂を聞いたことがないのだよ。なのに、(そういう)私が(話を)作って喋らなきゃならないの?

短い命じゃないの、ひとは。生きてったって。ちょっとだけこの世に来て、また帰ることになっている人たちなのに、何のために嘘つく。言葉を作ったり。そんなこと絶対ないよ(中略)。」

(ぺさんの信念は、仏教徒であることから来ているようだった。ぺさんは誰よりも自分に素直であろうとした。そして、そうした自分を「正々堂々」という言葉で表現した。「短い命」「ちょっとだけ」来てまたあの世に帰る人生。私がぺさんに親近感を覚え、一人の人間として好意を持ったのは、こうした性格と価値観のためだったように思う。

 ぺさんは、自分が考える真実を語る理由が日本との特別な関係のせいではないということも強調したがった。

もちろん、他の元慰安婦の方たちに対するぺさんの視線がどこまで正当なものであるかは、現場にいなかった第三者が判断すべきことではない。ぺさんは、他の元慰安婦たちは喜ぶ「高い(栄養)注射」を断り、それほど高価でない注射を受けたという話もした。そういう話も、他の方たちがより体調が悪かった結果と考えるべきだろう。

 ただ、ぺさんが自らの健康と命に対しての執着があまりなかったということだけは、確かだった。)

<日本人訪問者>

(中略)

(ハルモニたちの中には、証言で「日本の首相は私たちが死ぬのを待っている」という風におっしゃる方もいます。)

「あぁ、あの人たちは、首相だけじゃなくほかの場合も、`私たちが死んだかどうか見に来たのか`という風に言う。だから、(日本の)学生たちがそれを知って泣くの。

(中略)日本人に、本音かどうかは関係なく、日本人が訪ねてくれば、ただ、ようこそいらっしゃいました、っとでも挨拶して、日本としても、その、あれこれ苦労が多いですねとか、心がこもってないとしてもそう言えばいいのに、「あんたら何しに来たのか、わたしたちが死んだか死んでないか見に来たのか」***がそう言いながらつめよるだよ、お客さまに。」

(学生たちにもですか?)

「あぁ。そのように韓国語で言って睨むから、学生たちは理由がわからなくて泣いてるの。」

(だけど、見ればわかりますよね。嫌われているというのは、、、)

「そう、良い言葉ではないなあ、とわかるだろう。」

(やさしい子たちが多いのに、(ハルモニたちは)どうしてそうされたのでしょうね。。)

以上が、2013年冬のある日の夕方の、ぺさんとの電話内容を纏めてみたものである。ぺさんの話は、多くのことを語っている。訪ねてくる日本人に向けての「態度」はただの礼儀の問題ではない。ひとつの態度は、目の前の対象に対する理解と感情、さらにその人の性格と価値観が形造るものである。

私がこの文を書くことにしたのは、ひとりの元慰安婦のこうした「態度」を伝えたかったからでもある。

日本に対する態度にとどまらない、世界に対する態度と平和の関係については、第3章で書きたい。


ハフィントン・ポストのリンク

盧 志炫, 「朴裕河『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』」

書評 朴 裕河『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』(盧 志炫)

早稲田大学地域・地域間研究機構 次世代論集 第 1 号

朴裕河『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』

プリワイパリ社 2013年 327頁/ 朝日新聞出版2014年 336頁

東亜日報記者

早稲田大学 アジア太平洋研究科 博士課程満期退学

盧 志炫

2016. 3. 6

1. はじめに―「20年公的記憶」への挑戦としての本書の意義―

韓国で2013年8月、朴裕河 (パク・ユハ)教授の『帝国の慰安婦』が出版されたときは、社会的反響がこれほど大きくなるとは予想できなかった。発売日がちょうど8月15日「光復節」(植民地から解放された日)だったため『帝国の慰安婦』を扱ったメディアは多かった。2013年8月、多くの文化部記者は「社会的論議があり得るにしても、解決できないままにいる慰安婦問題に対する新しい視点を示している」という立場が多かった。少なくとも2016年現在のようにパク・ユハ教授の本を「正しいか正しくないか」の二者択一の観点からは取り扱っていなかった。「現在の韓国では、パク教授の主張はまさに親日派だと言われる。実際インターネットでは彼女をめぐって「隠れ日本右翼」というふうに批判する意見が少なくない。68周年を迎える光復節を控えての出版という大胆かつ論争的な『帝国の慰安婦』は韓国でどのように受け止められているのか。([本と人生]慰安婦解決法、日本政府はもちろんのこと、韓国の民族主義も障害物)『京郷新聞』2013年8月9日」)

一方では、より大胆な評価もあった。「著者のこのような挑発的主張に肯定するのは確かに容易ではない。しかし、慰安婦問題に関して日本のみを激しく睨みつけてきただけだった私たち自身の姿を一度鏡に映して見るべき時期にも来ているのではなかろうか。」(「慰安婦、半分の真実…隠されている残りの半分をあばく」『東亜日報』2013年8月10日)

もちろん、パク教授の趣旨が誰にでも受け入れられたわけではない。「民族主義的な観点で安易に問題を捉える人々にとっては確かに衝撃的である。しかし、その衝撃は直ぐさま疑問をもたらす。特に・・・帝国と冷戦が残した問題を解決しないままでは慰安婦問題の真の解決にはほど遠いとの虚無主義的主張からは、著者の意図と関係なく日本右翼の影はちらついている」(『ハンギョレ21』第974号、2013年8月16日)からうかがえる。ただし、当時パク教授の本が法的訴訟につながると予想したメディアは、多くなかった。

10ヶ月後事態は急変した。2014年6月「ナヌムの家」で生活している慰安婦被害者のおばあさん9人は、『帝国の慰安婦』が慰安婦被害者たちを「自発的売春婦」・「日本軍協力者」などと名誉を毀損したとして、出版差し止め・販売等禁止の仮処分申請を行うととともに一人あたり3000万ウォンの損害賠償を求める請求訴訟を起こした。裁判所が2015年2月仮処分申請を一部受け入れることで現在『帝国の慰安婦』は問題となった34ヶ所が削除された状態で再販されている。パク教授は1審で9000万ウォン(日本円で約900万円)の損害賠償の支払を命じる判決を下された。

彼女の民事控訴審は現在進行中である。民事とは別に、刑事訴訟のためにパク教授は国民参与裁判(2008年から始まった国民が評議して有罪・無罪を決める「陪審制」と、裁判官と国民が協同する「参審制」から成る)を申請し、自身の本の原稿すべてをホームページに公開した。2015年12月知識人約190名は、パク教授の刑事起訴に反対するという内容の声明を発表した。彼らは、『帝国の慰安婦』の主張には議論の余地はある。しかし、慰安婦問題自体が最初から葛藤を抱える複雑な事案」だと述べながら「起訴により研究と発言の自由が制限されることがある」と主張した。(「朴裕河への刑事訴訟に対して知識人190人が声明」『ノーカットニュース』2015年12月2日)

12月末の韓国政府と日本政府による電撃的な外交的合意は、パク教授を非難する側をより刺激した。「韓日政府が共謀して(好き勝手に)合意を決定した」と主張する側からは、パク教授の1審での敗訴を「正義が勝利した」と解釈した。

このように韓国の状況を詳しく説明する理由は、『帝国の慰安婦』が単なる学術書の領域に止まらない影響を持っているからである。

2.増えていく登場人物、薄れていく加害性

この本は、大きく三つの部分に分けられている。まず、一つ目は朝鮮人慰安婦がどのような経路で日本軍が駐屯している所まで行くようになったのか、また、彼女らがそこでどのような事を経験したのか、慰安婦からの生前の証言に基づいて説明している。二つ目は、日本大使館前での水曜集会を主導している韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)などの支援団体が何故問題解決をさらにむずかしくさせたのかについて指摘している。最後の三つ目は、国際社会で軍慰安婦に関連した内容と合意内容について説明している。

この本が不都合に思われる理由は、長年韓国人が抱いていた一つの物語(Plot)を壊したからである。「幼い少女たちは無理やり連れ去られ、遠く離れた異邦で性奴隷として操られ、苦しめられたが、これについて日本は謝罪を行わず、右翼政治家たちの妄言が相次いでいる。」というものだ。このような、かわいそうな朝鮮人少女と悪い日本国という登場人物が二人の物語を『帝国の慰安婦』は揺るがしている。少女を朝鮮から中国へ、名の知らないある東南アジアの島へ移動させた大勢の登場人物たちが新しく登場してくる。(韓国版26p、日本版34p) 共同体は少女を守ることができなかった。日本人業者だけでなく朝鮮人業者が人身売買と就業詐欺に関わったと著者は説明している。(韓33p、日40p)

韓国人にとって植民地時代の朝鮮人とは、「独立のために抗日運動を行った救国の英雄」と「祖国を売って自分自身の個人的栄達を求めた親日派」の二つのイメージしかなかった。著者は、その両極の間に数多くの人間たちがいたことを指摘している。お金のため、生きるためという理由と、女性の人権を重視しない家父長主義とが、歯車のように噛み合っていたこともあったのだ。 この本は、朝鮮人が介入していたという理由で日本を兔責していない。戦争と帝国主義、強制動員により自らの意思に反して犠牲にされた女性たちについて悲しんでいる。また、彼女らの尊厳と名誉は保護されるべきだとも語っている。

しかし、著者のこのようなアプローチは、必然的に反発を招きかねない。慰安婦を苦しめたり搾取したりした人が民間業者であること、軍が関わってはいたが、その関与した形は私たちが想像しているものとは違っていたと著者が語れば語るほど「一つの敵」が消えていくためである。銃と刀で少女の性を蹂躙した悪のイメージが薄れていくなかで、「だとすれば加害責任は誰に問うべきなのか」という問いだけが残されてしまう。著者は幾度もなく帝国主義システム下で犠牲になった朝鮮人慰安婦問題に対して日本が積極的に乗り出して解決すべきだと促しているが、韓国で「日本の立場を代弁している」と非難されるのもそのためである。

日本軍に対する「他の証言」も韓国読者たちを混乱させている。特に、「同志意識」という部分が非難された。(韓75p、日92p)日本軍は、邪悪な集団としてのみ知られていたが、慰安婦証言集の中の軍人も人間であった。馬に一緒に乗ったり傷を治療してあげながら故郷の話しを語り合ったりする姿、戦闘を前に恐いと言って泣く兵士、死を前に「もう自分には要らない」といいながらお金を置いていった兵士…。「日本軍人と互いに愛し合い、数十年が過ぎた今も忘れられない」と言いながらいまだに彼の名前を憶えているという慰安婦の証言に、韓国人読者が憤りを覚えるのもある意味では当然である。この記憶では加害性が薄れているからである。著者は、慰安婦を闘士としてのみ理解するのは、彼らに記憶を強制することであり、慰安婦たちから自らの記憶の主人になる権利を奪うことだと非難している。(韓117p、日143p)

3.アジア女性基金についての再評価

この本は、それまで失敗したと評価されてきたアジア女性基金についても再解釈を行っている。韓国内では支援団体と学者たちの説明から「日本は、政府レベルの謝罪と補償を行わないために民間基金の形で「適当に」はぐらかそうとしている」という常識がある。著者は、アジア女性基金が韓日両側の支援団体による度を越した憶測が原因で失敗したと評価した。著者は、アジア女性基金について再評価するととともに、韓国社会内で「存在するものの存在しないがごときに声を失っていた」慰安婦おばあさんたちの意見を紹介している。(韓122p、日145p)韓国メディアでは、それまでアジア女性基金に対して反対したり、受け取りを拒否したりしたおばあさんたち、特に支援団体が主管する水曜集会に参加するおばあさんたちの声を多く紹介した。

これに対して、著者は沈美子(シン・ミジャ)おばあさん(2008年死亡)など合計33人が組織した「ムクゲ会」について詳しく述べている。彼らは、1990年代はじめは挺対協を受け入れようとしたが、その後は挺対協の闘争方法に反対する形で組織された。挺対協または支援団体の関係者たちがおばあさんたちを大事にせず、政治活動にのみ没頭しているということが反対の理由だった。アジア女性基金がスタートした際、挺対協は本当の謝罪ではないという理由で、おばあさんたちが日本からお金を受け取ってはいけないと主張した。韓国政府に登録されている軍慰安婦被害者238人のなかで61人だけが基金を受け取った。著者は、アジア女性基金を通して日本の謝罪を受け入れた慰安婦おばあさんたちの声は支援団体によって排除されたと主張している。それまで彼女らは、お金のために裏切った、戦列を乱した裏切り者であった。この本は、彼女らの声も復元させている。

慰安婦おばあさんたちに対する韓国人の心は、罪責感である。国が弱く、力がなくて女性たちを守ってあげることができなかったという申し訳なさと、彼女らの恨みを70年が過ぎている今でも代わりに晴らしてあげるべきだという気持ちを持っている。しかし、これまで「一つの声」だと思われてきた慰安婦おばあさんたちの考えが、実は多様であったのだとすれば、最終解決策や終着駅はどこにすべきなのか。その終着駅について明確だったはずの一つの正解が不透明になったのである。

4.終わりに:解決方法についての根本的な問い

著者は、支援団体が主張する「国会立法による解決」は現実的に不可能だと言っている。日本の法的責任についても既存の主張とは対立する主張を繰り広げている。加害性は薄れてしまった。今まで一元化された慰安婦おばあさんたちの代弁人と思われていた支援団体に対しても批判している。だとすれば、どうすべきだろうか。

この本は、「0」(日本総理の公式謝罪と国会立法による補償)と「1」(朝鮮人慰安婦は自発的売春婦であり、日本は間違ったことをしていない)の極端だけが存在すると思っていた韓国読者に不都合さと驚きを与えた。0と1の間に0.2、0.4、0.7も存在すると語っている。この本は、混乱している読者に一つの明快な答を提示することはできない。「被害者はいるが加害者はいない」という状況を創り上げている。そうだとすると慰安婦の悲しみは、個人の悲劇にすぎないものなのか。

支援団体という中間代弁者について批判をすることで、著者は読者を「それではどのように解決すべきなのか」について悩ませている。韓日合意を受け入れる慰安婦おばあさんがいて、そうではないおばあさんがいるとすれば、何を基準にすべきなのか。最終合意とはどの場合に行われるものなのか。一人でも容認できないのであれば最終合意には至らなかったことになるのか。 『帝国の慰安婦』は、明快な勧善懲悪のストーリーを非常に複雑にさせた。話が複雑なために韓国内では「慰安婦おばあさんを売春婦のように描いた」と非難されることもあり、日本の右翼から「私達と同じく考えている韓国人もいる」と一部分のみを抜き取られて引用されることもある。しかし、両者ともに自分が見たい部分だけを抜き取って利用しているに過ぎない。

韓日の若者達が憤怒を再生産したり、あるいは無関心になるのは防がなければならない。生存者も残りわずかであり、90歳になるおばあさんが憤怒と悲しみを抱いたままこの世を去らないことを期待している。この本は、その和解に至るまでにどうすればよいのか韓日市民に問いを投げかけている。韓日の両国政府が合意履行過程をどのように進めていくのかをまず見届けたいという人が多い。その過程の如何によって『帝国の慰安婦』は互いに対する理解の地平を広めた本になることも、または慰安婦おばあさんたちの尊厳を損ねた本になることもできる。結局、『帝国の慰安婦』は今後の政治状況によって引き続き議論にならざるを得ない、悲しい運命に生まれたのである。

参考文献

1)京郷新聞 2013年8月9日付 (2016年3月6日閲覧)

http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?code=900308&artid=201308092100545

2)東亜日報 2013年8月10日付(2016年3月6日閲覧)

http://news.donga.com/3/all/20130810/56940279/1

3) 「解決されない日本軍「慰安婦」問題を覗いてみた二つの視線」『ハンギョレ21』第974号 (2013年8月13日) (2016年3月6日閲覧)
http://h21.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/35183.html

4)ノーカットニュース2015年12月2日付 (2016年3月6日閲覧)
http://www.nocutnews.co.kr/news/4512471

 

 

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(4) NHK問題について

二度目にハルモニに会いに行った時は、NHKソウル支局の記者たちと一緒だった。NHKの記者とは、韓国語版が発刊された時インタビューに応じたのがきっかけとなって知り合った。『帝国の慰安婦』に対する韓国メディアの反応が悪くなかった((盧 志炫) 朴裕河『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』)ことに対して興味を持つたようで、この本が韓国社会にどのように受け入れられるのかを記録しておきたいと言い、私の学生たちにもインタビューを行った。

そして、慰安婦問題をめぐる私の足取りを追いたいので、関係ある日程などあれば教えてほしいと頼まれた。

私は彼に協力した。『帝国の慰安婦』は日本を向けて書いた本でもあり、アジア女性基金解散以降、慰安婦問題にあまり興味を示さなくなっていた日本のが慰安婦問題に興味を示してくれているのだから、拒む理由はなかった。

また、その記者は、偶然にも私が留学中に在学していた大学の後輩でもあった。そのため、何回か会ううちに打ち解けた話もできるようになった。慰安婦問題解決にも役立ちたい、と言っていたので私は彼を信頼した。ぺ春姫さんと電話で二度目の訪問の約束をした時、記者にその日程を教えたのはそのためである。

 

そして前日、ナヌムの家の所長にも明日訪問する旨のメールを送った。返事がなかったので、翌日の朝に再度電話文字を送った。やはり返事はなかったが、いざ訪ねてみると安所長は事務所にいた。事務所を通してはじめて会えるシステムなので、ぺさんに会う約束をしたと告げたが、所長はNHK記者とともに訪ねてきた私を露骨に警戒した。そして、映像撮影はだめだと言った。

この日の訪問目的は、食堂で始めて会って少ししか話せなかったぺさんにあって時間をかけて話を聞くことにあった。なので所長の拒否は納得もいかず残念だったが、仕方がなかった。私たちは録画をあきらめ、ぺさんの部屋で話を聞いた。

 

私たちがぺさんの話を聞いている間、ナヌムの家の職員が何度も様子を見に来た。話の内容が気になったのだろうか。ともかくその日わかったのは、ナヌムの家の元慰安婦の方々には自分の意志とおりに外部の人に会える自由がないという事実だった。そうした状況はその後もっと繰り返し確認できた。

 

私を訴えた直後に、ナヌムの家の所長はこの日の訪問について、記者が 「朴さんがボランティアをやっているところを撮りたかった」と話したと、悪意のある嘘をフェイスブックに書いて私を非難した。また、関係者たちに同じ話メールで送りつけた。さらに、2015年12月、 起訴抗議んの記者会見を私が開いた直後にも、この話をメールでいろんな人に送りつけていた。しかも、その後、日本の支援者たちの集会でも同じことを話したと聞く。日本の北原みのりさんなどは所長の言葉を信じ、その話を SNSで拡散させた。

 

これまで私はこの件に関して積極的には解明しなかった。そうした話は一笑に付されるものと考えたし、時間もなかったからである。

しかし、日韓合意の後、これまで運動を担ってきた人たちによる攻撃はさらに強まり、いまや学者による曲解や非難までも周辺の人が確認せずに信じて拡散させるにいたっている。

私がこの文を書くことにしたのは、そうした内容のものが「証拠資料」という名前で刑事裁判部に出されているためである。自分を守るためでもあるが、友人たちの名誉を守るためでもある。

それにしても、こうしたことを書かないといけない状況を心から悲しく思う。あるいは、喜劇というべきだろうか。

 

以下の下線の引用は、ナヌムの家の所長が関係者たちに送ったメールからの抜粋である。

パクユハ氏、ナヌムの家の所長に電話し、挺対協反対行動に参加することを強要

 

2014年2月頃、なんの面識もないパクユハ教授がナヌムの家の所長に電話をかけ、所長もそろそろ挺対協に反対の声をあげる活動に参加せよと強制し、電話を切るときは親切に応答してくださってありがとうと言いました。そしてパクユハ氏が一度会おうというので、所長は毎週月曜と木曜以外は週末もナヌムの家で勤務しているので、そこで会おうと言いました。これに対してパクユハ氏は、外交部で発表をするため時間がないので、セジョン大学で会おうと言いました。しかし、所長の日程上、セジョン大学で会うことはなかった(以上、安信権利、2015年12月はじめのメール)

 

私の携帯に残っている文字テキストによると、ナヌムの家の所長に電話したのは2013年11月15日だった。 慰安婦関連の外交部の会議に呼ばれていたが(学者としての意見を述べただけで、「発表」ではなかった)、出席者名簿に所長の名前もあったので、彼がソウルに来る機会を使って会って、慰安婦問題をめぐる謝罪と補償についての考えを聞いてみたかった。そこで彼に電話したのである。そして、会議の前にでもソウルに来ることがあれば、会いたいと言った。私は世宗大学で会おうとも、挺対協に反対しようとも言っていない。もちろん 、「強制」したこともない。

 

最初の出会いの翌日、私はともかくも当惑させたことへの誤りの言葉とともに、「私も解決方法を模索しているので出来れば本を読んでほしい。その後、また会いましょう。必要であれば本を送ります」と電話メールを送った。彼はこのとき私に「忙しい中、ナヌムの家を訪ねてくれたことに感謝します。本は自分で買います」との返事をくれた。

 

ということは、彼が私を敵対視するようになったのは、必ずしもこの訪問ではなかったかもしれない。既に書いたこともあるが、安所長が私を訴えた背景には、ぺさんと親しく交流したこと、そしてそのぺさんを含む元慰安婦の方々数人の声をシンポジウムを通して世に送り出したことがある。

さらに所長は、多くの人にばらまいたメールで次のようにも書いていた。

 

パクユハ氏、ナヌムの家の訪問申請やハルモニたちの許可もなくNHK-TVの撮影を試みる

 

パクユハ氏がナヌムの家に訪問し所長と初めて会った時、事前に「ナヌムの家」やハルモニたちに知らせたり許可を得ることなく、一方的に日本NHKの記者を連れてきました。そしてNHK-TVの記者は、ハルモニたちとパクユハ氏が交流している姿を撮影したいと言いました。所長が、ハルモニたちに事前に同意をしてもらわなければならないのに何事だ、と問いただすと、パクユハ氏は謝りもせずに「ナヌムの家」は誰もが撮影するところではないかと言いました。 NHK-TVの記者は、所長に、パクユハ氏がボランティア活動をしている姿を撮りたいと言ってきました。そこで所長が「日本軍慰安婦被害者」ハルモニたちのためにパクユハ氏がボランティアをしたことなどないのに一体何を撮るのか、と聞き返しました。そして撮影は不許可となりました。


すでに書いたように、私はこのときぺさんと前もって約束をしている。元慰安婦の方に会いたがっているNHK記者がいるのでよかったら一緒に行く、と事前に了解をとってもいる。撮影するとすれば対象は私ではなくぺさんだったし、日本に向けての撮影なのだから当然のことだ。 「朴裕河さんがボランティア活動をする姿を撮りたい」と記者が言ったというのは、所長の嘘でしかない 。

ともあれ、わたしたちはその日、一時間ほどぺさんの話を聞いた。


ハフィントン・ポストのリンク

(3) ペ・チュンヒさんとの出会い

多くの学者が関係している挺対協も、私を告訴するつもりでいた。その考えが、本に対する反感によるものなのは確かだ。とはいえ、本そのものだけを原因として告訴を検討したという点では、ある意味で純粋だったと言えるかもしれない。

挺対協ではなくナヌムの家が、そして発刊直後ではなく10ヶ月も経ってから告訴に至った背景には、私とハルモニたちとの交流がある。そうした意味において、私が再びナヌムの家に行かなければ、告訴されることはなかっただろう。また、その間に出会ったハルモニたちの声を社会に伝えるためのシンポジウムを翌年の春に開催しなければ、そしてそのシンポジウムについて日韓両国のメディアが好意的に注目することがなければ、告訴されることはなかったはずだ。

この告訴は、そうした意味において、本そのものが問題となった告訴ではない。私に対する警戒心が、私を告訴させた 。

つまり、支援団体の考えと異なる考えを有するハルモニと私が出会ったことが、告訴の遠因となった。原告側が私を警戒し危険視したということは、告訴状のあらゆる箇所に現れている。支援団体は、彼らの主張と運動を私が妨害していると考えた。それだけではなく、ナヌムの家や挺対協に対する、一部のハルモニたちの不満を私が知ったことも、彼らが私を警戒したもう一つの理由だったのだろう。

だから、私はまず関係者たちに言いたい。私には関係者たちの長年にわたる苦労を貶めたい気持ちはない。長年続いた活動に 、ましてや多くの人が集まって決めていく行動に、間違いがないはずはない。だが、一つの方針を決めるために数多くの議論と悩みが存在したはずであり、(2016年9月4日に一橋大学で発表された山下英愛さんの発表資料、「日本軍「慰安婦」問題とオーラルヒストリー研究の・への挑戦」を読んで、私は活動家たちが証言集を作りながら、私が思った以上に思い悩んだことを知った )そうした苦悩と議論の時間に敬意を表したい。また、運動を成功させるのための、私のあずかり知らぬ努力と涙にも。

しかし、同時に、私を告訴したナヌムの家の嘘と暴力を、学者や運動家など関係者たちが2年以上放置してきたことに対して深く失望せざるをえない。検察が主導した調停委員会の調停過程において、私は、ナヌムの家に言われた、元慰安婦の方々への謝罪も念頭においていた。しかし同時に支援団体も私に謝罪してほしいと私は要請した。それは、こうした思いからである。告訴自体も納得できなかったが、告訴以上に、原告側による、「朴は、`慰安婦は自発的売春婦`と主張した」との枠組みのせいで私に浴びせられた、全国民的な非難と性暴力の欲望までも示していた罵倒を、女性の人権団体を標榜する支援団体が傍観し長い間沈黙してきたことが、私は長い間信じられなかった。

20年以上慰安婦問題に関わってきた人たちのうち誰も、私に対する告訴を取り下げるようにと声をあげた人はいない。そのことは、私自身のためにも悲しいが、こうした状況が昨今の韓国の非倫理的状況と無関係とは言えないことこそが私には悲しい。関係者たちはともすると政治家や経済人たちを非難するが、倫理的でないのは彼らだけではない。

ナヌムの家には、日本政府が90年代に謝罪と補償のために設立したアジア女性基金関係者でもあった日本人たちとともに赴いた。彼らは、日本政府の予算でハルモニたちを温泉に連れて行ったり、料理をご馳走したり、お小遣いを差し上げていた。そのために年に何回か韓国を訪問しているということだった。彼らと知り合ったのは日本で「和解のために」の日本語翻訳本が出てからである。

訪問の前日、ナヌムの家の所長に連絡すると、自分は所用で不在だが事務局長に会えばいいと言われた。そのため、私は初めて訪ねた日、謝罪と補償に関するナヌムの家の考えを事務局長に聞いた。そしてナヌムの家が挺対協とは異なる考えを持っていることを知った。彼らは、自分たちは当事者を中心に解決するつもりであり、「法的賠償」ではない、調停を引き出せる裁判をアメリカで始めると言った。そして、この裁判に賛成するという意味でハルモニたちの印鑑が押印された書類も見せてくれた。

そしてハルモニたちがいる建物に移動し、ホテルで出会ったユ・ヒナム ハルモニやほかの数人の方たちとしばらく話しあった。ハルモニたちが10人暮らしているということだったが、その場には全員はいなかった。体調が優れないため、と事務局員が説明した。

そして車に乗って食事の場へ移動した。ハルモニたちは寿司が好きだというので、わたしたちは日本料理店に向かった。そしてそれぞれいすに着いた時、偶然向かいに座った方が、後に深い交流をすることになるぺ・チュンヒさんだった。ペさんとは、食堂に行くまえにナヌムの家の居間で顔は合わせたが、話はしていなかった。

ぺさんが私たちと一緒に座ったのは偶然だったのだろうか。この頃は知らなかったが、ペさんは日本が好きだったので、最初から日本人のいる席に座ろうとしたのかもしれない。ともあれ 、ぺさんの彼女の隣に日本人が座ることになり、私たちは自然に日本語で話した。映像からもその姿を確認できるが、ぺ さんは時々周りの人たちを意識していた。

ぺさんは開口一番、興味深い話をされた。そこで、日本を許したいと仰った時、私は許可を得て携帯電話のカメラで録画を始めた。

私はこの日の映像を、翌年ぺさんが亡くなった直後に「ぺさんも国家賠償を求めていた」とナヌムの家の所長が話している 報道を見て、 フェイスブックに公開した。2014年6月10日のことだ。ぺさんに不利益があるかもと考えて、それまで公開しなかった映像である。

この映像の中でぺさんが語った話を、そのフェイスブックから転載しておく。

`この話が入ったら。。。だが、この話が入ったら、それこそ敵は百万、こっちは一人、そういうことになるわけ。`

ぺさんは、具体的な話の前に、自分の話がナヌムの家の他の人らに知られることを恐れた。長い年月を共にしてきた人たちを「敵」と言わせた心理は何だったのだろうか。それは必ずしも敵愾心から来た表現ではないはずだ。それはただ、自分の考えをあるがままに表現できなかったことに対する絶対的な孤独を表したかった言葉であろう。

ぺさんは続けて、日本を許したいと話した。 私はなぜそう思うようになったのかと聞いた。

`いや、思うって、うちは仏教で、あの世の事、この世の事、ずっと聞くでしょう。ひとがこの世に来て、何か一ついい事しないで、そのまますっと帰るというのはあれだし。うちが一人だったら、許せば、許して、うちがこっちでこういうこと、あういうことあまりしないとかね、それで黙っていたら、むこうは何かが他の、何かほかのお礼を返すかも知らん。`

ぺさんは、初対面の私に、韓国の運動方法に対する批判を始めた。それはなぜだったろうか。ぺさんは、他の人たちにもこうした話をしたことがあるのだろうか。もしかすると、それは「日本語」だったからこそ声になった話だったのかもしれない。ぺさんの、ただならぬ話が「日本語」で話されたことの意味を、第3章で改めて考えたいと思っている。

`こういう相談する人もおらんし、ひとりでテレビを見ながら、ひとりで考えるわけ。だから、一生一代ね、この世に産まれてきてね、いいことするのね、一人だったらできるけど、`

ぺさんは90年代からナヌムの家にいらっしゃると聞いた。ぺさんがこうした話をあまりしなかったとすると、長い年月の間、「ひとりで」心に抱いて過ごしたということになる。重要なポイントは、ぺさんが、容赦という未だ一度たりとも実現されていない日本と向かい合う自分のやり方を「良いこと」だと認識していたことだ。

`だから、こっちも言ったのね。それもらってあの世に持っていくのかって、冗談で言うわけやん。
にこにこ笑いながら、あの世に持っていくの?ってね。すると自分の子供らにやるってね。親だからね。
その欲まで持ってくのかと思って黙っていたの。何も言わないで。`

