慰安婦合意と『帝国の慰安婦』
東郷和彦
京都産業大学教授、世界問題研究所所長
The Huffington Post,
『제국의 위안부』 박유하 일반재판으로… “참여재판 철회”
디오데오, 2016년 7월 19일 기사
[요약]
1) “일본군/국가의 책임을 극소화했다”
국가책임을 말했고 그에 따른 사죄보상을 요구했음
당사자 포함한 협의체 제안
“대화로써 일본과 마주해야 한다”(제국,311)
“정부는 일본과 대화를 시작해야 한다”(제국,312)
2) “일본어판과 다르다”
일본어판은 단순번역이 아니라 일본인독자를 향해 다시 쓴 책. 다시 쓴 책이 표현이 다른 건 당연.
3) “일본인과 조선인을 동일시했다”
차이/차별 구조와 고통 지적
4) 업자가 주범이라 했다
“법적책임’에 고집한다면 업자책임도 물어야 한다”고 했을 뿐
5) 위안부의증언을 찬탈했다
위위안부의 증언은 다양. 한 사람의 체험과 생각이 균일하지 않은 것은 오히려 당연. 기존 연구자와 지원단체가 대변하지 않았던 부분을 보여 주었을 뿐.
6) “부정론자들의 담론을 기본적인 수준에서 계승”
근거없는 단정. 그랬다면 일본진보지식인이나 매체가 평가할 수가 없음
7) 센다 책에 조선인/애국은 없다
일본인의 증언임을 처음부터 지적. 애국을 읽은 건 박유하의 해석.
8) ”동족”이란 위안부 아닌 일본군의 목소리다”
일본군의 목소리임은 처음부터 지적.
9) “위안부의 평균나이가 25세”라고 했다”
전체평균이 25세라 한 것이 아니라 여러 자료 중 하나로 제시
10) “위안부문제를 한국정부가 포기했다고 했다”
박유하가 지적한 건 위안부문제가 아니라 개인청구권
11) “조선인을 거짓말쟁이라고 했다”
“식민지의 거짓말”의 방점은 식민지. 해당부분은 제대로 읽으면 어디로 가는지를 알면서도 말하지 않았거나 못했던 이들의 슬픔을 강조한 부분(일본판에만 있는 이유) – 초보적 오독
『帝国の慰安婦』 名誉毀損起訴 対象箇所
○以下は『帝国の慰安婦』(初版本:2013)のうち、司法の判断により削除対象となった38個所〔仮処分および損害賠償判決文における整理番号では34項目〕 と起訴の際追加された一箇所を訳して示したものである(下線部:39か所)。おおむね直訳となっている。起訴の際追加されたものは、最後に示した。
○ 日本語資料を引用する場合の訳は、初版本(韓国語)から日本語にそのまま反訳した。日本語原文を参照しなおすよりは、提示した韓国語をそのまま反訳したほうが、韓国人読者が読んで受け取った印象をそのまま把握しうると考えたためである。
○番号は、削除部分に前から順番に番号を振ったものであり、頁数は初版本による。
1.2.(19頁)
千田が述べた慰安婦の数は後程あらためて見てみるが、問題がないことはない。しかしこの本が“慰安婦”の悲劇に着目し、社会的な関心を喚起させようとした最初の本であるということだけは確かである。
千田は“慰安婦”を、“軍人”と同様に、軍人の戦争遂行を自身の体を犠牲にしつつ手助けした“愛国”を行った存在であると理解している。国家のための軍人たちの犠牲に対する補償はあるのに、なぜ慰安婦にはないのかというのがこの本の関心事であり、主張でもある。そして結論から言うと、そうした千田の視角は以後に出たそのいかなる本よりも慰安婦の本質を正確に捉えたものであった。
事実、慰安婦らの証言集をただ一冊だけ開いてみても、“慰安婦”という存在が私たちに知られた一つのイメージのみで決して十分ではない多様な側面を持っていたということにすぐに気づく。そうした意味では、これまで支援者たちと否定者たちが慰安婦について持ち続けてきた相反するイメージは、自身たちが見たいイメージから外れる証言は見なかったり無視した結果のものである。
3.(31~32頁)
“ナンジャグン”とは娘子軍、社会の最下層で苦痛の中で働いていた女性たちを“軍人”にあてはめて呼んだものである。国家の欲望の実現のために動員された者たちが、いつの間にか国家の勢力拡張に助けとなる存在として、“国家のための”役割をする者たちとして認められるようになる過程で(もちろん動員のための国家の修辞であるのみである)生じた言葉であった。のちの慰安婦らもまた“娘子軍”と呼ばれ(『毎日グラフ』別冊『日本の戦歴』の慰安婦写真説明文と写真、<写真2>参照)、“慰安婦”たちはそのように国家の男性に対する被害者でありつつも国家によって“愛国者”の役割をしなければならない者たちでもあった(『和解のために』)。
それは、明らかに国家の不条理な策略であったが、外国で哀しい陰の生活をしていた彼女たちには、その役割は自身に対する矜持となり、生きていく力となった可能性もある。“シンガポール近郊ではほぼ6000名のからゆきさんがおり、1年に1000ドルを稼いだが、そのお金を日本人らが借りて商業をし”(232頁)たという話は海外のからゆきさんたちが日本国家の国民として堂々たりえたことを示している。
“からゆきさんの後裔”、“慰安婦”の本質はじつはまさにここにある。国家間“移動”がよりたやすくなった近代に、経済・政治的勢力を拡張するために他国に流れた男性たち(軍隊もそのうちの一つである)を現地にとどめておくために動員された者たちが“からゆきさん”であったのである(からゆきさんの最初の相手が日本の港に停泊したロシア軍人であったという事実は象徴的である)。そして、彼らの役割は“性的な慰め”を含めた“故郷”の役割であった。
4.(33~34頁)
このように日本人女性を対象とした人身売買には、近代初期から朝鮮人たちも深く関与した。女性を慰安婦とし商品化した業者にも、慰安婦を性売買した利用者―軍人や軍属の中にも朝鮮人たちは少なくなかった。いわば、慰安婦を“強制で引っ張って行った”直接的な主体は業者たちであった。
もちろん、こうした事実らを直視することは心苦しいことではあるが(訳注:この部分は伏字版では削除)、“慰安婦”の本質を見るためには“朝鮮人慰安婦”の苦痛が、日本人娼妓の苦痛と基本的には変わらないという点をまずは知る必要がある。その中で差別が存在したことは事実であるが、慰安婦の不幸を作ったのは民族の要因よりもまず、貧しさと男性優越主義的家父長制と国家主義であった。そして、“朝鮮人慰安婦”という存在が発生することとなるのは、これらの位置を朝鮮人女性たちが代替した結果であった。そのようになった背景には韓国の植民地化と植民地へと移植された公娼制度があり、中間媒介者らはそうした過程で発生した存在であった。
5.6.(38頁)
日本軍は、既存の公娼と私娼だけでは足りず“慰安婦”をさらに募集することにしたことであろう。それに伴い業者に依頼することもあったが、一般的な“慰安婦”の大多数は“からゆきさん”のような二重性を持った存在と見なければならない。300万名を超える軍隊がアジアと南太平洋地域にまでとどまりながら戦争をすることになったため、数多くの女性たちが必要とされたところに過酷な状況に置かれることになったのが“慰安婦”であった。しかし、“現地の娘たちが公娼に合流”したという事実はすべての慰安婦が一様に日本軍に“誘拐”や“詐欺”にあったわけではないという事実も示している。
“日本軍慰安所”は一つではない。つまり、軍人がある日、独自で考案して慰安所を作ったのではない。早くから国家の拡張とともに存在した売春施設を利用していたところ駐屯兵力が多くなるや軍が場所を拡大し、管理するために指定したところがいわゆる“慰安所”であった。いわば、日本軍が利用したからと言って、アジア全域にあった、そうした類の施設らをすべて“日本軍慰安所”と見なすことには無理がある。
もちろん、軍人や憲兵によって引っ張って行かれた場合もなくはないように見え、個別的に強姦を受けた場合も少なくなかった。しかし“慰安婦”たちを“誘拐”して“強制連行”したのは少なくとも朝鮮の地では、そして公的には日本軍ではなかった。いわば、需要を作ったことがそのまま強制連行の証拠になるのではない。
7.(61頁)
国家が日本人をはじめとする“帝国の慰安婦”に託したもっとも重要な役割はまさにこうしたものであった。性的な搾取にあいつつも、死を目の前にした軍人を“後方の人間”を代表して“前方”で“慰安”し、彼の最期を見守る役割。いわば慰安婦には身体的な“慰安”のみならず、精神的な“慰安”までも要求されていた。彼女たちが“皇国臣民の誓詞”を暗唱し、何かの日であれば“国防婦人会”の服を着て、着物の上にたすきをかけて参与したのはそのためであった。それは国家が勝手に課した役割であったがそうした精神的な“慰安”者としての役割―自身の存在に対する(多少無理した)誇りが彼女たちの処していた過酷な生活を耐え抜くことのできる力となりえたであろうということは充分に想像することができることである。
8.(62頁)
千田がインタビューしたある業者は、自身が連れて行った彼女らが借りたお金を完済して自由の体になることができたときにもその仕事をやめようとはしなかったとしている。
応募した時もそうでしたが、こんな体になった私も軍人たちのために働くことができる、国のために身を捧げることができると考えて、彼女らは喜んでいました。ですから自由になって内地に帰っても、また体を売る仕事をするしかないことを知っていましたので、女性たちは軍人たちのために全力を尽くすことができたのです。もちろんお金も稼ぎたかったでしょうが。(26頁)
もちろん、これは日本人慰安婦の場合である。しかし朝鮮人慰安婦もまた“日本帝国の慰安婦”であった以上、基本的な関係は同じであるといわねばならない。そうでなければ敗戦前後の慰安婦らが負傷兵らを看護した、洗濯や裁縫をしたりしていた背景を理解することができない。朝鮮人慰安婦らが“さゆり”、“鈴蘭”、“桃子”のような日本名で呼ばれた(古山高麗雄「白い田圃」12頁)というのも、植民地人が“慰安婦”となることというのは“代替日本人”になることであったということを示している。
9.10.(65頁)
戦闘を終えて帰ってくる軍人たちは乱暴でサックもあまり使おうとはしなかった。顔、服、履物などが完全に土埃だらけであった。戦闘に出ていく人たちは多少温順で、もう自分には必要がないと小銭を置いて行ったりもした。戦闘にいくのが怖いと泣く軍人たちもいた。そんなとき、私は必ず生きて帰ってくるようにと慰労したりもした。本当に生きて帰ってきたらうれしく喜んだ。こうするうちに常連の軍人もかなりになった。「愛している」「結婚しよう」とも言われた。(『強制1』53頁)
騙されて行った場合であれ、志願して行った場合であれ、“慰安婦”の役割は根本的にこうしたものであった。家族と故郷を離れ、遠い戦地で明日には死ぬかもしれない軍人たちを精神的・身体的に慰労し、勇気を奮い立たせる役割、その基本的な役割は、数多くの例外を生んだが、“日本帝国”の一員として要求された“朝鮮人慰安婦”の役割はそうしたものであり、だからこそ愛も芽生えることがありえた。“数日戦争やって、あの山に行ったら、中国女性たちがいれば強制的に脱がせて、寝させるんだとさ。軍人たちがそうしたと言っていたよ。そんなときは、可哀想に中国女性はそうだったのかと思ったよ。(私たちに対しては)無条件という形で脱がしたりはしない”(『強制5』133頁)という言葉にあるように、中国人女性と朝鮮人慰安婦は日本軍には明らかに異なる存在であった。
もちろん、こうした記憶たちはあくまでも付随的な記憶でしかありえない。仮に、守られて、愛し、心をゆるした存在がいたとしても、慰安婦たちに慰安所は、抜け出したいところでしかありえないからである。かといって、そこにこうした類の愛と平和が可能であったことは事実であり、それは朝鮮人慰安婦と日本軍の関係が基本的には同志的な関係であったためである。問題は彼女たちには大切であったはずの記憶の痕跡を、彼女たち自身が“みな捨ててしまった”という点である。“それを持っていると問題になるかと思って”という言葉は、そうした事実を隠蔽しようとしたのが、彼女たち自身であったということを示している言葉でもある。そして、私たちは解放後、そのように“記憶”を消去させながら生きてきた。
13.(99頁)
ビルマのラングーンにいて、戦争末期に爆撃を避けて他国に身を移したこの慰安婦たちもまた、日本軍の案内で日本まで来て帰国したケースである。彼女らが“戦争犯罪人”、すなわち戦犯たちがいるところへ行くことになった理由は、彼女たちが“日本軍”とともに行動しつつ、“戦争を遂行”した人たちであったためである。それは、たとえ、彼女らが過酷な性労働を強要されていた“被害者”であったとしても、“帝国の一員”であった以上、避けることができない運命であった。
14.(112頁)
何より、性労働の加害者は、女性を“教育”から排除させて、経済的な自立の機会を与えず、父と兄が物のように売ることができた時代、女性の所有権を男性が持っていた時代の家父長制的な国家であった(『和解のために』)。したがって“朝鮮人”が最初からターゲットになる理由もなかった。朝鮮人女性が慰安婦になったのは、今日でも変わることなく、ほかの経済活動が可能な文化資本を持たない貧しい女性たちが売春業に従事するこことなることと同様の構造の中のことである。彼女たちの中には兄の学費をまかなうために、工場に行く女工のように、家族のために自身を犠牲にした女性が少なくなかった。
15.16.(120頁)
慰安婦問題を否定する人たちが‘強制性’ を否定するのは彼らが慰安婦に関する記憶のうち”彼らだけの“記憶に執着するためである。彼らの中には慰安婦問題を完全に否定する人たちもいるが、多くは‘強制連行’か‘20万人という数字’を問題にしている。そしてそのように考える私たち(韓国人)の考えに問題がないわけではないということはこれまで見てきたとおりである。
慰安婦問題を否定する人たちは“慰安”を“売春”としてのみ考えたし、私たちは“強姦”としてのみ理解したが、“慰安”とは基本的にはその二つの要素を両方包むものであった。言い換えると、“慰安”は過酷な搾取構造の中で実際にお金を稼ぐ人は少なかったが、基本的には収入が予想される労働であり、そうした意味では“強姦的売春”であった。あるいは“売春的強姦”であった。
17.18.(137頁)
‘性奴隷‘という単語は、アメリカやヨーロッパ、あるいはほかの被害国家を相手に日本軍の残酷さを強調するのには効果的だったが、必ずしも正当な闘いだったとばかりはいえない。にもかかわらず、そうした概念が定着されるつれて結果的に世界は今、’人身売買‘の主体を日本軍と考えている。
さきにも見たように、日本人、朝鮮人、台湾人“慰安婦”の場合、“奴隷”的ではあっても基本的には軍人と“同志”的な関係を結んでいた。言い換えると、同じ“帝国日本”の女性として軍人を“慰安”するのが彼女らに与えられた公的な役割であった。彼女たちの性の提供は基本的には日本帝国に対する“愛国”の意味を持っていた。もちろんそれは、男性と国家の女性搾取を隠蔽する修辞に過ぎなかったが、“日本”軍人だけを慰安婦の加害者として特殊化することはそうした部分を見れなくしてしまう。
19.(158頁)
4、‘愛国’する慰安婦
‘自発性’の構造
慰安婦の‘強制連行’は戦場でのみ行われたように見える。先も引用した吉見義明教授は、インドネシアの“アンボン島で強制連行・強制使役が存在したのは確かである”(「日本軍‘慰安婦’問題についてーワシントンポストの‘事実(ファクト) “広告を批評する」と言うが、そうした強制性は朝鮮人女性とは異なるケースと見るべきである。
そうした意味から見た時、“そうした類の業務に従事していた女性が自ら希望して戦場に慰問しに行った”とか“女性が本人の意思に反して慰安婦をすることになるケースはなかった”(木村才蔵)と見る見解は“事実”としては正しい可能性もある。明らかに彼女たちの中には貧しさの中で“白米”を夢見たり、女性が勉強することを極端に嫌悪していた家父長社会から抜け出て、一つの独立した主体となろうとした人たちも多かった。そうした人たちを“自発的”に行ったと考えることもありうることである。
20.21.(160頁)
しかし、業者の徹底的な監視の中、自分の意志では帰りえる道がないこと理解するようになった慰安婦たちが(もちろんその中には契約期間が終わって帰った人たちもいる)時間が経つにつれて最初に着いたときの当惑と悲しみと怒りを自分の中で消して“自分を売り込むために積極的に”(訳注;小野田寛郎)行動するようになったとしても不思議なことはない。そうした積極性は放棄と諦め、あるいはただ生きるために自らに与えられらたトリックでもありえた。とすれば、“愛嬌をふるまう”ことは悲惨さと背馳するものではない。つまり、彼女たちに与えられた役割だった’慰安’に忠実にあろうとしたとしても、それが‘慰安婦の苦しみ’を否定していい理由にはならない。