他の慰安婦の方たちを批判しているようだが、それは「親」ゆえのことと、ぺさんは理解していた。ぺさんが語る、元慰安婦の方の考えと態度の差異は、その方たちが、世間から見られようなただ透明な存在にとどまる存在ではないことを示している。それは、当たり前のことでもある。私が「帝国の慰安婦」の中で(無垢で透き通った)「少女」や「闘士」としての慰安婦像を批判したのも、こうした理由からだった。1990年代に試みられた日本の補償以降に起こった元慰安婦たちの分裂と支援団体の葛藤を知っていたからでもある(<和解のために>2章)。

日本人支援者たちの中には、元慰安婦の方たちをただ無色透明な存在とみなす方たちがおおいようだ。その分、強い感情移入のあることも見受けられる。支援者の態度がどうあるべきかについての考えは、2009年に執筆した論文で述べた 。(「あいだに立つ」とはどういうことかー「慰安婦」問題をめぐる90年代の思想と運動を問い直す)、インパクション)例えば、少し前に北原みのりさんが、ナヌムの家の所長の話を信じて私を非難したのも、そうした心理の結果であろう。

補償に対する元慰安婦たちの考えをただ欲深いとのみ言うことはできない 。ぺさんがそうした考えに距離を置くことが出来たのは、仏教徒としての心得の結果だったようだが、家族がいなかったからかもしれない。

こうして、私は、「帝国の慰安婦」を出した後の2013年の秋に、世の中に知られているのとは必ずしも一致しない考えを持つ元慰安婦の方に出会った。

 

`なんで、あれ送れないのかといって、もうしゃべるでしょう。しゃべったらうちは黙っているでしょう。あなたは日本人がそんなに好きなのかって言うわけ。日本人のお客さんが来たら好きでしょう!って。それで言い返すわけ。
うちは何も言わないで、黙ってテレビだけ見るー
いや、黙ってテレビだけ見て、自分たちは(日本人の)ワルグチいって、うちも一緒になって言ったらいいけど、
言わないでしょう。言わないから、みんなうち一人を注目するわけ。

いやっていうのは、テレビ見ても、お金のこととか、そういう、あの、首相が出て来てもうちは黙っておるでしょう。
だから、一緒になってワルグチ(いわないのが行けないの。)
悪口言ったらいいのに、黙っているの見ていたらね、わたしとかね、自分の、、に言ってるわけ。`

ぺさんは日本のことが好きだった。独立以降も日本に赴き、30年ほど暮らし、80年代に帰ってこられたようだった。言うまでもなく、長く住んだからといってその地域に必ずしも愛着を持つことになるわけではない。
この時の対話の後、ぺさんは時々私に電話をかけてきた。話が進むにつれ、私はぺさんが北朝鮮や中国を嫌っていることを知り、中国から帰ってこられた別のもと慰安婦の方を嫌っている理由も、それ故ではないかと考えた。
ぺさんは、独立以降の冷戦体制を生きてきたほとんどの韓国人と同じように、冷戦後遺症を深く内面化させていた。

ナヌムの家は日本に対する好感を公けに表してはならない場所だった。しかし、ナヌムの家建設には多くの日本人が寄付を行い、常住するボランティアたちの多くは日本人だった。にもかかわらず、そこでは表面的な敵対と実質的な好感が共存することはなかった。表面的な敵対が、感情配置において優位に置かれる構造の中で、ぺさんは孤独だった。

`そう、うちは仏教。家の中でも、他の人は仏教って、あの、何か、、、したから、
、、、だけで仏教じゃないの、他の人たちは。
その、クリスチャンが四人おるわけ。心から徹底して、「うちはなんでもないです」っていって、
でもうちら、お寺に寄付やったことでわかったわけ。あ、あのおばは仏教だなってそういうことわかったけど、
その金をうちがね、ちょっとだけ服やらあったらね、たくさん要らないし、まぁ、他の人は親がなくなっていないけど、
うちはその金を仏様にあれしたほうがいいなと思って、お寺に寄付したほうがいいなと思って、他のところより。お寺に寄付した。それで、気がさっぱりするもん。お寺の仏様に、何かあれに使ってくださいっていって寄付したわけ。`

ナヌムの家のさんたちの間には、冷戦体制の後遺症だけではなく、宗教差もあったようだ。世間ではよくあるそうした差も、ぺさんをより孤独にしたのかもしれない。しかし、ナヌムの家は仏教財団が設立した場所である。ナヌムの家に暮らしている尼さんとも仲がいいようだった。

ぺさんの孤独は、冷戦体制50年の後遺症が作り出したものだ。同時に、「日本」という名前から自由でなかった、独立以降70年間の韓国社会が作り出したものでもある。無論、その構造は韓国人が置かれている構造そのものでもある。

ぺさんは、「元慰安婦」という無色透明な抽象名詞を、それぞれ異なる顔を持つ、具体的な名前を持つ固有名詞に変えてくれた。同時に、そうした構造を今一度認識させてくれた。ぺさんの孤独はわたしたちみんなが作ったものでもある。

ぺさんとの交流は、そのようにして始まった。


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[裁判関連] 刑事訴訟 公判記1-アイロニのるつぼ

朴裕河

2016年8月30日

半年以上を費やした準備期間が終わり、第1回刑事裁判が始まった。予定していたことではないが、昨日の公判について簡単に書いておくことにする。

朝9時半。法廷に入ると、いつものように多くの記者たちが待っていた。感想を述べてほしいと言われたが、言いたいことはなかった。圧倒的な暴力の前では言葉を失う。そうした瞬間を、私はこの2年2カ月間繰り返し体験してきた。

検察は、冒頭陳述で、民事裁判での原告側の主張を繰り返した。「朴裕河の本が慰安婦ハルモニたちの社会的評価を貶めた。よって、処罰すべきである」と。私 がそのためのことを「間接的に暗示」したので起訴に至ったというものである。(私は私を「日帝の娼婦」と「明示的に」侮辱したナヌムの家の所長やその他の 人々に対し、いまのところ何の対応もしていない)

検察は、河野談話、国連報告書、アメリカ下院決議などを挙げながら(この20年間、慰安婦 問題を解決するための運動と研究の成果として蓄積された多くの文書が、いまや私の「犯罪」を証明する「証拠資料」として裁判所に提出されている)、既に 「国際法を違反した」ことと国際社会が認めた慰安婦問題について、朴裕河は「性奴隷」を売春婦とみなし、強制連行を否定し、日本軍と同志的関係にあって誇 りを感じたとした、と述べた。そして日本語版は韓国語版と異なるとしながら、私の「隠された意図」を今後日本語版に基づいて説明するとまで述べた。(これ は告訴のあとずっと私を批判し続けてきた鄭栄桓氏の主張でもある)。

検事は最近出版された私に対する何冊かの批判書を持参していた。そして、応酬の最中に何度も「帝国の弁護人–朴裕河に問う」などを覗きながら本の主張を読み上げた。

検事が主張を述べおわった後、判事が裁判の争点をまとめたパワーポイントを画面に映した。

この裁判は、

1 事実の摘示か、意見の表明か
2 事実の摘示である場合、客観的に名誉毀損に該当するのか
3 告訴人個々人に対する名誉毀損なのか
4 摘示された事実が虚偽なのか
5 違法性があるか

を基準に結論が下されるとの説明だった。

私の弁護人も冒頭陳述を行い、私も発言権を得て検事の起訴状に対する反論を読み上げた。

続いて、検事が名誉毀損だと指摘した35カ所を三つ のカテゴリーに分け、処罰すべき理由を述べた。そして弁護人が、指摘された35カ所についての反論を始めた。もともと、35カ所を一つ一つ見ていくことに していたのである。しかし、午前に続いて午後の4時間をかけたが、結局10までしかできなかった。元々はこの日、判事が「最も重要な証拠」と述べた、本に ついての検証を全て行う予定だった。

検事が法廷で述べた主張と、それを聞きながら思ったことを「答弁」の形で書いてみた。弁護士もある程度答えたが、私に発言権が与えられたとしても、こうい うことをすべて述べるように許されたかどうかはわからない。判事が述べた「判断」のための材料になるものとは認められない内容も多かったろう。

検事の主張は名誉棄損かどうかの域を超えている。しかし答えないと、そうした主張も私を判断する間接的な材料となるだろう。少なくとも傍聴席を埋めた記者たちを通して世論には影響を与えるはずだ。そうである限り名誉棄損とは関係ないと考えながら答えなければならない。

しかも答えるべき発言権がその都度与えられるわけではない。私は法廷で、当事者でありながら当事者ではなかった。

———-

検察:検察は、原告側と和解させるための調停を行ったが、被告人が拒否したがために起訴に至った。

答弁:調 停では、①ハルモニ(元慰安婦の女性)たちに対する謝罪、②2015年6月に出した削除版の絶版、③日本語版の削除を求めてきた。削除版は原告側の言い分 を一部認めた仮処分判決に従い、削除すべきとされたところを削除して出したものである。したがってなんの問題はなく、特に日本語版は翻訳版ではなく独自の 出版なのでそうする理由もなく、そうする権利が私にあるわけでもない。

検察:朝鮮人慰安婦を米軍基地の女性と同一視した。

答弁:
米軍基地の女性も韓国政府を相手に損害賠償を求めている。彼女たちも、「愛国」の枠組みで働かされた。

検察:「自発的売春婦」と書いていないと主張しているが、このように本に書かれているではないか。それに前後にその根拠がない。

答弁:「自 発的に行った売春婦」に引用記号がついている理由は、この認識が引用だからである。本の前半、慰安婦は売春婦と主張する人たちを批判するパートで、「自発 性の構造」という小見出しを付けて論じ、彼らの考えを批判した。そして、後ろで、前半の内容を整理するパートで、その概念をもってきて使ったのである。本 を最初から文脈を逃さず読んだ人であれば、無理なく繋げて読めるはずだ。

なにより、この部分はもともと2011年に日本で連載しながら日本 語で先に書かれたものである。そうした経過や文脈を完全に無視している。このフレーズの前に「日本の否定者たちの言うところの」と書いていれば誤解の余地 が少なかったのかもしれない。そのように「わかりやすく」書かなかったからといって、それが告発の理由になるのだろうか。

検察:朴裕河の本は表面的には問題なさそうにみえる。実に緻密な「反論できない構造」なのだ。多くの逆接表現を使って対立する意見を並行させて記している。この本は「隠蔽された犯罪の本」だ。

答弁:そ うした主張は批判者たちのものである。しかし、矛盾するようにみえる事柄が並んでいるのは、第1にこの本が一人の読者のためのものではないこと、第2に体 験が実際多様な形で存在していること、第3にこの本が一つの事実を規定する歴史書の方法ではなく、過去のあらゆる「事実」に対してその後裔たちがどのよう に向き合うべきかを考えるような方法の本だからである。残された様々な「事実」のうちひとつだけを強調しがちだったこれまでの「歴史」の記述方式とそのイ デオロギー性に私は批判的なので、当時を生きた人たちとどのように向き合い、理解し受け入れるべきかを模索した本である結果であろう。そのような方法論に 反発し矛盾とみなすのは、どっちなのかを性急に聞こうとする気持ちによるものである。一つの事実のみを語らなければならないのが法廷だとすれば、そうした 意味でもこの本を法廷に持ち込むべきではなかった。

検察:しかし慶北大学の法学者キム・チャンロク教授などは、2016年2月のハンギョレ新聞においてこの本が「例外の一般化、恣意的な解釈、過度な主張」をしていると指摘している。

答弁:私 が選んだ内容が、たとえ全体の口述の中での数が少ないものだとしても、それが「例外」だと誰にいえるのだろう。過去に関する口述も、むしろ現在に依拠して 行われることが多いというのは、口述史研究の先端認識でもある。キム教授のいう「例外」が、後になればなるほど少なくなったということもそれを傍証してい る。

また、証言集全てをみれば、強制連行があったと言っている人はむしろ少数だ。にもかかわらずその話をもって「強制連行」を主張してきたことこそ「例外の一般化」ではないのか。

また、もし少数だったとして、それを理由に否定すべきとするのなら、証言者の中で少数の「強制連行」を一般化して主張してきた根拠を示すべきだろう。

検察:また、若い歴史学者の批判によると、朴裕河は非難されないために「安全装置」を使ったという。そうした「安全装置」がこの本では多数使われている。なのに、そうでないという弁明に終始している。

答弁:私 が慰安婦ハルモニを侮辱するつもりだったのなら、直接的に書いたはずだ。原告側と検察は、見えるままに、書かれたままに読まず、意図を疑いながら想像を事 実であるかのように主張している。どうして、書かれていないものをあえて読み取ろうするのか。批判者たちの言う「政治的意図」を先に読み取り、そのための 記述と疑ってかかった結果なのだろうが、それは過去において、思想犯に対して存在しない事実を自白させようとした態度と同じではないのか。

検察:『帝国の弁護人』という本に掲載された歴史評論家によると、「朴裕河のペンは二つだ。日本に向けたペンは丸く、ハルモニや朝鮮に向けたペンはあまりにも尖っている」。

答弁:歴 史家でもない、歴史評論家の意見が犯罪証拠として主張されることを悲しく思う。日本に向けた私の批判がどのようなものかは、日本人が判断すべきことであろ う。むしろ、厳しい批判だとの意見も少なくなく、慰安婦問題を植民地支配問題として問うたことに反発する人たちもいた。朝鮮・韓国に対する批判は、韓国人 にとって居心地の悪いものかもしれないが、それは個人関係がそうであるように、国家関係でも自省が必要と考える私の価値観ゆえのものである。これに関する 私の考えは、機会があるときにもう少し詳しく説明したい。たとえ私の考えに問題があったとして、それは法廷で責められるべきことなのだろうか。

検察:日本に法的責任を問わなければならないのに、朴裕河の論法は主語を省略するなど、記述を巧妙にしてどのような責任であるかを不明確にし、争点をぼやかして日本の責任を否定する。

答弁:そ のように見えるのは、「法的責任」のみが責任だとする考えが作り出した疑いによるものだろう。原告側や批判者たちこそ、私が「日本の責任を否定した」とす る話を広めて、国民的な非難を率いた。これこそが、私の言葉を歪曲し「争点をぼやか」したことであり、卑怯なことではないのか。この問題を見る視点が異な るが故の結論だが、それは法廷で責められるべきことなのか。

検察:慰安婦を、貧困を理由に自発的に性売買を行う女性扱いした。否定者たちの言葉を引用しながら、「事実としては正 しいかもしれない」とした。倫理にもとる戦争犯罪と認められた慰安婦問題を、そうでないかのように歪曲した。岡本ゆかによれば、日本の右翼がこの本を引用 しながら慰安婦は日本軍と同志的関係だとした。

答弁:私が本の中で批判した両極端の人たちは、本の出版 後はそれぞれ歪曲を続けた。一方は、自分たちが言いたかったことと全く同じであるかのように利用し、もう一方は私の言葉が自分たちとまったく異なるもので あるかのように歪曲して攻撃した。思うに、その両者は、それまでの考えを守ることにしか興味がない。私の本が、検察が主張するような本だったなら、出版直 後に好意的に取りあげてくれた韓国の新聞の書評らは全て過ちだというのだろうか。慰安婦問題に深く関与しなかった人たちは、心を開いて私の本をありのまま に読んでくれた。

検察:慰安婦問題をホロコーストと比較したことを批判したことは、ホロコーストを否定したも同然である。

答弁:ユダヤ人とドイツ人の関係は、朝鮮人と日本人の関係と同じではない。

検察:「娼妓」「売春婦」とは、金をもらい体を売る人を意味する。そうした人たちと慰安婦を同一視し、自発性を強調し た。「からゆきさんの末裔」という言葉で、自発的に体を売りに行く者たちと同一視した。からゆきは親が売ったと言われているが、受諾書もあったという。朝 鮮人はそうではなかった。

答弁:「日本人娼妓」と苦痛が同じだったという話は「娼妓」よりも「日本人」 を強調したかった表現である。日本軍慰安婦はもともと日本人であったこと、身体を搾取されるのは自発であるかどうか関係なく苦痛だという意味だ。朝鮮人の 場合も、基本的に受諾書が必要だった。業者が偽造したり、戸籍を偽った場合も多いと見ている。

「からゆき」という言葉を使ったのは、第1に 日本軍慰安婦の最初の対象は日本人だったという点、第2に国家の勢力拡張に伴い移動させられた人であるという点、第3に貧困な人たちであったという点を主 張するためのものだ。あえて日本語の「からゆき」をそのまま使ったのは、そのためである。

検察:同志的関係であって愛国的誇りがあったという表現に、ハルモニたちは一番憤慨している。

答弁:同 志的関係とは、一次的レベルを指摘したもので、帝国の一員として包摂された状況を意味する。その枠の中で慰安が戦争を助けるものと意味付けられた状況を示 している。その中で、たまたまありえた男女の親密な関係は、正確にいえば、朝鮮人と日本人の関係、すなわち民族アイデンティティとして出会ったというよ り、男女として、性的アンデンティティを中心にした関係だ。また、遠くに移動させられ孤独だった人同士の環境的、階級的なポジションが作ったものでもあっ た。

愛国を強制されたが、死ぬときには「天皇陛下万歳」よりも「お母さん!」と叫びたかったという日本人兵士の場合も同じである。私は国家 が強制した愛国の枠の中にあったと説明しただけだ。もちろん、実際にどれだけ内面化したのかは誰にもわからない。私はそこまで書いておらず、目に見えるテ キストの存在を指摘し、分析しただけである。

検察:愛国的誇りがあったという根拠がない。

答弁:例えば、国防婦人会のタスキを付けると嬉しかったという記述がある。それは、愛国の枠の中に置かれるとき、ようやく一人の人間として認められたかのような錯覚がおきたのであり、国家がそれを利用したことを語っている。

検察:日本語版では、異なることを言っている。次回に、朴裕河の隠れた意図を証明してみせる。

答弁:異なることを言っていると考えるのは、第1に最初からそのように見ているからだ。第2に読者が異なる以上、表現や内容を多少整理するのは当然のことだろう。

日本に対し、より必要な言葉を、同時に日本人を説得できる言葉を探そうと努力した。それは、糾弾の言葉は他者への説得において効果的でないと考える私の価値観ゆえのことである。それにしてもなぜ日本語版のことをここで話さねばならないのだろうか。

検察:朴裕河の本を擁護する人も多数いる。しかし、我々が指摘した35カ所について反論した人はひとりもいない。

答弁:擁 護者たちが反論しなかったのは、批判書の中の批判だ。あえてそうするだけの生産的な議論にならないと認識したからだろう。そのほとんどが名誉毀損とは関係 のない指摘である上に、また、一々対照して検証しないと、私さえも批判の歪曲に気づけないほどの巧妙な歪曲と嘘の多い批判が多い。

私ですら、そうした批判に向き合う時間的余裕と意欲が最近までなかった。しかし彼らの批判が検察の主張の根拠として使われているので、今後答えることにする。基礎的なレベルの誤読や嘘に答えるのは私一人で十分だ。すでに2年もやっている。

同時に、指摘された部分を含めて、全体として私の本が名誉棄損をするような本でないことを、多くの人たちが指摘している。

検 察は名誉毀損と関係ない部分を持ちだし、私をある意図を持った魔女扱いしている。民事裁判がそうだったように、裁判部と国民に向けて(検事は常に記者たち の顔を見ながら主張していた)影響を与えようとしてのことだろう。名誉毀損とは関係のない、学問的見解に関しても答えるほかないが、こういう話が法廷で行 われることが悲しい。

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裁判所でのことなので徹底した反論になるほかない。本当の批判者たちに向けての言葉は、また別のものになるだろう。

この裁判の最大のアイロ ニーは、検事も弁護士も、学者若しくは既存の報告書の意見を「代弁」している点にある。そうした論文や報告書を作成した当事者たちは法廷にいない。疑いよ うのない代理戦でありながら、議論の当事者たちは法廷に姿を表さないのである。そして彼らと異なる考え方をした私だけが、「被告」として法廷に呼び出され ている。耐えられないアイロニーの坩堝の中に。

Link: 「帝国の慰安婦」刑事訴訟 公判記1――”被告人”としてひとり法廷へ

歴史との向き合い方–誰のための不和なのか

朴 裕河

私が執筆した本、そして私を巡って起きたことについて書き綴ってみようと思う。本来であれば、とっくの昔に書くべきであったのだろう。しかし、時間的・精神的な余裕がなかった。そして8月30日には、2013年に発刊した私の本『帝国の慰安婦――植民地支配と記憶の闘い』を「犯罪」として処罰しようとする裁判が開かれる。これまでフェイスブックにその都度起きたことや考えを書いてきたので、その過程の「記録」ならある程度残してきた。また、いくつかのインタビューや公式的な文章にもこれまでの私の考えは書いている。

しかし、本当に必要なことは書けなかった。2007年、『和解のために』の日本語版がある在日韓国人の女性研究者とその周りの人々から批判されたとき以来、私は日韓知識人たちの「歴史との向き合い方」について書こうとしてきた。しかし、他のことに関わっている間、時間が過ぎていった。もうこれ以上引伸ばすのはよくないと考え、書き始めることにした。裁判を目前にしてはいるが。いや、裁判を目前にしているからこそ。

過去を振り返るこの文は、これからの裁判と共に進み、事態に対する私の整理と分析と反省を込めたものになるだろう。もちろん、これまで私に向けられた多くの批判と非難と疑惑に答えるものになることを願っている。そうした意味で、遅きに失したが、特に批判者の方々に読んでいただきたい。

『帝国の慰安婦』は三つの訴訟の対象となった。名誉毀損なので処罰してほしいと国家(検察)に訴える刑事裁判、この本によって損害を被ったから賠償してほしいとの民事訴訟、そしてこの二つの裁判の結論が出る前に、速やかにこの本の問題部分を削除してほしいとする仮処分訴訟(後述するが、原告側は最初は全面的な出版禁止を求めていた。そして途中から請求の趣旨が変更された)、の三つである。

そして、2015年2月の仮処分訴訟と2016年1月の民事訴訟で、私は敗訴した。二つの裁判に対し直ちに控訴したが、これらの控訴審は刑事裁判第1審判決後にしてくれと要請したので、現在は刑事裁判のみが進行中である。そして半年近く「裁判の準備」だけをし、今まさに刑事裁判が始まろうとしている。予定通りであれば、10月10日に刑事裁判1審が終わる。

それなりの使命感をもって執筆した本が「審判」の対象になるのもそうだが、私がこの裁判において最も残念に思っているのは、私を罰してほしいと国家に訴えた主体が「慰安婦」ハルモニ(おばあさん)たちになっているという点だ。これから詳細に語ることになるだろうが、この告訴と起訴は、慰安婦問題をめぐる知識人(運動家を含む)同士の考え方の違いが作り出したものと私は考えている。

もちろん、ハルモニの主体性を否定しているわけではない。少数であっても、ハルモニたちの中にはこの事態を主体的に判断し、行動することができる方々が確かにおられる。である限り、告訴の主体がハルモニたちとする考えは間違ってはいない。

しかし、学者でさえ、この本を「どのように」読んだかによって評価が異なってくる。さらに、裁判所にはこれまで慰安婦問題解決のために支援団体などが行ってきた活動関連資料と、研究者たちの論文や書評が数多く引用されたり、直接提出されたりしている。ハルモニたちが告訴主体になっていても、裁判資料はすべて周りの人々が作成したものであり、私は私を守るためにそうした資料に対し反論してきた。むろん、これからも反論し続けなければならない。

そうである限り、この裁判がどのように始まったにせよ、実状において、法廷が裁判を助ける周りの人々と私の考えが対立している場であることは間違いない。この事件の最大のアイロニーは、私を処罰したがる学者たちが裁判所にはいないということだ。そのような空間で、彼らと私の考えが法曹関係者たちに代弁され、まもなく、結論までもが、学者不在の場で下されるであろう。

とはいえ、どのような過程があったにせよ、私の本がハルモニたちの怒り、悲しみ、戸惑いを誘発するきっかけとなったので、私は告訴された直後、「ハルモニたちに申し訳ない」「今回の訴訟の主体は実際には『ナヌムの家』(注:元慰安婦が共同生活を送る支援団体の施設)の所長と思われるが、彼から歪曲された説明を聞かされたかもしれない、若しくは本の一部を読まされたかもしれないハルモニたちの怒りは理解できます。そして本来の意図とは異なる形で伝わったにせよ、私の本が原因となってハルモニたちに苦痛を与えたのならば、申し訳ないと思います」と書いた(2014年6月16日フェイスブック)。

そして最近、ハルモニたちに直接手紙を書こうとした。いや、私は既に3回も手紙を書こうと試みた。
しかし、そうした手紙を書き、また近い人たちの意見を聞く過程で、私はそれまであまり考えてこなかったことを色々と考えさせられた。そして、まずはこの文を先に書くことにした。

告訴以降の私の行動と文章は、注目され、監視され、疑いに満ちた「解釈」の洗礼を受けてきた。そのように私の言葉が変形されてきた以上、たとえその手紙が出されたとしても、そうした運命から逃れられなかったであろう。

なので、ハルモニたちに手紙を書くことは少し留保しておく。そして私の言葉と行動が、「解釈」の暴力の下に置かれない日を待つことにする。

まずは、この事態を、時間をかけてゆっくりと振り返ろうとするこの作業が、ハルモニたちと批判者たちに対する手紙になることを願いたい。

慰安婦問題は単純に日韓の問題ではない。20年以上にわたる日韓両国の運動と、関係学会と、この問題を長い歳月の間報道してきたメディア、この問題を巡って発言してきた知識人、そして現実の国家政治まで影を落としている問題なのだ。慰安婦問題に関して書いた私もまた、そうした構図の中に入れられてしまった。かように複雑に絡まった問題を、どこまで解くことできるだろうか。それでも試みてみる。

そうした私の試みが、この問題に深く関わってきた人たちに、小さくても何らかの刺激になることを願っている。そして私の文がきっかけとなって、それぞれの場から見えた事柄と考えが、より多く世の中に出てくることを願っている。そうなったとき、慰安婦問題は、私たちの中において、私たちの時代を前に進める動力に、初めてなってくれるであろう。そのとき私たちは、葛藤と傷に見舞われた4半世紀の過去をようやく肯定的に抱きしめられるのではないだろうか。

(続く)

Source: http://www.huffingtonpost.jp/park-yuha/historical-consideration-one_b_11763860.html

(2) 元「慰安婦」の方たちとの出会い

1.2 元「慰安婦」の方たちとの出会い

 

慰安婦問題を改めてちゃんと論じようと思ったのは、『帝国の慰安婦』にも書いたように、日本政府がいわゆる佐々江案を提案したのに韓国政府が支援団体の反対を気にして拒否した2012年の春である。もっとも、慰安婦問題に対する私の考えの概略はすでに『和解のために』の中で書いていた。そういう意味では、あえてまた書くべき必然性はなかった。しかし、日韓両国民(若しくは左翼と右翼に)に向けて意見を提示した『和解のために』は、日本では過分な反応を得たが、韓国(支援団体)ではメディアの好意的レビューを得ながらも当事者周辺の人たちには黙殺された。そして、2010年代に入ってから、挺対協の少女像建立と李明博元大統領の竹島訪問以降、両国のメディアには露骨な嫌悪と憎悪が溢れるようになっていた。なにより、大人の主張を信じるほかない若者たちが、傷つき敵対心を募らせつつあった。私は、それまでの四半世紀以上に深刻な四半世紀を目の前に見る思いがした。

そこで、帰国後、時間を惜しんで執筆に励んだ。人に会うことさえできるだけ減らした。一冊の本が世の中を変えられるとは思わなかったが、小さな声が別の声と出会うためには、まずは静かな湖に石を投げるべきと考えた。毎日のように何らかの日韓間の葛藤が報道されるような状況だったので、できるだけ早く書きたくもあった。怨恨を抱いたままこの世を去る方が一人でも少ないこと願っていた。そして2013年夏、私は『帝国の慰安婦』を出版した。

 

『帝国の慰安婦』はいわゆる歴史書ではない。歴史と`向き合う方法`について考えた本である。そのために必要な、最小限の「ファクト」について考えてみた本だ。学術書の体にも作れる資料を用いながらも一般書の形式で出したのは、両国民が広く知るようになった問題である以上、アカデミズム内の議論だけでは、この事態を乗り越えられないと考えたからである。

 

追われるような気持ちで本を出してから、私はその秋から元慰安婦の方たちに会うことを始めた。執筆中に会わなかったのは、20年も前の古い証言集の方こそが、慰安婦をめぐる状況を豊かに示していると思ったからである。そこには、イメージが単一化される以前の、「国民の常識」となり「国定教科書」的集団記憶になる前の、「女たちの話」があるがままに残されていた。

 

私は証言集に残されていた、そうした女性たちの声に耳を傾け、それに基づいて「朝鮮人慰安婦」がどのような存在であったかを考えた。結論として、アジア女性基金事業の終了とともにこの問題を忘れていた感があった日本に向けて、新たな謝罪と補償が必要と書いた。どういった形が良いかは、当事者も含む協議体を作って議論し、この問題について国民に広く知ってもらうようにメディアの参加も得ての解決が必要とした。日本版では国会決議が必要とも付け加えた。しかし、証言集のみに依拠しての結論だったので、私には「今、ここ」を生きている元慰安婦の方たちに会う必要があった。

 

慰安婦問題発生初期から元慰安婦たちのために尽力してきていながら、アジア女性基金関係者ということで挺対協から敵対され、入国禁止にまでなった日本の女性ジャーナリストがいた。『和解のために』でそのことに触れたことが縁になって、私はその女性と会うことにもなった。その人は基金解散以降も続いた、日本政府の予算で行われた元慰安婦のアフターケア事業にかかわっていた。

 

そこで私は、その女性がまたソウルを訪問した時、元慰安婦に一緒に会いたいと頼んだ。そして市内のあるホテルで元慰安婦の方たちに会うことができた。中には、証言集で口述を読んだことのある方もいられた。

その出会いは私にとっては緊張に満ちた体験だった。「和解のために」を出した後でもあり、10年前とは状況も気持ちも変わっていた。本を書くことは元慰安婦の人生や歴史や現在の政治にコミットしたことでもある。私には書いたことに対する責任があった。自分の分析が間違っているとは思わなかったが、それでも、私の知らない歳月、私の知らない辛酸を極めた体験に向き合うことは、緊張を要した。

その日、私は元慰安婦の方たちから主に日本の謝罪と補償についての考えを聞いた。体験を一部聞きもしたが、個々の詳しい体験を聞くことは控えた。慰安婦問題の専門家になろうとも思わなかったし、新たに本を書く気持ちもなかったからである。私ひとりのために、苦痛の記憶を思い出させる権利はないとも思った。

 

そして、以外にも最初の出会いの時から、私は彼女たちが望む謝罪と補償が、支援団体が語ってきた主張とは異なることを知った。その後自宅に出向いてお会いした他の方も同じだった。その方は、「強制的に連れて行かれた」体験を繰り返し語る方だったが、それでも「法的責任」の要求などは要らない、補償金を受け取れればいいと述べた。

 

驚きはなかった。すでにアジア女性基金を巡っておきた分裂と葛藤を知っていたので、そうした声の存在は十分に予想できることだった。同時に、そうした声があるという理由だけで、長い歳月の間、この問題を様々に研究し考え、解決のために頑張ってきた支援者たちの考えが、当事者でないという理由だけで無視されるべきとも思わなかった長い歳月を当事者たちを支えてきた支援者たちは、半分当事者のようなものと考えたからである。

 

重要なのは、そうした声がこれまで「聞こえてこなかった」ということだった。私はそのことを再確認しながら、『和解のために』と『帝国の慰安婦』にを通しての私の試みが無力だったことを知った。本を書いた重要な目標の一つは、この問題に関する元慰安婦の「もう一つの声」を伝えることだった。しかし、私の試みは依然として失敗したままだった。元慰安婦たちとの出会いは、わたしにはそう気付かざるを得ない時間でもあった。

 

その他の元慰安婦の方たち会うには、挺対協やナヌムの家を介さなければならなかった。すべての個人情報は支援団体が持っていたからである。

しかし、水曜集会に参加してきた私の教え子は、元慰安婦の方たちとは話すどころか接近さえできなかったと言った。元慰安婦が外部の人に会うことを極力避けているように見えたとも言った。

 

挺対協に私が直接連絡をとらなかったのは、挺対協が私を『帝国の慰安婦』刊行直後に早くも訴えようしていたことを知っていたからである。本が発刊されて間もない頃、挺対協関係者が弁護士を呼んで私を訴えるべく相談したことを、私は二つの経路から知った。しかしこのとき相談した弁護士は、告訴に対して否定的だったと聞く。

ところが、2016年3月、私への起訴に抗議する声明を出してくれた日本の学者たちが開いてくれた討論会に出された李・ナヨン教授の資料には、元挺対協代表の鄭チンソン教授と私の本をめぐって相談し、対応するだけの「価値がなかったため」対応しなかったと記されていた。

 

どちらが真実か、私は知らない。確実に言えるのは、最初の告訴状で指摘された100箇所以上の本の抜粋の中には、挺対協に関する記述が少なくないということである。『帝国の慰安婦』は挺対協批判でもあるのだから、関係者たちの戸惑いも理解できないわけではない。私への告訴に踏み切ったのはそれから10ヶ月後のナヌムの家であり、挺対協が実際に関与したのかどうか、関与したとしてどのくらい関与したのかこれもまた私にはわからない。

しかし、仮処分と損害賠償裁判に出された原告側の書面と資料にあったのは、運動家と学者の顔・意見そのものだった。私の本を「虚偽」とみなすべき「証拠資料」として出されていた多くの資料が20余年の挺対協の活動のたまものであることは間違いない。国連報告書の類は言うまでもなく、そこには河野談話さえ入っていた。慰安婦問題を否定する人たちを批判するために用意された全ての資料が、今度は私に向けて出されていた。現在進行中の刑事裁判でも、まったく同じ資料が提出されている。

 

そのような挺対協を介して元慰安婦の方たちに会うのは不可能にみえた。そこで、私はもう一つの支援団体(福祉施設)であるナヌムの家に連絡した。挺対協と違って自分たちの考えを積極的に外に出すような活動をしなかったので聞きたかったからでもある。

始めて電話で繋がったナヌムノ家の所長に、学期中でソウルから離れているナヌムノ家まで行く時間がまだなかなか作れないので、近々ソウルに用事がある時は連絡してほしいと頼んだ。はじめ所長は、私に丁重に接した。

そしてある日、(11月のことだが)私の方でナヌムの家に行けそうだと電話で話したとき、当日自分は不在だが、事務局長と話したらいいと言ってくれた。

そこで私は、11月末のある日、先の日本人女性ジャーナリストと一緒にナヌムの家に行った。ホテルで会った方のうちのひとりがナヌムの家で暮らしていたので、その方とは再びの出会いとなった。

 


ハフィントン・ポストのリンク

(1) 慰安婦問題との出会い、『帝国の慰安婦』まで

1。ぺ・チュンヒさんへの想い

1.慰安婦問題との出会い、『帝国の慰安婦』まで

 

すでに書いたことがあるが(「外交とは何か」 ,2014/3/11, facebook note)

私は1990年代の初めに東京で行われた元慰安婦たちの証言集会で、通訳ボランティアをやったことがある。それが慰安婦問題との初めての出会いだった。だから慰安婦問題は私にとっても4半世紀経った問題ということになる。

もっとも、運動や本格的な研究を早くに始めた人たちに比べれば、私のこの「出会い」は取るに足らない体験に過ぎない。そうした意味で、長い間この問題に関心を持ち続け、元慰安婦の方たちと研究または運動という形で共に歩んできた方々には常に敬意を表したい。

 

私の研究対象は日本近代文学である。そのため、慰安婦問題を考察対象にすることは考えなかったし、帰国後も、そうした状態は続いた。冷戦終了後の韓国の90年代は強力なナショナリズムの時代でもあり、慰安婦問題がそうした時代に支えられる形で社会問題化されたことも、私をしてこの問題に近づけさせなかった理由である。

私は当時、日本近代を代表する作家夏目漱石のナショナリズムが帝国主義を支えるようになる仕組みに関心をもっていた。民族アイデンティティ自体が女性に抑圧的だという事実を認識し始めた頃でもあった。そのため、そうしたナショナリズムに女性運動が頼っている状況を、複雑な心境で眺める他なかったのである。そして、幸か不幸か、慰安婦問題の中心にいた人たちとのネットワークもわたしにはなかった。80年代後半を日本留学で過ごした結果として、民主化運動関係者も、梨花女子大学を中心とする女性運動関係者もそして実践的キリスト教関係者も私の周りにはいなかったのである

 

それでも慰安婦問題に対する関心を持続できたのは、やはり1990年代の初めに同時通訳をしながら、泣き叫ぶ元慰安婦の方たちの白いチマチョゴリ姿が私の胸の中に深く刻まれたからであろう。同時に、十代からの私の読書リストの中に、韓国戦争前後を背景としたいくつかの小説があったからかも知れない。いわゆる「洋公主」に注がれた暖かな視線のいくつかの小説のおかげで、私は彼女たちの悲しみを理解することができた。

さらに、韓国で日本学を教える者として、若者たちの日本に対する敵愾心や、日本に向けられる自分の好意に対する罪の意識に、無関心ではいられなかったことも、私の関心を継続させてくれた。

 

元慰安婦の方と直接会って話す機会を得たのは、それから10年以上過ぎた2003年の冬だった。当時、金君子さんなどナヌムの家に暮らしていた数名の方が、韓国政府の無関心への抗議意思表示として、国籍を放棄すると発表したことがあった。丁度、訪韓中であった日本のフェミニスト学者の上野千鶴子さんもその問題に興味をもっておられ、上野さんの知り合いと3人でナヌムの家を訪ねた。そして、この時の訪問で、ナヌムの家の建設に少なからぬ日本人が寄付していること、上野さんもその一人であること、ナヌムの家に来ているボランティアの多くがが日本人であることなどを知った。

 

特に新鮮な衝撃を受けたのは、金君子さんの抱く憎しみが日本軍より(義理の)父親に対してより大きいこと、ナヌムの家からわざわざ離れたところに暮らす方がいること、そしてその方の心の中にある日本軍兵士を想う心が生きていたことだった。

この日得た認識を、私は2年後に出版した『和解のために』に少し書いた。ひとりの中の記憶と社会との関係、過去の記憶と現在の相関作用などに興味を持つようになったのもこの頃である。

 

2005年、私は初めて慰安婦問題を扱った本『和解のために–教科書・慰安婦・靖国・竹島』を出した。それは、それまで慰安婦問題の中心にいた研究者と運動家に対する私なりに試みたコミュニケーションでもあった。90年代に元慰安婦たちに向けられていた多くの日本人の心、当時の韓国にはほとんど知らされていなかった日本の謝罪と補償について韓国に紹介する意味もあった。

 

しかし、韓国ではいくつかの書評を得ただけで、慰安婦問題の中心にいる人たちの反応はまったくなかった。

そして、その年の暮れに、前年度の2004年に小森陽一さん、金哲さん、崔元植さんたちと一緒に作った「日韓、連帯21」の企画で和田春樹さん、上野千鶴子さんを報告者とし、小森陽一さんを討論者とする慰安婦問題シンポジウムを開いた(「東アジア歴史認識のメタヒストリー」収録、青弓社)。その時事務局長だった尹美香挺対協現代表を討論者として招待もした。しかし話は噛み合わなかった。

 

翌年の終わり、日本で『和解のために』が翻訳された。私が最も信頼していた研究者たちが書評会を開いてくれたが、同じく周りにいた別の人たちは批判者に回り、その書評会に出席しなかった。そして、その時討論者として参加してくれたある研究者は、討論会に出ることを挺対協の人たちから反対されたと述べた。

そしてその年の夏、「和解のために」に対する最初の批判が現れた。韓国で挺対協活動を行っていた金富子さんの批判である。その後何人かの批判がさらに出たが、そこには、「和解のために」が誰かに言われて書かされたとする誤解までがあった。現在まで続いている、根拠のない疑惑や誤解は、思えば10年前から始まっていたのである。

 

そして2008年、2009年に徐京植さん、尹健次さんなどによる朴裕河批判が、主にハンギョレ新聞誌上を借りる形で韓国で相次いだ。

両氏は、私の本が日本の右翼の賞賛を得た、日本のリベラルな知識人たちが朴裕河の本を支持するのは実は植民地支配に対する真の謝罪意識がないため、などと語った。思いもよらぬ、根拠のない攻撃に私は戸惑ったが、記事を書いた記者に抗議したのみで、それ以上の対応はしなかった。

この時の選択が間違った行動だったことを知ったのは、それから何年か経った2014年6月である。突き付けられた告訴状には、朴裕河のいう和解とは日米韓の同盟を強化させるもの、といった考えがそこにはあった。朴裕河の歴史認識は間違っているとする、徐京植/尹健次両氏の影響があからさまなその告訴状は、私が適切な形で訂正しなかったため、私に対する疑いが韓国で拡散されてしかったことを示していた。

あるいは、私を批判した人たちが訴状作成に直接関係したのだろうか。私は未だ、告訴をめぐる状況を知らない。いずれにしても、この告訴が、慰安婦問題に関する知識人たちの考えの影響の元に行われたことだけは確かである。しかも、告訴のあとは学者による、より露骨な告訴への加担が目立っている。

 

2010年代に入り日韓の関係は更に悪化し、そうした状況の中心には常に慰安婦問題があった。私は、『植民地支配とは何か』というタイトルになるはずの、日本に向けて書く予定だった本の中に、慰安婦問題に1章を割くことにした。アジア女性基金解散以降、慰安婦問題に対する関心が著しく低下し、否定者だけが関心を持っているように見えた日本に向けてまだ話したいことがあったからである。

 

そして2011年の秋、研究年を迎え滞在することとなった東京市内早稲田大学周辺の小さな家で、後に『帝国の慰安婦』の一部ととなる原稿を書き始めた。後日、告訴の対象となった、元慰安婦たちの名誉を毀損するものだと指摘された「売春的強姦、あるいは強姦的売春」という言葉は、実はその時書かれたものである。

つまり、わたしは「売春!」と主張する人たちに向けて、実はそれは構造的に「強姦」的なものであることを喚起させようとした。言い換えれば、売春ではなく構造的強姦であることを強調した表現である。(のちに韓国語版を書く時構成を変えたために元の文脈が見えなくなってしまったが、連載した<ウェブ論座>には原文にはそうした意図が残っているはずだ。)

2012年の4月と5月に慰安婦問題解決に向けての日本政府の試みが挫折するのを見ながら、私は韓国に向けてもう一度本を書かなければならないと。そこで、もとの予定を変えて『帝国の慰安婦』の韓国語版を構想し始めたのである。

つまり、<帝国の慰安婦>はもともとは日本に向けて書かれたものである。当然、日本の責任を問うための本である。

それまで戦争犯罪としてのみ扱われてきた慰安婦問題を朝鮮人慰安婦に限定しつつ植民地支配が引き起こした問題として考え、しかし、これまで日本がその点を認識したことはなかったことを強調し、したがって、それに基づく謝罪と補償が新たに必要、としたのがこの本だった。

同時に、業者や村の人々、さらに親など韓国の中の責任を問うことを避けるつもりはなかった。というのも、それは何よりも元慰安婦の一部の人々の考えでもあったからである。

 

ハフィントン・ポストのリンク

四方田犬彦, 朴裕河を弁護する

朴裕河を弁護する

四方田犬彦

 

 

比較文学は人文科学の領域にあって、ひどく効率の悪い学問である。

まず自国語のみならず、複数の外国語に精通していなければならない。少なくとも自在にそのテクストを読み、学会の場で意見交換ができなればならない。自国語で書かれたテクストだけを、自国の文脈の内側だけで解釈する作業と比較するならば、はるかに時間と労力、そして情熱が必要とされる。にもかかわらず、人はどうして比較文学なる分野に魅惑され、それを研究することを志すのだろうか。比較文学は人に何を与えてくれるのだろうか。

ごく簡単にいう。それは人をして(政治的にも、文化的にも)ナショナリスムの頚城から解放するという効用をもっている。『源氏物語』の巻名である「総角(あげまき)」の一語が、韓国で未婚男子を示すチョンガーと書記において同じだと知るならば、人は日本でしばしば口にされている文化純粋主義なるものが、稚拙な神話にすぎないことを認識できる。朝鮮の李箱と台湾の楊熾昌を中原中也のかたわらにおいて読むことは、1920年代から30年代にかけて、東アジアもまた世界的な文学的前衛運動の圏域内にあったことを理解することである。それはともすれば一国一言語の内側で自足した体系を築き上げているかのように見える文学史が、実は他者との不断の交流のうちに成立した、偶然の現象にすぎないことをわれわれに教えてくれる。一国の文学こそが民族に固有の本質をすぐれて表象するという前世紀の素朴神話の誤りを、告げ知らせてくれるのだ。比較文学がわれわれに教えてくれるのは、文化と文学をめぐるナルシシックな物語の外側に拡がっている、風が吹きすさぶ領野を指し示してくれることである。

だがその一方で、比較文学者はしばしば、思いもよらぬ偏見の犠牲者であることを強いられることになる。コロンビア大学でこの学問を講じていたエドワード・W・サイードを見舞った受難が、その典型的な例であった。

大学でヴィコとアウエルバッハを篤実に論じていたサイードが、ある出来ごとが引き金となって、出自であるパレスチナ問題について発言を開始した。何冊かの著書がアメリカの狭小なアカデミズムの枠を越え、国際的な影響力をもつにいたったとき、彼は大きな誹謗中傷に見舞われることになった。サイードを非難攻撃し、ありえぬゴシップを振りまいたのは、もっぱらユダヤ系アメリカ人の中東地域研究者である。彼らはサイードが中東史の学問的専門家ではないと断定し、アマチュアにはパレスチナについて論じる資格がないというキャンペーンを展開した。サイードを誹謗中傷したのはイスラエル人ではなく、主にアメリカ国籍をもち、合衆国に居住するユダヤ人であった。イスラエルには冷静に彼の著書を紐解き、その果敢なる言動に共鳴するイラン・パペ(後にイスラエルを追放)のようなユダヤ人の中東史専門家がいた。しかし反サイード派はサイードの著書が事実を歪曲する反ユダヤ主義者だと主張し、彼がパレスチナでインティファーダに賛同し、石を投げている写真なるものを捏造して、平然とテロリスト呼ばわりをした。彼らの多くは、いうまでもなく政治的シオニスムの賛美者であり、国家としてのイスラエルこそ離散ユダヤ人の究極の解決の地であるという信念において共通していた。

こうした事実を知ったとき、わたしはかつて自分がテルアヴィヴ大学で教鞭をとっていた時期に見聞したことを思い出した。わたしが知るかぎり、イスラエルに生まれ育ったユダヤ人の多くはパレスチナ人の存在を自明のものと見なし、事態の悲惨を前に肩を竦ませながら、状況をプラクティカルに眺めていた。それに対し、アメリカから到来したユダヤ人は両民族の対立をきわめて観念的にとらえ、パレスチナ人に対し常軌を逸した憎悪を向けているのだった。

わたしは狂信的ユダヤ系アメリカ人学者たちがサイードに向けた攻撃性の深層が、漠然とではあるが推測できなくはない。彼らはこのパレスチナ出身の比較文学者を自分たちの「専門領域」から排除するという作業を通して、合衆国にあってしばしば希薄になりがちな、ユダヤ人としてのアイデンティティーを構築したかったのである。現実にイスラエルに居住せず、ヘブライ語もできないがゆえに、逆にイスラエルを約束の地として純化して夢見ている者にとって、サイードとは自分がユダヤ人であることを確認させてくれる貴重な媒介者であったのである。

朴裕河の『帝国の慰安婦』はまず韓国で刊行され、しばらくして日本語に翻訳された。それは少なからぬ日本の知識人、それも日本で支配的な右派メディアに対しつねに異議申し立てをしてきた知識人の側から共感をもって迎えられ、いくつかの賞を受賞した。この賞賛・受賞と時を同じくして、韓国の朝鮮史研究家たちが彼女に激しい攻撃を開始した。またそれが慰安婦を侮辱しているという理由から刑事訴訟の対象になった直後から、在日韓国人の朝鮮史専門家が、朴裕河の著作は事実無根な記述に溢れているというキャンペーンを展げた。わたしは彼らが専門家としての怨恨や嫉妬から、またアイデンティティー危機の回避のために朴裕河を中傷したなどといった情けないことは、ゆめにも思いたくない。とはいえ彼らが、日本帝国主義に郷愁を抱いている日本の右派を悦ばせるために『帝国の慰安婦』は執筆されたといった口吻をもし漏らしたとすれば、それは意図的になされた卑劣な表現であろうと考えている。それは彼らの積年の研究をみずから侮辱するだけに終わるだろう。

とはいえわたしがただちに想起したのが、サイードが体験した受難のことであったことは書いておきたい。朴裕河とサイードは歴史家ではなく、比較文学の専門的研究者である点で共通していた。また朴は初期の著作である夏目漱石論や柳宗悦論に顕著なように、『オリエンタリズム』の著者から理論的な示唆を受け、社会に支配的な神話を批判するための勇気を受け取っていた。そしてサイードが「アマチュア」という名のもとに誹謗されたように、朴裕河もまた慰安婦問題の専門家ではないのに発言をしたという理由から、熾烈なる非難攻撃を受けた。

わたしは以前に自分が受けた嫌がらせと脅迫のことを思い出した。1995年のことであったが、映画が考案されて百年になるというので、NHK教育TVがわたしに12回連続で世界映画史の番組を作るようにと依頼してきた。わたしはそれに応じ、黒澤明やジョン・フォード、フェリーニといった、いわゆる世界の名画を紹介することを続けた。ただ最終回だけは、もうこれで最後というので、思い切って16ミリの個人映画をTV画面で放映することにした。取り上げたのは山谷哲夫が1979年に撮った『沖縄のハルモニ』という作品で、監督の手元にある一本しか存在していないというフィルムを、好意的に貸していただいた。そのなかで元慰安婦であった女性は、日本にはやっぱり戦争に勝ってほしかったと繰り返し語り、美空ひばりと小林旭がいかに素晴らしいかを語った。今さら国になど、とても恥ずかしくて帰れないよという言葉が、わたしに強い印象を与えた。現在のNHKではまずありえないことだとは思うが、番組は割愛されることなく放送された。

公共放送でこの16ミリ映画の一部が2分ほど放映された直後から、すさまじい抗議がNHKと当時わたしが奉職していた大学宛に寄せられた。手紙には「非国民」「売国奴」といった表現に加え、韓国人と被差別部落民をめぐるさまざまな罵倒語が連ねられていた。「故郷のソ連に帰れ」という文面もあった。わたしは恐怖こそ感じなかったが、手紙に記された表現の貧しさに驚きを禁じえなかった。どうして誰もが均一的な語彙に訴えることしかできないのだろう。この時の体験が契機となって、5年後にソウルの大学で教鞭を執ることになった時、わたしは挺身隊対策協議会(「挺対協」)が主催している水曜集会に参加し、和菓子をリュックサックに詰めてナヌムの家を訪れ、元慰安婦たちといくたびか話をすることになった。

もっとも朴裕河への誹謗中傷は、規模とその後性格において、わたしのそれとはまったく異なっている。それは比較にならぬまでに深刻であり、はるかに大掛かりなものだ。(韓国語でいう、あまりいい言葉でなないが)「無識」な者によってなされた突発的なものではなく、一定の知識層の手で体系的に、そして戦略的に準備されたものである。中傷者は元慰安婦の名のもとに彼女を刑事犯として告訴し、国民レヴェルでの世論を操作して、彼女が「大日本帝国」を弁護しているという悪意あるデマゴギーに終始した。彼女が韓国に居住するかぎり、孤立と脅威を感じるように、集団的な行動に訴えた。その迫害の激しさは、日本のあるドイツ文学者に、アイヒマンを論じたハンア・アーレントの名を口に出させるほどであった。

なるほど彼女はこれまで慰安婦問題を生涯の主題として研究してきた歴史家ではない。先に記したように、日本文学研究を中心とした、一介の比較文学者である。だが、彼女を「アマチュア」という名のもとに断罪しようとする動きに対しては、わたしは反論を述べておきたい。知識人とは専門学者とは異なるものだと前提した上で、それは本来的にアマチュアであることを必要条件とするというサイードの言葉を引いておきたい。サイードは『知識人とは何か』(大橋洋一訳、平凡社、1995年)のなかで、次のように記している。

「アマチュアリズムとは、専門家のように利益や褒章によって動かされるのではなく、愛好精神と抑えがたい興味によって衝き動かされ、より大きな俯瞰図を手に入れたり、境界や障害を乗り越えてさまざまなつながりをつけたり、また、特定の専門分野にしばられずに専門職という制限から自由になって観念や価値を追求することをいう。」

もしわたしが朴裕河事件をサイードの受難に比較することが正当であるとすれば、これからわたしが書くべきことは、『帝国の慰安婦』が提出している「より大きな俯瞰図」について語ることである。それは、些末な事実誤認や資料解釈の相対性の次元を越え、日本と韓国におけるナショナリスムを批判しながらも、日本がかつて行った歴史的罪過を批判的に検討するヴィジョンを提出することに通じていなければならない。わたしがこの著書から学びえたことを、以下に記しておきたい。

 

歴史的記憶にはいく通りもの層が存在している。単なる事実と統計の列挙が歴史認識とは異なることを知るためには、まず記憶とそれを語る声の多層性という事実を了解しておかなければならない。とりわけそれが戦争や革命といった動乱時の記憶の場合、いかなる視座をとりうるかによって、いくらでも異なった(能動的な、反動的な)評価がなされうる。

記憶のもっとも頂点には、国家的な記憶、つまり現政権である体制が承認し、メディアにおいて支配的であるばかりか、教科書の記載を通して教育制度の内側にまで深く食い込んでいる物語が存在している。この物語は「神聖にして犯すべからず」といった性格をもっている。

この国家記憶に準じるものとして、特権的な声が造り上げる定番(ヴァナキュラー)の言説がある。それは社会において充分にカリスマ化された人物、神話化された「当事者」の証言であったり、メディアに決定的な影響力をもつ著名人の発言であることが多い。ヴァナキュラーな言説はつねにメディアの関数である。それはメディアによって戦略的に演出され、記録され、イデオロギー的形成物として公共に投じられる。正確にいえば、それは歴史というよりは、ロラン・バルト的な意味合いで「神話」と呼ぶべきであろう。神話が携えているイデオロギー的権能の強さは、この言説を国家記憶とは別の意味で、社会に支配的な言説、公式的と呼べる言説として機能している。

三番目に、記憶の下層にあって、その時代を生きた名もなき人間、忘れされてしまった人間、不当に貶められ、その声に接近することが困難となってしまた者たちの声がある。それはまさに「生きられた時間」の「生きられた体験」(ミンコフスキー)による、生々しい証言であるはずなのだが、メディアを経過していないため、論議も継承もされることなく、ヴァナキュラーな記憶によって抑圧されるがままになっている。知識人やメディアに携わる者を濾過器として通過しないかぎり、この声は立ち現れることができない。

だがこの声はまだ困難を克服していけば到達できる可能性をもっているだけ、そのさらに底辺に拡がっている最後の、第四の声よりはましであるかもしれない。第四の声とは文字通り沈黙である。世界のもっとも低い場所に生きることを強いられたサバルタンが生きているのが、そのような状況である。彼らはけっして語らない。語るべき声をもたない。いかなる啓蒙的な契機を前にしても、牡蠣のように口を閉ざし続ける。

現下に問題とされている従軍慰安婦問題に即していうならば、最頂点にある国家の言説とは、2016年に朴槿恵大統領と阿部首相が取り交わした日韓の合意がその最新ヴァージョンにあたる。そしてこの問題は、日本が十億円を韓国に払うことで決着をみたというエピローグまでが添えられている。

ヴァナキュラーな声とは、挺対協とその周辺にいる同伴者的歴史学者の手になる、韓国で支配的な言説のことである。慰安婦はつねに民族主義的な精神に満ち、日本軍に対して抵抗することをやめなかったと、彼らは主張している。彼女たちを慰安婦に仕立て上げたのはもっぱら日本軍であり、いかなる韓国人も、いかなる場合にあっても被害者であった。慰安婦はいかなる場合にも高潔であり、無垢であり、模範的な韓国人であった。こうした主張のもとに、声は特定の映像を造り上げる。そして挺対協は自分たちが元慰安婦の声の、唯一にして正統的な表象者であることを自認している。

第三の声は、1990年代に次々と名乗りを挙げた、元従軍慰安婦の女性たちのものである。それはどこまでも個人の声であり、本来はきわめて多様かつ雑多な要素に満ちたものであるが、先に記したように、残念なことにもっぱら第二の声、すなわちヴァナキュラーな声によって秩序付けられ、ノイズを取り去った状態でしか、われわれの眼に触れることができない。

では、第四の声はどこにあるのだろうか。それは韓国で名乗り出なかった元慰安婦たちの記憶である。また韓国と異なり、みずから名乗り出ることが皆無に等しい、日本の元慰安婦たちの内面に隠された記憶である。奇妙なことに慰安婦問題を口にする者たちは、もっぱら韓国におけるそれを論じるばかりで、夥しく存在していたはずの日本人慰安婦の存在を、当然のように無視している。その原因は、彼女たちの声が存在していないからだ。

 

朴裕河はなぜ誹謗中傷の対象とされたのか。簡単にいって、彼女がヴァナキュラーとされた支配的な声に逆らい、ありえたかもしれぬalternative今ひとつの声を、膨大な元慰安婦証言集から引き出すという行為を行なったからだ。慰安婦物語の絶対性に固執する者たちの逆鱗に触れたのは、彼女のそうした身振りであった。

朴裕河は彼女いうところの「公式の記憶」が近年にわたって、いかに慰安婦神話を人為的に築き上げてきたかを丹念に辿り、勇敢にもその相対化を試みた。この記憶=物語がこれまで隠蔽し排除してきた慰安婦たちの複数の声に、探究の眼差しを向けた。そのさいに参照テクストとして、韓国人と日本人が執筆した小説作品から韓国の映画、漫画、アニメに言及し、韓国社会における慰安婦神話の形成過程を分析する手がかりとした。

誤解がないように明言しておくと、こうした作業はどこまでも比較文学者の手になるものであることだ。彼女はひとつの言説をとりあげるとき、それを絶対的な事実としてではなく、ある視座(イデオロギー的な、文化的な)から解釈された「事実」と見なしている。ここで『道徳の系譜学』のニーチェを引き合いに出すのは、なんだか大学の初級年度生を前に講義をしているようで気が引けるが、いかなる事実もその事実をめぐる解釈であるという認識論的な前提を了解しておかないと先に進めないことは、まず断っておくことにしたい。朴裕河とは朴裕河の解釈の意志のことである。彼女は先にわたしが述べた三番目の声に向かいあった。さまざまな多様性をもち、個人の生涯をかけた体験に基づくものでありながら、ヴァナキュラーな支配原理のもとでは不純物として排除され、切り捨てられてきた声のなかにそっと入り込み、そこから公式記憶と相反する物語を引き出すことに成功した。

何が彼女のこうした作業を動機づけているのか。それは慰安婦問題をより大きな文脈、すなわち帝国主義と家父長制を基礎として形成されてきた、東アジアの近代国民国家体制の文脈の中で認識し、それをより深い次元において批判するためである。この大がかりなヴィジョンを理解することなく、その著作にある資料的異動をあげつらい、歴史実証主義者を僭称してみたところで、不毛な演技に終わり、彼女を批判したことにはならない。歴史的と見なされてきた「事実」とは、つねに特定のイデオロギーに携われて「事実」として定立されるという、古典的な命題が確認されるだけにすぎない。

 

朴裕河が従来の公式的な慰安婦神話に対して突きつけた疑問は、大きくいうならば次の二点に要約される。

ひとつは慰安婦たちがかならずしも民族意識をもった韓国人として、日本軍に対し抵抗する主体ではなかったという指摘であり、もうひとつは、彼女たちを幼げで無垢可憐な少女として表象することが、その悲惨にしてより屈辱的であった現実が巧妙に隠蔽されてしまうという指摘である。

慰安婦たちは日本兵のために、ただ性を提供したばかりではなかった。彼女たちは故郷と家族から遠く離れ、残酷な戦場で生命を危険に晒している若者たちのため、文字通り慰安を与えるべき存在であった。慰安婦と日本兵の違いは、前者が性を差し出したのに対し、後者が生命を差し出すことを強要されたというだけで、いずれもが帝国にとっては人格的存在ではなく、代替可能な戦力にすぎなかった。朴裕河は慰安婦の証言のみならず、多様なテクストを動員しながら、慰安婦が日本軍に協力しなければ生き延びることができなかった苛酷な状況を想像せよと、われわれに求める。この一節を読んだだけでも、彼女が元慰安婦を売春婦呼ばわりし、侮辱したという韓国での起訴状が事実無根のものであり、明確な悪意のもとに準備されたものであることが判明する。

朴裕河の分析が秀でているのは、被植民者である朝鮮人慰安婦が、その内面において日本人に過剰適合し、しばしば外地において日本人として振る舞ったことを調べあげた点である。これは従来の公式記憶からすればあってはならない事実であった。だが朴裕河は彼女たちを非難するわけではなく、逆にこうした帝国の内面化こそが帝国のより赦されざる罪状であると指摘している。日本軍兵士と慰安婦を犯す/犯されるといった対立関係において見るのではなく、ともに帝国主義に強要された犠牲者であると見なす視点は、今後の歴史研究に新しい倫理的側面を提示することだろう。それは日本帝国主義による強制連行が朝鮮人・中国人にのみ行使されたのではなく、長野県や山形県の農民が村をあげて満洲国開拓に動員された場合にも指摘しうるとする立場に通じている。