むしろ、彼女たちの“ほほえみ”は売春婦としてのほほえみではなく、兵士たちを“慰安”する役割を与えられた“愛国娘”としてのほほえみと見なければならない(『和解のために』)。仮に、“同情を引いてお金をとって、自分の利益とした女性”(小野田寛朗郎)がいたとしてもそれによって多くないお金をみな使ってしまって後悔した兵士がいたとしても、彼女たちを日本が植民支配構造の中で兵士たちを“慰安”するために動員した以上、彼女たちを非難することはできない。耐えがたい状況であったにもかかわらず、明るい表情で“愛国娘”としての役割に忠実であったならば、彼女らをそのようにさせた日本としては、むしろ感謝して当然のことである。
植民地人として、そして“国家のために”戦うという大義名分を持っている男性たちのために最善を尽くさねばならない“民間人”“女性”として、彼女たちにゆるされた誇り -自分の存在の意義、承認―は“国家のために戦う兵士らを慰労している(木村才蔵)”という役割を肯定的に内面化する愛国心のみでありえた。“内地はもちろん朝鮮、台湾から戦地に行くことを希望する人が絶えることがなかった”(同書)とすれば、それは日本国家がそうした“愛国”を植民地人たちにまで内面化させた結果であるのみである。
22.(190頁)
一個人としての“慰安婦”のもう一つの記憶が抑圧され、封鎖されてきた理由もそこにある。“日本軍人と”恋愛“もし、”慰安“を”愛国“することと考えてもいた慰安婦たちの記憶が隠蔽された理由は、彼女たちがいつまでも日本に対して韓国が“被害民族”であることを証明してくれる人として存在してくれないといけなかったからである。“慰安婦”たちに個人としての記憶が許されなかったのもそのせいである。彼女たちはあたかも解放以後の生を飛び越えたかのように、いつまででも“15歳の少女被害者”であったり“戦う闘士ハルモニ”としてとどまっていなければならなかった。
23.(191頁)
“朝鮮人慰安婦“たちが慰安所で経験した強姦や過酷な労働の原因は植民地支配と国家と男性中心主義と近代資主義がもたらした貧困と差別にある。さらに、彼女たちをそうした空間に追い込んだ家父長制にある。言い換えれば、具体的にそのシステムを作り利用したのは‘日本軍’だが、直接的な責任はそうした責任を黙認した国家にある。
しかし、国家が軍隊のための性労働を当然視したのは事実でも、当時、法的に禁止されていなかった以上、それに対して“法的な責任”を問うことは簡単なことではない。また強制連行と強制労働そのものを国家と軍が指示しなかった以上(日本軍の公式規律が強姦や無償労働、暴行を制御する立場であった以上)強制連行に対する法的な責任を日本政府にあると言うのは難しい。言い換えると、慰安婦たちに行われた暴行や強制的な無償労働に関する被害は1次的には業者と軍人個人の問題として問うほかない。
24.(205頁)
少女像がそうした姿をしているのは、“抵抗して戦う少女”の姿こそ、韓国人が自身とオーバーラップさせたいアイデンティティとして、理想的な姿であるからである。少女像がチマチョゴリを着ているのは、実体像を反映したものでもありうるが、リアリティの表現であるというよりは“慰安婦”を望ましい“民族の娘”と見せるためのものである。
しかし、実際、朝鮮人慰安婦は“国家”のために動員され日本軍とともに戦争に勝とうと彼らの面倒を見て、士気を高めた人たちでもあった。大使館の前の少女像は彼女らのそうした姿を隠蔽している。
25.26.(206頁)
彼女たちが解放後に帰れなかったのは、日本だけでなく私たち自身のためでもあった。すなわち“汚された”女性を排斥する純血主義と家父長的認識も長い間彼女たちを故郷に帰れなくした原因であった。しかし、そこにあるのはただ性的に汚された記憶だけではない。日本に協力した記憶、それもまた彼女たちを帰れなくさせたのではなかっただろうか。いうならば“汚された”植民地の記憶は“解放された韓国”には必要なかった。それで大使館前の少女像は協力と汚辱の記憶を当事者も、見る人も、ともに消し去った“民族の被害者”としての像であるのみである。
少女が“聖なる娘”としての“純血”と“抵抗”のイメージのみを盛り込んでいるのはそのためでもある。そうした意味からは、少女像は、恥ずかしい記憶を忘却したり糾弾して“私たち”の外に追い出してきた解放後60年あまりの歳月を象徴するものでもある。言わば解放後、60年間、ただの一度も総体的な私たち自身を引き受け、乗り越えようとしなかった歳月の象徴でもある。そうである限り、“被害者”少女にマフラーを巻き付け、靴下をはかせて、傘をさしてあげている人々が、彼女たちが日本の服を着て、日本の名前を持った”日本人“として”日本軍“に協力したという事実を知ることになると、全く同じ手で、彼女たちに指を指すのかもしれない。慰安婦になる前にそのように幼い”少女“を追いやった”手“もまた、私たちの中のまた別の手であったということは忘れたまま。
協力の記憶を去勢し、一つのイメージ、抵抗し、闘争するイメージだけを表現する「少女」像は、協力しなければならなかった“慰安婦”の哀しみは表現できない。“慰安婦”となる前の純粋な姿だけを記憶することは、“汚される”前の私たち自身を想像し、胸に持つことで私たち自身を慰安することはできるが、それは植民地が何であったかを見ることからやはり目をそらしているのである。したがって、大使館前の少女像は“朝鮮人慰安婦”ではなく私たち自身でもありうる。
28.(207~208頁)
そうした意味では、残酷な存在ではあるが、“朝鮮人慰安婦”はただユダヤ人であるという理由だけでみなが排斥と抹殺の対象となったホロコーストとは異なるとせざるをえない。挺対協は最近になって慰安婦問題を“ホロコースト”に比肩させるが(「ホロコースト・慰安婦が来月歴史的な出会い」『聯合ニュース』、2011.11.21)、ホロコーストには“朝鮮人慰安婦”が持つ矛盾、すなわち被害者であると同時に協力者であるという二重の構図はない(もちろんまったくないわけではないが、ごく少数であるため、慰安婦とは構造が異なる)。挺対協は世界に向けた運動で慰安婦をホロコーストと似た位置に置こうとしているが、それはその違いを無視したことである。それは私たち自身を“完璧な被害者”として想像しようとする歪曲された欲望の表現であるのみである。
29.(215~216頁)
しかし、日本政府は謝罪し、2012年春にもふたたび謝罪を提案した。そして今後も挺対協が主張する国会立法がなされる可能性はない。その理由は1965年の条約、そして少なくとも“強制連行”という国家暴力が朝鮮人慰安婦に関して行われたことはないという点、あるとすればどこまでも例外的な事例で個人の犯罪と見るしかなく、そうである限り“国家犯罪”ということができない点にある。
30.(246頁)
ところが、そうしたクマラスワミでさえ“慰安婦”の状況を“強要された売春”として認識している。慰安婦たちを三つ―自発的な売春業、飲食店や洗濯婦として行って“慰安”をすることになった場合、強制連行―に分類するなど“慰安婦”の姿が一つではなかったということも理解していた。1996年の時点で“慰安婦”というのは、根本的に“売春”の枠の中にあった女性たちであるということを理解していたのである。
31.(264頁)
すでに見たように、インドネシアや中国やフィリピンの場合は基本的には“占領地”、すなわち戦地でのことであった。もちろん、その中でも違いはあったであろう。
“オランダ”女性とインドネシア女性と朝鮮人女性は日本軍との基本的な関係が異なっている。日本軍にとってオランダ女性は“敵の女性”であったが、インドネシアの女性は占領地の女性であり、朝鮮人慰安婦は同じ日本人女性としての同志的関係であった。彼女らが受けた被害の形態は基本的な関係によって規定されたが、そうした基本関係を外れた関係もいくらでもあった。
それにもかかわらず、“基金”はそのような個別的な違いも日本との関係の違いも区別はしなかった。もちろん、いまだに“慰安婦”の定義に対する社会的な合意がない状況であるので、当時の状況ではやむをえないことでもあった。日本としては“朝鮮人慰安婦”が初めて世に出てきただけに、朝鮮人慰安婦の事例を中心に対処したものであって、誠実な対応であったともいえる。
32.(265頁)
韓国や台湾で補償事業が円満に遂行しなかった理由は、何よりも二つの国が過去に日本の植民地であったという関係性にある。その理由は“朝鮮人慰安婦”が“戦争”を媒介とした、明確に被害者と加害者の関係に分けることができる存在なのではなく、植民支配下で動員された“帝国の被害者”でありつつ、構造的にはともに国家協力(戦争遂行)をすることとなった“同志”の側面を帯びた複雑な存在であったからである。これまでも韓国の慰安婦だけが“問題”として残っているのは、そうした部分が原因となった側面が大きい。二つの国の女性たちは、ほかの国よりもさらに“矜持”を棄損されてはならない立場にあったのでそうした心理的構造もまた“基金”の補償を容易に受け入れることができないようにさせた原因の中の一つであった。
33.(291頁)
“朝鮮人慰安婦”とは、“このようにして朝鮮や中国の女性たちが日本の公娼制度の最下層に編入され、アジア太平洋戦争期の”慰安所“の最大供給源”(山下英愛、110頁)となって生じた存在であった。そして、戦争が本格化し、数百万人にのぼる軍隊が駐屯して奥地まで入っていくようになり、軍人たちとともにある慰安婦として“朝鮮人”を含む“日本帝国”の女性たちが選ばれたのである(業者や慰安婦自身が選んだ可能性もある)。
34.35.36.(294~295頁)
彼らがそのように戦地にまでともに行くことになったのは、全く同じく“日本帝国”の構成員、“娘子軍”と呼ばれる“準軍人”のような存在であったからである。大部分は業者が引率して行っただろうが、それは“あねさん”が米国のチームスピリット訓練地にまで行ったような“遠征”であった。
“朝鮮人軍人”たちには“朝鮮人慰安婦”は“高くて”利用することが難しい存在であった。“現地の女性は主として兵隊らが相手”したというのは“慰安”という行為が“人間の商品化であり階級化”であったということを示しているが、同時に“朝鮮人慰安婦”が帝国内で置かれていた位置を表してもいる。日本人たちに差別される対象でありつつ、彼女たちは言葉が通じ、容貌が日本人と似ており、同じ“同族”としての機密を守ることのできる存在として“日本人慰安婦”に代わることのできる存在であった。
彼女たちが“娘子軍”と呼ばれたのは、彼女たちが国家の勢力を拡張する“軍隊”の補助的役割をしたからである。“愛国奉仕館”と言うところには朝鮮人女性が多“(ムンテボク・ホンジョンムク、72頁)く、そうしたところを含めた現地の慰安所を朝鮮人軍属たちも”ひと月に一度か二度“(同書、74頁)は許可を受けて利用した。もちろん、彼らもまた`明日死ぬかもわからないものを、遠慮することはない’、みながそんな気持ち”(きよかわこうじ・さくらいくにとし、清川紘二、桜井国俊 65頁)であった。
“朝鮮人慰安婦”は被害者であったが、植民地人としての協力者でもあった。それは彼女らが願おうと願うまいと、朝鮮が植民地となる瞬間から取り除くことができなくなった矛盾であった。私たちが“朝鮮人慰安婦”の多様な姿を長い間見ることができなかったのは、そうした植民地の矛盾を直視したくなかったからである。“1942年、日帝に連行され、中国の延辺などで慰安婦の被害を受けているときに解放を迎えた”や“慰安婦の生活に対する恥ずかしさから帰国することができず2000年6月に、韓国を発って58年ぶりに帰ってきた”と告白(『韓国日報』2011.12.14)した慰安婦の言葉もまた、“大部分が殺された”という私たちの常識に亀裂を起こさせる言葉と言わざるを得ない。
37.(296頁)
“植民地化”は必然的に支配下に置かれたこれらの分裂をもたらす。しかし、解放後、韓国は宗主国に対する協力と従順の記憶を私たち自身の顔として認めようとしなかった。そのように過去のある一面を忘却する方式で解放60年あまりを生きてきた結果、現代韓国の過去に関する中心的な記憶は抵抗と闘争の記憶だけである。“親日派”-日本に協力した者を私たち自身とは別の特別な存在として見なして探し出し、非難することが、相変わらず続いていることも、彼らが“望ましき私たち”に対する幻想を崩す存在であるからである。
“自発的に行った売春婦”といったイメージを私たちが否定してきたのもやはりそうした欲望、記憶と無関係ではない。
38.(306頁)
今、必要なことは、彼女たちを“正しき朝鮮人闘士”として存在させ“国家の品格”を高めることではない。ただ、彼女たちが “ひとりの個人”に帰れるようにしてあげることである。中国やオランダのような敵国女性らの“完璧な被害”を借りてきてかぶせ、朝鮮女性たちの“協力”の記憶をはぎとった少女像を通じて、彼女たちを“民族の娘”とすることは、家父長制と国家の犠牲者であった“慰安婦”をもう一度、国家のために犠牲にさせることに過ぎない。
刑事起訴の際追加された箇所(144~145頁)-
“おい、出て来いといっておるではないか。出て来んのか、朝鮮ピー”(中略)
“貴殿は引率者か? 朝鮮ピーたちをすぐに下車させろ。私はここの高射砲部隊長をしておる。おろせ”(中略)
“この者たちは石井部隊専用の女性たちです”
“なに? つまらんことを言うな。どうせ減るもんでもなし、けち臭いことを言うな。新京ではえらく気前がよかったそうだが、なんでうちの部隊はだめなんだね”
“しかし……”
“しかしも何も、いやだと言うなら通過させるわけにはいかんな。この先には決して行かせんぞ。分かったか? 通行税だよ。気分よく出していったらいいんだよ”
ここに到着する前、開封(カイピョン)を出発していくらも経たずして新京と、もう一か所別のところで彼女らはすでに二回も車から引きずり降ろされていた。そのたびに、その地に駐屯中であった兵士らが休む間もなく順番に、彼女たち五人にとびついた。(田村泰次郎「 蝗」479~481頁)
この状況は異論の余地なき“強姦”である。また、彼女たちが“石井部隊専用の女性たち”という言葉は、“慰安婦”らが“部隊”ごとに割り当てられており、兵士らが“専用”意識を持っていたことをうかがわせる。このように、“慰安婦”は日本軍にとって軍服や武器のような軍需品であった。
朝鮮人慰安婦を指し示す“朝鮮ピ―”という言葉には朝鮮人に対する露骨な軽視が表れている。この軍人たちが彼女たちをこんなにも簡単に強姦することができたのは、彼女たちが“娼女” だったからでもあるが、何より“朝鮮人”であったからである。“減るもんでもなし”だとか“けち臭いことを言うな”という表現は、この軍人たちにとって朝鮮人“慰安婦”というのは、正当な報酬を支払って利用するひとり “娼女”でさえなかったことを示している。“朝鮮人慰安婦”とは、専用権を持った部隊が別の部隊所属の軍人たちに“えらく気前よく”しても構わない“物”に過ぎなかった。つまり、売春婦には許容された自分の身体の管理権を、彼女たちは持つことができなかった。それゆえ、彼女たちはただ“通行税”とみなされる使用価値であるのみ、主体的な意思を持った商品でさえない。
そうして、結局、強姦されて戻った彼女たちはこのように述べる。
“全く。馬鹿にして。あいつら、やるんだったらお金を払わなきゃいけないはずでしょ。お金も払わずに何をするのよ”(中略)
“分かっとらんな。作戦中にかねを持っとるやつがどこにいる”と、兵士たちは当然の要求を嘲った。(488~489頁)
“慰安婦”たちは、このように“無償”労働も強要されていた。とくにはじめて慰安所に到着したとき、彼女たちが将校たちに通過儀礼のように受ける強姦はほとんどが無償であった可能性が高い。
もちろん、報酬を受け取れば問題がないという意味ではない。たとえ報酬を受けたとしても、その報酬は、彼女らの精神的・身体的な苦痛に対する対価として十分なものではなかった。“慰安婦”らが、“高額な料金”をもらったと強調する人たちもいるが、“慰安”であれ“売春”であれ、報酬が仮に高い場合があったとすれば、それはそれだけそれが皆が忌み嫌い、差別的であり、なおかつ過酷な労働であったためである。いわば“高額な料金”はむしろ当然である。その場所が命を抵当にかけなねばならなかった前線であってみれば、言うまでもない。大部分の慰安婦らは、自身らの身代金を抵当に入れられていた不幸な境遇にいた 。また、その搾取の主体が仮に業者だったとしても、そうした搾取構造を黙認して許した(時折、その構造を正そうとした軍人もいたが、それは例外的なことと見るべきである)軍上部に責任がないということはありえない。