朝鮮人慰安婦たちはチマ・チョゴリといった民族服を着用することなど、許可されていなかった。彼女たちは少しでも日本人に似るように、名前も日本風に改め、着物を着用することを命じられていた。これはその姿を一度でも目撃したことのある韓国人にとっては、これ以上にない屈辱であろう。ソウルの日本大使館の前に建立され、現在では韓国の津々浦々にレプリカが並ぶことになった少女像に対し、朴裕河が強い違和感を覚えるのは、その像が現実の慰安婦が体験した屈辱の記憶を隠蔽し、理想化されたステレオタイプの蔓延に預かっているためである。この少女像は、たとえ韓国がいかに日本に蹂躙されたとしてもいまだに処女であるという神話的思い込みに対応する形で制作された。その意味で、敗戦後アメリカに占領された日本で、原節子が「永遠の処女」として崇拝され、現在でも日本を代表する表象であり続けていることを思い出させる。

だが、なぜ少女像なのか。朴裕河を非難攻撃する者たちは、慰安婦の平均年齢の高さからしてこの彫像は不自然であるという彼女の主張に対し、なぜにかくも目くじらを立てて反論するのか。問題は統計資料をめぐる解釈の次元にはない。慰安婦が純潔な処女でなければならないと狂信している韓国人の神話の側にある。だがここで朴裕河を離れて私見を語れば、歴史的な犠牲者を無垢なる処女として表象することは、何も慰安婦にかぎったことではない。31独立運動で虐殺された柳寛順(ユ・グワンス)も、北朝鮮に拉致されて生死が定かでない横田めぐみ(日本では「ちゃん」をつけなければいけない)も、沖縄の洞窟で大部分が殺害された「ひめゆり部隊」の面々も、すべて少女であり、それゆえに悲劇の効率的な記号として喧伝されてきたからだ。これは政治人類学的にいって東アジアに特有の病理にほかならない。朴裕河の少女像批判は、戦後の日本人までが無意識下において、このステレオタイプの象徴法に操作されてきたという事実へと、われわれを導いてゆく。

『帝国の慰安婦』の著者が主張したいのは、かかる問題が戦時に独自のものではないという事実である。慰安婦問題の究極の原因として糾弾されるべきなのは帝国主義であり、そのかぎりにおいて兵士も慰安婦もひとしく犠牲者に他ならない。このヴィジョンは日本と韓国を永遠の対立関係におき、日本側が一方的に歴史を歪曲したと主張する「慰安婦の代表者」の不毛なナショナリスムを、論理的に相対化することになる。韓国における公式記憶が歪曲し隠蔽してきた慰安婦の真実を探求するためには、朴裕河が提出した見取り図の大きさを理解しなければならない。

 

朴裕河は『帝国の慰安婦』の最後の部分で、鄭昌和(チョン・チャンファ)が1965年に監督した『サルビン河の夕焼け』なるフィルムを取り上げている。この書物のなかで映画への言及がなされている、唯一の箇所である。舞台はミャンマーの日本軍駐屯地である。朝鮮人慰安婦の女性が、彼女が配属された「親日派」の学徒兵将校に話しかける。自分は看護婦になるというのでここに騙されてきた。あなたはまだ日本帝国主義が紳士的だと信じているのかと、彼女はいう。この映画の場面から判明するのは、フィルムが制作された1960年代には、韓国人は慰安婦をめぐって、90年代に確立された公式的記憶とは異なった記憶を抱いていたという事実である。この慰安婦はすべての悲惨の根源に日本帝国主義が横たわっていることは充分に認識していたが、自分がここにいるのは強制連行の結果ではないと主張しているのである。『サルビン河の夕焼け』は(今日では「芸術的映画」の範疇に入れられていないため、韓国の映画研究家がそれに言及することはないが)こうして、強制連行の神話が集合的記憶として人為的に形成される以前の、一般韓国人の歴史認識を知るために、貴重な資料たりえている。

朴裕河が韓国のB級映画に言及したことを受けて、映画史家であるわたしは、その後の韓国映画がいかに従軍慰安婦を描いてきたかを、日本映画と比較しつつ補足的に記しておこうと思う。

韓国では1970年代から80年代にかけて、何本かの慰安婦映画が製作されている。1974年の時点で、まずラ・ブンハン監督(不詳)によって『女子挺身隊』なる作品を撮られている。フィルムはもはや現存しておらず、映画研究家の崔盛旭氏が最近発掘した新聞広告を通してしか、目下のところ手掛かりがない(図版参照)。英語題名をBloody Sexといい、「慰安婦8万の痛哭。映画史上最大の衝撃をもった問題の大河ドラマ」と、宣伝文句が記されている。朴正熙軍事政権下では、女性のヌードを含め、エロティックな映画表現は厳しい検閲の対象とされていた。そこで製作者と監督は、日本軍の歴史的蛮行を糾弾するという道徳的口実のもとに、エロ描写をふんだんに盛り込んだフィルムを作ることを思いついた。韓国人による強姦場面はけしからんが、日本の狂気の軍隊が強姦をするのなら歴史的事実として表象が許されるという、韓国人の民族感情を逆手にとった制作姿勢が、ここに窺われる。

わたしが実際に韓国の劇場で観ることのできた慰安婦映画は、李尚彦(イ・サンオン)監督の『従軍慰安婦』である。1980年代初頭のことであった。李監督は野球選手の張本勳の伝記映画を撮った人で、フィルモグラフィーから判断するかぎり、どうやら素材を選ばずに注文次第で監督する人のようだ。『従軍慰安婦』は好評だったので、シリーズ化されていると聞いた。製作意図は先の『女子挺身隊』の延長上にある。朝鮮人の無垢な処女たちが拉致され、慰安所に押し込められると、日夜、日本兵に凌辱される。しかし途中から日本兵だということはどうでもよくなってしまい、単なる男女の性行為だけが何組も続くことになる。この手のフィルムが韓国で社会的に糾弾されず、堂々と政策されてきたのは、おそらく慰安婦問題に関わる知識人が自国の映画というメディアを徹底して軽視にしていて、その存在に気が付かなかったか、学問的対象として論じるに値しないと軽蔑していたからだろう。

とはいえゼロ年代になり、韓国でも本格的に(植民地化時代を含めて)自国の映画を分析的に研究しようという機運が盛り上がってきた。だが寡聞にして、こうした慰安婦もの映画が論じられたという話をきかない。解放後の韓国に公式的記憶があり、慰安婦についても公式的記憶が形成されていくなかで、韓国映画史も公式的記憶を作り上げてきた。そこではドキュメンタリー『ナヌムの家』が模範的作品として喧伝されることはあっても、おそらくそれよりははるかに大量の観客を動員したはずの『女子挺身隊』に始まる慰安婦映画は、けっして言及されることがない。それは言及すべきではない、恥辱のフィルムだということなのだろう。

それにしてもわたしに納得がいかないのは、この手の韓国エロ映画を、韓国の男性観客はいったいどのような気持ちで観ていたのだろうかという疑問である。彼らは男性として日本兵士の側に同一化して、女性を犯すことの疑似快楽を得ていたのか。それとも同じ韓国人として、犯される慰安婦の側にマゾヒスティックな感情移入して観ていたのか。

いずれにしてもここで視覚的にも、物語的にも得られる快楽とは倒錯的なものである。わたしはかつて上海の街角を散歩していたとき、荷車のうえに「南京大屠殺」(中国では「虐殺」という語を用いない)についての、毒々しい表紙のゾッキ本が積み上げられているのを見て、きわめて複雑な感情に駆られたことを思い出す。いうまでもなくそれは、歴史的事件を隠れ蓑とした、残虐行為についてのポルノグラフィーであった。おそらくこうした例は世界の他の場所でも存在していることだろう。それを分析するのは歴史学ではなく、メディアの社会心理学である。人はなぜ、自民族の被害者を主題としたポルノグラフィーに快感を感じ、それを商品化してきたのか。

わたしはかつて黒澤明から鈴木清順、そして8ミリの山谷哲夫までが、朝鮮人従軍慰安婦をスクリーンに表象しようとしていかに努力してきたかを辿ったことがある(四方田犬彦「李香蘭と従軍慰安婦、『李香蘭と原節子』(岩波書店、2014年)に収録」。GHQによる検閲下であったにもかかわらず、黒澤は谷口千吉と組んで、田村泰次郎の『春婦伝』を映画にしようと企て、そのたびごとに脚本を許可されず、突き返された。この企画は、谷口が朝鮮人慰安婦を日本人慰安団の女性歌手に置き換えることで、『暁の脱走』(1949)を監督することで決着がついたが、黒澤の正義感はそれでは収まらなかった。

日活の鈴木清順は彼らの挫折を踏まえた上で、1965年、ついに野川由美子主演で『春婦伝』の映画化に成功した。そこには主人公ではないが一人の朝鮮人慰安婦が登場している。彼女は最後まで一言もモノをいわないが、主人公の男女が絶望して死に急いだのを知ると、初めて口を開き、「日本人はすぐ死にたがる。踏まれても蹴られても、生きなければいけない。生き抜く方がもっと辛いよ。死ぬなんて卑怯だ」と語る。これは重要な役であり、重要なセリフだ。清順は彼女を、いかに悲惨な状況にあっても主体性を失わず、世界を透徹した眼差しのもとに眺める存在として描いている。

日本の志をもった映画人たちが困難にもめげず、慰安婦問題に真剣に向かい会おうとしていたとき、韓国の映画人はそれを単なるエロ映画の素材としてしか見ようとしなかった。この落差は大きい。韓国の研究者のなかでこの問題に答えてくれる人はいるだろうか。

 

日本が中国を侵略していた時代のことである。上海では国民党によるテロが横行していた。

あるとき魯迅の弟が、いくら犬が憎くても、水に落ちた犬をさらに打つことは感心しないねといった。別の人物がそれを支持して、中国人には昔からフェアプレイの精神が欠けていると論じた。犬と戦うには、犬と対等な立場に立って戦うべきであり、苦境にある犬を攻撃するのは卑怯であるという考えである。

魯迅は烈火のごとく怒った。たとえ水に落ちたとしても、悪い犬は絶対に許してはいけない。もしそれが人を噛む犬であれば、陸上にいようが水中にいようが関係ない。石を投げて殺すべきだ。中国人によくあるのは、水に落ちた犬をかわいそうと思い、つい許してやったために、後になってその犬に食べられてしまうという話ではないか。犬が水に落ちたときこそいいチャンスではないか。

恐ろしい言葉である。つねに国民党政権に生命を狙われ、友人や弟子を次々と殺されていった知識人にしか口にすることのできない、憎悪に満ちた言葉である。

だが最近になって、わたしは魯迅のこの考えにいくぶん距離を抱くようになった。なるほど彼をとり囲んでいた状況は苛酷だった。だからといって敵に対し熾烈な憎悪を向け、その殲滅を願うだけ、はたして状況を好転させることができるのだろうか。わたしがこう書くのは、70年代に新左翼の各派が相互に殺し合いを続けてきたのを、どちらかといえば間近なところで眺めてきたからである。わたしは尊敬する『阿Q正伝』の作者にあえて逆らっていいたい。今こそ犬を水から引き揚げ、フェアプレイを実践するべき時なのだ。少なくとも憎悪の鎖を断ち切るためには。

1930年代の上海から2000年代のソウルと東京まで、人は何をしてきたのだろうか。

誰もが水に落ちた犬を目ざとく見つけると、ただちに恐ろしい情熱を発揮して、溺れ苦しむ犬に石を投げることをしてきた。彼らはもし犬が普通に地上を徘徊していたとしたら、怖くてしかたがないものだから、けっして石を投げなかったことだろう。ところが、いかに罵倒の言葉を投げかけ石を投げたところで、わが身の安全は確保されたとひとたびわかってしまうと、態度を豹変してきた。ここには純粋の憎悪がある。だが魯迅の場合とは違い、その憎悪には必然的な動機がない。それは集団ヒステリーと呼ばれる。

朴(パク)裕(ユー)河(ハ)従軍慰安婦問題をめぐる著作を韓国で刊行したとき何が起きたかを、ここで冷静にもう一度考えてみよう。ずさんで恣意的な引用をもとにして刑事訴訟がなされ、彼女は元慰安婦の一人ひとりに多額の慰謝料を払うことを命じられた。そればかりか、勤務先の大学からは給料を差し抑えられ、インターネットでの嫌がらせはもとより、身の安全においても危険な状況に置かれることとなった。文字通り、心理的に生命の危険に晒されているといってよい。

だが、まさにその時なのだ。韓国人と在日韓国人によって熾烈な攻撃が開始されたのは。これこそ、水に落ちた犬に投石する行為である。

彼らの一部は、日本において朴裕河が高く評価され、少なからぬ知識人がその著作に肯定的な態度を示したことを疑義に感じ、それを揶揄し、その「殲滅」を求めて行動を起こしている。朴裕河が慰安婦の証言資料を恣意的に解釈し、歪曲していると主張して、彼女がこの問題をめぐって永久に口を閉ざすことを求めている。朴裕河を支持する者たちは彼女が韓国にあって被った法的受難と社会的制裁をまず解決し、フェアな議論の場が成立したことを待って、大日本帝国の罪状と被植民者の状況について討議探究を開始すべきであると友好的に考えているのに対し、支持者を非難する側は勝ち負けの次元において声高い扇動を重ね、事情に通じていない日本の無邪気なメディアに働きかけている。

では仮に彼らが「勝利」を獲得したとして、彼らは何を獲得したことになるのか。慰安婦問題に誠実な関心を寄せてきた日本の知識人の多くは、それを契機として問題への無関心を示すことになるだろう。この問題を植民地支配と女性の人権蹂躙の問題として見つめようとする者たちがいっせいに後退してしまったとき、日本の世論に残るのは慰安婦の存在を否定し、植民地支配を肯定的に賞賛する右派の言説である。今日でさえ圧倒的な力をもつこの右派の扇動によって、「嫌韓」主義者はこれまで以上に跳梁跋扈し、さらなるイトスピーチの嵐が巻き起こることは目に見えている。当然の成り行きだろう。慰安婦問題をめぐる日韓の相互了解は、いかに両政府が金銭的な補償による合意に達したとしても、それとは無関係に、これまで以上に困難で錯綜したものと化すだけだろう。朴裕河が果敢にも提示を試みた「より大きな俯瞰図」と、韓国の公式的記憶の相対化が排除されたとき、生じるのがそうした事態であることは目に見えている。

もし朴裕河の批判者たちに研究者としてフェアプレイの精神があるとすれば、まず韓国でなされている法的な措置に抗議し、その解決を待って真剣な討議に入るべきではないか。人は集団ヒステリーの罠に陥らないために、冷静になってモノゴトの順序を考えなければならない。

水に落ちた犬を打つな。

“帝国の慰安婦 告訴事態” 経過

2005年 9月

朴裕河『和解のために:教科書・慰安婦・靖国・独島』(韓国語版)がプリワイパリ社から刊行される。翌年、韓国政府の文化体育観光部の優秀教養図書に選ばれる。

2006年 11月

朴裕河『和解のために:教科書・慰安婦・靖国・独島』(日本語版、佐藤久訳)が平凡社から刊行される。

2007年 12月

日本語版『和解のために』が第7回大佛次郎論壇賞を受賞する。

2008年 9月

韓国ハンギョレ、徐京植のコラム「妥協を強要する「和解」の暴力性 」掲載。
徐京植は当該コラムで朴裕河及び朴裕河に同意する「リベラルマジョリティー」を一緒に批判。

2009年 7月

ハンギョレ、尹健次のインタビューで「『和解のために』という本で日本の右翼知識人の賛辞を受けた朴裕河」と表現。尹健次は朴裕河を「似非右翼の心情主義」と批判。

2009年 12月

ハンギョレ、尹健次の本を「日本の右翼の賛辞を受けた『和解のために』を批判した本」と紹介。

2011年 2月

徐京植、朴裕河を批判した『言葉の檻から』刊行。

2011年 4月

徐京植に対する朴裕河の反論:「「右傾化」の原因を先に考えなければ」-教授新聞

2013年 8月

朴裕河『帝国の慰安婦:植民地支配と記憶の闘争』(韓国語版)がプリワイパリ社から刊行される。刊行後の秋から、慰安婦の方たちとの交流。当事者の考える「謝罪と補償」について意見を聞く。中でも、ナヌムの家に居住していたペチュンヒさんと頻繁に交流。家族がおらず、日本語の堪能だったぺさんは朴によく電話をかけてきた。

2014年 4月

朴、慰安婦問題の解決方式に疑問を持つ日本学者、元駐日特派員らと<慰安婦問題、第三の声>と題するシンポジウムを開き、それまで公けに聞こえることのなかった元慰安婦の声を公開。

2014年 5月 13日

ぺさんに会いにナヌムの家を尋ねるが所長によって拒否される。その後もぺさんとは電話で話すが、告訴の話はなかった。

2014年 6月 9日

ぺさん亡くなる。

2014年 6月 17日

ナヌムの家の所長と弁護士、元日本軍「慰安婦」9人の名前で韓国語版『帝国の慰安婦』記述の109箇所を、虚偽であるがゆえの名誉棄損として、著者と出版社代表を相手に全面販売禁止を求める刑事訴訟を起こす。同時に2億7000万ウォン〔約2700万円〕の損害賠償を求める民事訴訟を起こし、出版差し止めおよび元慰安婦への接近禁止の仮処分を申請する。7月から仮処分審理が始まる。

原告側が「慰安婦は自発的慰安婦」「慰安婦を非難した」とする報道資料を出したため、朴はその後現在まで国民的な非難にさらされることになる。告訴の根拠となった本の分析はナヌムの家の弁護士の学生たちが行った。告訴状には『和解のために』執筆やシンポジウム開催などの朴の行為は「慰安婦像を汚すもの」であるため、「慰安婦問題の解決のためにならない」とあった。

2014年 7月

ナヌムの家の顧問弁護士、『和解のために』を「青少年有害図書」として文化観光部の優秀教養図書選定を取り消すように申請。

2014年 9月

朴、A4 150枚の反駁文を提出。原告側、9月の裁判を延期申請。

2014年 10月

原告側、告訴内容を53箇所に減らし、全面販売禁止の当初の告訴内容を一部削除を求める内容に変更。このとき、『帝国の慰安婦』が「戦争犯罪を称えている」もので、朴の歴史認識は「公共善に反するもの」とする。

2014年 10月

元慰安婦ユヒナムさん、仮処分裁判で「朴裕河が日本から20億円もらってやると言った」と偽証。

2014年 11月

朴裕河『帝国の慰安婦:植民地支配と記憶の闘い』(日本語版)が朝日新聞出版より刊行される。

2014年 11月

言論仲裁委員会、歪曲報道に関する朴の申請を受け入れ、連合ニュース、ハンギョレ新聞など4社に対して告訴に関する記事の修正や削除を命じる。

2014年 12月

検察、「犯罪リスト」としてまとめられた53箇所に対して2回の調査。しかし嫌疑無しと決定する。

2015年 1月

検事による調査が三回にわたって行われる。しかし担当検事は結果を出さずに2月に移動。

2015年 2.17

ソウル東部地裁、『帝国の慰安婦』の出版禁止仮処分の申請の一部を認め、34カ所の記述が名誉棄損であると決定する(仮処分)。接近禁止申請は棄却。
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2015年 4月

新しく事件を担当した検事、調停を勧める。以降検察による調停作業進む。

2015年 5月

損害賠償訴訟始まる。

2015年 6月

朴裕河『帝国の慰安婦:植民地支配と記憶の闘争』の「34カ所削除版」(韓国語第2版)がプリワイパリ社から刊行される。

2015年 9月

仮処分への意義申し立て申請。10月、調停決裂。原告側の和解条件は、

1)謝罪、2)韓国語削除版の絶版、3)日本語版の削除。

2015年 10月

日本語版『帝国の慰安婦』の第27回アジア・太平洋賞特別賞の受賞が決定される(11.11授賞式)。日本語版『帝国の慰安婦』の第15回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞の受賞が決定される(12.10授賞式)。

2015年 11月19日

ソウル東部地検、韓国語版『帝国の慰安婦』の著者を名誉棄損の容疑で在宅起訴。

2015年 11月26日

日米の学者ら54名が「朴裕河氏の起訴に対する抗議声明」を出す。

2015年 12月2日

韓国の知識人194名が「『帝国の慰安婦』の刑事起訴に対する知識人声明」を出す。

2015年 12月9日

韓国内外の研究者・活動家ら380名が「『帝国の慰安婦』事態に対する立場」を出す。

2015年 12月16日

朴、損害賠償請求の民事訴訟に最終答弁書提出。

2016年 1月13日

ソウル東部地裁、民事訴訟の判決を下す。韓国語版《帝国の慰安婦》著者に対し、9名のハルモニに損害賠償金計9千万ウォンを支払うよう命じる。

2016年 1月19日

朴、損害賠償請求の民事訴訟判決に控訴。

2016年 1月20日

第一回 刑事準備裁判始まる。朴、国民参加裁判を申請。

2016年 1月24日

原告側、朴の給料の差し押さえを西部地裁に申請。

2016年 1月27日

第2回 刑事準備裁判

2016年 1月31日

朴、『帝国の慰安婦』韓国語第2版をホームページで無料公開する。

2016年 2月

ソウル西部地裁が損害賠償金の差押えを認めたことを受け、世宗大が朴裕河氏の給与を二回にわたって差押える。朴、強制執行停止申請。

2016年 3月7日

仮処分異議申立てに対する1回目の裁判

2016年 3月14日

控訴審を担当する高等裁判所、強制執行停止申請を認め、賠償金の半額に当たる4500万ウォンの供託金提供を命ずる。朴同額供託、差し押さえは4月から中止される。

2016年 3月28日

東京で擁護派と批判派の研究集会。

2016年 4月

3・28集会で出た批判を韓国のハンギョレ、シサインなどが報道。韓国と日本の批判者による『帝国の弁護人-朴裕河に問う』刊行。刑事本裁判のための公判準備裁判が1月から7月までの間に合計6回行われる。

2016年 6月

城南市図書館、『帝国の慰安婦』を19歳以下は読めないようにしていたことが知られる。出版社、経緯を問う抗議文を送る。

2016年 8月 30日

第1回公判が行われる。
(リンク:刑事訴訟 公判記1――アイロニのるつぼ)

2016年 9月 20日

第2回公判が行われる。
(リンク:刑事訴訟 公判記2――笑えない皮肉)

2016年 10月 11日

第3回公判が行われる。
(リンク:刑事訴訟 公判記3)

2016年 11月 8日

第4回公判が行われる。
(リンク:刑事訴訟 公判記4)

2016年 11月 29日

被告人尋問が行われる。

2016年 12月 20日

最終陳述が行われる。
(リンク:刑事訴訟 最終陳述)

2017年 1月 25日

無罪宣告。
(リンク:刑事訴訟 判決文(要約))
(リンク:刑事訴訟 判決文(全文))

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『帝国の慰安婦』 起訴対象箇所 日本語翻訳

『帝国の慰安婦』 名誉毀損起訴 対象箇所

○以下は『帝国の慰安婦』(初版本:2013)のうち、司法の判断により削除対象となった38個所〔仮処分および損害賠償判決文における整理番号では34項目〕 と起訴の際追加された一箇所を訳して示したものである(下線部:39か所)。おおむね直訳となっている。起訴の際追加されたものは、最後に示した。

○ 日本語資料を引用する場合の訳は、初版本(韓国語)から日本語にそのまま反訳した。日本語原文を参照しなおすよりは、提示した韓国語をそのまま反訳したほうが、韓国人読者が読んで受け取った印象をそのまま把握しうると考えたためである。

○番号は、削除部分に前から順番に番号を振ったものであり、頁数は初版本による。


1.2.(19頁)

千田が述べた慰安婦の数は後程あらためて見てみるが、問題がないことはない。しかしこの本が“慰安婦”の悲劇に着目し、社会的な関心を喚起させようとした最初の本であるということだけは確かである。

千田は“慰安婦”を、“軍人”と同様に、軍人の戦争遂行を自身の体を犠牲にしつつ手助けした“愛国”を行った存在であると理解している。国家のための軍人たちの犠牲に対する補償はあるのに、なぜ慰安婦にはないのかというのがこの本の関心事であり、主張でもある。そして結論から言うと、そうした千田の視角は以後に出たそのいかなる本よりも慰安婦の本質を正確に捉えたものであった。

事実、慰安婦らの証言集をただ一冊だけ開いてみても、“慰安婦”という存在が私たちに知られた一つのイメージのみで決して十分ではない多様な側面を持っていたということにすぐに気づく。そうした意味では、これまで支援者たちと否定者たちが慰安婦について持ち続けてきた相反するイメージは、自身たちが見たいイメージから外れる証言は見なかったり無視した結果のものである。


3.(31~32頁)

“ナンジャグン”とは娘子軍、社会の最下層で苦痛の中で働いていた女性たちを“軍人”にあてはめて呼んだものである。国家の欲望の実現のために動員された者たちが、いつの間にか国家の勢力拡張に助けとなる存在として、“国家のための”役割をする者たちとして認められるようになる過程で(もちろん動員のための国家の修辞であるのみである)生じた言葉であった。のちの慰安婦らもまた“娘子軍”と呼ばれ(『毎日グラフ』別冊『日本の戦歴』の慰安婦写真説明文と写真、<写真2>参照)、“慰安婦”たちはそのように国家の男性に対する被害者でありつつも国家によって“愛国者”の役割をしなければならない者たちでもあった(『和解のために』)。

それは、明らかに国家の不条理な策略であったが、外国で哀しい陰の生活をしていた彼女たちには、その役割は自身に対する矜持となり、生きていく力となった可能性もある。“シンガポール近郊ではほぼ6000名のからゆきさんがおり、1年に1000ドルを稼いだが、そのお金を日本人らが借りて商業をし”(232頁)たという話は海外のからゆきさんたちが日本国家の国民として堂々たりえたことを示している。

“からゆきさんの後裔”、“慰安婦”の本質はじつはまさにここにある。国家間“移動”がよりたやすくなった近代に、経済・政治的勢力を拡張するために他国に流れた男性たち(軍隊もそのうちの一つである)を現地にとどめておくために動員された者たちが“からゆきさん”であったのである(からゆきさんの最初の相手が日本の港に停泊したロシア軍人であったという事実は象徴的である)。そして、彼らの役割は“性的な慰め”を含めた“故郷”の役割であった。


4.(33~34頁)

このように日本人女性を対象とした人身売買には、近代初期から朝鮮人たちも深く関与した。女性を慰安婦とし商品化した業者にも、慰安婦を性売買した利用者―軍人や軍属の中にも朝鮮人たちは少なくなかった。いわば、慰安婦を“強制で引っ張って行った”直接的な主体は業者たちであった。

もちろん、こうした事実らを直視することは心苦しいことではあるが(訳注:この部分は伏字版では削除)、“慰安婦”の本質を見るためには“朝鮮人慰安婦”の苦痛が、日本人娼妓の苦痛と基本的には変わらないという点をまずは知る必要がある。その中で差別が存在したことは事実であるが、慰安婦の不幸を作ったのは民族の要因よりもまず、貧しさと男性優越主義的家父長制と国家主義であった。そして、“朝鮮人慰安婦”という存在が発生することとなるのは、これらの位置を朝鮮人女性たちが代替した結果であった。そのようになった背景には韓国の植民地化と植民地へと移植された公娼制度があり、中間媒介者らはそうした過程で発生した存在であった。


5.6.(38頁)

日本軍は、既存の公娼と私娼だけでは足りず“慰安婦”をさらに募集することにしたことであろう。それに伴い業者に依頼することもあったが、一般的な“慰安婦”の大多数は“からゆきさん”のような二重性を持った存在と見なければならない。300万名を超える軍隊がアジアと南太平洋地域にまでとどまりながら戦争をすることになったため、数多くの女性たちが必要とされたところに過酷な状況に置かれることになったのが“慰安婦”であった。しかし、“現地の娘たちが公娼に合流”したという事実はすべての慰安婦が一様に日本軍に“誘拐”や“詐欺”にあったわけではないという事実も示している。

“日本軍慰安所”は一つではない。つまり、軍人がある日、独自で考案して慰安所を作ったのではない。早くから国家の拡張とともに存在した売春施設を利用していたところ駐屯兵力が多くなるや軍が場所を拡大し、管理するために指定したところがいわゆる“慰安所”であった。いわば、日本軍が利用したからと言って、アジア全域にあった、そうした類の施設らをすべて“日本軍慰安所”と見なすことには無理がある。

もちろん、軍人や憲兵によって引っ張って行かれた場合もなくはないように見え、個別的に強姦を受けた場合も少なくなかった。しかし“慰安婦”たちを“誘拐”して“強制連行”したのは少なくとも朝鮮の地では、そして公的には日本軍ではなかった。いわば、需要を作ったことがそのまま強制連行の証拠になるのではない。


7.(61頁)

国家が日本人をはじめとする“帝国の慰安婦”に託したもっとも重要な役割はまさにこうしたものであった。性的な搾取にあいつつも、死を目の前にした軍人を“後方の人間”を代表して“前方”で“慰安”し、彼の最期を見守る役割。いわば慰安婦には身体的な“慰安”のみならず、精神的な“慰安”までも要求されていた。彼女たちが“皇国臣民の誓詞”を暗唱し、何かの日であれば“国防婦人会”の服を着て、着物の上にたすきをかけて参与したのはそのためであった。それは国家が勝手に課した役割であったがそうした精神的な“慰安”者としての役割―自身の存在に対する(多少無理した)誇りが彼女たちの処していた過酷な生活を耐え抜くことのできる力となりえたであろうということは充分に想像することができることである。


8.(62頁)

千田がインタビューしたある業者は、自身が連れて行った彼女らが借りたお金を完済して自由の体になることができたときにもその仕事をやめようとはしなかったとしている。

 

 応募した時もそうでしたが、こんな体になった私も軍人たちのために働くことができる、国のために身を捧げることができると考えて、彼女らは喜んでいました。ですから自由になって内地に帰っても、また体を売る仕事をするしかないことを知っていましたので、女性たちは軍人たちのために全力を尽くすことができたのです。もちろんお金も稼ぎたかったでしょうが。(26頁)

 

もちろん、これは日本人慰安婦の場合である。しかし朝鮮人慰安婦もまた“日本帝国の慰安婦”であった以上、基本的な関係は同じであるといわねばならない。そうでなければ敗戦前後の慰安婦らが負傷兵らを看護した、洗濯や裁縫をしたりしていた背景を理解することができない。朝鮮人慰安婦らが“さゆり”、“鈴蘭”、“桃子”のような日本名で呼ばれた(古山高麗雄「白い田圃」12頁)というのも、植民地人が“慰安婦”となることというのは“代替日本人”になることであったということを示している。


9.10.(65頁)

戦闘を終えて帰ってくる軍人たちは乱暴でサックもあまり使おうとはしなかった。顔、服、履物などが完全に土埃だらけであった。戦闘に出ていく人たちは多少温順で、もう自分には必要がないと小銭を置いて行ったりもした。戦闘にいくのが怖いと泣く軍人たちもいた。そんなとき、私は必ず生きて帰ってくるようにと慰労したりもした。本当に生きて帰ってきたらうれしく喜んだ。こうするうちに常連の軍人もかなりになった。「愛している」「結婚しよう」とも言われた。(『強制1』53頁)

 

騙されて行った場合であれ、志願して行った場合であれ、“慰安婦”の役割は根本的にこうしたものであった。家族と故郷を離れ、遠い戦地で明日には死ぬかもしれない軍人たちを精神的・身体的に慰労し、勇気を奮い立たせる役割、その基本的な役割は、数多くの例外を生んだが、“日本帝国”の一員として要求された“朝鮮人慰安婦”の役割はそうしたものであり、だからこそ愛も芽生えることがありえた。“数日戦争やって、あの山に行ったら、中国女性たちがいれば強制的に脱がせて、寝させるんだとさ。軍人たちがそうしたと言っていたよ。そんなときは、可哀想に中国女性はそうだったのかと思ったよ。(私たちに対しては)無条件という形で脱がしたりはしない”(『強制5』133頁)という言葉にあるように、中国人女性と朝鮮人慰安婦は日本軍には明らかに異なる存在であった。


  1. 12. (67頁)

もちろん、こうした記憶たちはあくまでも付随的な記憶でしかありえない。仮に、守られて、愛し、心をゆるした存在がいたとしても、慰安婦たちに慰安所は、抜け出したいところでしかありえないからである。かといって、そこにこうした類の愛と平和が可能であったことは事実であり、それは朝鮮人慰安婦と日本軍の関係が基本的には同志的な関係であったためである。問題は彼女たちには大切であったはずの記憶の痕跡を、彼女たち自身が“みな捨ててしまった”という点である。“それを持っていると問題になるかと思って”という言葉は、そうした事実を隠蔽しようとしたのが、彼女たち自身であったということを示している言葉でもある。そして、私たちは解放後、そのように“記憶”を消去させながら生きてきた。


13.(99頁)

ビルマのラングーンにいて、戦争末期に爆撃を避けて他国に身を移したこの慰安婦たちもまた、日本軍の案内で日本まで来て帰国したケースである。彼女らが“戦争犯罪人”、すなわち戦犯たちがいるところへ行くことになった理由は、彼女たちが“日本軍”とともに行動しつつ、“戦争を遂行”した人たちであったためである。それは、たとえ、彼女らが過酷な性労働を強要されていた“被害者”であったとしても、“帝国の一員”であった以上、避けることができない運命であった。


14.(112頁)

何より、性労働の加害者は、女性を“教育”から排除させて、経済的な自立の機会を与えず、父と兄が物のように売ることができた時代、女性の所有権を男性が持っていた時代の家父長制的な国家であった(『和解のために』)。したがって“朝鮮人”が最初からターゲットになる理由もなかった。朝鮮人女性が慰安婦になったのは、今日でも変わることなく、ほかの経済活動が可能な文化資本を持たない貧しい女性たちが売春業に従事するこことなることと同様の構造の中のことである。彼女たちの中には兄の学費をまかなうために、工場に行く女工のように、家族のために自身を犠牲にした女性が少なくなかった。


15.16.(120頁)

慰安婦問題を否定する人たちが‘強制性’ を否定するのは彼らが慰安婦に関する記憶のうち”彼らだけの“記憶に執着するためである。彼らの中には慰安婦問題を完全に否定する人たちもいるが、多くは‘強制連行’か‘20万人という数字’を問題にしている。そしてそのように考える私たち(韓国人)の考えに問題がないわけではないということはこれまで見てきたとおりである。
慰安婦問題を否定する人たちは“慰安”を“売春”としてのみ考えたし、私たちは“強姦”としてのみ理解したが、“慰安”とは基本的にはその二つの要素を両方包むものであった。言い換えると、“慰安”は過酷な搾取構造の中で実際にお金を稼ぐ人は少なかったが、基本的には収入が予想される労働であり、そうした意味では“強姦的売春”であった。あるいは“売春的強姦”であった。


17.18.(137頁)

‘性奴隷‘という単語は、アメリカやヨーロッパ、あるいはほかの被害国家を相手に日本軍の残酷さを強調するのには効果的だったが、必ずしも正当な闘いだったとばかりはいえない。にもかかわらず、そうした概念が定着されるつれて結果的に世界は今、’人身売買‘の主体を日本軍と考えている。

さきにも見たように、日本人、朝鮮人、台湾人“慰安婦”の場合、“奴隷”的ではあっても基本的には軍人と“同志”的な関係を結んでいた。言い換えると、同じ“帝国日本”の女性として軍人を“慰安”するのが彼女らに与えられた公的な役割であった。彼女たちの性の提供は基本的には日本帝国に対する“愛国”の意味を持っていた。もちろんそれは、男性と国家の女性搾取を隠蔽する修辞に過ぎなかったが、“日本”軍人だけを慰安婦の加害者として特殊化することはそうした部分を見れなくしてしまう。


19.(158頁)

 

4、‘愛国’する慰安婦

‘自発性’の構造

慰安婦の‘強制連行’は戦場でのみ行われたように見える。先も引用した吉見義明教授は、インドネシアの“アンボン島で強制連行・強制使役が存在したのは確かである”(「日本軍‘慰安婦’問題についてーワシントンポストの‘事実(ファクト) “広告を批評する」と言うが、そうした強制性は朝鮮人女性とは異なるケースと見るべきである。

そうした意味から見た時、“そうした類の業務に従事していた女性が自ら希望して戦場に慰問しに行った”とか“女性が本人の意思に反して慰安婦をすることになるケースはなかった”(木村才蔵)と見る見解は“事実”としては正しい可能性もある。明らかに彼女たちの中には貧しさの中で“白米”を夢見たり、女性が勉強することを極端に嫌悪していた家父長社会から抜け出て、一つの独立した主体となろうとした人たちも多かった。そうした人たちを“自発的”に行ったと考えることもありうることである。


20.21.(160頁)

しかし、業者の徹底的な監視の中、自分の意志では帰りえる道がないこと理解するようになった慰安婦たちが(もちろんその中には契約期間が終わって帰った人たちもいる)時間が経つにつれて最初に着いたときの当惑と悲しみと怒りを自分の中で消して“自分を売り込むために積極的に”(訳注;小野田寛郎)行動するようになったとしても不思議なことはない。そうした積極性は放棄と諦め、あるいはただ生きるために自らに与えられらたトリックでもありえた。とすれば、“愛嬌をふるまう”ことは悲惨さと背馳するものではない。つまり、彼女たちに与えられた役割だった’慰安’に忠実にあろうとしたとしても、それが‘慰安婦の苦しみ’を否定していい理由にはならない。

むしろ、彼女たちの“ほほえみ”は売春婦としてのほほえみではなく、兵士たちを“慰安”する役割を与えられた“愛国娘”としてのほほえみと見なければならない(『和解のために』)。仮に、“同情を引いてお金をとって、自分の利益とした女性”(小野田寛郎)がいたとしてもそれによって多くないお金をみな使ってしまって後悔した兵士がいたとしても、彼女たちを日本が植民支配構造の中で兵士たちを“慰安”するために動員した以上、彼女たちを非難することはできない。耐えがたい状況であったにもかかわらず、明るい表情で“愛国娘”としての役割に忠実であったならば、彼女らをそのようにさせた日本としては、むしろ感謝して当然のことである。

植民地人として、そして“国家のために”戦うという大義名分を持っている男性たちのために最善を尽くさねばならない“民間人”“女性”として、彼女たちにゆるされた誇り -自分の存在の意義、承認―は“国家のために戦う兵士らを慰労している(木村才蔵)”という役割を肯定的に内面化する愛国心のみでありえた。“内地はもちろん朝鮮、台湾から戦地に行くことを希望する人が絶えることがなかった”(同書)とすれば、それは日本国家がそうした“愛国”を植民地人たちにまで内面化させた結果であるのみである。


22.(190頁)

一個人としての“慰安婦”のもう一つの記憶が抑圧され、封鎖されてきた理由もそこにある。“日本軍人と”恋愛“もし、”慰安“を”愛国“することと考えてもいた慰安婦たちの記憶が隠蔽された理由は、彼女たちがいつまでも日本に対して韓国が“被害民族”であることを証明してくれる人として存在してくれないといけなかったからである。“慰安婦”たちに個人としての記憶が許されなかったのもそのせいである。彼女たちはあたかも解放以後の生を飛び越えたかのように、いつまででも“15歳の少女被害者”であったり“戦う闘士ハルモニ”としてとどまっていなければならなかった。


23.(191頁)

“朝鮮人慰安婦“たちが慰安所で経験した強姦や過酷な労働の原因は植民地支配と国家と男性中心主義と近代資主義がもたらした貧困と差別にある。さらに、彼女たちをそうした空間に追い込んだ家父長制にある。言い換えれば、具体的にそのシステムを作り利用したのは‘日本軍’だが、直接的な責任はそうした責任を黙認した国家にある。

しかし、国家が軍隊のための性労働を当然視したのは事実でも、当時、法的に禁止されていなかった以上、それに対して“法的な責任”を問うことは簡単なことではない。また強制連行と強制労働そのものを国家と軍が指示しなかった以上(日本軍の公式規律が強姦や無償労働、暴行を制御する立場であった以上)強制連行に対する法的な責任を日本政府にあると言うのは難しい。言い換えると、慰安婦たちに行われた暴行や強制的な無償労働に関する被害は1次的には業者と軍人個人の問題として問うほかない。


24.(205頁)

少女像がそうした姿をしているのは、“抵抗して戦う少女”の姿こそ、韓国人が自身とオーバーラップさせたいアイデンティティとして、理想的な姿であるからである。少女像がチマチョゴリを着ているのは、実体像を反映したものでもありうるが、リアリティの表現であるというよりは“慰安婦”を望ましい“民族の娘”と見せるためのものである。

しかし、実際、朝鮮人慰安婦は“国家”のために動員され日本軍とともに戦争に勝とうと彼らの面倒を見て、士気を高めた人たちでもあった。大使館の前の少女像は彼女らのそうした姿を隠蔽している。


25.26.(206頁)

彼女たちが解放後に帰れなかったのは、日本だけでなく私たち自身のためでもあった。すなわち“汚された”女性を排斥する純血主義と家父長的認識も長い間彼女たちを故郷に帰れなくした原因であった。しかし、そこにあるのはただ性的に汚された記憶だけではない。日本に協力した記憶、それもまた彼女たちを帰れなくさせたのではなかっただろうか。いうならば“汚された”植民地の記憶は“解放された韓国”には必要なかった。それで大使館前の少女像は協力と汚辱の記憶を当事者も、見る人も、ともに消し去った“民族の被害者”としての像であるのみである。

少女が“聖なる娘”としての“純血”と“抵抗”のイメージのみを盛り込んでいるのはそのためでもある。そうした意味からは、少女像は、恥ずかしい記憶を忘却したり糾弾して“私たち”の外に追い出してきた解放後60年あまりの歳月を象徴するものでもある。言わば解放後、60年間、ただの一度も総体的な私たち自身を引き受け、乗り越えようとしなかった歳月の象徴でもある。そうである限り、“被害者”少女にマフラーを巻き付け、靴下をはかせて、傘をさしてあげている人々が、彼女たちが日本の服を着て、日本の名前を持った”日本人“として”日本軍“に協力したという事実を知ることになると、全く同じ手で、彼女たちに指を指すのかもしれない。慰安婦になる前にそのように幼い”少女“を追いやった”手“もまた、私たちの中のまた別の手であったということは忘れたまま。


  1. (207頁)

協力の記憶を去勢し、一つのイメージ、抵抗し、闘争するイメージだけを表現する「少女」像は、協力しなければならなかった“慰安婦”の哀しみは表現できない。“慰安婦”となる前の純粋な姿だけを記憶することは、“汚される”前の私たち自身を想像し、胸に持つことで私たち自身を慰安することはできるが、それは植民地が何であったかを見ることからやはり目をそらしているのである。したがって、大使館前の少女像は“朝鮮人慰安婦”ではなく私たち自身でもありうる。

 

28.(207~208頁)

そうした意味では、残酷な存在ではあるが、“朝鮮人慰安婦”はただユダヤ人であるという理由だけでみなが排斥と抹殺の対象となったホロコーストとは異なるとせざるをえない。挺対協は最近になって慰安婦問題を“ホロコースト”に比肩させるが(「ホロコースト・慰安婦が来月歴史的な出会い」『聯合ニュース』、2011.11.21)、ホロコーストには“朝鮮人慰安婦”が持つ矛盾、すなわち被害者であると同時に協力者であるという二重の構図はない(もちろんまったくないわけではないが、ごく少数であるため、慰安婦とは構造が異なる)。挺対協は世界に向けた運動で慰安婦をホロコーストと似た位置に置こうとしているが、それはその違いを無視したことである。それは私たち自身を“完璧な被害者”として想像しようとする歪曲された欲望の表現であるのみである。


29.(215~216頁)

しかし、日本政府は謝罪し、2012年春にもふたたび謝罪を提案した。そして今後も挺対協が主張する国会立法がなされる可能性はない。その理由は1965年の条約、そして少なくとも“強制連行”という国家暴力が朝鮮人慰安婦に関して行われたことはないという点、あるとすればどこまでも例外的な事例で個人の犯罪と見るしかなく、そうである限り“国家犯罪”ということができない点にある。


30.(246頁)

ところが、そうしたクマラスワミでさえ“慰安婦”の状況を“強要された売春”として認識している。慰安婦たちを三つ―自発的な売春業、飲食店や洗濯婦として行って“慰安”をすることになった場合、強制連行―に分類するなど“慰安婦”の姿が一つではなかったということも理解していた。1996年の時点で“慰安婦”というのは、根本的に“売春”の枠の中にあった女性たちであるということを理解していたのである。


31.(264頁)

すでに見たように、インドネシアや中国やフィリピンの場合は基本的には“占領地”、すなわち戦地でのことであった。もちろん、その中でも違いはあったであろう。

“オランダ”女性とインドネシア女性と朝鮮人女性は日本軍との基本的な関係が異なっている。日本軍にとってオランダ女性は“敵の女性”であったが、インドネシアの女性は占領地の女性であり、朝鮮人慰安婦は同じ日本人女性としての同志的関係であった。彼女らが受けた被害の形態は基本的な関係によって規定されたが、そうした基本関係を外れた関係もいくらでもあった。

それにもかかわらず、“基金”はそのような個別的な違いも日本との関係の違いも区別はしなかった。もちろん、いまだに“慰安婦”の定義に対する社会的な合意がない状況であるので、当時の状況ではやむをえないことでもあった。日本としては“朝鮮人慰安婦”が初めて世に出てきただけに、朝鮮人慰安婦の事例を中心に対処したものであって、誠実な対応であったともいえる。


32.(265頁)

韓国や台湾で補償事業が円満に遂行しなかった理由は、何よりも二つの国が過去に日本の植民地であったという関係性にある。その理由は“朝鮮人慰安婦”が“戦争”を媒介とした、明確に被害者と加害者の関係に分けることができる存在なのではなく、植民支配下で動員された“帝国の被害者”でありつつ、構造的にはともに国家協力(戦争遂行)をすることとなった“同志”の側面を帯びた複雑な存在であったからである。これまでも韓国の慰安婦だけが“問題”として残っているのは、そうした部分が原因となった側面が大きい。二つの国の女性たちは、ほかの国よりもさらに“矜持”を棄損されてはならない立場にあったのでそうした心理的構造もまた“基金”の補償を容易に受け入れることができないようにさせた原因の中の一つであった。


33.(291頁)

“朝鮮人慰安婦”とは、“このようにして朝鮮や中国の女性たちが日本の公娼制度の最下層に編入され、アジア太平洋戦争期の”慰安所“の最大供給源”(山下英愛、110頁)となって生じた存在であった。そして、戦争が本格化し、数百万人にのぼる軍隊が駐屯して奥地まで入っていくようになり、軍人たちとともにある慰安婦として“朝鮮人”を含む“日本帝国”の女性たちが選ばれたのである(業者や慰安婦自身が選んだ可能性もある)。


34.35.36.(294~295頁)

彼らがそのように戦地にまでともに行くことになったのは、全く同じく“日本帝国”の構成員、“娘子軍”と呼ばれる“準軍人”のような存在であったからである。大部分は業者が引率して行っただろうが、それは“あねさん”が米国のチームスピリット訓練地にまで行ったような“遠征”であった。

“朝鮮人軍人”たちには“朝鮮人慰安婦”は“高くて”利用することが難しい存在であった。“現地の女性は主として兵隊らが相手”したというのは“慰安”という行為が“人間の商品化であり階級化”であったということを示しているが、同時に“朝鮮人慰安婦”が帝国内で置かれていた位置を表してもいる。日本人たちに差別される対象でありつつ、彼女たちは言葉が通じ、容貌が日本人と似ており、同じ“同族”としての機密を守ることのできる存在として“日本人慰安婦”に代わることのできる存在であった。

彼女たちが“娘子軍”と呼ばれたのは、彼女たちが国家の勢力を拡張する“軍隊”の補助的役割をしたからである。“愛国奉仕館”と言うところには朝鮮人女性が多“(ムンテボク・ホンジョンムク、72頁)く、そうしたところを含めた現地の慰安所を朝鮮人軍属たちも”ひと月に一度か二度“(同書、74頁)は許可を受けて利用した。もちろん、彼らもまた`明日死ぬかもわからないものを、遠慮することはない’、みながそんな気持ち”(きよかわこうじ・さくらいくにとし、清川紘二、桜井国俊 65頁)であった。

“朝鮮人慰安婦”は被害者であったが、植民地人としての協力者でもあった。それは彼女らが願おうと願うまいと、朝鮮が植民地となる瞬間から取り除くことができなくなった矛盾であった。私たちが“朝鮮人慰安婦”の多様な姿を長い間見ることができなかったのは、そうした植民地の矛盾を直視したくなかったからである。“1942年、日帝に連行され、中国の延辺などで慰安婦の被害を受けているときに解放を迎えた”や“慰安婦の生活に対する恥ずかしさから帰国することができず2000年6月に、韓国を発って58年ぶりに帰ってきた”と告白(『韓国日報』2011.12.14)した慰安婦の言葉もまた、“大部分が殺された”という私たちの常識に亀裂を起こさせる言葉と言わざるを得ない。


37.(296頁)

“植民地化”は必然的に支配下に置かれたこれらの分裂をもたらす。しかし、解放後、韓国は宗主国に対する協力と従順の記憶を私たち自身の顔として認めようとしなかった。そのように過去のある一面を忘却する方式で解放60年あまりを生きてきた結果、現代韓国の過去に関する中心的な記憶は抵抗と闘争の記憶だけである。“親日派”-日本に協力した者を私たち自身とは別の特別な存在として見なして探し出し、非難することが、相変わらず続いていることも、彼らが“望ましき私たち”に対する幻想を崩す存在であるからである。

 “自発的に行った売春婦”といったイメージを私たちが否定してきたのもやはりそうした欲望、記憶と無関係ではない。


38.(306頁)

今、必要なことは、彼女たちを“正しき朝鮮人闘士”として存在させ“国家の品格”を高めることではない。ただ、彼女たちが “ひとりの個人”に帰れるようにしてあげることである。中国やオランダのような敵国女性らの“完璧な被害”を借りてきてかぶせ、朝鮮女性たちの“協力”の記憶をはぎとった少女像を通じて、彼女たちを“民族の娘”とすることは、家父長制と国家の犠牲者であった“慰安婦”をもう一度、国家のために犠牲にさせることに過ぎない。

 

刑事起訴の際追加された箇所(144~145頁)-

 

“おい、出て来いといっておるではないか。出て来んのか、朝鮮ピー”(中略)

“貴殿は引率者か? 朝鮮ピーたちをすぐに下車させろ。私はここの高射砲部隊長をしておる。おろせ”(中略)

“この者たちは石井部隊専用の女性たちです”

“なに? つまらんことを言うな。どうせ減るもんでもなし、けち臭いことを言うな。新京ではえらく気前がよかったそうだが、なんでうちの部隊はだめなんだね”

“しかし……”

“しかしも何も、いやだと言うなら通過させるわけにはいかんな。この先には決して行かせんぞ。分かったか? 通行税だよ。気分よく出していったらいいんだよ”

 ここに到着する前、開封(カイピョン)を出発していくらも経たずして新京と、もう一か所別のところで彼女らはすでに二回も車から引きずり降ろされていた。そのたびに、その地に駐屯中であった兵士らが休む間もなく順番に、彼女たち五人にとびついた。(田村泰次郎「 蝗」479~481頁)

 

この状況は異論の余地なき“強姦”である。また、彼女たちが“石井部隊専用の女性たち”という言葉は、“慰安婦”らが“部隊”ごとに割り当てられており、兵士らが“専用”意識を持っていたことをうかがわせる。このように、“慰安婦”は日本軍にとって軍服や武器のような軍需品であった。

朝鮮人慰安婦を指し示す“朝鮮ピ―”という言葉には朝鮮人に対する露骨な軽視が表れている。この軍人たちが彼女たちをこんなにも簡単に強姦することができたのは、彼女たちが“娼女” だったからでもあるが、何より“朝鮮人”であったからである。“減るもんでもなし”だとか“けち臭いことを言うな”という表現は、この軍人たちにとって朝鮮人“慰安婦”というのは、正当な報酬を支払って利用するひとり “娼女”でさえなかったことを示している。“朝鮮人慰安婦”とは、専用権を持った部隊が別の部隊所属の軍人たちに“えらく気前よく”しても構わない“物”に過ぎなかった。つまり、売春婦には許容された自分の身体の管理権を、彼女たちは持つことができなかった。それゆえ、彼女たちはただ“通行税”とみなされる使用価値であるのみ、主体的な意思を持った商品でさえない。

そうして、結局、強姦されて戻った彼女たちはこのように述べる。

 

“全く。馬鹿にして。あいつら、やるんだったらお金を払わなきゃいけないはずでしょ。お金も払わずに何をするのよ”(中略)

“分かっとらんな。作戦中にかねを持っとるやつがどこにいる”と、兵士たちは当然の要求を嘲った。(488~489頁)

 

“慰安婦”たちは、このように“無償”労働も強要されていた。とくにはじめて慰安所に到着したとき、彼女たちが将校たちに通過儀礼のように受ける強姦はほとんどが無償であった可能性が高い。

もちろん、報酬を受け取れば問題がないという意味ではない。たとえ報酬を受けたとしても、その報酬は、彼女らの精神的・身体的な苦痛に対する対価として十分なものではなかった。“慰安婦”らが、“高額な料金”をもらったと強調する人たちもいるが、“慰安”であれ“売春”であれ、報酬が仮に高い場合があったとすれば、それはそれだけそれが皆が忌み嫌い、差別的であり、なおかつ過酷な労働であったためである。いわば“高額な料金”はむしろ当然である。その場所が命を抵当にかけなねばならなかった前線であってみれば、言うまでもない。大部分の慰安婦らは、自身らの身代金を抵当に入れられていた不幸な境遇にいた 。また、その搾取の主体が仮に業者だったとしても、そうした搾取構造を黙認して許した(時折、その構造を正そうとした軍人もいたが、それは例外的なことと見るべきである)軍上部に責任がないということはありえない。

蔣正一, 朴裕河殺し – 鄭栄桓/李ミョンウォンの誤読

今日『緑色評論』5~6月号(第148号)をもらった。目次でイ・ミュンワォンの「日本軍慰安婦問題と知識人の知的衰退」を見つけ、その文章から読んだ。

上の文章でイ・ミュンワォンは朴裕河の韓国語版『帝国の慰安婦』(根と葉、2013)と日本語版『帝国の慰安婦』(朝日新聞出版、2014)をとり挙げ、「二つの本は事実上同じ書籍だと見ることは難しい」(65ページ)としながら、「日本語が分からない韓国の知識人と読者たちが激烈な朴裕河のファンダムfandomに転落する魔術は、[版本を異にした著者の]このような修辞学的策略によるもの」(66ページ)だという。

『帝国の慰安婦』の韓国語版と日本語版は「同じ書籍」ではなく、まさにそこに朴裕河の奸計が隠されているといった、このような陰謀論はもともとイ・ミュンワォンのものではなく、日本語版出版直後に持続的に問題を提起してきた鄭栄桓(チョン・ヨンファン)明治学院大学教授のものだ。鄭栄桓の主張は、板垣竜太と金富子が一緒に編集した『「慰安婦」問題と植民地支配責任』(サムチャン出版社、2016)に「「戦後日本」を肯定したがる欲望と『帝国の慰安婦』」というタイトルで載せられている。そこで鄭栄桓は韓国語版の262ページとそれを翻訳した日本語版251ページを比較してから、「『帝国の慰安婦』の核心的な主張は日本語版を読まなければ分からないといっても過言ではないです。」(98ページ)と述べている。

しかし、上の事例よりさらに深刻な事例があるならまだしも、まず鄭栄桓が提起し、イ・ミュンワォンがそのまま受け入れた「(韓国語版)262ページ/(日本語版)251ページ」の違いは決して二人の主張を裏付けない。「(韓国語版)262ページ/(日本語版)251ページ」の違いをもって、「『帝国の慰安婦』の核心的な主張は日本語版を読まなければ分からないといっても過言ではない」とか、「二つの本は事実上同じ書籍だと見ることは難しい」とかいうのは、ひいき目に見て誤読だが、実際には「故意的な嘘」だ。

それでは、その箇所が『帝国の慰安婦』の韓国語版と日本語版の「核心的な主張」を異なるものにしているのか、鄭栄桓が『「慰安婦」問題と植民地支配責任』に翻訳して載せ(94~95ページ)、イ・ミュンワォンが「日本軍慰安婦問題と知識人の知的衰退」にそのまま引用した(64~65ページ)問題の箇所を調べてみよう(日本語版の引用文に出てくる下線は鄭栄桓/イ・ミュンワォンによるものであり、韓国語版と日本語版にあるMeiryo体は私によるものだ)。

(韓国語版)言ってみれば、日本は1945年帝国が崩壊する以前に「植民地化」した国家に対して実際には公式の謝罪・補償はしていない。朝鮮朝廷に要請されたとはいえ、植民地化の過程における東学軍の鎮圧に対しても、1919年の独立運動当時、収監・殺害された人々に対しても、関東大震災当時、殺害された数多くの人々に対しても、その他に「帝国日本」の政策に従わないという理由で投獄されたり、過酷な拷問の末に命を失ったりした人々に対しても、公式には一度も具体的に言及したことがないのである。そして「朝鮮人慰安婦」たちについては、国民動員の一つの形態だったと見ることはできるものの帝国の維持のための動員による犠牲者という点では、彼らと同じように植民地支配の犠牲者だ。

(日本語版)その意味では、日本は一九四五年の大日本帝国崩壊後、植民地化に関して実際には韓国に公式に謝罪したことはない両国の首脳が会うたび謝罪をしてきたし、そのこと(今までの謝罪―訳者注)はもっと韓国に知られるべきだが、それは実にあいまいな言葉によるものでしかなかった。一九一九年の独立運動の際に殺された人たちに対しても、関東大震災のとき「朝鮮人」であるという理由だけで殺された人々に対しても、そして帝国日本の方針に従わないという理由だけで監獄に入れられ、過酷な拷問の末に命を落とした人々に対しても、一度も公式には具体的に触れる機会のないまま今日まで来たのである。

鄭栄桓/イ・ミュンワォンは日本語版に自ら下線を引いた文章を挙げて、朴裕河が韓国語版では「日本は1945年帝国が崩壊する以前に「植民地化」した国家に対して実際には公式に謝罪・補償をしていない」 と書きながら、日本語版ではそれをひっくり返したと述べている。

日本語版の読者のために書き換えた部分の中で注目しなければならないポイントとして、著者が植民地支配に対する日本の「謝罪」についてどのように認識しているのかが変わったという点が挙げられます。韓国語版には日本政府は植民地化に対して「公式に謝罪・補償していない」とだけ書いているが、日本語版には「両国の首脳が会うたびに謝罪をしてきた」という文が追加されています。この文が追加されると、「公式に」という意味が、謝罪をしたことはあるが、「曖昧な表現」であったために韓国に伝えられづらかったという意味に変わります。(鄭栄桓:96ページ)

上のそれぞれ違った版本を見ると、挿入された文のため非常に相異なった意味を帯びてくる。韓国の読者たちに書いた文章では植民地支配責任に対して日本政府が「公式に謝罪・補償していない」と主張して、日本語版では「両国の首脳が会うたびに謝罪をしてきたし」という表現をしている。このように版本の違う二つの本は事実上同じ書籍だと見ることは難しい。(イ・ミュンワォン:65ページ)

どのように読んだら、このようになるのだろうか。二人ともあきれた解釈をしている。それで私のほうが変なのかと思って、文系とは程遠い統計学科を出た知人に韓国語版と日本語版を読ませてから、日本語版は韓国語版と違った主張をしているのかと尋ねた。知人の答えは明快だった。「日本語版に鄭栄桓/イ・ミュンワォンが下線を引いた箇所は、すぐその前に出てくる日本は一九四五年の大日本帝国崩壊後、植民地化に関して実際には韓国に公式に謝罪したことはないについての敷衍だ。」そのとおりだ!