今日『緑色評論』5~6月号(第148号)をもらった。目次でイ・ミュンワォンの「日本軍慰安婦問題と知識人の知的衰退」を見つけ、その文章から読んだ。
上の文章でイ・ミュンワォンは朴裕河の韓国語版『帝国の慰安婦』(根と葉、2013)と日本語版『帝国の慰安婦』(朝日新聞出版、2014)をとり挙げ、「二つの本は事実上同じ書籍だと見ることは難しい」(65ページ)としながら、「日本語が分からない韓国の知識人と読者たちが激烈な朴裕河のファンダムfandomに転落する魔術は、[版本を異にした著者の]このような修辞学的策略によるもの」(66ページ)だという。
『帝国の慰安婦』の韓国語版と日本語版は「同じ書籍」ではなく、まさにそこに朴裕河の奸計が隠されているといった、このような陰謀論はもともとイ・ミュンワォンのものではなく、日本語版出版直後に持続的に問題を提起してきた鄭栄桓(チョン・ヨンファン)明治学院大学教授のものだ。鄭栄桓の主張は、板垣竜太と金富子が一緒に編集した『「慰安婦」問題と植民地支配責任』(サムチャン出版社、2016)に「「戦後日本」を肯定したがる欲望と『帝国の慰安婦』」というタイトルで載せられている。そこで鄭栄桓は韓国語版の262ページとそれを翻訳した日本語版251ページを比較してから、「『帝国の慰安婦』の核心的な主張は日本語版を読まなければ分からないといっても過言ではないです。」(98ページ)と述べている。
しかし、上の事例よりさらに深刻な事例があるならまだしも、まず鄭栄桓が提起し、イ・ミュンワォンがそのまま受け入れた「(韓国語版)262ページ/(日本語版)251ページ」の違いは決して二人の主張を裏付けない。「(韓国語版)262ページ/(日本語版)251ページ」の違いをもって、「『帝国の慰安婦』の核心的な主張は日本語版を読まなければ分からないといっても過言ではない」とか、「二つの本は事実上同じ書籍だと見ることは難しい」とかいうのは、ひいき目に見て誤読だが、実際には「故意的な嘘」だ。
それでは、その箇所が『帝国の慰安婦』の韓国語版と日本語版の「核心的な主張」を異なるものにしているのか、鄭栄桓が『「慰安婦」問題と植民地支配責任』に翻訳して載せ(94~95ページ)、イ・ミュンワォンが「日本軍慰安婦問題と知識人の知的衰退」にそのまま引用した(64~65ページ)問題の箇所を調べてみよう(日本語版の引用文に出てくる下線は鄭栄桓/イ・ミュンワォンによるものであり、韓国語版と日本語版にあるMeiryo体は私によるものだ)。
(韓国語版)言ってみれば、日本は1945年帝国が崩壊する以前に「植民地化」した国家に対して実際には公式の謝罪・補償はしていない。朝鮮朝廷に要請されたとはいえ、植民地化の過程における東学軍の鎮圧に対しても、1919年の独立運動当時、収監・殺害された人々に対しても、関東大震災当時、殺害された数多くの人々に対しても、その他に「帝国日本」の政策に従わないという理由で投獄されたり、過酷な拷問の末に命を失ったりした人々に対しても、公式には一度も具体的に言及したことがないのである。そして「朝鮮人慰安婦」たちについては、国民動員の一つの形態だったと見ることはできるものの帝国の維持のための動員による犠牲者という点では、彼らと同じように植民地支配の犠牲者だ。
(日本語版)その意味では、日本は一九四五年の大日本帝国崩壊後、植民地化に関して実際には韓国に公式に謝罪したことはない。両国の首脳が会うたび謝罪をしてきたし、そのこと(今までの謝罪―訳者注)はもっと韓国に知られるべきだが、それは実にあいまいな言葉によるものでしかなかった。一九一九年の独立運動の際に殺された人たちに対しても、関東大震災のとき「朝鮮人」であるという理由だけで殺された人々に対しても、そして帝国日本の方針に従わないという理由だけで監獄に入れられ、過酷な拷問の末に命を落とした人々に対しても、一度も公式には具体的に触れる機会のないまま今日まで来たのである。
鄭栄桓/イ・ミュンワォンは日本語版に自ら下線を引いた文章を挙げて、朴裕河が韓国語版では「日本は1945年帝国が崩壊する以前に「植民地化」した国家に対して実際には公式に謝罪・補償をしていない」 と書きながら、日本語版ではそれをひっくり返したと述べている。
日本語版の読者のために書き換えた部分の中で注目しなければならないポイントとして、著者が植民地支配に対する日本の「謝罪」についてどのように認識しているのかが変わったという点が挙げられます。韓国語版には日本政府は植民地化に対して「公式に謝罪・補償していない」とだけ書いているが、日本語版には「両国の首脳が会うたびに謝罪をしてきた」という文が追加されています。この文が追加されると、「公式に」という意味が、謝罪をしたことはあるが、「曖昧な表現」であったために韓国に伝えられづらかったという意味に変わります。(鄭栄桓:96ページ)
上のそれぞれ違った版本を見ると、挿入された文のため非常に相異なった意味を帯びてくる。韓国の読者たちに書いた文章では植民地支配責任に対して日本政府が「公式に謝罪・補償していない」と主張して、日本語版では「両国の首脳が会うたびに謝罪をしてきたし」という表現をしている。このように版本の違う二つの本は事実上同じ書籍だと見ることは難しい。(イ・ミュンワォン:65ページ)
どのように読んだら、このようになるのだろうか。二人ともあきれた解釈をしている。それで私のほうが変なのかと思って、文系とは程遠い統計学科を出た知人に韓国語版と日本語版を読ませてから、日本語版は韓国語版と違った主張をしているのかと尋ねた。知人の答えは明快だった。「日本語版に鄭栄桓/イ・ミュンワォンが下線を引いた箇所は、すぐその前に出てくる日本は一九四五年の大日本帝国崩壊後、植民地化に関して実際には韓国に公式に謝罪したことはないについての敷衍だ。」そのとおりだ!
そうであるならば、韓国語版の「日本は1945年帝国が崩壊する以前に「植民地化」した国家に対して実際には公式に謝罪・補償をしていない」には敷衍がないのに、なぜこの箇所と少しも違うところのない日本語版の「日本は一九四五年の大日本帝国崩壊後、植民地化に関して実際には韓国に公式に謝罪したことはない」にはあのような敷衍が必要だったのだろうか。下線を引いた箇所のように敷衍しなかったら、日本人たちは「日本は一九四五年の大日本帝国崩壊後、植民地化に関して実際には韓国に公式に謝罪したことはない」という朴裕河の断定に疑問と反発心を覚えただろう。「何を言っている?日本政府が謝ったことはないと?村山談話を発表した村山富市は何と総理だったじゃないか?」
朴裕河は日本人の疑問に答えつつ、反発心を和らげようと鄭栄桓/イ・ミュンワォンが下線を引いた箇所を日本語版に入れたのだ。「日本政府の首班が謝罪をしてきたことは間違いない。しかしそれは公式というにはいつも曖昧なものだった。」 鄭栄桓/イ・ミュンワォンが日本語版に下線を引いた箇所を読めば、下線を引いたその箇所が「日本は一九四五年の大日本帝国崩壊後、植民地化に関して実際には韓国に公式に謝罪したことはない」 についての敷衍であることはより一層明確になる。朴裕河を攻撃する者たちが、学問的論争をしているのではなく「朴裕河バッシング」をしている、という疑惑は根拠のないものではない。
2016.5.9 将正一
出典 : Huffington Post
著者: カンダミ
初期の挺対協は挺身隊と慰安婦の区別もつかなかった。被害規模もきちんと把握していなかった。そこで挺身隊のような「公的」な強制動員という体系の中で慰安婦問題の証明を試み続けたが、証拠が出るはずもなかった。
こうして、無駄な時間ばかりが過ぎていった。
挺対協は被害者に抗議されてはじめて、こうした立場を撤回すると同時に謝罪した。慰安婦という存在は一体何だったのか、このときからでも直視して研究すべきだったが、戦略を変えて「性奴隷」という概念で国際社会に訴え、日本を外交的に圧迫する方向にシフトした。どうやら、運動の戦略を考えるだけで終わったようだ。
だが、これはそれほど簡単な問題ではない。挺身隊との混同のせいで、動員の過程での強制性(強制連行)の立証に失敗したというなら、「性奴隷」という概念は、慰安所が実際はどのように運営されていたのかを示す様々な証言と相反する面がある。
実際に日々の監禁と暴力で酷使し、奴隷のような環境に追い込んだ主体は業者だからだ。自らを一種の下請けだとし、日本軍が定期的に行う性病検査の管理という次元を超えて、運営に直接かつ具体的に関与していたという証拠もまたない。逆に慰安婦は業者の暴力的な抑圧から少しでも逃れようと、日本軍の保護を受けるために地位の高い軍人と恋愛をすることもあった。慰安婦が看護師の役割をすることもあったし、軍人の歓送迎会に行くことも、亡くなった軍人の墓を世話することもあった。一緒に訓練を受けたり、アヘンを吸ったりすることもあったし、互いの身の上話や戦場から生還しろと激励することも…
強制的に占領地から軍人に引っ張って来られて収容された占領地の女性の証言に、そうした内容があるのを見ただろうか? 明らかに異なる面があったのだ。
日本の右派勢力は動員過程での強制性と同様に、慰安所の風景に関する証言の数々と事実を根拠に、慰安部問題そのものを否定している。
それでは果たして、朝鮮人慰安婦は占領地出身の慰安婦よりも楽な生活をしたかというと、またそれも違う。
暴力と強圧を加えた主体が異なるだけだ。占領地の女性が日本軍に犬扱い・奴隷扱いをされたなら、朝鮮人慰安婦は代わりに民間人の業者-置屋から毎日のように殴られ、監視や監禁のもとで酷使され、犬扱いや奴隷扱いされた。日本軍との関係では、戦争をともに戦う皇国の臣民として「慰安」してやらなければならない愛国者の役割まで強要されていたのだ。
すなわち、朝鮮人の置屋-業者との下請け関係と、慰安と、愛国という、内面化された国民動員のイデオロギーによって、日本軍と朝鮮人慰安婦の間に存在した直接的な暴力の隠ぺいが可能だったいうことだ。
その隠ぺいの構造を明らかにせず、暴力性を証明する証拠探しばかりに集中する運動のやり方は、これといった成果を上げることはできなかった。
同志的な関係とは、占領地の慰安婦とは異なる面、つまりその隠ぺいされた構造を説明するための概念である。そして、この概念はそれなりに重要だと考える。
日本軍の兵士ですら、自分たちが占領地の女性(敵の女性)と朝鮮人慰安婦をはっきり区別し、異なる扱い方をしていたという事実を心の中では「正当化」している。これは日本軍を、韓国軍や他国の軍隊と置き換えても同じことだ。それだけ朝鮮人慰安婦の問題は、より構造的で普遍的な問題だと見る必要がある。
日本軍の蛮行という特殊化された範疇を超え、女性に対する性的搾取を正当化させる「家父長制国家」…そして、主に貧しい女性が標的にされた「階級」の問題などにも目を向けるべきだ。
「慰安」という国民動員のイデオロギーは植民地時代の後にも、韓国軍慰安婦、米軍慰安婦として再生産されるだけでなく、戦時中でなくとも「性売買の合法化」と「公娼性」を主張する男性の意識の中で、内面化されて再生産されている。
男性の性欲解消に役立つから性犯罪の予防になるという戯言は、実は当時の「慰安」というイデオロギーと何一つ変わっていない。女性の性的対象化があまりにも日常的、当たり前になっており、いつでもそれを国家・民族・社会の公的な構造に引っ張り込み、正当化させるという振る舞いに及ぶのだ。
(だから私は「性奴隷」という用語より、日本軍が使用した「慰安婦」という用語の方が、むしろその実態をより露わにする概念だと思う)。
公的に容認・正当化した構造的な強制性として慰安婦制度の問題に接近してこそ、歴史に対するまともな反省を引き出すことができるのではないか。それでこそ、一部の表面的な事実関係を持ち出して慰安婦を否定している、日本の右派の論理も抑えることができる。そうした論理に巻き込まれている間にも、すでに白髪の老人となった慰安婦被害者たちに残された時間は刻一刻と減っていく。暴力性の証拠探し、文書探しのような空振りで無為に時を過ごすべきではない。
それより、日本軍が暴力と強圧の主体として前面に出なかったのに、どうやってあれほど多くの女性が慰安婦に動員され、犠牲になったのか…という点の方が、おぞましい歴史的事実ではないか。
そうした合法的、かつ公的な構造と体制を作り出した張本人として、当時の日本軍-日本政府-国家の責任、ひいては全国民の意識レベルにまで責任を問い、反省させることが慰安婦問題に関する過去史の清算の核心であるとは思わないのだろうか?
そうでなければ、あの正当化の構造はいつでも様々な姿で、様々な国籍で繰り返される可能性もあるのだ。
セウォル号も、ただ朴槿恵政権のせいだとなすりつけ、糾弾したからといって問題は解決するのだろうか? 文在寅が大統領だったら事故は防げて、全員が救助されていたのだろうか? それも構造的な問題として接近してこそ、問題が解決されるはずだ。それと同じことなのだ。
もちろん、だからといって『帝国の慰安婦』が構造的な問題を緻密に、そして入念に探究したと見るのは難しい。もっと忠実に補完されるべき部分も多々ある。そうした面から生産的な批判と論争が成されるのならば、大歓迎というものだ。
だが、現状は文脈もまともに把握できておらず、歪曲のレベルにすぎない体たらくだ。以上。
내가 이해하기로 제국의 위안부에서 ‘동지적’ 관계 란 워딩이 씌여진 맥락은 이런거라고 생각해.
초기 정대협은 정신대와 위안부도 구분하지 못했음. 피해규모도 제대로 파악하지 못했고. 그래서 계속 정신대와 같은 ‘공적인’ 강제동원 체계속에 위안부 문제를 증명하려고 했지만 증거가 나올리 없지. 이렇게 시간만 허비해.
정대협도 이 입장 스스로 철회한게 아니라 정신대 피해자들에게 항의를 받고서야 철회하고 사과함. 그러면 이때부터라도 위안부란 존재가 대체 무엇이었나를 제대로 들여다 보고 연구해야 하는데 전략을 바꿔서 ‘성노예’라는 개념으로 국제사회에 호소하고 일본에 외교적 압박을 가하는 식으로 나가지. 다분히 운동의 전략적 사고만 한거지.
하지만 이 문제가 또 그렇게 간단하지가 않아.
정신대와의 혼동이 동원과정에서의 강제성(강제연행)을 입증하는데 실패했다면 ‘성노예’라는 개념은 위안소가 실제로 어떻게 운영되었는가라는 걸 알려주는 여러가지 증언과 상충되는 면이 있거덩.
실제로 노예적 상황에 처해지도록 감금과 폭력으로 매일 매일 혹사시킨 직접 주체가 포주이기 때문이야. 일종의 하청관계라서 일본군이 정기적인 성병검사하는 관리차원을 넘어서서 운영에 직접적으로 구체적으로 관여한 증거도 또 없단 말이지. 오히려 위안부들은 포주로 부터의 폭압적 상황을 조금이라도 벗어나려고 일본군의 보호를 받기 위해 좀더 높은 지위의 군인과 연애를 하는 경우도 있었고 위안부들이 간호사역할을 하기도 하고 군인들 환송회를 가고 죽은 군인들 무덤도 돌봐주고 함께 훈련을 받기도 하고 함께 아편을 하기도 하고 같이 신세타령을 하거나 전장터에서 살아돌아 오라는 격려도 해주고…
직접 점령지에서 군인에게 강제로 끌려가서 수용된 점령지 여성들 증언에 그런 내용 있는거 봤냐? 분명 다른 면이 있거덩.
일본 우익들은 동원과정에서의 강제성과 마찬가지로 위안소 풍경에 관련된 여러 증언과 사실을 근거로 위안부문제 자체를 부정하지.
그러면 과연 조선인 위안부는 점령지 출신의 위안부보더 더 편한 생활을 했냐 하면 또 그런건 아니여.
직접적 폭력과 강압의 주체가 다르다는 거지. 점령지 여성들이 일본군에게 직접 개취급 노예취급을 당했다면 조선인 위안부들은 대신 민간인 업자-포주에게 맨날 두들겨 맞고 감시당하고 감금, 혹사당하면서 개취급 노예취급을 당하고 일본군과의 관계에선 전쟁을 치루는 같은 황국의 신민으로서 ‘위안’을 해줘야 하는 애국자 역할까지 강요받은 거라고.
즉, 조선인 포주-업자와의 하청관계와 위안과 애국이라는 내면화된 국민동원 이데올로기를 통해 일본군과 조선인 위안부 사이의 직접적 폭력성을 은폐할 수 있었던 것. 그래서 그 은폐의 구조를 드러내지 않고 직접적 폭력성을 증명하는 증거찾기에만 집중하는 방식의 운동은 결국 별다른 성과를 낼 수 없었던 것.
동지적 관계란 점령지 위안부와는 다른 면 그 은폐된 구조를 설명하기 위한 개념이지. 그리고 이 개념은 나름 중요하다고 생각함.