そうであるならば、韓国語版の「日本は1945年帝国が崩壊する以前に「植民地化」した国家に対して実際には公式に謝罪・補償をしていない」には敷衍がないのに、なぜこの箇所と少しも違うところのない日本語版の「日本は一九四五年の大日本帝国崩壊後、植民地化に関して実際には韓国に公式に謝罪したことはない」にはあのような敷衍が必要だったのだろうか。下線を引いた箇所のように敷衍しなかったら、日本人たちは「日本は一九四五年の大日本帝国崩壊後、植民地化に関して実際には韓国に公式に謝罪したことはない」という朴裕河の断定に疑問と反発心を覚えただろう。「何を言っている?日本政府が謝ったことはないと?村山談話を発表した村山富市は何と総理だったじゃないか?」

朴裕河は日本人の疑問に答えつつ、反発心を和らげようと鄭栄桓/イ・ミュンワォンが下線を引いた箇所を日本語版に入れたのだ。「日本政府の首班が謝罪をしてきたことは間違いない。しかしそれは公式というにはいつも曖昧なものだった。」 鄭栄桓/イ・ミュンワォンが日本語版に下線を引いた箇所を読めば、下線を引いたその箇所が「日本は一九四五年の大日本帝国崩壊後、植民地化に関して実際には韓国に公式に謝罪したことはない」 についての敷衍であることはより一層明確になる。朴裕河を攻撃する者たちが、学問的論争をしているのではなく「朴裕河バッシング」をしている、という疑惑は根拠のないものではない。

2016.5.9 将正一

出典 : Huffington Post

カンダミ, 私は『帝国の慰安婦』で「同志的」関係というワーディングが書かれた脈絡を、こう考えている。

私は『帝国の慰安婦』で「同志的」関係というワーディングが書かれた脈絡を、こう考えている。

著者: カンダミ

初期の挺対協は挺身隊と慰安婦の区別もつかなかった。被害規模もきちんと把握していなかった。そこで挺身隊のような「公的」な強制動員という体系の中で慰安婦問題の証明を試み続けたが、証拠が出るはずもなかった。

こうして、無駄な時間ばかりが過ぎていった。

挺対協は被害者に抗議されてはじめて、こうした立場を撤回すると同時に謝罪した。慰安婦という存在は一体何だったのか、このときからでも直視して研究すべきだったが、戦略を変えて「性奴隷」という概念で国際社会に訴え、日本を外交的に圧迫する方向にシフトした。どうやら、運動の戦略を考えるだけで終わったようだ。

だが、これはそれほど簡単な問題ではない。挺身隊との混同のせいで、動員の過程での強制性(強制連行)の立証に失敗したというなら、「性奴隷」という概念は、慰安所が実際はどのように運営されていたのかを示す様々な証言と相反する面がある。

実際に日々の監禁と暴力で酷使し、奴隷のような環境に追い込んだ主体は業者だからだ。自らを一種の下請けだとし、日本軍が定期的に行う性病検査の管理という次元を超えて、運営に直接かつ具体的に関与していたという証拠もまたない。逆に慰安婦は業者の暴力的な抑圧から少しでも逃れようと、日本軍の保護を受けるために地位の高い軍人と恋愛をすることもあった。慰安婦が看護師の役割をすることもあったし、軍人の歓送迎会に行くことも、亡くなった軍人の墓を世話することもあった。一緒に訓練を受けたり、アヘンを吸ったりすることもあったし、互いの身の上話や戦場から生還しろと激励することも…

強制的に占領地から軍人に引っ張って来られて収容された占領地の女性の証言に、そうした内容があるのを見ただろうか? 明らかに異なる面があったのだ。

日本の右派勢力は動員過程での強制性と同様に、慰安所の風景に関する証言の数々と事実を根拠に、慰安部問題そのものを否定している。

それでは果たして、朝鮮人慰安婦は占領地出身の慰安婦よりも楽な生活をしたかというと、またそれも違う。

暴力と強圧を加えた主体が異なるだけだ。占領地の女性が日本軍に犬扱い・奴隷扱いをされたなら、朝鮮人慰安婦は代わりに民間人の業者-置屋から毎日のように殴られ、監視や監禁のもとで酷使され、犬扱いや奴隷扱いされた。日本軍との関係では、戦争をともに戦う皇国の臣民として「慰安」してやらなければならない愛国者の役割まで強要されていたのだ。

すなわち、朝鮮人の置屋-業者との下請け関係と、慰安と、愛国という、内面化された国民動員のイデオロギーによって、日本軍と朝鮮人慰安婦の間に存在した直接的な暴力の隠ぺいが可能だったいうことだ。

その隠ぺいの構造を明らかにせず、暴力性を証明する証拠探しばかりに集中する運動のやり方は、これといった成果を上げることはできなかった。

同志的な関係とは、占領地の慰安婦とは異なる面、つまりその隠ぺいされた構造を説明するための概念である。そして、この概念はそれなりに重要だと考える。

日本軍の兵士ですら、自分たちが占領地の女性(敵の女性)と朝鮮人慰安婦をはっきり区別し、異なる扱い方をしていたという事実を心の中では「正当化」している。これは日本軍を、韓国軍や他国の軍隊と置き換えても同じことだ。それだけ朝鮮人慰安婦の問題は、より構造的で普遍的な問題だと見る必要がある。

日本軍の蛮行という特殊化された範疇を超え、女性に対する性的搾取を正当化させる「家父長制国家」…そして、主に貧しい女性が標的にされた「階級」の問題などにも目を向けるべきだ。

「慰安」という国民動員のイデオロギーは植民地時代の後にも、韓国軍慰安婦、米軍慰安婦として再生産されるだけでなく、戦時中でなくとも「性売買の合法化」と「公娼性」を主張する男性の意識の中で、内面化されて再生産されている。

男性の性欲解消に役立つから性犯罪の予防になるという戯言は、実は当時の「慰安」というイデオロギーと何一つ変わっていない。女性の性的対象化があまりにも日常的、当たり前になっており、いつでもそれを国家・民族・社会の公的な構造に引っ張り込み、正当化させるという振る舞いに及ぶのだ。

(だから私は「性奴隷」という用語より、日本軍が使用した「慰安婦」という用語の方が、むしろその実態をより露わにする概念だと思う)。

公的に容認・正当化した構造的な強制性として慰安婦制度の問題に接近してこそ、歴史に対するまともな反省を引き出すことができるのではないか。それでこそ、一部の表面的な事実関係を持ち出して慰安婦を否定している、日本の右派の論理も抑えることができる。そうした論理に巻き込まれている間にも、すでに白髪の老人となった慰安婦被害者たちに残された時間は刻一刻と減っていく。暴力性の証拠探し、文書探しのような空振りで無為に時を過ごすべきではない。

それより、日本軍が暴力と強圧の主体として前面に出なかったのに、どうやってあれほど多くの女性が慰安婦に動員され、犠牲になったのか…という点の方が、おぞましい歴史的事実ではないか。

そうした合法的、かつ公的な構造と体制を作り出した張本人として、当時の日本軍-日本政府-国家の責任、ひいては全国民の意識レベルにまで責任を問い、反省させることが慰安婦問題に関する過去史の清算の核心であるとは思わないのだろうか?

そうでなければ、あの正当化の構造はいつでも様々な姿で、様々な国籍で繰り返される可能性もあるのだ。

セウォル号も、ただ朴槿恵政権のせいだとなすりつけ、糾弾したからといって問題は解決するのだろうか? 文在寅が大統領だったら事故は防げて、全員が救助されていたのだろうか? それも構造的な問題として接近してこそ、問題が解決されるはずだ。それと同じことなのだ。

もちろん、だからといって『帝国の慰安婦』が構造的な問題を緻密に、そして入念に探究したと見るのは難しい。もっと忠実に補完されるべき部分も多々ある。そうした面から生産的な批判と論争が成されるのならば、大歓迎というものだ。

だが、現状は文脈もまともに把握できておらず、歪曲のレベルにすぎない体たらくだ。以上。

[反論]「若い歴史学者たちの批判に答える」

若い歴史学者たちの『帝国の慰安婦』批判に答える
「若い歴史学者たち、『帝国の慰安婦』を語る」
(『歴史問題研究』33、2015)に対する反論

朴裕河*


1. 批判の方式について

1) 虚偽の摘示

2) 内容の誤解と縮小

2. 批判の内容について

1) 軍人と慰安婦

2) 軍人と業者

3) 朝鮮人慰安婦

3. 批判の態度について

1) 表象

2) 曲解

3) 陣営の論理

4) 傲慢


______

* 世宗大学国際学部教授。
『ナショナル・アイデンティティとジェンダー―夏目漱石で見た近代』(文学ドンネ、2011);『和解 のために』(根と葉、2005)。


  1. 批判の方式について

 1) 虚偽の摘示

『歴史問題研究』33号に集談会「若い歴史学者たち、『帝国の慰安婦』を語る」[1]が掲載された。彼らの批判もやはり在日同胞学者、鄭栄桓と同じように誤読と曲解、そして敵意に満ちた内容だったことと、[2]一人の学者の悩みに対する基本的な尊重すら見られない乱暴な言葉が精製されないまま学術誌に掲載されたことに対し、まず先に深い遺憾の意を表する。

批判は全体の文脈を把握して、その中で各記述がどんな脈絡で使われているかを辿りつつ行われなければならない。しかし彼らは、私が本の中で批判した挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)に対しては「脈絡まで」(前掲集談会、561頁。以下頁数のみ記す)辿らなければならないと言いながら私の本に対しては脈絡どころか書かれている内容さえないかのように扱う。彼らの批判が論旨に対する具体的な反論ではなく、印象批評に偏っていることは、彼らが慰安婦問題の研究者ではないため、仕方がないことだが、それならより一層謙虚でなければならなかった。そういった性急さと隠蔽については先に言及した鄭栄桓に対する反論も参照してほしい。[3]

彼らの批判がどれくらい性急な誤読に基づいているかを示す代表的な例を一つだけ先に提示しておこう。私は『帝国の慰安婦』の2部3章、すなわち慰安婦の再現の問題を取り扱った部分でアニメーション『少女物語』の問題と、一人の慰安婦ハルモニの証言が時間が経つにつれて次第に変わっていった事実を指摘したことがある。『少女物語』の場合、ハルモニの証言がアニメーションの中でどのように変形されたかを指摘しただけなので、この部分がハルモニを批判したわけではないということは明らかだ。また、後者に関しても、私は「そのような変化は意識的な嘘というよりは、聞く側の期待がそうさせた側面が大きい」と書いた。続いて「そういった意味において、慰安婦の証言に違いがあるからといって慰安婦たちだけを非難することはできない。また、そのような証言を聞きたがっていたのは、かえって私たちだといわなければならない。(…)被害者であることを確認するための民族言説は表面的な被害認識以外のすべての記憶を抹殺しようとする」[4](以下、「『帝国の慰安婦』、頁数」で本文に記す)と書いた。

そういうふうに、この部分の批判の対象が私たち自らが被害者であることを確認するための民族言説であることを明らかにしつつ、「見たくないものを永遠に見ないで済むようにしてくれる」ことを願う私たちの中の欲求について言及してからこう書いた。「しかし、70歳になるまで過去の自分の姿を直視できないのでならば、それは過去の傷が深いからというよりは、傷を直視して乗り越えようとする勇気が足りないからというしかない。あるいは、私たちがまだありのままの自分を認めて抱きしめる自分への愛より、他者の目に美しく見えることを願う欲求のほうが大きい未成熟の状態に留まっているからとしかいいようがない。もう自分をありのまま受け入れたくないのか」(『帝国の慰安婦』、134)と。

ここで問題にしている対象が慰安婦ではなく、私たちであり、解放後の韓国であることはあまりにも明確な事実だ。しかし若い学者たちは「慰安婦の経験をした人々にこんな反省と批判を強調することは、実は無理があるのに、著者はこの批判を彼女たちに集中させます。例えば<70歳になるまで過去の、(…)未成熟の状態に留まっているからとしかいいようがない>といった表現のようにです。勇気の不足、未成熟などと責め立てています」(550)と非難する。事実、この部分は『帝国の慰安婦』を告発した人たちが最初の告発状で摘示した109ヶ所の中の一つであった。支援団体は以後、私が反駁文を提出したら、指摘内容を半分に減らして、告発趣旨まで変えたが、この部分はそのとき消えた指摘のところだ。若い学者たちの中に訴訟文書の作成に直接関わっていた人がいるかどうかは分からないが、そこで問題とした内容もやはりこの人たち主張と同じだった。

解放後70年という時期にハルモニが70歳であるならば、解放の頃に生まれたという話になる。当然慰安婦の体験をしたはずもない。この集談会はこのような、笑うことすらできない誤読に満ちている。

彼らは『帝国の慰安婦』の33頁に出てくる笑っているイメージの使用を問題にして、写真の位置が意図的(554)であることが明白だとしながら、卑怯だとかいう人身攻撃までためらわないが、33頁はもちろんのこと、32頁にも34頁にも彼らが指摘した、慰安婦の数が20万人より少なくて、相手にした数も少なく、恋愛もするような存在だったといったくだりは、この写真の載っている部分には出てこない。何より、イメージの使用位置は出版社が決める。明らかに私を道徳的に問題のある人だと誣いるための虚偽であり、根拠のない誹謗である。彼らの批判は残念ながら鄭栄桓におとらず悪意的で、その歪曲水準が犯罪的だ。

また、『少女物語』に対する私の指摘をめぐって、私がないことを話したかように誣いるが、私がこのアニメーションを見たときは確実にあった。私は根拠のない批判はしない。また、私は『帝国の慰安婦』の批判に対する反論に「表現の自由」(543)、「学問の自由」(543、572、575)といった単語を使ったことがない。表現の自由という名で擁護しなければならない問題的な記述自体をしなかったから当然のことだ。このように彼らはしてもいない行為をしたかのように語って、虚偽に基づいた誹謗に集中する。

 2) 内容の誤解と縮小

彼らはこの本を民族主義に対する批判と見ているが、この本は旧日本帝国に対して韓民族の後裔の一人として責任を問うている本だ。だからあえて民族に対する距離を尋ねるなら、むしろ民族主義的な本だ。挺対協に対する批判は、民族主義批判そのものでなく、民族主義を利用しているか、捕らわれているリベラル左派に対する批判だ。挺対協の代表が日本に右翼を監視するシステムがないといって、日本を変えなければならないと力説したことは、そのような構造と無関係ではない。[5]それは日本のリベラルが夢見ていた日本社会の改革と通じる話だったが、同時に挺対協の運動も慰安婦問題よりリベラルが世の中を変えるような政治的問題に重点が置かれていたということを示す。しかし、自分たちの主張と異なる考え方に対しては、一概に右翼と見做して非難してきたリベラルの運動方式が日本の反発を深化させたと書いたところをもう一度読んでほしい。

したがって、私にこの本の中で民族主義を「ぶち壊す」(578)というような意図がある理由がない。私はすでに民族主義批判を試みたし、もう民族主義批判は私にこれ以上大きな関心事ではない。[6]

繰り返すが、『帝国の慰安婦』は民族主義批判ではなく、帝国主義批判の本だ。2014年秋に出た日本語版が日本で肯定的に受け入れられたのも民族主義を批判したためではなく、彼らの帝国の問題を語ったためだ。私に対して好意的に評価した個人と言論がほとんどリベラル系であったということもそれを証明する。彼らは私の本を正確に読んでくれた。[7]特に日本のリベラルの学者たちがこの本をどのように受け入れたのかについては、最近出てきた論文でよく整理されているので、参照してほしい。[8]20年余りの慰安婦問題史の整理の中で私の本を公正に評価してくれたのが韓国ではなく、日本の方だということは極めて残念である。

したがって、「植民地内部の位階を考慮しないせいで、帝国については語るが、植民地については語れないようです」(551) 「同志的な関係を著者が発見したことは事実だとしても、帝国全体に対する批判に進まなければならなかったですね」(551)といった批判は、彼らが本をまともに読んでいないということを物語っているだけだ。私が慰安婦の「苦痛から顔を背け」(575、576)たという主張も同じだ。

『帝国の慰安婦』は朝鮮人慰安婦に対する日本軍人の差別と暴行に言及することで軍人と慰安婦間の位階関係、すなわち植民地内部の位階を取り扱ったし(『帝国の慰安婦』、142~164)、慰安婦と帝国、慰安婦とアメリカ、慰安婦と韓国を見ることで、日本はもちろんのこと他の帝国に対する批判も試みた。[9]

「公娼は帝国主義の移動と定着を支えた場所」(『帝国の慰安婦』、277)、「そうして帝国作りに参加した国家はすべて自国の男性たちのために慰安婦を必要とした」(『帝国の慰安婦』、278)、「帝国はそのように祖国を離れた商人たちが(…)言い換えれば、彼らが国家の勢力を拡張し、経済を豊かにする任務を遂行する道から離脱しないように管理する」(『帝国の慰安婦』、279)といった記述は全部その文脈で書かれた。この本の題名が『帝国の慰安婦―植民地支配と記憶の闘い』である理由も、朝鮮人慰安婦とは日本帝国に動員された慰安婦だったことを示すためであった。

すなわち、今まで戦争問題としてのみ理解されてきた慰安婦問題を帝国の問題として理解すべきだということがこの本の趣旨であった。朝鮮人慰安婦とは、朝鮮が植民地になり、日本帝国の一部として包摂されたせいでできた存在であるがゆえに、その帝国の責任を日本国家に問おうとしたのがこの本の目的だった。

言ってみれば、彼らは本の中に明確に存在する帝国批判を看過、もしくは無視した。彼らが『帝国の慰安婦』が植民性批判のないフェミニズムの本で、私が提示した慰安婦像は帝国の責任を消滅させると考えるのもそのような根本的な誤読と曲解がさせることだ。フェミニズムに対する私の立場は夏目漱石という近代日本の知識人の帝国主義的意識を批判した私の他の本を参考にしてほしい。その本が私の原点でもある。[10]私はアジア女性基金が解散した後、慰安婦問題についての関心が極めて少なかった2010年に、その年にしなければならないことは他でもない慰安婦問題の解決だという内容のコラムを共同通信発の記事で日本に向けて書いたこともある。[11]

  1. 批判の内容について

 1) 軍人と慰安婦

批判者たちは『帝国の慰安婦』における慰安所の様子が「あまりにも平和」だといいながら「ロマン化」(553)された再現を試みたという。しかし、こういう指摘はこの本の半分しか読んでいないことを物語っている。慰安婦に対する日本軍の暴行とレイプについて言及したところを再読してほしい[12]。また、再現というのは表現者の主観が入らなければならないが、私は慰安婦の証言集を引用しながら分析し、その結果を客観的に述べただけである。

批判者たちの反発は基本的に慰安婦問題を朝鮮人の女性が日本人の男性に被害を受けたこととして理解することから始まる。むろん、そういう理解は間違っているわけではないが、そういう理解だけでは慰安婦問題をまともに把握したことにはならないというのが私の主張だった。朝鮮人慰安婦問題とは、性差別と階級差別が民族差別以上に直接的な機制になり女性たちを動員した事件だった。

日本軍に犠牲を要求された女性はまず、日本人であった。日本軍は1911年、鎮海に駐屯基地を作るとき、既に軍人専用の遊郭を基地の設計図の中に入れ、日本本土から女性たちを呼び込もうとした[13]。日本軍が慰安婦を必要としたのは遠く離れて来た自国の男性のためであるだけに、自国の女性が一番適切な相手と見なされていたのは当然なことだ。批判者たちは私が日本人慰安婦と朝鮮人慰安婦を「等置」(573)しているといっているが、私は日本人慰安婦と朝鮮人慰安婦の位階についても明確に言及した[14]。慰安所で日本人女性の賃金が最も高かったと述べた理由も彼女たちの間にある位階関係を説明するためであった。

批判者たちは日本軍が朝鮮人慰安婦を保護したとでもいうのかと反発するが、保護は必ずしも搾取の反義語ではない。一方では搾取しながらも、搾取し過ぎる業者や規範にはずれた軍人から慰安婦を「保護」(553)したのは、朝鮮人が日本人の代わりの存在だったからである。言い換えると、朝鮮人慰安婦は朝鮮人だったが、日本の国民でもあったので保護の対象になることができた。

特に憲兵は、軍人と慰安婦と業者の間で彼らみんなを監視し管理する存在だった。「あのね、憲兵隊じゃないと、軍人たちは怖がらないです。憲兵隊じゃなければね。どこか行って酔っぱらってくる奴らもいたからね。そしたら憲兵隊が来て調査しました。憲兵隊でいっぱいになった。そういうのは憲兵隊が処理してたのよ。[15]」という証言を参照してほしい。日本政府が調査しアジア女性基金が発行した5冊の資料集にも、軍人たちの暴行などを軍上層部がどう処理したかをまとめた資料が含まれている[16]。「海南島の慰安所は軍隊が上から一定の指示をした。海南島では最初は、相当の期間中、1割ずつもらった。しかし軍隊の責任者が代わると、収入の6割を女性たちに与えて4割を抱え主が取るように取り決めてくれた[17]」という証言も国家・軍人が慰安婦を保護する面も持っていたということを示唆する。

ところが、私は軍人たちの暴行とレイプの情況がわかる資料を通じて日本軍と朝鮮人慰安婦の関係が明瞭な位階関係だったことも確かに指摘した。したがって、『帝国の慰安婦』に軍人と慰安婦の間の差別性があらわれていないとし、日本の責任を問わなかったという指摘は、指摘者が本を偏った視線で部分的に読んだのをあらわすのみである。私が慰安婦に対して軍需品という表現を用いたのも、軍人にとって慰安婦とは品物に過ぎなかったという意味だった。よって、責任主体の対象から軍を抜いたとしたり責任を「抽象化」(546)したというのは彼らの誤読の結果だ。

批判者たちは慰安婦の恋愛に拒否感をあらわしているが、慰安婦に頼まれてモルヒネとその他の軍用薬品を盗もうとした軍人が発覚され、重営倉30日に処分された事実[18]もあった。むろん、こういう事実を指摘したとしても、男性と女性、もしくは朝鮮人と日本人との差別、位階関係が消えるわけではない。

彼らは私が言及したケースを例外に見なしたがっているが、こういう情況が例外ではなかったという証拠はどこにもない。かえって、例外に考えたがっている心理は慰安婦の体験を疎外させることだ。聞き手のそういう心理こそがまさに「私は満州のことを誰にも話さない。恥ずかしくて……。家にああいうふうに来て質問したら、やられたことだけ話してあげるのよ。[19]」といったような反応を助長したことでもあった。

「慰安所から出て朝鮮人軍属と一緒に軍指定の鉄工所を経営」[20]し、「手榴弾のような武器も製造して修理もする軍需工場を経営しながら軍属として月給」をもらった経験がある人の口述を記録した人は「書類にはこの部分が漏れていることを確認」したと書いた。可視化された数字や事例だけが全てではないのだ。

私が用いた同志的な関係という概念はこういう重層的な構図を表現した単語だった。日本帝国が戦争を進めることによって、植民地だった朝鮮はその構図の中に入ってしまった。その情況を、私は国民動員として見なした。また、戦争対象国との関係で日本人と朝鮮人は同じ日本人として存在したということが同志的な関係の1次的な意味だった。実際に慰安婦ハルモニの中では慰安婦とは軍人の面倒を見るものだったと証言した人もいた[21]。2015年8月に出た一資料には慰安婦が軍属だったとまで書かれている[22]。もちろん、そういう情況を見ることが直ちに「同じ位置」(550)や「同等性」(551)を主張することになるわけではない。

「正式な看護師は数人しかいなくて私たちのような人が多かった。患者からは臭いもしていて(…)私たちはそういう患者の面倒を見る仕事をした。患者たちに食事のときに梅干し一個と重湯一茶碗を持っていって渡し、口を怪我して食べられない患者には横にさせたまま口を開けさせて飲ましたりもした」(強制連行された朝鮮人慰安婦たち1,178)との情況はかえって慰安婦たちが国防婦人会員の勤労挺身隊と同じ役割まで要求されていたことを明確にあらわしている記述だ。同志的な関係であることをいった理由の一つは朝鮮人日本軍と似たような枠で理解するとき、補償要求が逆に可能になるからでもあった。私は「強制徴用された人たちを排除」(558)したどころか、むしろその概念を慰安婦問題解決に適用しようとした。物理的な強制連行という理解を中心に不法性だけを主張してきた支援団体や研究者たちのやり方に問いをかけ、私のやり方を提案したのだ。

批判者たちは「他のところは別として日本は北朝鮮と韓国には(補償)しないと。台湾までもそうしなければ。そこでも姓も名前も日本式に直されたからね。私たちは国のために行かなければいけないといわれ日本人扱いされていたのよ。こういうふうにして連れて行ったから必ず補償しないと。しかし、中国、フィリピンはみんな営業用で稼ぎに行ったんだよ。だからそちらはしなくていい。」[23]という声に耳を済ませなければならない。私が同志的な関係という単語に含ませた1次的な意味はそういうことだった。また、強制連行と主張している支援団体を批判していた慰安婦の存在も振り返らなければならない[24]。彼女たちは例外的な存在ではなかった。したがって、支援団体や学者たちによって排除される理由はない。

2)軍人と業者

彼らは業者に対する私の指摘に反発しながら、抱え主を「発見してそれに意味を与えることが果たして正当なのか」(546)と非難するが、私はすでに10年前の著書で業者に対して指摘したことがある。25従って業者という存在は、私にとって全く新しい存在ではない。にもかかわらず再び言及した理由は、慰安婦問題で国家の搾取に覆われて見えていなかった、帝国主義に加担した業者の搾取に対して述べたかったからだ。

また私は、業者を朝鮮人のみだとは規定していない。特に強調はしなかったが、動員される現場にはほとんど日本人と韓国人が一緒に現れたという事実を確かに指摘した。特に規模が大きかった遊郭などは、却って日本人の業者の方が多かっただろうと推定する。26 だが、前線に出て行ったり、規模が小さかったりした業者の中には朝鮮人が多かったと見られるため、「日本人抱え主の比率は50%以上」(547)という断定に同意することは難しい。朝鮮人慰安婦の方が多かったなら、彼らを管理する者は朝鮮人業者が多かったという推定の方が合理的だ。

業者について述べた理由は日本の責任を弱めさせるためではなく、慰安婦の自由を拘束したのは「服は良い物を着せる。なぜかといえば、それは借金。あれが金で着させて借金を返せと。しょっちゅうやっている」27 という証言が示しているように業者たちだったからだ。「金山は客を逃すと言って、私たちを外に出られなくした」(強制的に連れていかれた朝鮮人軍慰安婦1,203)というように、業者が慰安婦を直接監禁して強制労働を課していた状況が、今日に続くことでもあるからだ。慰安婦の問題とは、実は業者の経済/利潤の問題でもあるという事実、つまりこれらを搾取した者の存在まで見なくては慰安婦問題の全貌を見ることはできないというのが、私が業者の存在を強調した理由だ。

女性たちを満州に連れていく業者と女性を中心人物として登場させている、チェ・ミョンイクの小説『張三李四』にも業者が登場して「満州や北支で金を稼ぐには、娘っ子を使った商売が一番みたいだな」と言っており、「営業するには満州かね、北支かね」といった質問に「行かなかったところはないさ。最初の4~5年は前線をついて回ったけど、あんまりにも大変なんで、それからは大連に落ち着いていた。新京に来てからは子どもたちに全て任せて、俺は去年で辞めた」「本当のこと言うと、金を稼ぐならあれほどの稼業はないぜ。何てったって女の子たちの管理の大変なこと。2~30人も抱えてりゃ、あらゆることが起きる…。それでもどうかすると、病にかかるのはお決まりのこと、そんでも人間だから、病気なら薬を飲ませないわけにはいかないけど、そうすると金はかかるし営業はできない。まぐれで治ればいいけど、ぽっくり死にでもしたら千ウォンほどの葬儀代まで持ってかれる」「病で死んだ子たちも、死にたくて死んだわけじゃないだろうし、それならマシな方だろう。勝手に惚れやがって生きるだの死ぬだの言っていたと思ったら、情死するか逃げ出すのがお決まり…」という言葉で、当時の時代的な状況の一端を見せている。この朝鮮人業者は汽車の中、人々の面前で人身売買してきた女性を殴打するほど苛酷だった。28

当時、誘拐魔と呼ばれたハ・ユンミョンの行為と少しも変わらない「抱え主の涙も人情もない行為」に対しては当時の警察も怒りを感じており、又売りした所に照会して最後まで救い出す方針で努力」していたことがわかる。警察は「女性が凶悪な抱え主の手から再び北支に売り飛ばされる前に、それこそ危機一髪」直前に救助したこともあった。つまり、植民地の警察は抱え主の犯罪行為を取り締まっていた。この事実は、国家と業者の関係が少なくとも犯罪行為においては共犯でなかったということを示している。29

まだ明らかにはされていないが、慰安所に継続して女性を供給していた大規模な業者は、少なからぬ富を築いたと推定することができる。そうした経済的な搾取者の責任を問うべき理由は、慰安婦問題が下位に置かれた民族、性、階級の問題という事実は共有されながらも、未だ貧困層を搾取した中産階級の責任は問われたことがないからだ。また、私が業者について再び論じた理由は本にも書いたように、支援団体が解決の方法として法的責任を主張してきており、その主体に国家のみを想定してきたためだ。私は法的責任を問える根拠が犯罪にあるとするならば、当時からすでに犯罪視されていた業者にまず問うべきであると考えただけだ。それは「責任を抽象化」(546) することではなく、責任問題を鮮明にすることだ。構造全体を見てこそ、再発を防ぐことができるからでもある。

1937年に上海派遣軍が慰安所の設置を決定し、西日本各地の遊郭に協力を要請した30 時、最初はこの話に誰一人として応じなかった。その内にある遊郭が協力し、その後、他の遊郭の主人たちも加担するようになった。一方では「朝鮮人が引率してきたため、無理な点もあった。徐州戦の時は華北から軍について来たが、武漢攻略戦で華北から移動した第2軍と行動を共にした者、第11軍について入城した者、上海から来た者など、その経路は様々だったが、開場当初から武漢の兵站が呼んだ所は一ヵ所もなかった。韓国で慰安所を開設したいという彼らの希望によって、積慶里に収容したのだった」31という状況もあった。日本人だろうが朝鮮人だろうが、国家政策に積極的に協力した彼らがいたからこそ、慰安所が可能だったのだ。

そうした彼らの責任を問う理由は、日本国家という大悪の責任を問うことが、小悪の責任を見落とすことになってはならないと考えるからだ。小さな悪、協力した悪に対する考察と告発なくして、国家の横暴に対する加担と協力を防ぐことはできない。私が業者の問題を提起した理由は、まさにそこにあった。

3) 朝鮮人慰安婦

彼らは私の問題提起が、慰安婦に対する認識を80年代に立ち戻らせたものにすぎないと言っている。しかし、このような指摘は「韓国人は常に貧しいから、綺麗な娘たちが了解得て働きに行くのよ。その時、50ウォンや100ウォンもらったら期限は5年にするとか、3年にするとかして。戦争や日本人にやられた人は実際に多かったからね。お金稼ぐために行く人は多かった」[25]という証言、慰安婦本人ですら認識できていた構造に耳を塞ぐことになる。植民地化は経済的搾取構造の中におかれることであり、政治的支配はそのような差別・搾取構造を容易にするためのものでもあった。

「特要員と呼ばれる娘子軍、つまり海軍用慰安婦には大阪の飛田、松島の遊郭とその周りの私娼、神戸の福原遊郭からの女が多かった」と証言した日本人業者が朝鮮人慰安婦の存在を認めなかった[26]という事実は、朝鮮人慰安婦が任務を果たし得たとしても、真の日本人として認められることの難しさ、つまり差別の本質的な様相をあらわしている。言い換えると、「特要隊の女は朝鮮と沖縄の人だけで、内地の人はいなかった」[27]という事実を直視せずに、朝鮮人慰安婦に、既存の理解とは別の意味において、最も苦しい仕事が要求されていたという事実も理解することはできない。

慰安婦体験は同じ時期、同じ場所でのものですら同一ではない。たとえば、どのような服を着ていたか、という質問に対してある慰安婦は「そのころは服なんか持ってませんでした。でも、中には日本のキモノ着てる女もいたね。年上の女たち、彼女らは日本語も勉強したからできるし、その人たちは日本語できるからヘイタイサンに好かれたね、言葉通じるから。私たちアホみたいな子たちはね、まだ若かったし何が何かよく分かんなくて、こうしてって言われたらこうして、ああしてって言われたらああして、だから何の楽しみもなくただただ生きてて、解放だって言われて死ぬ思いで出てきた。みんな出てきたでしょう、私たち30人くらい一斉に出てきたけど、あの人たちどこ行ったんだろう、日本に行ったかどうか。日本に行った人は多かった、日本のほうに」[28]と答えている。

支援団体が主張してきたような虐殺とは違った場面にも注目しなければならないはずであろうが、上記の引用から分かるように、彼女たちと日本軍との関係が年齢、日本語の熟練度、そして性格によっても異なっていたという点には一層注目しなければならない。慰安婦の証言集には本人の体験も記述するが、このように他の慰安婦についても記述する。若い学者たちの反発は、このような多様性から目をそらすことにしかならない。慰安婦たちはありのままのことを語り、それがありのままに証言集に掲載されたが、そのような多様な声が一つとなって再現された結果が、現在の慰安婦像である。そのような問題の過程を批判し、結果を見ようと言ったのが私の本であった。

私は「愛と平和と同志が一緒にいたとしても、慰安所が地獄に等しい体験であった点に変わりはない」、「たとえ自発的に望んだとしても、彼女たちに人から醜業と呼ばれていた仕事を選択させたのは、彼女たちの意思とは無関係の、社会的構造であった。彼女たちはただ貧しかったり、植民地の女だったり、家父長制における女性であったりしたために、自立を可能にしてくれる別の仕事のための別の教育(文化資本)を受ける機会が得られなかっただけであった」、「彼女たちがそのような醜業に自発的に向かったとしたら、その表面的な自発性を引き出したのはいかなるものであったかということについて考えなければならない。それは、男性であり、軍隊であり、国家であった。そして日本帝国であった。つまり、慰安婦とは、あくまでも国家と男性、そして隔離された男性集団を作り出す戦争というものが必要としたために生じた存在である。慰安婦における自発性とは、本人は意識していなかったにせよ、国家と男性と家父長制からの差別(選別)が作り出した自発性にすぎない。そして、彼女たちは、爆弾の炸裂する最前線ですら、暴力にさらされながら兵士たちの欲求をみたしてあげなければならなかった」と、『帝国の慰安婦』に明記している。日本へ責任を問うた理由も、朝鮮人慰安婦の本質を上のように規定したからである。若い学者たちから言われたような本だったら、責任を問う理由などない。

  1. 批判の態度について

 1) 表象

彼らは、私の提示したことが慰安婦の「代弁」(555)を自任したことであり、「本当」(555)の姿を見せようとしている本であるかのように言っているが、私はそう書いたことがない。私は、見えない様相を見ようと言っただけで、その理由はすでに述べた通りである。「真実は存在しない」(587)といえばよかったのではと、彼らは言っているが、それこそ私が言おうとしたことである。相反する二つの像は、両方とも真実であっても、一方だけにこだわる限り、結局いずれも真実ではなくなるというのが私の主張であった。

にもかかわらず、たとえば笑顔の慰安婦写真を活用したことを批判しながら、私は卑怯(554)だと言っている。しかし、写真説明に書かれているように、その笑顔から「望郷の念」(『帝国の慰安婦』、33)を読み取った日本人記者の眼差しも見せようとしたものであった。雑誌に掲載しながら私の使った、記者の説明付きの原本を使わず、写真だけ取り上げて私のモラルを読者に非難させようとした行為こそ卑怯なことに他ならない。

彼らが単に写真を「見心地悪い」(554)と感じるのは、期待し希望する女性(慰安婦)像とかけ離れているためであろうが、それは彼らの内部における女性嫌悪が呼び起こすことであろう。彼らが、私の引用して記述した惨酷な慰安婦像については触れず、自発性・売春と思われる資料にのみ注目するのも同じ所以である。言い換えると、既存の理解におさまらない慰安婦像に対して不愉快な感情を持って否定することこそ、ありのままの慰安婦像を否定し「排除」(557)することに他ならない。そのような行為こそ、結果的には慰安婦たちの尊厳と名誉を毀損することである。

軍人との楽しかった思い出を語るハルモニをめぐって、あえて軍人の「いじめ」(568)であったと述べるのも似たような感情がさせることであろう。彼らは、私が慰安婦について「暴力的に」(572)記述したと言っているが、当事者の感情を無視するような断定こそ、彼らの言っている「権力」(568)行使である。基金を受けた慰安婦たちが、ただ「焦り」(561)のせいで「揺れ」(561)てしまったとする断定も同じである。彼らは基金を受けて涙を流した慰安婦たちの存在を、知ろうともせず、排除する。支援団体がそうしたように。

彼らとしては、お父さんのほうを一層恨んでいるという慰安婦の発言や、慰安婦は「軍人の面倒をみる者」という慰安婦自らの証言も受け入れたくないだろうが、このような例を「誇張」(558)や「破片」(569)化と見なしたがっている心理こそ、彼らの内部に存在している排除の欲望がさせることである。

彼らの慰安婦排除は、「解決という前提を先に用意していること自体も間違」った(587)という言葉から見ても明らかである。補償と解決を願っている慰安婦たちを「暴力的」に無視しながら、彼らはむしろ私を「権力」と名付け、弱者を侮辱する強者と表象する。

 2) 曲解

私が日韓の和解を「万能薬」(565)とみなしており、和解に「執着」(565)したあまり「個人を韓国と日本の和解のために動員」(551)し、(朴裕河が)「和解が実現するだろうと思う瞬間は大統領と総理が会う瞬間です。」(551)という憶測までをも彼らが厭わないのは、恐らく徐京植ら在日韓国人の知識人の『和解のために』批判を安易に借用した結果であろう。[29] しかし私が10年前に『和解のために』を書いたのは、彼らの言動からも分かるように日本に対する我々の態度から韓国社会の深刻な問題が浮き彫りになっており、それに伴う社会的な消耗が少なくなかったからだ。和解をして終わらせようということではなく、和解のために議論の地平を共有しようと言っているのであって、そのために我が社会に足りなかった情報と認識の補充を試みたのであった。

日韓の和解に関心を持ち始めたのは、実は私たちの中にある葛藤や分裂、左右・南北対立への関心からだった。もし私の関心が日韓和解にのみあったなら、米軍基地についてはふれなかったであろう。私が目指しているのは東アジアの和解であり、当然南北の和解も含まれている。日本についてのみ言及しているのは、私が語れるほど理解している対象が日本だけであるからだ。

 3) 陣営の論理

彼らは、挺対協が私を告発していないとしてその自制心を褒めたたえていたが、実は挺対協も告発を検討していた。[30]

挺対協に対する私の批判は、民族主義への批判ではなく、前述のように彼らにも現れている当事者の排除に対してであった。元慰安婦のハルモニたちの中には国民基金の存在さえ知らない方もいるし、挺対協が主張してきた法的責任そのものを認識していなかったり否定するハルモニたちもいる。[31]

若い学者たちは、「ばあさんたちは殆どが亡くなっている。なのに、募金は受け取るな、それれは汚い金だ、それをもらったらファニャンニョン(訳注:売女、汚れた女)だ、こんな聞くに堪えないことばかり言っていたよ。」(強制的に連れていかれた朝鮮軍慰安婦たち5、117)、「今、挺対協は1億5千万ウォンを要求している。そんなんじゃ、千年の時間が掛かっちゃうかもしれない。年老いたおばあさんたちは、1億5千万ウォンなんてどこに使うんだ? 私たちは年取って死んでいく。どこからでもいいから、くれるお金をもらって使って死ぬと。多くはこうなんだ。別の思惑があるわけではない。おばあさんたちの要求も無理ではないし。また、挺対協は(国民基金を与えないように)日本に噂を広げているみたい。だから、基金をくれるなということなんだ。」(強制的に連れていかれた朝鮮軍慰安婦たち5、116)といった昔からの愚痴にも耳を傾けてほしい。

挺対協の運動方式の強制連行された少女を強調する[32]ような少女に対する執着は、慰安婦の間で違いを産み、売春への差別を助長する。それは元慰安婦たちが声をあげられるようにしてくれた、すなわち、社会の冷たい視線から守り、堂々と行動できるようにしてくれた挺対協の元々の趣旨からもかけ離れていることだ。しかし、挺対協は相変わらず売春とは一線を画したがっており、もはや挺対協と意を共にしていた日本人学者たちもこれに対する疑問を抱くようになった。[33]

挺対協は今も慰安婦の人たちは殆んど死亡したと言っているが、実際には慰安婦の殆どは中国人が攻めてきたため、抱え主と一緒に家から追い出されて、捕虜になって収容所に入れられ、朝鮮には戻りたくなかったが、「慰安婦がいっぱい」(強制的に連れていかれた朝鮮軍慰安婦たち1、69)乗せられた船に乗って帰国したと、慰安婦たちは証言する。彼女たちは「女性だけでも500人あまりいた」収容所にいたが、「大体1000人」(強制的に連れていかれた朝鮮軍慰安婦たち1、208)は乗っていた引揚船に乗って韓国に戻った。

彼らの考え方は、私の女性主義が「現政権の女性家族部と同じような立場に留まっている」(549)と言ったり、ニューライトを引き合いに出すことからも分かるように、陣営の論理にとらわれている。私の「ポジションが曖昧」(548)だと言っている若い学者たちに、小説家の慎重かつ繊細なアプローチの姿勢[34]を見習うことを勧める。

 4) 傲慢

彼らはこの本を大衆向けの本だと規定しながら、もう一方では一般の人に向けて執筆したことを問題視している。私があえてこの本を学術書という形にしなかったのは、一般の人々が慰安婦問題をきちんと理解してこそこの問題が解決できると考えたからだ。すなわち、この問題において既存の権力を持っていない人々に向けて、言葉をかけるために、一般の人向けに書いたものであって、実際、これに応えてくれたのもマスコミと一般市民だった。[35]

ところが、彼らはただ学会誌に発表していないという理由だけで大衆向けの本だという。しかし、この本は、学際的な研究をまとめた本であり、[36]したがって一つの学問の枠組みで判断される学会誌に投稿する理由はない。何より、最初から一冊の本として書いたものだった。この本が「学会のこれまでの研究を抱擁しようとしない」(581)というが、慰安婦問題を考察する上で必要なものは十分に言及している。特定の学界で認められようとするものではないので、すべての先行研究が言及されなければならないわけでもない。特に「学会を批判しようとする意図」(581)を持ったことはないが、国レベルの問題になっているにも関わらず、韓国人の慰安婦問題研究者が極めて少ないという現状が残念に思えたのは事実である。慰安婦研究はその90パーセント以上が日本人によるものだ。20年以上問題視されてきたのに、韓国人による研究は決して多くなかった。だから、韓国人であり文学研究者であったからこそ見ることができた部分をまとめてみたのである。慰安婦問題に対する韓国の認識が一つではないのも、私の責任ではなく、支援団体や当該学会の責任ではないだろうか。学会で認められた人身売買の実態や業者、日本が行ったことを関係者が公に知らせなかったがゆえに、韓国では慰安婦問題への大衆的な理解が同じではない状況が生じた。私の本が専門家向けなのか、大衆向けなのか「どんな地点に立っているのか中途半端」(580)であるものに見えたのであれば、その責任は私にではなく、関係者に問うべきである。

拒否感(549)から出発した彼らの批判は、私が恣意的な解釈に基づき、慰安婦を「意図的」(554)に利用していて、そのための「安全装置」(544)を使っており、「卑怯」だとまで言っている。それだけでなく「初の試みでもないし、ユニークなものでもないし、だからといってきちんとやっているもの」(566)でもない「大衆向けの本」(561,572、581)というふうに私の本を全否定した挙句、私に「自らを顧みる」よう(571)説教までしている。私に対する呼称も「この人」(547)「自分」(559)という言葉を使う彼らの傲慢に、それでも応答する理由は、遅ればせながら彼らの今後の研究姿勢にプラスになってほしいと思ったからだ。

誤解と偏見なしに読んでもらえば、そして示された資料に謙虚に向き合ってもらえば、『帝国の慰安婦』は、元慰安婦の名誉を棄損するどころか、元慰安婦を売春婦と呼ぶ人々に向けて売春を再意味化した本である事実、それによって元慰安婦の名誉を傷つけてきた人々に対する批判を試みた本であること、また、慰安婦問題における搾取の問題を問う本であることが分かるだろう。「著者のやり方は間違っている」(584)と一言でこき下ろす彼らの傲慢から私は「若い歴史学者たち」の知的危機を見た。覇気はいいが、傲慢は、知を成熟させる前に疲弊させる。(『歴史問題研究』34号、2015・10、古川綾子訳)


[1] 『歴史問題研究』33号、2015。

[2] 鄭栄桓、「日本軍「慰安婦」問題と1965年体制の再審判」、『歴史批評』111、2015。

[3] 朴裕河、「日本軍慰安婦問題と1965年体制」、『歴史批評』112、2015。

[4] 朴裕河、『帝国の慰安婦』、根と葉、2015、133~134頁。

[5] ユン・ミヒャン代表東京YMCA講演、2012.6.9.

[6] 朴裕河、『反日民族主義を越えて』、社会評論、2004; 朴裕河、『ナショナル・アイデンティティとジェンダー』、文学ドンネ、2011.

[7] 朴裕河、前掲書、2015、462~464頁。

[8] 岩崎稔・長志珠絵、「「慰安婦」問題が照らし出す日本の戦後」、『記憶と認識の中のアジア太平洋戦争』、岩波書店、2015。この文章の翻訳文をフェイスブック2015年10月30日の「ノート」に掲載した(http://www.facebook.com/parkyuha)。

[9] 朴裕河、「第4部 帝国と冷戦を乗り越えて」、前掲書、2015、第1章。

[10] 朴裕河、『ナショナル・アイデンティティとジェンダー』、文学ドンネ、2011(原本である日本語版は2007年出版)。

[11] 朴裕河、「現論 慰安婦問題で対話を」、『岐阜新聞』外、2010.2.20.

[12] 朴裕河、前掲書(2015)、142-162頁

[13] 竹国友康『ある日韓歴史の旅』朝日新聞出版社、1991、119-120頁、1911年に作成された遊郭の設計図は日本軍によるものであり、女性の斡旋を依頼した相手が「東京業者」にだけ集中されていたという事実を明らかにしている。

[14] 朴裕河、前掲書(2015)、158頁とその他

[15] 対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲者等支援委員会『聞こえますか』2013、110頁

[16] 女性のためのアジア平和国民基金編『政府調査従軍慰安婦関係資料集成』1−5、1998

[17] 韓国挺身隊問題対策協議会『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』1、ハンウル、1993、281頁

[18] 中支那派遣憲兵隊『陸軍軍人軍属非行表』1941.11、注釈16の文献2

[19] 韓国挺身隊問題対策協議会『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』4、プルビット、2001、207頁

[20] 韓国挺身隊問題対策協議会『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』3、ハンウル、1999、262頁

[21] ペ・チュンヒ(ハルモニ)のインタビュー、2014.4

[22] 波佐場清『「慰安婦は軍属」—辻政信が明言』2015.8.3(huffingtonpost blog : http://www.huffingtonpost.jp/kiyoshi-hasaba/comfort-wemen_b_7922754.html)

[23] 韓国挺身隊問題対策協議会『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』5、プルビット、2001、116頁

[24] ペ・チュンヒ(ハルモニ)の電話録音記録、2013.12.18.

25朴裕河,『和解のために-教科書・慰安婦・靖国・独島』根と葉,2005

26西野瑠美子,『日本人‘慰安婦’-愛国心と人身売買と』,現代書館,2015.

27対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会,前の本,p177.

28チェ・ミョンイク『雨降る道』,『チェ・ミョンイク短編選』,文化と知性社,2004, p233~235

29『毎日申報』1941.3.21, 日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会, 『戦時体制期の朝鮮の社会性と女性動員』

30長沢健一,『武漢慰安所』,図書出版社,1983(翻訳は朴裕河)

31上記の本

[25] 韓国挺身隊問題対策協議会、『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』5、1999、118頁。

[26] 西野瑠美子、前掲書。

[27] 城田すずこ、『マリアの賛歌』、かにた出版部、1971、166頁。

[28] 対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会、前掲書、115頁。

[29] 朴裕河、「『右傾化』の原因を先に考えなければ―徐京植教授の『日本のリベラル』批判、異議あり」『教授新聞』2011.4.18.

[30] 発刊当時の挺対協関係者のFacebookや民弁(民主社会のための弁護士の会)所属の弁護士からの伝言によるもの。

[31] インタビュー動画を撮影しているが、本人が公開を望まないため、詳細は省略する(2014.2)

[32] 挺対協が監修したとされるアングレーム国際漫画祭資料集『散らない花』(女性家族部、2014.6)は、オオカミに囲まれた少女(156頁)など、脅威や恐怖などのイメージとともに日本軍に連れていかれる(133頁)という物理的な強制連行が中心となっている。ソウル市が後援した挺対協主催のイベントポスターには「朝鮮の少女20万人、日本軍によって殆どの人が虐殺され、朝鮮に生きて戻れた少女は2万人あまり、被害者として登録しているハルモニは243人」と書かれている(2014.3)。

[33] 2015年9月にDMZ映画祭に出品された、キョンスン監督の映画『レッドマリア2』で長井和は、2014年の夏のシンポジウムで挺対協元代表が朝鮮人は「売春」ではないとして日本人慰安婦と区別しようとしていたと言い、難色を示した。

[34] 2015年9月13日、コ・ジョンソクはツイッターで「朴裕河と李栄薫は、本人たちはどう考えているか分からないが、全く違う。二人を区別することが出来ず、一概に非難するのは韓国民主主義の水準の表れであり、朴裕河の繊細さに対して李栄薫の社会的ダーウィニズムと一緒くたにして賛美するのは韓国ニューライトの水準の表れだ。哀しきかな!」と書いている。

[35] 2013年8月発刊以降、『京郷新聞』を筆頭に『プレシアン』『韓国日報』など、少なくないマスコミが本書のレビューを掲載した。また、告発直後にFacebookで出会った顔も知らない市民たちから擁護や支持をいただき、その出会いがきっかけとなり小さな平和市民団体を発足させるに至った。この過程はリベラルの問題をリベラル側の市民たちが認識し共有していく過程であった。

[36] 蔣正一、「原点を直視すること、または複雑性に向き合って」、『東アジア和解と平和のための第3の声討論会』、』2005.2.

批判が向う地点はどこなのか? – 鄭栄桓(チョン・ヨンファン)の『帝国の慰安婦』批判に答える

批判が向う地点はどこなのか? – 鄭栄桓(チョン・ヨンファン)の『帝国の慰安婦』批判に答える[1]

2015年 8月 31日 午後 4:50

鄭栄桓が私に対する批判を始めたのはずいぶん前のことだ。全部読んではいないが、彼が日本語のブログに連載した批判がSNSを通じて広がっていたので、一部読んだこともある。それに答えなかった理由は、まず時間的な余裕がなくて、彼の批判が悪意的な予断を急かすものだったからだ。

しかし、2月に私の本に対する仮処分判決が下されたとき、鄭栄桓の文章はハンギョレ新聞で私に対する批判として使われ、今は『歴史批評』という韓国の有力雑誌に掲載されるに至ったので、遅まきながら反論を書くことにする。

ところで、紙面を30枚(400字15枚)しかもらえなかった。わずか30枚で彼の批判に具体的に答えるのは不可能なことだ。幸か不幸か、また別の若い学者たちがほぼ同じ時期に『歴史問題研究』33号に「集談会」という形で『帝国の慰安婦』を批判したが、これに対する反論は100枚(400字50枚)が許されたので、論旨に関する具体的な反論はその紙面を活用することにする。

 民族とジェンダー

私が彼に初めて会ったのは、2000年代初め、私が最も関心を持っており、提案をしたこともあった日本のある研究会でだった。その研究会は日本の在日僑胞問題、沖縄問題など帝国日本が生み出した様々な問題に対する関心が高い場であったし、何より知的水準がとても高い場であったため、その存在を知ってからは機会があれば参加していた場であった。文富軾(ムン・ブシク)、鄭根埴(チョン・グンシク)、金東椿(キム・ドンチュン)などがその研究会で関心を持って招いたりしていた人々だった。

徐京植(ソ・キョンシク )もその研究会で非常に大切にされている存在であることがまもなく分かったし、私もまた彼に好感を持っていたので、彼と本を交換したりもした。ところが、私が在日僑胞社会の家父長制問題について発表してから、彼らの態度は変わった。徐京植は「ジェンダーより民族問題が先」だと露骨に話したこともあった。当時研究会のメンバーの中には、公的な場ではそう話す徐京植を批判しなくても、私的な場では徐京植を批判する人もいた。

いってみれば、徐京植、尹健次(ユン・コォンチャ)、そして今や鄭栄桓に代表される在日僑胞たちの私に対する批判は、基本的に「ジェンダーと民族」問題をめぐるポジションの違いから始まったのだ。興味深いことに、私に対して公式的かつ本格的に批判を行ったのはみんな男性の学者たちである。女性の場合は金富子(キム・プジャ)や尹明淑(ユン・ミョンスク)など慰安婦問題研究者に限られている。この構図をどのように理解するかが私と彼らの対立を理解する第一のヒントになるだろう。韓国で徐京植から始まった私に対する批判に加勢した学者たち―李在承(イ・ジェスン)、朴露子(パク・ノジャ)、尹海東(ユン・ヘドン)など―もみんな男性の学者であった。(もちろん、女性の学者、または女性学専攻者たちの中にも訴訟に反対したり、私に好意的に反応したりした人は極めて少なかった)。

後でまた書くだろうが、彼らの批判は約束でもしたかのように、私の論旨が「日本を免罪」するという前提から出発している。鄭栄桓が繰り返し強調するのもその部分だ。

 戦後/現代日本と在日僑胞知識人

鄭栄桓も言及したように私に対する批判は、10年前に書いた『和解のために』の刊行後から始まった。初めて批判したのは、挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)に関与した在日僑胞女性学者の金富子であった。少し経って、尹健次、徐京植は「詳しいことは金富子に任せて…」と言いながら極めて抽象的な批判を始めた。それにもかかわらず、金富子にも、徐京植にも、私は先に言及した研究会で知り合いになったために親しみを感じていたし、時間が経って私の本をもっと読んだら、理解してくれるだろうと思った。それを期待しつつ、その頃に出た『ナショナル・アイデンティティとジェンダー』を送った。

後日、私が反論を書くようになったきっかけは、徐京植がある日ハンギョレ新聞に載せたコラムだった。私を高く評価した日本のリベラル知識人が、私を利用して自分たちがしたい話をしているのだと彼は書き(「妥協を強要する和解の暴力性」、2008/9/13ハンギョレ新聞)、翌年、私に対する批判を含んだ尹健次の本がハンギョレに大きく紹介されたときだった。

当時、金富子などの批判に同調して批判したのはごく少数の日本人だったし、広がることはなかった。もっとも彼らが韓国で私への批判を始めたことに、私は驚かずにはいられなかった。なぜなら『和解のために』は刊行されて3年も経っていたし、彼があえて批判しなければならないほど韓国で影響力があった本ではなかったからだ。

そんな私の本を、彼らが韓国という空間で突然批判した理由を私はいまだ正確には知らない。問題は、徐京植が目指したのが現代日本の「リベラル知識人」(進歩知識人)だけでなく、彼らが築いてきた戦後日本に対する批判だったという点だ。日本のリベラル知識人たちは、実は植民地支配に対して法的責任を負いたがらないという彼の根拠のない推測は、その後韓国リベラルの日本不信に少なからず影響を及ぼしただろうと私は考えている。

ところで、私はこのときに反論を日本語で書いて日本のメディアに発表した。金富子の論文が載せられたのは日本のメディアだったからだ。ところが2年後の2009年の夏と冬に、ハンギョレ新聞の韓承東(ハン・スンドン)記者が尹健次教授の本の紹介に「日本の右翼に絶賛された『和解のために』を批判した本」だと書くという事態が起きた。韓国で「日本の右翼に絶賛」されるということがどんな波乱を起こすのか知らない人はいないはずだ。私はこの歪曲報道に接して驚愕した(これに関する経緯については『帝国の慰安婦』のあとがきにも書いた)。

 知識人の思考と暴力

徐京植の考え方(戦後日本と現代日本の知識人に対する批判)が彼の人気とあいまって韓国で確実に根を下ろしたという証拠は、2014年6月、私に対する告発状に徐京植の考え方(私が語った「和解」と赦しをあたかも日米韓の国家野合主義的思考であるかのように片付けてしまう思考)が書かれていたという点だ。私はそのとき、言論仲裁委員会に行かなかった私の5年前の選択を初めて後悔した。

すなわち、私に対する告発は、直接的にはナヌムの家という支援団体の誤読と曲解から始まったのだが、実は彼らをそうさせたのは裏で働いていた私に対する警戒心だった。そのような警戒心を作り、また見えないように支援していたのは知識人たちだった。私に対する最初の告発は、慰安婦についての記述が「虚偽」だという内容だったが、私が反駁文を書くと、原告側は途中で告発の趣旨を変えて私の「歴史認識」を問題にした。一連の過程において、自分たちと異なる不慣れな考え方は無条件に排斥し、手っ取り早い排斥手段として「日本の右翼」を持ち出したという点で知識人も、支援団体も変わりはなかった。

韓国の革新陣営で流通していた徐京植と尹健次などの本が、私についての認識を「日本を免罪しようとする危険な女性」と見做す認識を拡散させたと私は考える。もちろん慰安婦問題を否定し「日本の法的責任を否定」するというのが理由だ。

徐京植や尹健次は、私の本が日本右翼の思考を「具体的に」批判した本でもあるという点を全く言及せず、ただ「親日派の本」として目立たせたがっていた。

彼らの他にも私が知っている限り、私の本以前には慰安婦問題に対する否定派の考え方を具体的に批判した人は殆どいなかった。韓国や日本の支援者たちは慰安婦問題に否定的な人々に対しては頭ごなしに「右翼!」という言葉で指差しており、金富子が私に対して「右派に親和的」という言葉で非難したことはその延長線上のことだ。

それに比べれば鄭栄桓はそれなりにバランスを取ろうと努めており、その点は一歩進んだ在日僑胞の姿ではある。しかし、鄭栄桓は私の「方法」が何か不純な意図を持ったものに見せかけようとする方法を使っている。本全体の意図と結論を完全に無視し、文脈を無視した引用と共にフレームアップして「危険で不道徳な女性」と見せることが彼の「方法」だ。そのために私の本が結論的に「日本の責任」を問う本であるということは、どこにも言及されない。彼らは日本に責任を問うやり方が自分たちと異なるということだけで、私を非難しているのである。

それは多分、鄭栄桓が紹介した通り、彼らが20年余り守ってきた思考の強大な影響力が揺らぐ事態を迎えたためかもしれない。彼はそうした情況があたかも日本が責任を無化させる方向へ進んでいるかのように言っているが、それは鄭の理解でしかない。この数年間、慰安婦問題に極めて無関心だった日本人たちが、そして少女像が立てられた2011年以後に反発し始めた日本人たちが、私の本を読んだ後、慰安婦問題を反省的に見直すことができたと語ってくれている。

先日私は偶然、徐勝(ソ・スン)/徐京植兄弟に対する救命運動を20年以上してきたという日本人牧師の夫人が、慰安婦問題解決運動会の元代表だという事実を知った。直接的には関係がないように見えた徐京植も実際には慰安婦問題関係者と深い関係があったわけだ。私があえてこの文章で徐京植について言及する理由は、鄭栄桓が『和解のために』を批判した際、徐京植の批判を持ってきたからだ。『和解のために』に対する批判に出た人たちはほとんどが慰安婦問題に関与してきた人たちだったが、徐京植もまたそのような「関係」から完全に自由ではなかったわけである。私に対する徐京植の批判の論旨が告発状にそのまま援用されていたことを指摘したのは、「知識人の責任」を問うためであったが、ひょっとしたら彼の論旨自体、「無謀な」支援団体以上に、現実的なポジションと人的関係の影響から出たものかもしれない。

彼らの論旨は構造的に敵対と「粛清」を要求する。支援団体が国家権力を前面に出し私を告発したのはその結果でもある。私に対する糾弾を通じてあらわになったそうした彼らの方式と思考の欠陥がどこにあるのか、今後私はもう少し具体的に語っていくつもりだ。彼らのやり方が20年以上平和をもたらすこともできず、不和を醸してきた理由がまさにそのような思考の欠陥にあるからであり、それでは未来の平和も作ることができないからだ。

 批判とポジション

彼らは「戦後日本」を全く評価しない。そしてそのような認識が韓国に定着するのに大きく寄与した。

端的にいうと、良し悪しにかかわらず2015年現在の韓国の対日認識は、彼ら在日僑胞が作ったものと言っても過言ではない。もちろん彼らと連帯して20年以上「日本は軍国主義国家!」と強調し、「変わらない日本/謝罪しない日本/厚かましい日本」観を植え付け、2015年現在韓国人の7割が日本を軍国主義国家だと思い込ませた、挺対協をはじめとする運動団体の「運動」と、彼らの声をただそのまま書き取り続けてきた言論も少なからず役割を果たした。

彼らは、朴裕河は「日本(加害者)が悪かったのに韓国(被害者)が悪かったと言う」と、私が批判したのは「韓国」ではなく少女を守らなかった村共同体や、育てていながら売り飛ばした里親であり、そうしたことを許した思考である。鄭ほか批判者たちは私が日本を批判しないかのように人々に思い込ませたが、私が彼らの日本観を批判しながら指摘したかったのは、まさにそのような不正確でモラルを欠く「態度」であった。

私は彼ら在日僑胞が日本を批判するなら、自分たちを差別しないで教授に採用した日本についても言及した方が公正だと思う。金石範(キム・ソクボム)という作家が20年以上『火山島』を一つの文芸紙に連載して生活が可能になったのも戦後/現代日本でだった。

決してその変化が早いわけでもなく完璧であるわけでもないが、日本社会は変わったし、変わりつつある。それでも決して見ないようにしてきた葛藤の時間の末に、現在の日本はまさに私たちが知っているような姿に回帰中であるようにも見える。誰がそうさせたのか。関係というのはおおむね相対的なものである。

私が『和解のために』で話そうとしたのはそういったところだった。その本は2001年に教科書問題が起きて初めて、日本にいわゆる「良心的な知識人と市民」が存在するということをようやく知ったほど、戦後日本についての知識が浅かった10年前、韓国に向けて先ずは戦後日本がどんな出発をし、どんな努力をしてきたかを知らせようとした本だ。私たちの日本についての認識は、実は転倒した部分が少なくないと。