일본군 병사들 조차도 자신들이 점령지 여성(적의 여성)과 조선인 위안부를 명확히 구분하고 다르게 취급하고 있다는 사실을 내면적으로 ‘정당화’하고 있거덩. 이건 일본군을 한국군이나 다른나라 군대와 바꿔도 마찬가지여. 그만큼 조선인 위안부 문제는 좀더 구조적이고 보편적이 문제로 볼 필요가 있다는 거여.
그냥 일본군의 만행이라는 특수화된 범주를 넘어서서 여성에 대한 성적착취를 정당화시키는 ‘가부장제 국가’.. 그리고 가난한 여성이 주로 표적이 되는 ‘계급’문제등으로 봐야 하는 거지.
그래서 ‘위안’이라는 국민동원 이데올로기는 식민지 이후에도 한국군 위안부, 미군 위안부로 재생산 될 뿐 아니라
전시가 아니더라도 ‘성매매 합법화’와 ‘공창제’를 주장하는 남성들의 의식속에서도 내면화되어 재생산되고 있지. 남성의 성욕해소에 도움을 줘서 성범죄를 예방한다는 개소리가 사실 당시의 ‘위안’이라는 이데올로기와 똑같은 거거든. 여성의 성적대상화가 너무도 일상적이고 당연해서 그걸 언제든 국가,민족,사회의 공적 구조로 끌여들여 정당화시키는 짓까지 한다는 거야. (난 그래서 ‘성노예’라는 용어보다 일본군이 썼던 ‘위안부’라는 용어가 오히려 더 그 실체를 잘 드러내 주는 개념이라고 생각함.)
위안부제도를 공적으로 용인하고 정당화했던 구조적 강제성으로 문제를 접근해야 제대로 된 역사에 대한 반성도 이끌어 낼 수 있는거 아니냐. 그래야 일부 표면적인 사실관계 끌어다가 위안부 부정하는 일본우익의 논리도 씹을 수 있는 거고. 그런 논리에 휘말려 위안부 피해자들 이미 백발이 되 다 늙고 죽어가는데 직접적 강제성 증거찾고 문서찾고 그딴 헛발질로 허송세월만 보내지 말란 얘기여.
오히려 일본군이 폭력과 강압의 직접적 주체로 전면에 나서지 않았어도 어떻게 이 많은 여성들이 위안부로 동원되고 희생될 수 있었을까…라는 점이 더 끔찍한 역사적 사실이잖아.
그런 합법적이고 공적인 구조와 체계를 만들어낸 장본인으로서 당시의 일본군-일본정부-국가의 책임, 더나아가 전국민적 의식의 차원까지 책임을 묻고 반성하게 하는게 위안부문제와 관련한 과거사 청산의 핵심이라는 생각은 안드나?
안그러면 그 정당화의 구조는 언제든지 다른 모습으로 다른 국적으로 반복될 수 있잖아.
세월호도 그저 박근혜정부 탓으로만 돌리고 규탄한다고 문제가 해결되냐? 뭐 문재인이 대통령었다면 사고 예방되고 전원구조도 되고 막 그랬을 거 같아?그것도 구조적 문제로 접근해야 제대로 문제가 해결되는 거지. 그거랑 비슷한 이치.
물론 그렇다고 제국의 위안부가 구조적 문제를 치밀하고 꼼꼼하게 탐구했다고 보긴 어려워. 좀더 충실히 보완되어야 할 부분들도 많고 그런면에서 생산적인 비판과 논쟁이 이루어진다면 대환영.
하지만 지금 하는 꼬라지는 문맥도 제대로 파악못하고 왜곡하는 수준을 벗어나지 못함.
이상.
작성자 : 건다미
출전 : 건다미 페이스북
1. 들어가며
2016년 3월28일에 열린 연구집회 “‘위안부’ 문제에 어떻게 마주하는가―박유하 씨의 저술과 그 평가를 소재로”(이하 0328 연구집회로 약칭)는 참가자들에게 강렬한 인상을 남겼다. 0328 연구집회의 의미를 어떠한 위치로 정립시키느냐는 내게 있어서 상당히 어려웠으며 지금도 여전히 어려운 문제이다. 왜냐하면 집회 후반의 전개, 집회 종료 후의 전개, 미디어의 보도 등을 통해 ‘위안부’ 문제의 어려움을 통감했기 때문이다. 무엇보다도 상호간에 많은 부분에서 인식을 공유하고 본래 함께 투쟁해야 하는 쌍방이 서로 비판을 하는 모습에 암담한 기분이 들었다. 본 연구집회의 발기인인 도노무라 마사루(外村大) 씨의 노력과 의도와는 동떨어진 방향으로 사태는 움직여갔다. 그렇지만 희망은 버리지 않았다. 왜냐하면 이 연구집회는 ‘위안부’ 문제에 관한 이른바 중간파들에게 계속해서 큰 임팩트를 주고 있기 때문이다.
2. 0328 연구집회의 경위
우선, 이 연구집회가 개최되게 된 경위에 대해 짚어 보도록 한다.
박유하의‘제국의 위안부’가 2013년에 한국에서, 2014년에 일본에서 간행되자 일본에서는 바로 화제가 되었다. 그리고 한국 간행 1년 후인 2014년 6월에 한국에서 민사소송이 제기되었며 같은 해 11월에 검찰청에 의해 불구속 기소되기에 이르렀다. 이러한 사태, 특히 검찰 기소를 우려하여 2015년 11월26일에 미국과 일본의 54명이 ‘박유하 씨 불구속 기소에 대한 항의성명’을 발표하여 한일 양국 사회에 임팩트를 던져 주었다. 그때 본 연구집회의 발기인인 도노무라 마사루 씨는 성명에 찬동을 하느냐 마느냐 고민을 했었는데, 또 하나의 액션으로서 일본군 ‘위안부’문제에 대한 문제 제기의 연구집회를 발족하기로 하였다. 그리고 그 제1탄으로‘위안부’문제와 박유하 씨를 둘러싸고 의견을 달리하는 두 그룹이 토론의 장을 공유하고 상호간의 의견을 서로 이야기하는 획기적인 장이 마련되었다. 이것이 0328 연구집회가 실현되게 된 대략적인 경위이다.
도노무라 씨와 오랜 기간 공동연구를 계속해 오면서 존경심을 가지고 있었던 나는, 일찍이 도노무라 씨에게 이 이야기의 제안을 받아 전면적인 협력과 전면적인 지원을 약속했다. 그리고 도노무라 씨가 김부자, 나카노 도시오(中野敏男), 양징자, 정영환 씨들과, 그리고 또 한 축의 당사자인 니시 마사히코(西成彦), 모토하시 테츠야(本橋哲也) 씨들과 대화하는 과정을 지켜봐 왔다. 물론 중간에 몇 번이고 무리일지도 모른다고 마음속으로는 포기 직전까지 갔었으나, 도노무라 씨의 끈질긴 협상과 양쪽의 대표(본 연구집회의 실행위원이 됨)의 용기있는 결단으로 0328 연구집회는 실현되기에 이르렀다.
당초의 경위도 있고 도노무라 씨가 부탁하기 쉽다는 이유로 연구집회의 사회를 맡게된 나는, 서로 다가갈 수 있는 집회가 될 수도, 결렬로 끝날 수도, 획기적인 집회가 될 수도, 최악의 결과가 될 수도 있다는 몇 가지의 시나리오를 떠올리면서0328 연구집회에 임했다. 조선근현대사의 전문가로 이 문제에 대해서도 발언을 계속하고 있는 이타가키 류타(板垣竜太) 씨와 공동 사회였는데, 나는 여하튼 연구집회가 무사히 개최되는 것이 첫 번째 목적이었으며, 그런 기회에 양쪽이 같은 테이블에 앉아서 서로의 의견에 귀를 기울이고, 의견의 상이점을 서로 확인하는 것이 두 번째 목적이었으며, 또한 바라건대 다음 집회에 대한 단계를 시사하고 끝내는 것이 세 번째 목적이라고 생각했다.
도노무라 씨가 여러가지로 꼬여있는 이‘위안부’문제라는 불구덩이 속으로 뛰어들면서도, 이번 한 번 만으로 끝내는 것이 아니라 계속적인 논의를 통한‘위안부’문제의 해결을 지향하고, 박유하 씨를 둘러싼 인식과 행동의 상이점을 풀어내는 실마리를 지향하는 제 1탄이 본 연구집회였다.
13시 오픈, 130명 정원의 회의장은 거의 꽉 차 양 옆쪽으로 의자를 임시로 설치했는데 이 자리도 거의 차서 연구집회에 등록한 참가자와 매스컴 관계자들로 회의장은 만원을 이루었으며 잠시 후 시작되는 연구집회에 대한 주목과 기대감으로 회의장은 긴장감에 휩싸였다.
13시반에 시작되어 도노무라 씨의 개회인사에 이어 양쪽 보고자와 코멘테이터의 보고와 코멘트가 진지하게 진행되었다. 앞에 나와 발언한 전원이 일본군‘위안부’문
제가 식민지 지배와 제국 일본의 근원적인 책임에 의한 것이라는 점을 대전제로 하고 있었으며, 이에 아무런 인식의 차이는 없었다. 그러나 박유하 저‘제국의 위안부’가 ‘위안부’문제의 이해에 공헌한 의의를 강조하느냐, 그 작품의 결점을 가차없이 비판하느냐로 입장이 확실이 갈렸다. 물론 이러한 점에서 차이가 있었던 양쪽을 같은 테이블에 앉게 한 도노무라 씨의 의도를 생각하면 당연한 흐름이었다.
양쪽의 보고는 각자의 입장을 반영하면서도 양쪽 다 훌륭했다. 직접 보고를 들으니 재삼 많은 것을 배울 수 있었다. 여기서 특필할만한 것은 박유하 씨가 검찰에 기소된 것에 대하여 “본래 바라는 바가 아니다.”라는 점에서 양쪽 모두 일치했다는 점이다.
나는 박유하 씨를 비판하는 발언자의 보고를 듣고 많은 것을 배웠지만 이 한가지 점이 가장 강하게 와 닿았다. 그렇구나, 바라는 바는 아니었구나 라고. 물론 내가 박유하 씨와 공동연구를 하고 있고 성명에도 서명을 한 사람으로서 이런 부분에 지나칠 정도로 감동을 하는 것은 당연한 일이다.
그 후 휴식시간을 갖고 사회를 맡은 이타가키 씨와 내가 문제들을 정리하고 지정 토론자가 각각 5명씩 연단에 올라와 의견을 짤막하게 이야기했다. 여기까지는 양쪽이 얼굴을 마주대고 서로의 의견에 귀를 기울이고 의견의 상이점을 서로 확인한다는 두 번째 목적은 실현되었다, 고 생각했다. 그리고 또는 마지막 종합토론에서 다음 단계를 향한 나름의 성과를 낼 수 있을지도 모른다는 희망을 느끼게 했다. 입장이 다른 양쪽이 확 접근을 한 분위기가 있었다, 고 나는 그렇게 느꼈다. 단, 내 안에서 ‘희망’이 ‘욕심’이 되어 양쪽에서 몇 명만 대표로 나와 마지막 논의로 향한다는 시나리오를 순간적으로 생각했던, 시간은 17시를 훌쩍 넘어 있었다. 양쪽의 의견을 들은 결과 마지막으로 무엇을 논해야 하는가, 과제는 무엇인가를 명확히 하고 싶어서였다. “다음 일정이 있어 시간이 없으니까 연단에 오를 수 없다.”라고 하는 우에노 치즈코(上野千鶴子) 씨에게 무리한 부탁을 해서 앞에 나와 말씀을 들었다.
니시, 우에노 씨와 양, 정, 오노사와 아카네 씨의 양쪽을 대표하는 논객이 연단에 올라 마지막 논의가 이루어졌다. (검찰청에 의한) “기소를 취하할 수 없는가”라는 우에노 씨의 과감한 발언으로 (이는 본래 박유하 씨를 지원하는 성명파(声明派) 모두가 생각하는 바였지만) 회의장은 어수선해졌고, 마지막으로 모토하시 씨와 나카노 씨의 총괄 시간으로 넘어갔으나 대립점이 표면화되면서 사회자인 도노무라 씨를 비롯한 실행위원 분들에 대한 감사나 등단해 주신 분들에 대한 감사의 뜻도 표명할 수 없는 상황이 되었다. 물론 다음 집회에 대한 단계를 제시하는 일 따위는 불가능했다.
3. 증언에서 이야기로 -0328 연구집회의 하나의 과제
마지막 장면에서의 생각지도 못했던 상황과 사회자의 불찰로 인해 마지막 인사도 제대로 하지 못 했으며, 무엇보다도 눈 앞에 보였던 큰 성과마저도 우리의 손 안에서 빠져나감으로써 나는 망연자실했으며, 폐회 후에도 자책감에 빠졌다. 마지막 장면의 자초지종이 납득이 안 갔다.
그러나 시간의 경과와 함께, 그리고 양쪽의 의견에 순순히 귀를 기울였던 이른바 중간파 청년으로부터의 열의가 가득한 감사의 메일에 용기를 얻었다. 그리고 이 연구집회에서 ‘얻은 것’을 더 제대로 바라봐야 할 것이라고 생각하게 되었다. 여하튼 양쪽이 같은 테이블에 앉아 논의를 한다고 하는 당초의 목적은 달성한 셈이므로. 그리고 ‘위안부’ 문제에 대해서는 앞으로도 계속 논의될 것이므로.
이 연구집회를 바탕으로 한 제 2탄이라고까지는 자리매김할 수 없으나, 0328 연구집회에 참가한 사람들이 중심이 되어 올 9월4일에 일본 오럴히스토리 학회에서 ‘전시 성폭력과 오럴히스토리’라는 심포지엄이 준비되고 있었다. 이 심포지엄의 등단자의 대부분이 이 연구집회에 참가하고 있으며 강한 임팩트를 받고 있다. 원래 이 심포지엄은 작년 가을부터 준비가 진행되어 오히려 본 집회보다도 먼저 기획된 것인데, 0312의 리츠메이칸 대학에서 열린 전시 성폭력에 관한 비교연구적 심포지엄과 본 연구집회를 경험하는 가운데, 이 두 개의 논의의 성과를 바탕으로 한 것이어야 한다고 모두가 생각하고 있기 때문이다. 이러한 의미에서 본 연구집회는 1회성으로 끝난 것이 아니다. 도노무라 씨의 액션은 이어져 나갈 것이다.
9월로 예정되어 있는 ‘전시 성폭력과 오럴 히스토리’라는 심포지엄이 이어받을 논점의 하나는 다음과 같다. 즉, 본 연구집회에서도 ‘위안부’ 할머니의 이야기가 ‘당사자의 이야기’로서 ‘특권화’되어 보고되었는데, 그 증언으로서의 ‘위안부’ 할머니의 이야기에 대한 이해가 너무나도 나약한 것이었다. 현재의 오럴 히스토리 연구의 수준으로 말하자면 ‘위안부’ 할머니들의 이야기는 다양해질 가능성을 가지고 있다. 그러나 그것은 대면적인 ‘이야기의 장’이나 사회적 문맥으로서의 ‘이야기의 자기장’에 의해 규정될 수 밖에 없다고 이해될 것이다. 그 중에서도 오랜 운동과 법정 투쟁을 겪으면 당사자의 이야기는 그 운동과 운동체 안에서 규정되어지며(이것은 소위 ‘재판의 이야기’라고도 할 수 있겠다), 한국 사회의 모델 스토리(일종의 동형적(同型的)이고 표준화된 이야기)에 의해 규정되어진다.
‘위안부’ 할머니들은 ‘그때, 그곳’에서의 과거의 사건에 관한 이른바 ‘증언’을 말하는 것이 아니라, ‘현재, 이곳에서’의 사회적인 문맥으로 규정된 ‘스토리를 이야기’하는 것이다.
과거의 체험은 복잡하며 다양한 문맥들이 폭주하고 있다. 다양한 장면들이 있으며 이에 대한 체험자의 해석도 다양하게 존재한다. ‘그때, 그곳’에서의 과거의 사건은 같은 장소에 함께 있었으면서도 서로 다른 시각이 생겨날 수 있으며(이른바 ‘라쇼몽(羅生門)적인 현실’), 그 이후의 전후에 놓여진 상황(이를 전후 체험이라고도 할 수 있는데) 속에서 그 해석이 바뀔 수 있으며, 특히 재판의 이야기가 주류가 되면 아무래도 이에 규정을 받게 된다. 지금은 이러한 시각은 오럴 히스토리 연구에서 구축주의 뿐 만 아니라 실증주의도 공유하고 있는 시각이다. 즉, 확고한 부동(不動)의 이야기는 존재하지 않는다는 것이다. 여러 이야기, 이야기 속의 다성성(多声性), 이야기의 변화를 어떻게 들어내고 읽어내는가가 중요한 것이다. (아라라기 신조(2015)「오럴 히스토리의 전개와 과제」『이와나미강좌 일본의 역사 제21권 사료론』이와나미쇼텐)
박유하 씨의 작업의 획기적인 점은 ‘위안부’ 할머니들의 다양한 이야기들을 건져내어 한국사회에서의 ‘위안부’ 문제에 관한 모델적 스토리를 상대화시켰다는 것이다. 적어도 내가 평가하는 부분은 이것이다. 오키나와전투에 관한 논쟁에 있어서도 ‘당사자의 증언’의 진위가 실증성이라는 측면에 있어서 문제화되었던 경위가 있다. 이 논쟁에 바탕을 둔 도베 히데아키(戸邊秀明) 씨의 최근의 작업(도베 히데아키(2105)「오키나와
전투의 기억이 오늘날에 있어서 촉구하는 것」나리타 류이치(成田龍一) ・요시다 유타카(吉田裕) 편저『기억과 인식 속의 아시아・태평양 전쟁』이와나미쇼텐, 2015)에서 이러한 점이 훌륭하게 해부되고 논해졌다. 오키나와전투와 ‘위안부’ 문제의 문맥은 물론 크게 차이가 있지만 도베 씨가 제시하는 시점은 “당사자의 증언 또는 이야기”에 의거한 논의에 있어서 크게 참고가 될 것이다.
박유하 씨의 작업은 물론 완벽하지는 않다. 큰 장점과 큰 결점을 함께 가지고 있다.
예를 들면, 박유하 씨의 논의는 운동체를 비판하는 것으로 끝나는게 아니라 의도하지 않은 결과로서 ‘위안부’ 문제를 부정하고 싶은 사람들(수정주의자)에게 이용될 수 있을 것이다. 박유하 씨를 비판하고 있는 사람들의 비판 내용의 하나는 바로 이러한 점에 있다. 그러나 요시미(吉見)・우에노(上野) 논쟁 때에도 방법론적으로 실증주의가 구축주의가 의견이 맞지 않았으며, ‘역사의 재심(再審)’과 ‘역사의 수정’은 표리의 관계에 있어 복잡하게 얽혀있다는 것은 말 할 필요도 없다. 식민지 지배는 범죄였다고 규탄하면 끝날 정도로 ‘역사의 진실’은 단순하지 않다. 사실 이러한 점에 수정주의자가 현 사회에서 이렇게까지 영향력을 가지게 된 배경이 있을 것이다.
이러한 점들은 시점을 바꾸면 궁극적으로 “식민지 지배 속에서의 주체성은 단어의 본래의 의미에 있어서 주체적인가”라는 어려운 문제와도 깊이 관련되어 있다. 거시적인 의미에서 식민지 지배의 죄는 명확하다. 물론 이 연구집회에 참가한 사람들은 이 점에 있어서 수정주의자들과는 결정적으로 다르다. 그러나 식민지 지배 하에 있어서도 사람들은 보다 더 좋은 삶의 방식, 보다 더 좋은 생활을 지향하며 노력을 한다. 식민지 지배 하에서 아이들은 천지난만하게 노력을 하며, 세상살이에 익숙한 어른들은 수단으로서 노력도 한다. 그러면, 이러한 사람들의 삶의 방식과 일종의 ‘주체성’을 식민지 지배라는 큰 틀에서의 ‘몸부림’ 밖에는 안 된다고 치부해 버릴 수 있는가? 거시적인 규정성(規定性)을 주시하면서도 미시적인 사람들의 삶의 모습들을 살펴보는 것이야말로 여기에 존재하는 중간적 차원(mesolevel)의 상황들을 꼼꼼하게 봐 가는 것이 식민지 지배를 생각하는 시점이 아닐까, 그렇지 않으면 식민지 지배의 폭력성의 진정한 모습은 보이지 않는다는 현재의 식민지 연구의 하나의 흐름을 박유하 씨는 수용하고 있다고 나는 생각한다.
0328 연구집회에 결여되어 있었던 것은 이러한 식민지 지배라는 시스템이 지니는 복잡함과 교활함에 입각한 치밀한 논의의 장이었다. 그러나 0328 연구집회는 강한 임팩트를 남겼으며 적어도 다음 심포지엄에 강렬한 자극과 숨결을 남겨주었다. 도노무라 마사루 씨의 ‘만용’은 계속 살아 있으며, 나는 적어도 계속 살아 있게 할 것이다.
센다 유키(千田有紀)
아라라기 :그럼, 이제 지정토론자 두 분만 남으셨는데, 젠더 연구의 주역을 맡고 계신 센다 유키 씨 부탁드리겠습니다.
센다 유키:센다 유키입니다. 저는 처음에 이 코멘트에 관한 제안이 왔을 때 해야 하나 말아야 하나 조금 망설였습니다만, 저는 예전에 외국어대학교에 근무를 했었는데 B쪽에 앉아 계신 분들과 함께 연구를 한 적도 있고, 또 그런 가운데 박유하 씨와도 함께 프로젝트를 했었던 경험도 있어서 말씀을 좀 드려야겠다 싶어서 이렇게 나오게 되었습니다.
제 자신이 이 종군 ‘위안부’ 문제에 접하게 된 것은 1991년 할머니께서 커밍아웃하시기 전에 대학시절인가 고등학교 시절에 우연히 저와 성이 같습니다만, 센다 가코(千田夏光) 씨의『종군위안부』문고판을 읽고 종군 ‘위안부’라는 존재가 있다는 것을 알게 되었습니다. 박유하 씨도 센다 씨의 책을 인용하고 계신데, 저는 오히려 센다 씨의 책은 이러한 사실을 알게 되었다는 점도 있었지만, 동시에 굉장히 강렬한 위화감을 가지고 있는데, 그 중 하나는 역시 일본인 ‘위안부’와 조선인 ‘위안부’가 기술되어 있는 부분에서, 일본인 ‘위안부’는 창부였다고 하는 부분입니다. 공창제도 하에 있었던 일본인 ‘위안부’는 나이가 좀 든 여자이며 성병을 가지고 있었고 창부였다는 식으로 상당히 모욕적인 기술을 하고 있었으며, 동시에 조선인 소녀들은 젊은 처녀의 소녀들이 연행되어 왔기 때문에 가엾다는 식으로 기술되어 있는 부분입니다. 물론 방금 전에 김부자 씨도 말씀을 하셨지만, 사실로서 젊은 여자아이들이, 소녀들이 징용되었다는 사실이 존재했었을지도 모르겠습니다만, 이때 역시 그 피해를 강조할 때, 그럼 일본인 ‘위안부’는 성병이 있고 창부였으니까 괜찮다, 나이가 든 여자들이었다 라는 식으로 멸시하는 형태로 종군‘위안부’를 이야기해도 좋은가 라는 의문이 계속 제 안에 남아 있고, 확실히 해소가 되지 않는 제 안의 의문이기도 합니다.
다만, 니시노(西野) 씨나 오늘도 팸플릿이 있습니다만, 방금 전에 발표하신 오노자와(小野沢) 씨나 일본인 ‘위안부’에 대한 연구가 진척이 되고 있다는 점은 제 자신에게 있어서 굉장히 감사한 일이라고 생각을 하는데, 역시 세계대전 전의 공창제도 하에서 창부가 되었던 사람들이 어떠한 사람들이었는가, 특히 쇼와공황 후에 생계가 어려워진 동북지방에서 팔려온다거나, 팔려온 소녀같은 사람들이 공창제도 하에서 창부가 되었는데, 이러한 일본인 ‘위안부’에 관해서도 저는 깊은 문제점과 슬픔을 느끼고 있습니다. 다만 이러한 것들을 ‘종군위안부’ 문제가 문제화된 이후에 추궁하려 하면 오히려 말을 못 하게 되었다고 할까, 일본인인 당신이 왜 일본인 ‘위안부’에 대해 말하는가, 그건 중요한 문제가 아니며 정말로 중요한 것은 식민지주의의 문제라는 식으로, 제 자신의 문제의식이 소거되어지는 점과, 같은 ‘위안부’여도 일본인 ‘위안부’는 문제가 아니다 라는 식의 언설이 있다는 데 대해 계속 위화감을 느껴왔습니다. 그러나 이러한 부분 자체는 해소된 것 같으므로 조선인 ‘위안부’ 문제를 어떤 식으로 이야기하는가 하는 문제는 여전히 남아있어서, 제 자신은 아까도 나왔습니다만, 모델적 피해자 같은 것을 만들지 말고, 나이가 어리다든가 처녀라든가가 아니라, 역시 어떠한 형태이든 ‘위안부’라는 제도가 비참했다 라는 형태로 이야기가 문제화되면 좋겠다고 생각하고 있습니다.
저도 박유하 씨의 이 책이 문제가 없다라든가, 하자가 없다라든가, 역사 자료들을 꼼꼼히 다뤘다라고는 생각하지 않으며, 또한 문장도 좀 더 뭐랄까 기술방식이 상당히 거칠다는 여러분들의 생각은 물론 공유하고 있습니다. 그렇지만 그런 바탕 하에 평가를 한다면, 역시 폭력의 문제의 복잡성이라는게 있다고 생각합니다. 예를 들어 조선인 업자들이 상당히 직접적으로 조선인 ‘위안부’에게 폭력을 휘둘렀다고 하는데, 폭력을 휘두르는 형태로의 지배라고 하는 것은 굉장히 원시적(primitive)이며 지배로서는 파탄된 것이라고 생각합니다. 폭력을 휘두르지 않으면 말을 듣게 하지 못 한다는 것은 페미니즘의 문맥에서도 포스트 구조주의 이후에 지배로서는 파탄되었다고 봅니다. 오히려 보다 더 교묘한 폭력이라는 것은 예를 들면 증언집에도 나와 있습니다만, 눈치를 보는 식으로 이런 행동을 하면 마음에 들어해 줄 지도 모른다는 형태로 상대방의 눈치를 보는 것, 이러한 것이 보다 더 교묘한 지배이며, 또한 한 단계 위의 지배라는 것은 자발성을 끌어내는 것이라고 생각합니다. 이것은 눈치를 보지 않더라도 스스로 이런 식으로 해야 한다 라는 형태로 주체화되어 갑니다. 이것이 가장 비참한 지배의 완성형으로 그러한 의미에서 조선인 ‘위안부’들이 황민화 정책 하에 일본인으로서 자신이 국가에 봉사를 한다고 하는 사람들이, 박유하 씨는 모두가 그러한 동지적 관계라든가, 애국적이라는 기술을 하고 있는 인상이 있습니다만, 저는 그러한 것들이 없었다 라고는 단언할 수 없으며, 또한 그러한 것 자체가 실로 비참하며, 그러한 분위기에서, 그러한 것 자체가 비참한 게 아닌가 생각합니다.
페미니즘이라는 것은 여성이라는 존재가 하나로 결속된 존재는 아니라는 것을 최근 10년,20년 계속해서 이야기를 해 왔습니다만, 제 자신은 이러한 말을 하는 것은 많이 망설여집니다만, 마찬가지로 민족도 여러분들이 아시다시피 하나로 결속된 존재는 아니며, 박유하 씨가 업자의 문제를 다룬 것 자체도 중요한 문제 제기이고, 그러한 것 자체가 국가의 책임을 면책하는 것은 물론 아니며, 오히려 같은 민족 하에서 그러한 폭력적인 관계, 이해관계가 있었다는 것 자체가 굉장히 식민지주의의 비참함을 두드러지게 한다고 생각합니다.
마지막으로 역시 저는 이러한 논의는 논의 자체는 효과가 있다고 생각을 하며, 여러분들도 거듭 말씀을 하셨지만, 형사라든가 민사라는 그런 장소가 아니라, 이렇게 열린 장소에서 제대로 논의를 해 가는 것 자체가 대단히 중요하다고 생각합니다. 마치겠습니다.
연구 집회에서 다양한 주장을 듣고 큰 공부가 되었으나, 동시에 논의가 상당히 어긋나는 안타까움이 쌓였다. 네 가지 관점에서 감상을 적어 두고 싶다.
(1) 왜 어긋났을까?
『제국의 위안부』를 비판하는 쪽은 오로지 박유하 씨가 든 구체적인 사건에 대한 사실과 인용의 ‘잘못’을 집어냈다. 지지자들은 그러한 사안에 대한 의견 개진을 거의 하지 않은 채 저서의 ‘전체적인 의의’를 강조했다. 반대로 비판하는 쪽은 박유하 씨가 던진 근본적인 문제를 받아들이지 못한 채 공격으로 일관한 감이 있었다. 이렇게 엇갈림이 이어졌다.
우선 집회는 말하자면 박유하 씨가 없는 ‘결석재판’으로 개개의 사항까지 그녀를 대변할 수 있는 사람이 없었다. 비판에 반론하든, 혹은 해당하는 부분이 있다면 정정하든지 해서 박유하 씨의 솔직한 변을 듣고 싶다.
반대로 ‘모두 잘못된 날조본이다’라는 비판은 아무리 그래도 너무 극단적이며 설득력이 떨어진다. 박유하 씨가 던진 근본적인 의문은 왜 위안부 문제가 여기까지 장기화하고, 해결이 막혀 왔는가에 있다. 일본 정부에게만 문제가 있는 것일까? 상당수의 위안부가 받은 아시아 여성기금을 지원단체가 일방적으로 단죄하고, 수령을 막는 것 만으로 된 것일까? 또 박유하 씨가 일본이라는 국가에 ‘법적 책임’은 없다고 한 점에 대한 논의는 많이 있어서 좋은데, 그럼 일을 직접 착수한 업체는 국가에 의해 조종됐다는 것만으로 책임은 없는가. 박유하 씨의 문제제기를 ‘일본을 면책하는 논리’라고 단정하지 말고 연구 집회에 어울리는 토론을 하길 바랬다.
(2) ‘동지적 관계’였나?
비판 중 하나는 병사와 위안부 사이에서 한정적이든 간에 ‘동지적 관계’였다고 한 박유하 씨의 담론에 집중됐다. 이것은 주디스 허만이 『트라우마』에서 지적한 ‘피감금자가 고립됨에 따라 감금자에 대한 의존도가 점점 심해져 간다’는 현상으로, ‘동지적 관계’에 해당하지 않는다는 반론도 있었다. 이는 스톡홀름 증후군이라고도 불리는 현상으로 논의의 출발점으로서 귀중한 지적이었다고 본다.
다만, 모처럼이었으니 좀 더 깊은 논의가 있기를 바랬다. 병사들은 단순한 ‘감금자’였을까? 그들도 국가의 명령으로 전쟁에 동원된 피해자(피감금자)의 측면을 가지고 있지 않았을까? 더구나 거기는 전쟁터다. 잘못하면 부대가 모두 적의 공격에 처하기 쉽고, 병사도 위안부도 생사를 같이 하는 운명이다. 위안부에게 있어서도 결정적인 적은 외부에 있었다. 그런 열악한 처지에 있는 병사들에게 여성들이 민족의 벽을 넘어 인간으로서 약간의 동정이나 공감을 느끼지 않았던 것도 아닐 것이다.
애당초 일본군 병사 중에는 조선 출신도 있었는데, 아무리 차별이 있든 그들이 전쟁터에서 일본인 병사와 ‘동지적 관계’에 있었다는 점은 부정할 수 없다. 위안부와 병사의 관계도 그와 닮은 게 아니었을까? 그리고 위안부가 상대를 한 병사 중에는 조선인도 있었다. 이러한 구조야말로 식민지 지배와 전쟁의 커다란 죄악, 그리고 여성의 비애였다고 나는 생각한다. 나는 박유하 씨가 ‘동지적 관계’라는 말에 담긴 의미를 그렇게 해석했는데, 틀린 것일까? 다음 기회에 논의를 깊게 하고 싶다.
(3) ‘자발적’이었나?
부끄러운 일인데, 70-80년대 한국에는 ‘기생 관광’이 성행하여, 일본인 단체 관광객이 많이 방문했다. 일찍이 서울에서 유학한 나는 젊은 여성을 뻔뻔하게 호텔로 데리고 들어가는 남자들을 보면 외면하고 싶어졌다. 여성들의 심정은 어땠을까? 그러나 그녀들은 업자에게 지배당하고 임금을 빼앗기는 존재였지만, 공권력에 강요당한 것은 아니었다. 심각한 가난 속에서 어쩔 수 없는 사정이 있었음에 틀림없고, 본래의 의미의 자유의지는 결코 아니었겠지만, 그래도 물리적인 강제가 아니라는 의미에서 ‘자발적’이었다. 이것도 슬픈 현실이다.
식민지 시대에 이와 같은 처지의 여성들이 있었다 것은 틀림없다. 가난도 남존여비의 풍조도 보다 심한 시대라면 더욱 그렇다. 그리고 희망을 가지지 못한 그녀들은 ‘어차피 해야하면’이라고 모집에 응해서 전쟁터로 간 예도 있었다. 박유하 씨는 그러한 현실에 눈을 돌리고, 모든 ‘소녀를 강제로 데려 갔다’는 것처럼 보는 시선이 부자연스럽다고 지적. 더욱이 그녀들이 ‘자발적’으로 모집에 응할 수 밖에 없었던 사회 구조에 분노한 것이 아니었을까? 이 해석도 틀린 것일까?