相手を批判するためにはまず、総体的な日本を知ってから行うのが正しい。それでこそ正確な批判ができるのではないだろうか。ところが様々な理由で私たちには総体的な日本が知らされていなかった。私は鄭栄桓の言うように日本のリベラル知識人が話したがっていたのを代弁したわけではなく、総体的な日本についてまず知らせようとしただけだ。否定的な部分を含めて、である。それはそうした作業に怠慢だった韓国の日本学研究者の一人としての反省を込めた作業だった。徐京植の批判は、私にはもちろんのこと、日本の革新・リベラル知識人に対する侮辱でしかない。

徐京植の批判は、私たちにようやくその存在が知らされた日本のリベラル知識人を批判からすることで、戦後/現代日本に対する信頼を失わせた。

もちろん日本に問題がないと言っているわけではない。問題は彼らの批判が決して正確ではないという点だ。しかも、日本がさらに変わるためにはリベラル知識人との連帯は当然必要である。それなのに、彼らを敵に回して鄭栄桓は誰と手を組んで日本を変化させようとしているのだろうか。徐京植や鄭栄桓の批判は、極めてモノローグ的だ。モノローグでは相手を変化させることはできない。

私は政治と学問、一般人と知識人に対する批判において「違い」を意識しながら書き、話す。鄭栄桓ら私を批判する学者との最も本質的な違いは、おそらくこの点にある。つまり、私は夏目漱石を批判し、彼をリベラル知識人として祭り上げた日本の戦後知識人と現代知識人を批判したが、それはそれくらい知識人の責任が大きいからだ。知識人の思考はときに政治を動かすこともある。しかし、ただ普通の生活を営むだけの一般人に対する批判は、その構えを異にするべきだというのが私の考え方だ。これが私の「方法」だ。モノローグよりダイアログの方が、論文においても実践においても生産的な「方法」になり得る。

 「日本の謝罪」を私たちはどこで確認するだろうか。

首相や天皇がいくら謝罪したところで、国民同士が同じ心情を持たなければ、日韓の一般人たちは最後まで疎通できず、不和にならざるを得ない。私たちは天皇や首相と対話するわけではないからだ。

日本の90年代は確かに曖昧だったが、日本政府と圧倒的多数の国民が謝罪する心を持っていた時代だった。私がアジア女性基金を評価したのはそのような政府と国民の心が込められたものだったからだ。批判者たちはそのような日本政府の謝罪と補償を「曖昧」だと非難したが、鮮明さ自体が目的である追及は、正義の実現という自己満足をもたらしてくれることもあるが、大慨は粛清につながる。当然、生産的な言説にもならない。実際に私に対する告発がそれを証明した。

「告発には反対するが…」と前置きしながら私を批判した人たちの中で、誰も実際に訴訟を棄却させようと行動に出た人はいなかった。批判者たちは韓国政府と支援団体の考え方と違った意見を述べるという理由で、彼らが私を抑圧することを当然視し、批判に乗り出すことで私への抑圧に加担した。学問的な見解を司法府が道具と使うように放っておいたり、自ら提出したりした。ところが、歴史問題に対する判断を国家と司法府に依存する行為こそ、学者にとっての恥辱ではないだろうか。私はそう思う。だから惨憺たる心境だ。(『歴史批評』112号、2015・8)


[1] 『歴史批評』に最初この文章を先に送ったが、具体的な反論ではないという理由で掲載されなかった。他の文書に差し替えたが、この文書の方がより重要だと今も考えている。『歴史批評』112号に掲載した文章とは多少重なる部分がある。その文書で私が言及した鄭栄桓の問題は、他の男性学者の書評や論文にもおおむね見受けられる。これについては「東アジアの和解と平和の声」発足記念シンポジウム文(「記憶の政治学を越えて」、2015・6)でも、その一端を指摘したことがある。そしてこの問題については今後もまた書くつもりだ。

出典 : 朴裕河 フェイスブックノート

[反論]日本軍慰安婦問題と1965年体制 – 鄭栄桓の『帝国の慰安婦』批判に答える

日本軍慰安婦問題と1965年体制 – 鄭栄桓の『帝国の慰安婦』批判に答える[1]

朴裕河(世宗大学教授)

1. 誤読と曲解― 鄭栄桓の「方法」

在日同胞学者、鄭栄桓が拙著『帝国の慰安婦―植民地支配と記憶の闘い』に対する批判を『歴史批評』111号に載せた。まずこの批判の当為性の有無について語る前に、批判そのものについて遺憾の意を表する。なぜなら私は現在、本書の著者として告発されている状態であり、その限りにおりてあらゆる批判はその執筆者の意思とは関係なく、直・間接的に告発に加担することになるからである。

実際に2015年8月に提出された原告側の文書には、鄭栄桓の批判の論旨が借用されていた。しかも李在承の書評も丸ごと根拠資料として提出されていた。仮処分の裁判期間中に裁判所へ提出された原告側の文書には、尹明淑や韓惠仁の論旨が具体的に引用されていた。2014年6月に提出された最初の告発状には、私が10年前に出した本『和解のために―教科書・慰安婦・靖国・独島』への批判の論旨がそのまま使われていた。

私に対する批判に参加した学者・知識人がこのような状況を知っているかどうか、私には分からない。しかし、批判がしたいのであれば、訴訟を棄却せよという声を先にあげるべきではないだろうか。まさにそれこそ「裁判所に送られた学術書」に対して取らなければならなかった「学者」としての行動ではなかっただろうか。

早くから始まった上に『ハンギョレ新聞』に引用されることで、私に対する世論の批判に寄与したにもかかわらず[2]、鄭栄桓の批判にこれまで答えなかった理由は、彼の批判が誤読と曲解に満ちていたからである。彼の文章は、彼が私のものだと述べた「恣意的な引用」で鏤められていたし、結論に先立つ敵対感情がベースになっていたので、実は読むこと自体が憂うつだった。よって、具体的な反論に入る前に、まずは私の立場と論旨を確認しておくことにする。

1) 慰安婦問題に関する日本の国家責任についての私の立場

鄭栄桓は私が「日本国家の責任を否定」(482~483頁、以下「頁」は省略)しているとし、「植民地主義批判がな」(492)いため、「植民地支配の責任を問う声を否定しようとする「欲望」に、この本はうまく呼応する」と述べ、しかも「歴史修正主義者たちとの密かな関係性を検討しなければならない」(491)とまで述べている。しかし、私は慰安婦問題で日本国家の責任を否定したことはない。私が否定したのは「法的」責任のみであって、当然日本国家の責任を問うた。日本語版には「国会決議」が必要だとも書いた。にもかかわらず、鄭栄桓はそのようなことには沈黙するだけでなく、「歴史修正主義者」と韓国で批判されている人々の名前を呼びあげて、彼らと同じような存在だと思わせるような「歪曲」を自分の批判の「方法」として用いている[3]

鄭栄桓のいうとおりならば、この本についての日本人の反応―「この問題提起に、日本側がどう応えていくかが問われている」(杉田敦、書評、『朝日新聞』2014.12.7)、「「どこも同じ」と言い募らず、帝国主義的膨張を超える思想を新たに打ち出せるなら、世界史的な意義は大きいのではないか?[という朴裕河の問いに]反対する理由を、私は思いつかない」(山田孝男、コラム、『毎日新聞』2014.12.21)、「私はこれを読んで元慰安婦たちへの心の痛みをいっそう深めただけ」(若宮啓文、コラム、『東亜日報』2014.7.31)等はすべて誤読した書評だということになってしまう。しかもある右派の人は私の本について、従来の戦争責任の枠組みでのみ捉えられてきた慰安婦問題を植民地支配責任の枠組みの中で問おうとしているといい、「日本の左派より怖い本」だといったり、「固陋な支配責任論を持ち出してきた」と非難したりまでした。

鄭栄桓は同じようなやり方で私が「韓日併合を肯定」したと書いている。しかし、私は韓日併合無効論に懐疑を示しながらも、「もとより現在の日本政府が慰安婦問題をはじめとする植民地支配に対する責任を本当に感じているなら、そしてそれを敗戦以降、日本が国家として正式に表現したことがなかったという認識が仮に日本政府に生まれるとしたら、韓日協定が「法的には終わっている」としても、再考の余地はあるだろう。女性のためのアジア平和国民基金の国内外における混乱は、そうした再考が元から排除された結果でもある」(『和解のために』235)と書いた。つまり、私は韓日併合も韓日協定も「肯定」していない。

私は慰安婦を作ったのは、近代国民国家の男性主義、家父長主義、帝国主義の女性・民族・階級・売春差別意識であるから、日本はそうした近代国家システムの問題であったことを認識し、慰安婦に対し謝罪・補償をすべきたと書いた。それなのに、鄭栄桓は「朴裕河は韓日併合を肯定し、1965年体制を守っており、慰安婦のハルモニの個人請求権を認めない」と言っているのである。私は「学者」によるこうした歪曲は、犯罪レベルのものだと考えている。

鄭栄桓の批判の「方法」は、徐京植や金富子、その他の在日同胞の私に対する批判の仕方と酷似している。彼らもやはり、『和解のために』の半分は日本批判であるという事実に言及しなかったし、私を「右翼に親和的な歴史修正主義者」だというふうにいってきた。

2) 韓日協定についての私の立場

鄭栄桓は私が「1965年体制の守護を主張」(492)しているという。しかし再協議は無理という考えが直ちに「守護」になるわけではない。実際に、私は日本に向かって書いたところで、韓日協定は植民地支配に対する補償ではなかったと書いた。鄭栄桓のいうような「守護」どころか、その体制に問題があったと明確に指摘した。韓国政府が請求権を潰したことを指摘したのは、1965体制を「守護」するためではなく、自分たちが行ったことに対する「責任」意識は伴わなければならないと考えたからだ。

3) 方法について

鄭栄桓と異なり、批判したいと思うほどに自らも顧みようというのが私の「方法」だ。歴史学者や法学者にはなじまないやり方であるかもしれないが、問題そのもの以上に、両国の「葛藤」の原因と解消に大きな関心を持っている研究者として必然的な「方法」でもある。

鄭栄桓は本書の日本語版と韓国語版が異なる理由として何か陰険な「意図」があるかのように話しているが、この本が、対立する両国の国民に向かって、できるだけ事実に近い情報を提供しつつ、「どう考えるべきか」に中心を置いた本である以上、日本語版が日本語の読者を意識しながら書き「直される」のは当然のことだ。また、刻一刻と悪化する韓日関係を見つめながら、できるだけ早く出さなければならないという思いに捕われていた韓国語版には、当然粗いところが多かった。したがって日本語版を書くようになったとき、そうしたところが修正されたのも当然のことである。「韓国の問題」、「日本の問題」を別々に見ることができるように構成を変えたのも、そうした脈絡からのことに過ぎない。

2. 「方法」批判について

1) 的外れな物差し

鄭栄桓は私の本が概念を「定義」しなかったので、紛らわしいと述べている。しかし、多くの資料を使いながらもこの本を学術書の形で出さなかったのは、一般読者を念頭に置いたためであり、一般読者は誰もそのような問題提起をしていない。この本が鄭栄桓に「読みやすい本ではな」(474)くなったのは、概念を定義しなかったためでなく、この本の方法と内容が鄭栄桓に不慣れなものであるためであろう。

2) 貶め

鄭栄桓は、私が慰安婦の差異について言及したところを問題視して、「差異があったという主張自体は取り立てて珍しいものではな」(474)く、「数多くの研究が日本軍の占領した諸地域における「慰安婦」徴集や性暴力の現れ方の特徴について論じている」と述べている。だが、私は朝鮮人と日本人のポジションの類似性(もちろん彼らの間の差別についても既に指摘した)を指摘しながら、大日本帝国に包摂された女性たちと、それ以外の地域の女性たちとの「差異」を指摘した研究を知らない。鄭栄桓の「方法」は、私の本が「売春」に言及したことを挙げて、実はかつて右翼がした話だと貶めるやり方と似ている。しかし、私の試みはただ「慰安婦は売春婦」ということにあるのではなく、そのようにいう人々に向かって「売春」の意味を再規定することにあった。

3) 「方法」に対する理解の未熟

鄭栄桓は朝鮮人慰安婦の「精神的慰安者」としての役割についての私の指摘が「飛躍」であり、「推測」であるという。しかしこのような部分は、まず証言から簡単に見つけることができる。そして私が指摘しようとしたことは、心の有無以前に朝鮮人慰安婦がそうした枠組みの中にいたということだ。「国防婦人会」のたすきをかけて、歓迎・歓送会に参加した人々がたとえ内心その役割を否定したがっていたとしても、そうした表面的な状況についての解釈が否定されなければならないわけではない。根拠のない「推測」はもちろん排除されなければならないが、すべての学問は与えられた資料から「想像」した「仮説」を構築する作業にならざるを得ない。何より私は全ての作業を証言と資料に基づいて行った。本に使わなかった資料も、追って別途整理して発表するつもりだ。「同志」という単語を使ったのも、まずは帝国日本に動員されて、「日本」人として存在しなければならなかったということを指摘するためであった。

鄭栄桓は、軍人に関する慰安婦の「思い出」を論じた部分を挙げて「思い出」についての「解釈」を「遠い距離がある」(475)と批判している。しかし学者の作業は、複数の「個別の例」を分析して総体的な構造を見ることだ。私が試みた作業は、「証言の固有性が軽視」されるどころか、それまで埋もれていた一人一人の証言の「固有性を重視」し、結果を導き出すことだった。「対象の意味」を問う作業に自分が慣れていないからからといって他人の作業を貶めてはならないだろう。

同じ文脈で鄭栄桓は、「日本人男性」の、それも「小説」の使用は「方法自体に大きな問題がある」(475)と述べている。このような批判は、日本人男性の小説はその存在自体が日本に有利な存在であるかのように考える偏見がそうさせているものだが、私は日本が慰安婦をどのように残酷に扱ったかを説明するための部分で小説を使った。慰安婦の苛酷な生活が、他でもない慰安婦を最も近くで見た軍人、後に作家になった彼らの作品の中に多く現れていたからだ。強いていうなら、日本人に向けて、自分たちの祖先が書いた物語だということを述べるために、また、慰安婦の証言は嘘だという人々に向け、証言に力を加えるための「方法」として使ったにすぎない。鄭栄桓は、歴史研究者によく見られる「小説」軽視の態度を表わしているが、小説が、虚構の形態を借りて、ときには真実以上の真実を表わすジャンルでもあるということは常識でもある。

鄭栄桓は、自分の情況を「運命」と語った慰安婦について私が評価したことを批判しているが、慰安婦の証言に対する評価もやはり「固有性を重視」する作業である。「運命」という単語で自分の情況を受け入れる態度を私が評価したのは、世界に対する価値観と態度に肯定的な何かを見たためだ。個人の価値観がさせるそのような「評価」が否定されなければならない理由もないが、それと相反する態度に対する批判が慰安婦の「痛みに耳を傾ける行為と正反対」(476)になるわけではない。学者ならばむしろ、証言に対する共感に終わるのではなく、付随する色々な状況を客観化できなければならない[4]。しかも、偽りの証言までも黙認されなければならないという話は、尚更違うだろう[5]。そのような状況の黙認は、かえって解決を難しくする。

何よりも、私が「運命」と語る選択を評価したのは、ただ、そのように語る慰安婦も存在するという事実、しかしそのような声は聞こえてこなかったという事実を伝えたかっただけだ。日本を許したいと話した人の声を伝えたのも同じ所以だ[6]。私は「異なる」声を絶対化してはいないし、鄭栄桓の言葉のように、ただ「耳を傾けた」だけだ。そのような声がこれまで出てこられなかった理由は、異なる声を許容しない抑圧が彼らにも意識されていたためだ。言い換えれば、鄭栄桓のいうところの「証言の簒奪」はかえって、鄭栄桓のような態度と考え方を持った人々の側から起こるということが、私がこの本で指摘したことでもある。

したがって、私の「方法」が「倫理と対象との緊張関係を見逃した方法」であり、「歴史を書く方法としては適切でない」(476)との批判は、私の「方法」を理解できなかったことに起因する批判に他ならない。

3. 『和解のために』批判について

鄭栄桓は10年前に私が上梓した『和解のために』も批判しているが、『帝国の慰安婦』が「当時論じられた問題点を基本的に継承」(477)しているというのがその理由だ。だが、ここでも先の問題点をそのままさらけ出している。

1) 道徳性攻撃の問題

鄭栄桓は金富子を引用しながら、私が既存の研究者の文章について「正反対の引用」(477)をしたと述べている。これは鄭栄桓が私に論旨のみならず、道徳性にも問題があるかのように思わせるため選択した「方法」だ。

だが、鄭栄桓が分かっていない点がある。あらゆるテクストは必ずしも、その文章を書いた著者の意図に準じて引用されなければならないわけではない。言い換えれば、あらゆる文章は著者の全体的な意図とは別の部分も、いくらでも引用される可能性があるということだ。鄭栄桓自身が私の本を私の意図とは正反対に読んでいるように。重要なことはその過程に歪曲があってはならないという点だが、私は歪曲していない。

吉見義明のような学者が「「強制性」を否認している」というために引用したわけではない。日本の責任を追及するいわゆる「良心的な」学者ですら「物理的な強制性は否認しているのだから、その部分は信頼すべきではないのか」と述べるために使っただけだ。その後、軍人が引っ張って行ったというような強制性に対する問題提起が受け入れられるにつれ、論議が「人身売買」へと移っていったことは周知の事実だ。今では「構造的な強制性」があるという者は少なくないが、「構造的な強制性」という概念はまさに私が『和解のために』で初めて使ったものだった。慰安婦を売春婦だという者に向けて「当時の日本が軍隊のための組織を発案したという点からみれば、その構造的な強制性は決して弱まりはしない」(改訂版、69)と私は述べた。

だが、彼らは私の本を決して引用しない。最近ではこの問題を植民地支配の問題として見るべきだという私の提起まで、引用なしに使う者が現れている。これについては近いうちに改めて書くつもりだ。

2015年5月、米国の歴史学者らの声明が示したように、もはや「軍人が引っ張って行った強制連行」だとは世界はもちろん、支援団体すら主張していない。だが、多くの者が「強制連行」とばかり信じていた時点から私は強制連行でないと分かっていたので、「強制性」について否定的な者たちによるこの問題への責任の希釈を防ごうと、10年前に「構造的な強制性」について述べた。また『帝国の慰安婦』で「強制性の有無はこれ以上重要ではない」と書いた。

2) 誤読と歪曲

鄭栄桓は私が慰安婦は「一般女性のための生贄の羊」(『和解のために』、87)でもあったと書いた部分を指して、まるで私が「一般女性の保護を目的」(金富子)としたかのように非難している(478)。だが「日本軍のための制度」だという事実と「慰安婦が一般女性のための生贄の羊」だったという認識は対峙しない。

歴史研究家である鄭栄桓がテクスト分析において、文学研究者ほどの緊張がないのは仕方ないことだが、「批判」の文脈ならば、ましてや訴訟を起こされている相手に対する批判ならば、もう少し繊細に接近すべきであった。加えて鄭栄桓は一般女性にも責任がないわけではないという私の反駁まで非難しながら、「敵国の女性」に責任があるということなのかという(金富子)の誤読に加え「日本軍の暴力をどうしようもない当然のものだと前提」(478)し、「戦場の一般女性が自らの代わりに強姦された慰安婦に責任がある」という主張であるとすら述べている。

私が一般女性の問題を述べたのは「階級」の視点からだ。つまり「旦那さんとこのお嬢さま」(『和解のために』、88)の代わりに自分が慰安婦になったという存在に注目したものであり、彼女たちを送り出して後方で平穏な生活を享受することができた韓・日の中産階級以上の女性たち、そして彼女たちの子孫にも責任意識を促すための文脈だった。もちろんその基盤には、私自身の責任意識も存在する。

3) 総体的な没理解

鄭栄桓は徐京植の批判に依存しながら、アジア女性基金と日本のリベラルな有識者を批判しているが、徐京植の批判はどこにも根拠がない。旧宗主国の「共同防御線」[7]を日本のリベラルな有識者たちの心性と等しくさせようとするなら、具体的な準拠を示すべきだった。

そして、私は韓日の対立の責任を挺対協だけに転嫁しているのではない。日本側も明らかに批判した。にもかかわらず鄭栄桓をはじめとする批判者たちは、私が「加害者を批判せずに、被害者に責任を転嫁している」と規定し、以後その認識は拡散した。

鄭栄桓は私が使用した「賠償」という単語を問題視しているが、挺対協は「賠償」に国家の法的責任の意味を、「補償」に義務ではないという意味を込め、区別して使っている。鄭栄桓が指摘する「償い金」とは本にも書いたように、「贖罪金」に近いニュアンスの言葉だ。もちろん日本はこの単語に「賠償」という意味は込めてこなかったし、私もやはり挺対協が使っている意味に準じて「賠償」という意味を避け、「補償」と述べてきた。これは基金をただの「慰労金」とみなした者たちへの批判の文脈からだった。「償い金が日本の法的な責任を前提とした補償ではない」(479)という点には、私もやはり異論はない。にもかかわらず鄭栄桓は誤った前提で接近しながら、私が使った「補償」という単語が「争点を解消」(480)させたと非難している。

参考までに言及しておくが、日本政府の国庫金を直接使えないという理由で最初は間接的に支援することになっていた300万円ですら、結局は現金で支給した。アジア女性基金を受領した60人の韓国人慰安婦は実際に「日本国家の国庫金」ももらったことになる。依然として「賠償」ではないが、基金がただの「民間基金」だという理解も修正されなければならない。

4. 鄭栄桓の「日韓基本条約」理解の誤り

1) 慰安婦問題に関する責任について

鄭栄桓は私が慰安婦問題の「その責任を日本国に問うことはできない」(480)としたかのように整理している。しかし、私は「法的責任を問うにはまず業者の責任を問わねばならない」と述べただけで、日本国に責任がないとはいっていない。なお、知られていない様々な情況に鑑みて判断すれば、「法的」責任を前提とした賠償の要求は無理、というのが私の考えである。私が「業者」といった中間者の存在に注目するのは、日本国の責任を否定するためではなく、彼らこそ過酷な暴力と強制労働の主体であり、そのような暴力や強制労働から利得をあげた存在であるからだ。誘拐や詐欺などは当時も処罰の対象であったのである。何よりも、慰安婦の中の「恨み」が彼らに向けられている点とも関わっている。

私は、慰安婦問題の「本質は公式な指揮命令系統を通じて慰安所設置を指示」したという吉見の主張を大体は支持するが、女性の「徴集を命令した」という彼の言葉については、物理的な強制連行を想像させ、業者の自律性を無視する表現である以上、より繊細な規定が必要ではないかと考えている。また「兵站付属施設」という永井の指摘も支持はするが、既存の遊郭を使用した場合も多数存在していたという事実の補完も必要であろうと思う。無論、そのようなところに目を向ける理由は、日本の責任を希釈するためではなく、支援者たちが訴え続けている「真実究明」のためである。

私に対する鄭栄桓の批判が、純粋な疑問から逸れた曲解であるということは、需要を創出したこと自体、すなわち戦争を行ったこと自体を批判する私の文章を引用しながら、「上記の引用は、見方によっては、供給が満たされるくらいのものであるなら軍慰安所制度には問題がないというふうにも読まれ得る」(481)という指摘にもあらわれている。しかも、「業者の逸脱のみ問題視するならば軍慰安所制度そのものの責任が免除されるのは、当たり前の論理的な帰結であろう」(481)と書いている鄭栄桓の「飛躍」には驚きを禁じ得ない。

私は「軍による慰安所設置と女性の徴集、公権力を通じての連行」(482)を同列に置きながら「例外的なこと」として述べてはいない。私が例外的なこととして述べたのは朝鮮半島における「公権力を通じての連行」のみだ。にもかかわらず鄭栄桓は、上記のようなかたちで要約しており、あたかも私が「軍による慰安所設置」までも例外的なことだと見なしているかのように見せようとしている。

2) 憲法裁判所の判決について

憲法裁判所の判決について、私は間違いなく「請求人たちの賠償請求権」に対して懐疑的である。だがそれは、そのような形式―裁判に依拠した請求権要求という方式とその効果についての懐疑であっただけで、補償自体に反対したことはない。しかし、鄭栄桓は「請求権自体を否認する立場」と誤解されるように整理している。

また私は、支援団体が依拠してきた「婦人及び児童の売買禁止に関する国際条約」に基づいては「慰安婦制度を違法とすることはできな」いので、損害賠償を請求することはできないという相谷の指摘に共感しただけで、「責任がない」と主張するために引用したのではない。相谷の意図は「個人の賠償請求権を否定」するようなものではないが、そのような方法論では「成立しない」ということを述べている論文であることは確かで、私はその部分に注目しただけである。「個人の請求権を否定した研究であるかのように引用」したという鄭栄桓の指摘は単純な誤読か、意図的な曲解に過ぎない。鄭栄桓は常に、形式の否定を内容の否定と等価のものとして置き換える。現に支援団体が自ら「法的責任」に関する主張を変更したという事実も、鄭栄桓は参考にしなければならないだろう[8]

3) 日韓協定について

鄭栄桓は私が金昌緑の論文も「反対に引用」したと言っているが、私は金昌緑の引用した様々な会談の文案を、鄭栄桓の指摘とは異なる文脈で用いた。故に、この指摘も根拠のない非難である。

金昌緑が言っているように、当時議論されたのは「被徴用者の未収金」についてであり、鄭栄桓本人が言っている通り、当時の慰安婦に関する議論は専ら「未収金」だけが問題視されていたのだろう。しかし、慰安婦は「軍属」であったという史料もすでに提出されており[9]、私の論旨に基づいて言えば日本が慰安婦を「軍属」として認めることもできるだろう。朝鮮人日本軍ですら補償が受けられる「法」が存在していたが、慰安婦にはそのような「法」は存在しておらず、このような認識は、慰安婦に関する「補償」を導き出すこともできるというのが私の主張であった。

鄭栄桓は、私が日韓協定の際に日本が支給した金額について「戦後補償」だと述べたというが、私はサンフランシスコ講和条約に基づいてのものである以上、連合国との関わりの枠組みの中で決めることしかできなかったために、日本としては「帝国の後処理」ではなく「戦後処理」に該当する、と述べただけだ。

鄭栄桓は487項から488項にかけて私の本を長く引用しながらも、米国が朝鮮半島における日本人の資産を接受し、韓国へ払い下げ、これをもって外地から日本人を引き揚げさせた費用を相殺したと書いた部分を除いて引用している。しかし、この部分こそ、日本に対して請求権を請求するのは難しいと私が理解するようになったところである。国家が相殺してしまった「個人の請求権」を再び許容すると、日本人にとっても朝鮮半島へ残したままの資産に対する請求が可能になるという問題が生じるからである。

何よりも、私はこのときの補償が「戦争」の後処理でしかなく、「植民地支配」の後処理ではなかったと述べ、65年の補償が不完全なものであったという点について明白に言及した。にもかかわらず、鄭栄桓はこれについては一切触れず、私が1965年体制を「守護」していると述べているのである。

私は日韓協定の金額を「戦争に対する賠償金」と書いていない。「戦後処理による補償」と書いた。また、張博珍の研究を引用したのは、冷戦体制が影響を与えたという部分においてである。「脈略とまったく関係ないところで文献を引用」していないし、張博珍が「韓国政府に追究する意思がなかったと批判」した文脈を無視してもいない。

鄭栄桓がまだ理解していないのは、このときの韓国政府が植民地支配に関する「政治的清算」までしてしまったということである[10]。浅野の論文は『帝国の慰安婦』刊行以後のものである。私は本の中で、日本に向けて「植民地支配に対する補償」ではなかったからまだ補償は残っていると書いたが、浅野の論文を読んでかえって衝撃を受けた。これから日韓協定をめぐる議論は、もう浅野の論文を度外視しては語れなくなるだろう。

5. 生産的な議論のために

鄭栄桓はもはや徐京植や高橋哲哉さえも批判する。高橋はリベラル知識人の中でも際立って「反省的な」視点や態度を堅持してきた人物であり、徐京植と多くの共同作業をしてきた人物でもある。そのような人物まで批判する鄭栄桓に、私の最初の答弁で問うた言葉を改めて問うてみたい。鄭栄桓の批判はどこを目指しているのか。

明らかなことは、鄭栄桓の「方法」は、日本社会を変化させるどころか、謝罪の気持ちを持っていた人々さえも背を向けさせ、在日同胞の社会をさらに厳しい状況に追い込むだろうということだ。むろん日本社会にも問題があるが、それ以上に鄭栄桓の批判には「致命的な問題」があるからだ。その問題は、私に対する批判の仕方が証明している。存在しない意図を見つけ出すために貴重な時間を費やすより、生産的な議論に努めていただきたい。


[1] ページ数に限りがあるため、本稿では拙著の引用は殆ど出来ていない。本稿の論旨を確認したい読者は『帝国の慰安婦』(2015年6月に一部削除版が刊行)と『和解のために―教科書/慰安婦/靖国/独島』(2005初版、2015改訂版)を参考にしていただきたい。これに先立つ序論にあたる文を2015年朴裕河のFacebookの「ノート」に掲載する予定だ。www.facebook.com/parkyuha, parkyuha.org

[2] この反論を執筆していた2015年8月13日に、『ハンギョレ新聞』が鄭栄桓と朴露子の対談を掲載して再び私を批判したという事実を知った。鄭栄桓の私に対する批判の文脈を全体的に理解するためには、批判の前史を理解する必要がある。注1の文章を参考にしていただきたい。

[3] 鄭栄桓がブログに連載した私への批判文の題名は「『帝国の慰安婦』の方法」である。「方法」を全面的に押し出し、私に内容以前の問題があるという認識を与えることで、学者としての資格と道徳性に傷をつけようとする戦略は明らかだ。

[4] 朴裕河、「あいだに立つとはどういうことか―慰安婦問題をめぐる90年代の思想と運動を問い直す」、『インパクション』171号、2009.11。

[5] 元従軍慰安婦の李容洙(イ・ヨンス)さんの証言はこの20年間で何度も変わっている。最近、過去の証言集に対して不満を吐露したが、これは証言の不一致を指摘されたからと見られる。http://www.futurekorea.co.kr/news/articleview.html?idxno=28466

[6] 朴裕河、「慰安部問題、考え直さなければならない理由」、シンポジウム『慰安婦問題、第3の声』資料集、2014.4.29。『帝国の慰安婦』削除版に掲載。

[7] 徐京植、『植民地主義の暴力』、高文研、2010.70頁。

[8] 『ハンギョレ新聞』2015.4.23。

[9] 波止場清、「慰安婦は軍属―辻政信が明言」、『ハフィントン・ポスト』2015.8.3、旧日本陸軍参謀だった辻政信が『潜行三千里』という著書で慰安婦について「身分は軍属」と書いていた事実が確認されている。

[10] 浅野豊美、「『国民感情』と『国民史』の衝突、封印・解除の軌跡-普遍的正義の模索と裏付けられるべき共通の記憶をめぐって」、近刊掲載予定。

出典 : 『歴史批評』 112号