(4) 명예를 훼손했는가?
박유하 씨 기소에 대해서 ‘이 책으로 위안부 할머니들의 명예가 훼손됐다고는 볼 수 없다’라고 항의 성명을 한 점에 대해 ‘소송한 위안부들의 마음을 완전히 무시하고 있다’는 비판이 있었다. 항의글이 오해를 주었다면 유감이지만, 명예 훼손은 당사자의 ‘기분’만으로 결정되는 것은 아니다. 박유하 씨의 책으로 그녀들의 마음이 다쳤다면 오해를 불러일으킨 저작의 역량 부족을 물어도 좋다. 그러나 정말로 ‘명예’가 훼손되었는지의 여부는 객관적인 기준으로 판단되어야 한다. 항의 성명에 있는 것처럼 이 책을 통해 오히려 ‘위안부 분들의 슬픔의 깊이와 복잡함’을 느낀 사람이 많고 일본에서 자유주의로 불리는 사람들이 큰 공감을 하는 이유 중 하나는 거기에 있었다고 생각한다.
더붙여 말하자면, 박유하 씨의 책은 위안부에 다양한 케이스가 있었다는 점을 지적한 것이지, 원고인 각각의 여성들에 대해 ‘이렇다’라고 쓴 것이 아니다. 명예훼손으로 재판을 하기에는 무리가 있다고 생각하는 이유도 여기에 있다. 『제국의 위안부』의 내용을 둘러싼 논의는 많이 있어야 하지만 그것은 언론에서 이루어져야만 하며 재판을 하고, 특히 형사 처벌까지 국가가 개입하는 것은 사리에 어긋나며, 심지어 위험하기까지 하다. 비판하는 파가 그 논의를 피하는 것은 결과적으로 형사 처벌을 원하고 있는 것처럼 느껴져 아쉬웠다.
‘박유하 씨 기소에 대한 항의 성명’에 불민한 나도 <저명한 문화인>에 섞여 이름을 올렸다. 성명 발표 후 여러 친구로부터 전화와 메일을 받았다. 모두 『제국의 위안부』에 비판적이고 고소의 <정의>를 확신했다. 연락을 해 준 건 나의 무지를 염려해서였던 것 같다. 고마운 일이었지만 그만큼 박유하 씨는 바늘방석에 앉은 것처럼 편하지 않을 거라는 걸 느꼈다.
3 월 28 일 연구 집회는 논의가 맞물렸다고는 할 수 없다. 그러나 각각의 발상의 차이를 확인했다는 건 스타트 라인으로서 의미가 있지 않았을까. 늦었지만, 내가 왜 성명에 이름을 올렸는지 염려해 준 친구들에 부응하기 위해서도 여기에 써 두고 싶다.
‘항의 성명’에는 ‘이 책으로 위안부 할머니들의 명예가 훼손됐다고는 볼 수 없다’라고 쓰여져 있다. 명예가 훼손됐는지 어떤지는 당사자가 정할 문제이니, 이 표현은 문제가 될 거라고 봤다. 그럼에도 불구하고 이름을 올린 건 ‘명예훼손’이라는 말에 의문이 들었기 때문이다. 그 하나는 왜 전작 『화해를 위해서』 는 문제가 되지 않고, 『제국의 위안부』는 됐는가 하는 점이다. 고소를 한 나눔의 집 위안부 할머니들은 『제국의 위안부』의 ‘자발적 매춘’이나, 일본 병사와의 ‘동지적 관계’, ‘애국’이라고 기술한 부분에 명예를 훼손당했다고 한다. 그러나 그러한 표현은 『화해를 위해서』의 「위안부」 장에도 있다.
「‘매춘’을 하게 될 것을 알고 간 여성들이었건, 당시의 일본이 매춘을 하는 걸 알고 있으면서 온 여성도 당시 일본이 군대를 위한 조직을 발상했다는 점에서 그 구조적인 강제성은 결코 희석되지 않는다」(헤이본샤 라이브러리판 p90, 역자 주: 이 부분은 『화해를 위해서』 한국어판(뿌리와이파리)에서 발췌)
「그들이 ‘일본인’으로서 ‘애국’하기 위해 갔다면, 그것을 구조적으로 종용했다는 의미에서 더욱 ‘일본의 책임’이 커질 수밖에 없다」 (헤이본샤 라이브러리판 p91, 역자 주: 이 부분은 『화해를 위해서』 한국어판(뿌리와이파리)에서 발췌)
이것은 『제국의 위안부』 의 취지 그 자체이다. 왜 같은 취지이며 표현인데 『화해를 위해서』는 명예훼손을 묻지 않았을까?
아무래도 답은 단순한 것 같다. 1월에 일본에 방문한 나눔의 집 소장에 따르면 위안부 할머니들은 책을 읽을 수 없기 때문에 『제국의 위안부』의 해당부분을 수 차례 읽어 드렸다고 한다. 그렇다고 하면, 3 · 28 집회에서 양징자 씨가 발언한 것처럼, ‘거짓말과 속임수를 누구보다도 예리하게 꿰뚫어 본’(자료집 p63)다는 그들이, 읽어주는 사람이 무엇을 바라고 있는지 감지하지 못했을 리 없을 것이다.
또 하나, 의문이 든 이유가 있다. 20 년 전, 모리카와 마치코 씨가 구성하고 해설한 『문옥주 버마 전선 방패 사단의 ‘위안부’였던 나 』(나시노키샤(1996), 증보 신장판(2015))는 뛰어난 여성 문제 연구서로 제 16 회 야마카와 기쿠에 상을 수상했다. 나는 수상 심사 위원의 한 사람으로서 이 책을 추천했는데, 반대도 있었다. ‘운동의 발목을 잡는 꼴이 되지 않을까’라는 게 이유였다. 당시 운동의 주류는 쿠마라스와미 보고서에 의해서 ‘위안부 = 성 노예’라고 정의되어 국가 보상을 요구했다. 그러나 이 책에서 언급된 문옥주 씨의 ‘위안부’ 생활은 ‘성 노예’라는 말에 어울리지 않았다.
문 씨는 일본 노래를 외우는 등 일본 병사의 마음에 들려고 노력했다. 덕분에 인기인이 되어, 랑군 시장에서 하이 칼라 옷과 보석을 구입하거나 큰 돈을 저축하기도 한다. 그렇다고 해서 그녀의 일상이 비참하지 않은 것은 아니었다. 그 중에서 상병 야마다 이치로와의 <사랑>은 문 씨에게 얼마나 구원이 되었을까? 그는 문 씨에게 청혼하며 조선인이어도 좋다고 했다고 한다. 고상하고, 상냥하고, 익살스럽고, 지혜로웠다고 50 년이 지난 후에도 문 씨는 거리낌없이 야마다를 칭찬한다.
이러한 문 씨의 모습에 나는 감동했다. 어떤 가혹한 상황에서도 사람은 생존 전략을 구사하고 정체성을 찾으며, 사랑을 키우는 일도 가능하다는 것이다. 그것은 명예를 훼손하기는 커녕 자랑할 만한 일처럼 보인다.
그러나 물론 문옥주 씨의 예를 일반화하는 것은 불가능하다. 더구나 이 책은 ‘위안부 문제’ 를 부정하는 논거가 되고 있다. 지금도 인터넷에서는 저금 센터 원부라는 공문서에 남은 문 씨의 다액의 군사우편 저금을 가지고 ‘역시 위안부는 막벌이 창녀다’라는 소리가 난무하고 있다. 그런 의미에서 염려한 대로 운동의 발목을 잡게 됐다. 나눔의 집 위안부 할머니들이 ‘명예 훼손’이라고 한 것도 이런 견해가 있기 때문일 것이다.
문옥주 씨의 필사적인 생존 전략은 ‘위안부 문제’의 부정으로 이어지지 않고, ‘성 노예’에서 <특권적>인 일본인 ‘위안부’까지 다양한 ‘위안부’를 감싸 안는 큰 틀 ーー. 박유하 씨가 사념을 집중한 ‘제국의 위안부’라는 관점은 여기에 연결되는 게 아닐까. 3 · 28 집회에서 요시미 요시아키 씨는 업자의 책임보다 군의 책임 쪽이 무겁다고 말했다. ‘박유하 씨는 이같은 구조적인 인식이 되어 있지 않다’고 비판했다 (자료집 p71). 그러나 박유하 씨의 ‘제국의 위안부’는 군대도 통합 식민지 지배라는 큰 구조를 묻고 있다.
‘제국’이라는 틀을 세울 때, 영역 내의 <민족>의 경계는 모호하다. 특히 전시 하의 ‘대일본제국’은 ‘내선 일체’를 내걸고 조선반도의 ‘황민’화를 도모했다. 물론 일본인과의 사이에서 차별은 있다. 일본인 ‘위안부’와 조선인 ‘위안부’사이에도 분명한 차별이 있었다. 그러나 그렇다 하더라도 조선인 ‘위안부’가 ‘초센초센(조선, 조선)이라고 바보 취급 하지마, 텐노헤이카(천황폐하)는 같다’라고 대꾸 못할 건 아니었다.
<민족>의 경계는, 젠더 관점을 넣어 보면 더욱 까다로워진다. 1925 년의 보통 선거법은 여성을 배제했지만, ‘내지’거주 식민지 남성은 참정권을 받았다. 참정권은 ‘권리 중의 권리’이며, <국민> 권리 중 가장 큰 권리라고 한다면, 일본 여성은 <국민>이 아니었지만, 재일 조선 남성은 <국민>이었던 것이다. ‘제국’에게 식민지 가부장제 이용이 안성맞춤이었기 때문일 것이다.
패전으로 인한 ‘제국’의 해체로, 그것은 역전됐다. 일본 여성은 <국민>으로, 식민지 남성은 <비국민>으로. <민족>의 경계가 전면에 드러난 것이다. 올해 4 월 매스 미디어는 ‘여성 참정권 70 년’을 보도했지만, 동일한 선거법 개정으로 식민지 남성이 참정권을 박탈당한 부분에 대해서는 언급하려고 하지 않았다.
헌데 ‘위안부’에 맞추면 <민족>의 차이보다도 젠더의 문제가 된다. 가혹한 전선에서는 조선인 ‘위안부’와 일본군 병사의 <민족>을 넘은 ‘동지적 관계’가 성립해도 전후의 처우는 결정적으로 다르다. 일본군 병사는 죽으면 야스쿠니 신사에 모셔지고, 살아 남으면 연금도 지급된다. 그러나 ‘위안부’는 연금은 커녕 <더러운 여자>로 낙인찍혀 가족과 고향조차 잃는 일도 적지 않았다. 그것은 일본인 ‘위안부’도 마찬가지다. 미와 아키히로는 그들에 대해 이렇게 노래부르고 있다. 「싸움에 지고 돌아 가면 나라 사람들에게/훈장 대신 침을 맞고/손가락질 당하고, 험담을 듣고/ (생략) /대일본제국 만세 만세 만세 “(「조국과 여자들」)
『제국의 위안부』는 <민족>과 젠더가 착종하는 식민지 지배라는 큰 틀에서 국가 책임을 묻는 길을 열었다. 3 · 28 집회에서 역사학 분야로부터 실증주의적 비판이 잇따랐는데, 물론 그 점에는 이론상에서도 실천상에서도 많은 문제가 있다. 그러나 니시 마사히코 씨가 말한대로, 이 책을 ‘도약의 발판’으로 삼아, 그 앞에 열리는 문제를 함께 단련해 가기를 바란다.
당일날 나에게는 지정토론자의 역할이 주어졌다. 5분이라는 시간 제약 아래 충분히 말하지 못했던 것을 여기에서 설명하고 그날의 소감을 덧붙이고자 한다.
첫째로, 집필물을 법정에 세우지 않는다는 것에 대하여. 이 집회는 박유하의 “제국의 위안부”에 대한 형사 기소에 반대하는, 뜻 있는 자들의 성명이 계기가 되어 성립된 것으로 이해하고 있다. 성명에 동의한 다른 사람들을 포함하여 나의 입장은 사상이나 연구 상의 대립은 어디까지나 시민영역(이와 같은 자리의 학자 간의 의견 교환을 포함)에서 이루어져야 한다는 것이다. 많은 박유하 비판파는 형사고발의 원고가 ‘위안부’ 피해당사자라는 점을 절대시하고 있는데 설사 원고가 고소를 해도 기소에 이르기까지는 검찰권력의 의사결정이 수반하게 된다. 당사자가 ‘상처 받았다’고 주장하는 것과, 사직 당국이 ‘명예 훼손’ 판정하는 것과는 거리가 있다. 나는 이와 같은 판정을 검찰이라는 행정권력이 행사하는 것에 위화감을 느낀다. 그리고 검찰이 ‘명예훼손’이라 판정을 내린 데 대하여 그 판정에 동의할 수 없다는 입장에서 판단이 엇갈리는 연구 상의 견해를 사법적 판단에 맡겨서는 안 된다고 생각한다. (‘성명’이 당사자의 고소에 대해서가 아니라 검찰의 형사 기소에 대하여 발표된 것에 주의해야 한다.) 많은 연구자가 동의하리라 생각되는 이러한 최소한의 동의조차 이룰 수 없었던 것에 대하여 안타깝게 생각한다. 그리고 어떠한 문제가 있더라도 집필물의 저자를 형사 피고인으로 법정에 세움으로써 본인이 받게 될 사회적, 심리적 타격의 심각성을 생각하지 못하거나, 혹은 그렇게 당해도 당연하다는 듯이 비판을 하는 사람들의 징벌적인 태도에도 커다란 위화감을 느낀다.
둘째로, 이 책의 평가에 대하여. 분명히 이 책에는 비판자들이 지적하고 있는 것같은 문제점이 많다는 것은 인정하지 않을 수 없다. 설혹 형사기소에 반대를 하고 있어도 이 책에 대해 전부 동의하고 있는 것은 아니다. 이 집회에서도 문제로 지적된 ‘동지적’, ‘애국적’, ‘자발적’이라는 단어의 쓰임에 대해서는 오해를 초래할 표현과 허점이 있다는 것은 확실하다. 그러나 문맥으로 판단한다면 ‘구조적 폭력’ 아래에서 ‘동지적이라고 간주되는’이라든지 ‘강제된 자발성’으로 읽을 수 있음은 저자가 이 책 전체에서 거듭 주장하고 있는 바와 같다. 정영환씨의 해석처럼 ‘업자 주범・군 종범설’이라는 주장으로는 도저히 읽히지 않는 것은 문맥을 통해서 봐도 분명하다. 또한 인용 의 하자를 가지고 이 책의 가치를 모두 부정하는 것은 과연 옳다고 할 수 있는 것인가. 내 견해로는 이 책의 평가해야 할 점은 ‘제국’, 즉 식민지 지배의 죄를 전면에 끌어낸 데 있다. 그것은 조선인‘위안부’문제에 일반적인‘전시하의 성폭력’의 문제로 해소할 수 없는 ‘식민지 지배’의 특수성이라는 차이를 가지고 들어 온 데 있다. 일본 전통의상, 일본식 이름, 일본어 사용을 강요 당한 조선인‘위안부’는 저자가 지적하고 있듯이 ‘일본인 여성의 대체물’이었으며 그런 뜻에서 일본군의 ‘동지’적인 입장에 있었으며, 전쟁터에서는 피점령자와 연합군으로부터 ‘적’으로 간주될 수 있는 존재였던 것이다. 그러한 점에서 이 책은 오히려 일본의 국가적 책임을 과거 이상으로 엄격하게 추궁하고 있으며, 이 책을 평가하는 많은 일본인 지식인은 그러한 지적을 엄숙하게 받아들였을 것이다. (비판자는 그 점을 간과하고 있다).
‘전쟁의 성폭력’ 비교사가 전망되고 있는데, 거기에서는 강간, 매매춘, 연애에 이르는 연속성과 차이를 논할 필요성이 지적되고 있다. ‘구조적 폭력 아래서 강요당한 협력관계와 공범관계’라고 하는 복잡한 상황을 복잡한 상태인 채로 이해하지 못하면 오키나와전의 ‘집단자결’의 자발성과 강제성의 관계를 논할 수도 , 또한 조선인 일본군 병사에 대하여 논할 수도, 애도할 수도 없을 것이다.
한편 이 책의 저자가, 오늘날 사태가 교착상태에 빠진 상황에 대한 책임을 한국 내의 운동 단체에 묻고 있는 것에 대해서 나는 비판적으로 생각하고 있다. 그러한 지적은 공정하지 않다고 공공적인 자리에서도 발언했으며 저자 본인에게도 직접 전달했다는 점을 명시해두고자 한다.
이 집회는 지금까지 함께 자리하는 일이 없었던 연구자가, 대립되는 견해를 넘어 한자리에 앉아 토론을 하는 획기적인 기회였다. ‘성명’ 동참자의 상당수는 사태의 경직성을 우려하고, ‘위안부’문제의 해결을 진심으로 바라고 있으며, 또한 일본의 국가적 책임을 결코 면책하지 않겠다는 입장을 공유하고 있으며 비판파에게 문제제기 하고 다가가는 자세를 보였음에도 불구하고, 비판파는 그것에 답하려고 하지 않은 것으로 나에게는 보인다. 같은 편이 될 수 있었을 지 모르는 사람들을 적으로 상대함으로써 소수자의 운동은 더욱 더 분단되어 버린다. 그렇지 않아도 우파로부터 부당한 공격을 당하고 있는 ‘위안부’문제를, 온전한 ‘공론’의 자리로 끌어내기 위해서는 ‘공동투쟁’이 필요할 텐데 원칙적인 논의를 되풀이하는 그들은 도대체 무엇으로 ‘해결’할 생각인가. ‘다음으로 이어지는 논의’를 바라는 우리들의 생각은 실현되지 못하고, 참석자에게 허탈감만 남기고 끝났다고 한다면 대단히 유감이다.
끝으로 어려움을 딛고 이 토론 집회를 실현시켜주신 실행위원 여러분께 짐심으로 감사드린다.
박유하의 논저를 둘러싸고 열린 이번 집회에 대해서는 ‘의의가 깊은 모임이었다’라는 목소리는 들리지 않는다. 하지만 나 자신은 단상에서 발화된 말을 통해 여러 가지를 생각하게 되었고, 그 발언을 기록으로 남기고 공표하는 것은 의미가 있다고 믿고 있다. 통상의 집회나 각종 연구회 이상으로 신경이 쓰이는 곳임에도 불구하고 발표자/코멘테이터/지정토론자 부탁을 들어주신 분들에게 경의를 표하고 싶다. 그리고 실행위원회 멤버들은 상호 인식의 차이가 있으면서도 일단은 집회를 의의 있는 것으로 실현시키겠다는 점에서 일치하여 준비에 임했다. 여러 어려운 조건을 넘어서서 간신히 집회를 실시할 수 있었던 것은 나 이외의 실행위원 4명의 힘에 의한 바가 크다는 것을 감히 써 두고 감사 드리고 싶다.
그리고 역시 운영 상의 실수가 있었던 것을 인정해야 할 것 같다. 여러 가지 반성은 있지만, 박유하 비판측, 옹호측이라는 식으로 나눠 참가등록을 실시해서, 접수를 분리한 것처럼 여겨지게 한 것은 실수였다. 이것은 나의 실수다. 실제로는 ‘니시/모토하시 관계자’, ‘김/나카노 관계자’ 이외에도 실행위원회에서 협의/확인 후 도노무라가 연락을 한 ‘기타/미디어 관계자’의 등록도 있었고, 내가 알고 있는 바로는 ‘니시/모토하시 관계자’ 중에 ‘박유하씨의 논저와 관련하여 평가가 나뉘는 것에 대해서 자기도 판단이 서지 않기 때문에 공부할 생각으로 왔다’고 하는 사람이 상당수 포함되어 있었다는 것을 다시 한번 강조해 두고 싶다.
나 자신은 당일 말한 것처럼 ‘회색파’다. 박유하에 대한 비판은 틀린 것이 아니라고 생각하면서도 그 비판의 형태에는 의문을 가지고 있었다. 박유하의 언설은 새로운 역사수정주의라고 하며, 그녀의 저작을 완전히 부정하고 가치가 없는 것으로서 내쳐버려도 될까, 비판한다 하더라도 박유하의 논리를 바탕으로 식민지주의 비판의 논의를 심화하는 방향으로 이끌어 가도록 해야 하는 게 아닐까 하고 생각하고 있었다. 그런 의미에서는 분명 니시 마사히코씨와 인식을 공유하고 있는 부분이 있다. 다만, 니시쪽 사람들이 중심이 되어 발표한, 2015년 11월 26일의 박유하 기소에 대한 항의성명에 이름을 올린 사람들과 박유하를 비판하고 있는 사람들에 대해 살펴보니, 전자는 ‘위안부’ 피해자나 그녀들을 지원하는 운동과의 접점을 그다지 많이 가지고 있지 않은 사람들이 많은 반면, 후자는 그런 사람들을 많이 포함되어 있다고 느껴졌고 그 부분이 신경 쓰였다.
얼마 전에도, ‘위안부’ 문제에 대해서 피해자와 관계를 맺고 활동해 온 사람들이 박유하에 대해 비판하는 것은 나름대로 이유가 있을 것이라고도 생각했다. 그것이 내가 이번 연구 집회를 발안한 이유 중 하나다(그 외에도 여러 가지 경위는 있지만 생략한다).
회장에 있었던 분들은 아시겠지만, 실제 집회에서는 박유하에 대해 비판적인 의견을 내는 발언에 동조하는 사람들에게 이른바 ‘우세’한 분위기가 있었다. 분명히 박유하의 『제국의 위안부』와 관련하여, 사료를 원점에서 찾아보고 문제점을 밝힌 작업은 의의가 있고, 그것을 위해 들인 노력에도 머리가 숙여진다. 그리고 오랜 세월 ‘위안부’ 피해자들 옆에서 그녀들과 함께 운동을 전개해 온 양징자의 코멘트에는 감명을 받았다.
하지만 내가 느끼고 있던, 박유하에 대한 비판의 형태에 대한 의문은 여전히 지워지지 않았다. 나는 역사 연구자니까, 역사 연구에 관한 문제에 대해서 아래에서 서술하도록 하겠다. 확인 차 말하자면, 이렇게 말하는 것은 역사 연구자가 이 문제에 대해서 우위의 입장, 특권적인 위치에 있다고 생각하기 때문이 아니라(오히려 역사학이 잘 못하는 영역도 있을 것이다), 단순히, 내가 역사 연구 분야에서 만큼은 어느 정도 전문가 그룹으로 인정받을지도 모른다는 생각 때문이다.
‘위안부’를 둘러싼 역사 연구는 그것이 커다란 문제로 등장하기 시작한 시기=1990년대 초반부터 생각해 보면, 상당히 진전됐다. 당시 중요한 논점 중 하나가 된 것은 일본 국가의 관여였고(노동성 직업안정국장이 위안부는 민간업자가 데리고 다녔다고 국회에서 답변했는데, 이에 대한 비판이 들끓었고, 김학순씨가 피해자라고 밝히고 나서면서 ‘위안부 문제’가 쟁점화된다. 이러한 경위가 있었다는 것은 주지의 사실이다), 그 실증이 정교하고 치밀하게 쌓아 올려졌다. 그리고 피해의 심각성을 인정하려고 하지 않는 우파의 허위 선전에 대항하는 형태로 폭력성, 자유의 박탈도 다시금 강조되었다. 1990년대 초에는 ‘위안부’ 연구에 돌입하고자 하는 역사 연구자도 없었고, 애초에 그것이 역사 연구의 대상이 된다, 그렇게 할 수 있다고 생각하던 사람도 없었던 것으로 기억하고 있다. 그 당시를 돌이켜 보면, 현재까지 많은 사료의 발굴에 노력하고 사실을 해명해 온 연구자들, 시민운동 관계자들은 정말로 훌륭한 일을 해냈으며 칭찬할 만하다.
그러나 국가의 직접적인 관여에 의한 강제가 있었다는 것, 알기 쉬운 물리적 피해가 강조되어 반복적으로 이야기되면 그것만 문제인 것 같은 인상을 주게 되고 만다. 물론 그 점에 대해서 역사 연구자가 자각하지 못했다는 것이 아니며, 직접적인 국가에 의한 폭력의 배경에 있는 모든 사실과 현상도 시야에 넣고 있었던 것은 틀림없는 사실일 것이다. 조선사 연구회나 역사학 연구회 등의 모든 단체에 의한 2015년 5월 25일자 성명에서는 ‘최근의 역사 연구는 …… ‘위안부’ 제도와 일상적인 식민지 지배/차별 구조와의 관련도 지적’해 왔다고 하고 있다.
실제로 그러한 역사 연구의 성과가 없다고 말하는 것이 아니다. 하지만 그것이 과연 충분한 양을 가지고 있다고 말할 수 있을까? 그리고 그것이 널리 시민들에게 알려져 있을까? 여전히 ‘위안부’ 피해는 국가의 직접적인 관여나 물리적인 폭력을 언급하여, 이렇게 끔찍한 사실이 있었다는 식의 이야기가 중심이 되어 오지 않았는가? 역사수정주의에 대한 반론도 그런 식의 것이었거나, 혹은 적어도 그렇게 보이는 것이었다고 말할 수 있지 않겠는가?
『제국의 위안부』에 대한 긍정적 평가 중 하나는 그런 이야기 방식을 넘어서서 식민지 지배의 심각성을 논하려고 한다는 점을 이유로 들고 있다. 이 책에 대해, 구조적 강제성을 논하고 있다(아사노씨), 식민지의 문제 전체를 파악하고자 한 것이다(우에노씨)라는 평가나, 물리적인 폭력이 아닌 폭력의 심각성을 지적한 발언(센다씨)도 그러한 사실을 말한 것이라고 나는 이해했다.
‘위안부’ 문제나 식민지 지배 문제에 대해서 생각해 온 역사학자라면 이러한 상황을 앞에 두고 일단은 자신들의 ‘협량’, ‘역부족’을 자각(고통를 동반한)해야 하는 게 아닐까? 그리고 역사학자가 아니면 할 수 없는 방법으로 즉, 문학연구자인 박유하가 할 수 없었던 형태로, 국가가 직접 관여하지 않은, 눈에 잘 보이지 않는 폭력이 일상적으로 존재한 식민지 사회의 실태, 그리고 그로 인해 발생한 ‘위안부’들의 피해를 전문적인 역사 연구자 이외의 시민들에게도 효과적으로 전달하기 위해서 어떻게 하면 좋을지 지혜를 짜내야 하는 게 아닐까? 그러한 논저를 다수 세상에 내보내는 일, 이 일이야말로 ‘위안부’ 문제, 식민지 지배 문제를 연구 테마로 하는 역사 연구자들에게 요구되는 임무라고 나는 생각한다.
이와 관련하여 지적해 두고 싶은 것이 있다. 식민지 지배 중 일본의 가해에 대해 자주 우파 쪽은 국가의 직접적인 관여는 없었다, 민간에 의한 임의의 행위였다, 자발적 활동이었다라는 것을 들어 국가의 책임을 면하려고 한다. 이에 대해 식민지 지배의 반성을 확립하고자 하는 시민운동가들이나 역사 연구자들의 반론은 많은 경우, 실태로서 현저한 인권침해가 있었고 그렇기에 국가의 책임이 있다, 실태로서 국가가 관여했다는 식의 사실 제시다. 예를 들어, 노무 동원과 관련하여 우파에서 ‘징용’과는 다르다, 따라서 나라에 책임은 없다라는 말을 하면, 이에 대한 반론은, 모집이나 관의 알선으로 온 노동자도 똑같이 노예 노동에 종사시켰다, 요원 확보에는 경찰이나 말단 행정 공무원이 관계됐다는 점을 강조한다. 또는 창씨개명과 관련해서도, 우파에서 신고제였으며 강제가 아니었다고 말하면, 그에 대한 반론은 다양한 압력이 가해진 결과로서 많은 신고가 있었던 것이라는 식이다(엄밀히 말하면, 법정창씨라는 제도가 있어서 법적으로도 강제지만, 여기에서는 생략한다. 미즈노 나오키씨나 고 김영달씨의 연구를 참조하길 바란다).
이러한 반론은 필요하고 적절한 것이다. 하지만 그러한 반론으로 일관할 경우, ‘형식적으로는 국가의 강제가 아닌’ 것이 가지는 의미와 그로부터 발생된, 지배 당하는 민중의 고통은 시야 밖에 놓이게 된다. 위의 예에서 말하자면, 국가의 행정 명령으로 어떤 사업소에서 일할 것을 강제=징용은 아니라고 함으로써 가능해지는, 노예적인 노동의 간과나 국민 보호의 부재 같은 국가의 ‘책임 회피’는 문제에서 빠지게 될지도 모르고, 창씨를 신고할지 말지를 두고 생기는 조선 민족 내부의 균열이나 자신이 직접 신고하여 이름을 바꿈으로써 느꼈을 자책감은 보이지 않게 될 것이다.
‘위안부’와 관련하여 생각해도, 국가가 행정 명령을 내서 군인에 대한 성적 위안을 명령한 것은 아니다(징용 명령서로 그것을 명령한 것도 아니고, 국가총동원법의 조문을 통해서도 그러한 명령을 내리는 것 자체가 불가능하다). 그것은 ‘더러운 일에는 국가가 관여하지 않으며 책임을 지지 않는다’라는 국가의 비열함에 기인한 것이다. 그런 식으로 해서 피지배 민족 내부에 복잡한 고통을 발생시켰다. 이렇게 생각하며 ‘국가에 의한 강제는 아닌’ 것의 문제성을, 물론 ‘실태로서의 국가에 의한 강제’를 지적함과 동시에, 이야기해 가야 할 필요가 있지 않을까?
이상, ‘위안부’ 문제를 생각하고, 식민지주의의 문제를 보다 깊게 생각할 때 참고가 되길 바라며 이야기해 보았다. 집회 운영상의 문제도 포함하여 기탄 없는 비판을 부탁 드린다.
모토하시 데쓰야
3.28연구 집회 실행위원의 한 사람으로서 나는 집회의 마무리 발언으로 당일 대강 다음과 같은 감상을 말했다–
“일단 첫 번째 감상은 ‘서발턴’에 대해서입니다. 이번 문제를 생각하면서 알게 된 것은 왜 가야트리 스피박이 ‘서발턴은 말할 수 있는가?’라는 의문형으로 제의하고, ‘서발턴은 말할 수 없다’고도 ‘서발턴은 말할 수 있다’고도 말하지 않았는가 하는 것입니다. 그것은 ‘서발턴에게 말하지 못 하게 하는’ 것도, ‘서발턴에게 말하게 하는’ 것도 둘 다 똑같이 폭력이기 때문이 아닐까요? 더 생각해 보면, 말할 수 있는 사람의 ‘말하고 싶은 것’은 어디까지 알 수 있는 것일까요? ‘발화된 말’을 존중하는 것은 중요하나, 발화되어 버림으로 인해 ‘말하지 못한 것’이 있었던 것은 아닐까요? 그것이 대체 무엇인지는 듣는 사람은 물론, 때에 따라서는 말하는 사람 본인조차 알 수 없습니다. 그래서 그건 ‘없었던 것’으로 치부되어 버리지만, 그 ‘알 수는 없지만 있었을지도 모르는 것’에 대한 헤아림이나 조심스러움이 없으면, 서발턴의 목소리는 더욱더 들리지 않게 됩니다. 이 대변표상(代弁表象)이라는 문제는 말을 통해 살아가는 우리들 인간에게 있어서 피할 수 없는 아포리아이고, 그것에 대해 계속 자각적이고자 하는 것이 이번 문제에서 무언가 결실을 맺는 계기가 될 것이라고 생각합니다. 그런 의미에서 방금 전 양징자씨가 소개해 주신 김복동 할머니의 ‘미소’(역자주 : 개중에는 좋은 군인들도 있어서 기다려졌다고 증언하며 띄운 미소)가 마음에 와 꽂혔습니다. 그것을 들은 것만으로도 오늘 여기에 온 보람이 있었다고 생각합니다.
두 번째 감상은 ‘후미에(역자주 : 그림 밟기. 에도시대 때, 기독교 신자인지 아닌지를 확인하기 위해 예수나 마리아의 그림을 밟게 한 것. 또는 그 그림.)’에 대해서입니다. 이 문제와 관련하여, 이른바 ‘후미에적인 상황’을 만든 것이 박유하씨의 저서 출판인지, 그것에 대한 고소인지, 박유하씨의 저서에 대한 비판인지, 몇 개의 성명인지, 그것을 물어봐야 별 의미는 없겠지요. 오히려 여기에서 생각해야 할 것은 ‘후미에’란 무엇인가 하는 것입니다. 저희들처럼 넓은 의미로 ‘인문학’에 관련된 사람들에게 있어서 텍스트를 읽거나 다른 사람의 의견을 듣거나 자신의 말로 생각하는 것은 매일 ‘후미에’를 밟고 있는 것과 같습니다. 말을 재료로 하여 생각하는 행위인 이상, 그것은 피할 수 없습니다. 즉 ‘인문학’이란 ‘후미에’에 다름 아니다라고 해도 좋습니다. 바람직하지 못한 것은 그렇게 ‘후미에’를 밟아야만 하는 사람들을 어떠한 동기로 한 쪽 진영에 속해 있다고 공격하거나 자신의 권위를 확장시키기 위해 이용하는 태도가 아닐까요? 더 좋지 않은 일은 ‘후미에’를 앞에 두고 사고정지에 빠져 버리는 것입니다. ‘후미에’란 사고를 유도하는 것이므로 ‘후미에’는 계속 만들어야 할 것이며, 때로는 용기 있게 밟아야 할 테지만, 그걸 가지고 타자를 판단하는 데에는 한없이 신중해야 하지 않을까요?
세 번째는 ‘항의 성명’에 대해서입니다. 어떤 형태이건 간에, 피해자/생존자의 요구에 응답할 수 있는 형태로 ‘위안부 문제’를 해결하는 일과 그분들의 힘을 키우는 일에 이번 집회를 어떻게 연결시킬 것인가를 각각의 현장에서 이제부터 우리들 각자가 진지하게 고민해야 합니다. 그건 서로의 입장을 비판하는 일, 서로의 의견에서 배우는 일만큼이나 중요한 것이라고 생각합니다. 그런 의미에서 오늘 논의를 듣다가 마지막에 개인적으로 저도 이 곳에서 실제로 ‘후미에’를 밟지 않으면 안 되겠다고 느꼈습니다. 무슨 말이냐면, 저는 ‘박유하씨의 기소에 대한 항의 성명’에 서명한 한 사람입니다만, 그 안에 ‘무엇보다도, 이 책으로 인해 전 위안부 분들의 명예가 손상됐다고 생각되지 않고’라는 한 문장이 들어가 있다는 것에 대해 여기에서 반성하고자 합니다. 반성의 이유는 무엇보다 나눔의 집의 생존자 분들이 대체 어떤 상황에서, 재판에 의한 고소라는 수단을 단행했는지 저 자신은 알 수 없기 때문입니다. 어떤 사람도 그 모든 행동이 옳다고 할 수 없기 때문에 이 건에 대해서 생존자 분들이 그러한 수단을 취하신 것은 적절하지 않았다고 생각합니다. 하지만 동시에 적어도 저처럼 그 곳에 없었던 사람이 ‘손상됐다고 생각되지 않’는다고는 말할 수 없는 것이 아닌가 하고 망설이는 마음이 있기 때문입니다.”
이상의 내 발언의 주안점은 서발턴의 생각은 어떻게 표상 가능할까라는 물음에 있으며, 그 답은 어떤 사람에게도(본인이나 당사자도 포함해서) 한없이 불가능에 가깝다라는 것이 되어야 한다. 그런데 당일 집회에 나오신 분들이라면 아시겠지만, 이 발언을 통해 내가 던진 공은 완전히 목표를 빗나갔고, 결국 내가 말한 이 ‘마무리 발언’은 실질적으로는 아무런 의미도 가지지 못한 것이 되었다. 그 일과 관련하여 여기에서 집회를 끝낸 후의 나 나름대로의 반성과 감상을 기록해 두고 싶다.
먼저, 위와 같은 ‘마무리 발언’을 함에 있어서, 내 쪽에서 몇 가지 큰 전망의 오류가 있었다는 것이다. 나는 실행위원의 한 사람으로 『제국의 위안부』 라는 저서를 옹호하는 입장에서, 집회에서 나온 논의로부터 무언가 결실을 평가하면서 그 성과를 토대로 이후의 전망을 제시하는 것이 임무일 것이라고 생각했다. 그러기 위해서는 ‘서발턴’과 ‘후미에’에 주목하는 것이 이론적인 핵심을 제공해 줄 것이라고 생각했고, 인문학 연구자로서 이러한 ‘연구 집회’의 마무리에 어울린다고 생각해, 그런 문맥에서 ‘항의 성명’에 대한 자신의 반성도 표명했다. 나 한 사람의 행동이나 결의 자체는 문제의 크기에 비추어 볼 때, 전혀 대수롭지 않은 것이지만, 적어도 그러한 집회의 의의를 재확인하고, 앞으로의 운동이나 연구에 도움이 될 것이라고 믿고 있었던 것이다. 그러나 이러한 나 나름의 ‘연구 집회’에 대한 생각은 참가자 전원에 의해 공유되는 것은 아니었던 듯하다. 구체적으로 말하자면, 이름을 말해 죄송하지만 내 발언 다음에 『제국의 위안부』를 ‘비판’하는 측에서 ‘마무리’로 발언한 나카노 시게오씨는, ‘마무리’란 어떤 ‘접근’ 가능성을 제시하는 것이라고 생각했던 나와는 인식이 완전히 달랐고, 그 점에서 나의 마무리는 ‘헛스윙’으로 끝나고 말았다.
나의 두 번째 ‘오해’는 ‘미디어’ 참가자들의 취급과 속내에 대해서다. 나는 이번 ‘연구 집회’라는 성격과 의의를 생각해서, 설령 미디어나 저널리즘에 적을 둔 사람들이 참가하더라도 각자가 『제국의 위안부』라는 저서에 대해 여러 가지 의견을 듣고 개인적으로 새로운 지식과 인식을 심화시키는 것이 본래의 목적이라고 생각했다. 하지만 이 점에 관해 내가 한 상정이 안이했던 듯 하다. 이미 집회에 대해 신문이나 잡지 등에 투고된 기사 중 몇 개가(물론 전부는 아니지만) 보여주는 것처럼 기자나 저널리스트 중에는 집회에서 무언가를 겸허히 배우겠다는 자세보다는, 자기나 자기가 소속된 미디어를 통해 이미 나온 이 문제에 관한 판단을 추인하고 강화할 방편으로 이번 집회를 이용했을 뿐이라고 여겨지는 기사가 여기저기서 보인다. 그런 기사를 쓰는 사람들이 ‘서발턴’이나 ‘후미에’를 둘러싼 원리적 고찰 같은 ‘귀찮은’ 부분을 무시하고, ‘항의 성명’의 서명인 중 한 명의 ‘반성’에 달려들어 ‘지식인의 양심’이라는 안이한 말로 결론짓는 것은 당연한 일이었을 것이다. 이러한 사태는 나의 ‘마무리 발언’에 대한 견해가, 대립을 부추기는 일이 보도의 책무인 양 기사를 쓰는 사람들에게는 별 상관없는 것일 수 있다는 것을 상정하지 못한 나의 판단 미스에 기인한 것이고, 나는 이를 있는 그대로 반성해야만 한다고 생각한다.
이번 연구 집회의 목적은 『제국의 위안부』라는 저서에 관해서 의견이나 입장이 다른 사람들이 서로 말을 나눔으로써 타협이나 경계의 확인을 하는 데 있었던 것이 아니라, ‘위안부 문제’의 해결이 피해자의 의향에 부합하는 방식으로 해결되기를 목표로, 한 걸음이라도 앞으로 나아가도록 각자가 생각할 기회를 제공하는 데에 있었다. 과연 집회는 그러한 목적에 조금이라도 다가갔을까? 만약 이 집회가 자신의 의견이나 입장의 ‘옳음’을 확인하는 데에만 그쳤다고 한다면, 그것이 ‘위안부 문제’ 해결에 무슨 공헌을 한다고 말할 수 있는 것일까?
‘서발턴은 말할 수 있는가?’라는 물음에 진지하게 임하는 한, ‘종군위안부’로 삼아진 사람들 같은 피해자의 마음은 그 누구도 대변할 수 없다. 이 냉엄한 사실은 ‘연구자’, ‘운동가’, ‘지원자’, 나아가 ‘당사자’와 ‘비당사자’라는 구별 조차 무의미하게 만든다. 이를 토대로 생각하면, 『제국의 위안부』관련 문제 중 하나인 ‘할머니들 자신에 의한 고소’라는 사태의 재고가 필요해진다. 구체적으로는 집회 중에도 나온 ‘할머니들 자신이 고소한 것이니까……’라는 변명에 대해서 반성하지 않아도 되는가 하는 질문이다. 바로 이 ‘할머니들 자신에 의한 고소’라는 ‘사실’을 ‘후미에’ 삼아 사고정지돼서 ‘서발턴의 목소리’에 관한 신중한 고찰로 나아가지 못한다면, 『제국의 위안부』를 둘러싼 사태는 다른 견해를 가진 자들의 ‘대립’이라는 저널리스틱한 이슈가 되기만 할 것이며, 그것은 ‘위안부 문제’의 해결에는 아무런 도움도 되지 못하고, 미디어의 ‘유통기한’이 지나면 폐기되고 마는 것이 아닐까?
‘서발턴’을 눈앞에 두고 우리들이 할 수 있는 것은 많지 않다. 그러나 결코 해서는 안 되는 것이 있는데, ‘사고정지’나 ‘복화술’도 이에 포함된다. ‘서발턴은 말할 수 있는가?’라는 정답이 없는 물음을 쉼 없이 던지며 ‘후미에’라는 사고의 유도에 응답하기 위한 길은 한없이 어렵지만, 길은 함께 가는 사람들이 있다면 만들어지는 법이다. 이번 집회에 참가한 한 사람 한 사람과 함께, 앞으로도 그런 길을 걸어가고자 한다.
『제국의 위안부』가 서울에 있는 일본대사관 앞 ‘소녀상’으로 상징되는 ‘일본군에 의한 강제연행’이나 ‘미성년 여자에 대한 지속적인 성적 능욕’이라는 ‘위안부상’의 ‘정형’을 재심에 부치려고 한 책이라는 사실은 누가 봐도 명확한데, 그 책이 ‘일본의 면죄’를 의도하는 것이 아니라는 사실은 선입관을 빼고 전체를 읽어 보기만 한다면 오해가 생길 리가 없다. 그것을 ‘일본의 면죄’에 길을 트는 타협적인 책이라고 이해하는 일부의 독해는 명백히 ‘오독’이며, 이 책을 ‘악용’하는 것이다. 하지만, 3월 28일 집회에서 여실히 드러난 것은, 극히 일부의 우파적인 ‘오독=악용’을 과잉 의식하여 이 책에 의심의 눈초리를 보내는 분들이 좌파 안에 적지 않다는 현실이었다. 『제국의 위안부』의 평가를 둘러싸고 일부의 우파와 일부의 좌파 사이에 ‘적대적 공존관계’가 성립되어 버린 듯한 사태가 진행되고 있다.
‘위안부 문제’를 생각함에 있어서, 3월 28일 집회에서는 적어도 ‘일본의 면죄’를 부르짖으려는 사람은 한 사람도 없었다. 집회 중반에 내가 확인한 바다. ‘우리들’이 꼭 ‘적대’해야 할 관계에 있는 사람들이 아니라는 것을 확인할 수 있었던 것만으로도 본 집회는 일단 성공이었다.
그러나 ‘일본의 책임’을 물을 때, 설령 운동을 국제적으로 전개한다는 대의명분이 있다고는 해도, ‘소녀상’으로 상징되는 ‘일본군에 의한 강제연행’이나 ‘미성년 여자에 대한 지속적인 성적 능욕’이라는 ‘위안부상’에 구애되어야 할지 말아야 할지가 문제시되고 있었다.
애초에 일본의 ‘식민지 지배’의 실태는 그러한 ‘물리적인 폭력성’이나 ‘위법성’만으로 설명할 수 있는 것이 아니었다. 그것은 피식민자들 안에서 다종다양한 ‘협력자’를 동원한 데다가, 그들과 그녀들에게 ‘자발성’마저 심어 놓는 교묘한 지배로 이루어지고 있었다. ‘위안부 문제’란 ‘협력자성’이나 ‘자발성’까지를 포함하여 ‘식민지 지배’의 ‘폭력’을 ‘구조적’인 것으로 파악할 단서를 제공해 주는, 어떤 의미로는 상징적인 역사적 사건이라고 생각한다.
3월 28일, ‘지정토론자’로서 발언한 센다 유키씨는 가부장제적인 ‘지배’ 구조를 생각함에 있어서 물리적인 폭력(가정 폭력 등)에만 주목해서는 보이지 않는 구조적인 측면이 있다는 것을 강조했다. 신체적인 폭력은 ‘저항’을 낳을 뿐이며 ‘지배’를 견고한 것으로 만들어 주지 못한다. 오히려 피해자에 대해 ‘협력자성’이나 ‘자발성’을 심는 것이 ‘가부장제’라는 것의 지배 형태다. 그렇다면 바로 그러한 ‘구조’ 그 자체를 비판 대상으로 설정하는 『제국의 위안부』는 ‘제국 일본’의 ‘식민지 지배’를 어떻게 비판해야 하는가라는 물음에 정면으로 마주한 ‘위안부론’으로서 읽혀져야 한다.
그럼에도 불구하고 예를 들어 요시미 요시아키씨는 박유하씨가 《오노다 히로오씨의 증언을 근거로 여성이 장사를 열심히 하기 위해 군인에게 ‘교태를 부리’거나 ‘밝게’ 보이고 ‘즐거운 듯’ 행동했다면 ‘그것은 여성들 나름대로 ‘국가를 위해 애쓰려고 한 것’이라고 말하고 있다》면서 《제국 육군의 장교와 같은 시선으로 논하고 있다는 소리를 들어도 어쩔 수 없는 것이 아니겠는가?》(당일 배포 자료, p.71)라고 박유하씨에게 의심의 눈초리를 보낸다. 그렇다면 요시미씨는 이 인용에 이어지는 다음 문장을 어떻게 읽었을까?–《업자들의 엄격한 구속과 감시 속에서, 자신의 의지로는 돌아갈 수 없다는 것을 안 그녀들이 시간이 지남에 따라 처음의 당혹감과 분노, 슬픔을 억누르고 적극적으로 행동했다고 해서 그것을 비난할 수 있는 사람은 아무도 없다. 노래하는 위안부가 비참한 위안부와 대치되는 것이 아닌 것처럼 ‘교태를 부리’는 웃음도 위안부들의 비참함과 대치되는 것이 아닌 것이다.》(아사히신문출판, p.231)
위안부의 양면성은 ‘가정 폭력 피해 여성’의 그것과 연결지어도 생각할 수 있다는 사고법을 시도한 것이 박유하씨였다고 한다면, 《여성들이 절망적인 상황 속에서 어떻게 살아 남으려고 악전고투했는지 하는 관점이 결여되어 있다》고 말하며 박유하씨의 작업을 내쳐버려야 하는 이유는 어디에 있는 것인가? 박유하씨와 요시미씨는 같은 것을 다른 입장에서 말하고 있을 뿐이 아닌가? 두 사람이 대립되는 것처럼 보인다면, ‘위안부 문제’의 배경에 있는 ‘구조적인 문제’ 전체를 바라보지 않고, ‘눈에 보이는 일차원적인 피해’에 초점을 맞춰 문제의 해결을 서두르고자 하는 역사 연구나 지원 운동의 전술에야말로 그 이유가 있는 것이 아니겠는가? 그야말로 ‘노래하는 위안부’ 등은 존재해서는 안 된다는 식의 고정관념이 ‘위안부’에 대한 이해를 어느샌가 일면적인 것으로 만들어 버린 것이 아닌가 하는 느낌이 든다. 지원 운동 속에조차 뿌리 깊을지도 모르는 ‘매춘부’ 차별이 그러한 것처럼.
어찌 됐든 앞으로의 ‘위안부 연구’는 박유하씨가 끈질기게 파헤친 ‘양면성’을 균형감 있게 시야에 넣고, ‘가해자/피해자’의 전체상을 확인하는 일이 주류가 되어 갈 것이다. 그리고 그땐 『제국의 위안부』를 그냥 폄하하기만 하는 ‘위안부 연구’ 따위는 존재할 수 없을 것이다. 내가 ‘등 짚고 넘기’를 비유로 든 것은 바로 그러한 미래를 전망해서이고, 멀리 내다보면 ‘등 짚고 넘기’는 이미 곳곳에서 시작되고 있다.
예를 들어, Fight for Justice(편)의 『Q&A 조선인 ‘위안부’와 식민지 지배 책임』(오차노미즈쇼보, 2015)은 『제국의 위안부』 비판을 여러 곳에 집어넣은 구성으로 되어 있는데, 《병사와의 연애나 심정적 교류가 있었을 수 있다고 해도 트라우마 연구에 의하면 가혹한 현실을 살아남기 위한 반사적 행동, 스톡홀름 증후군이라고 판단됩니다》(p.55)라는 김부자씨의 서술 하나만 봐도 『제국의 위안부』의 문제 제기와 함께 읽음으로써 한층 더 생생해지는 말이라고 생각한다. 단, 김부자씨는 《일부분을 전체화해서 ‘같은 일본인으로서의 <동지적 관계>’라고 하기에는 무리가 있습니다》라고 못을 박아 모처럼 열린 회로를 닫아 버린다. 그러나 ‘식민지 지배’란 지금 와서 보면 지극히 취약한 것이라고 밖에 생각할 수 없는 <동지적 관계>를 광범위에 펼침으로써 견고한 실효 지배를 가능케 했던 것이 아니었던가?
박유하씨가 조선 반도나 대만의 위안부를 생각할 때에 중시한 ‘동지’적 관계성은 ‘식민지 지배’가 가져온 ‘효과’ 중의 하나일 뿐이었다. 이러한 측면의 강조는 ‘식민지 지배’에 대한 보다 깊은 이해의 길은 열어 줘도, ‘일본의 면죄’를 도출하거나 하는 이야기는 되지 않는다. 이 책에 대한 ‘오독’이 있을 수 있다고 한다면, 그것은 애초에 ‘일본의 면죄’를 꾀하고자 하는 자들에게만 어울리는 일이고, ‘일본의 책임’을 깊이 숙고하려는 마음을 함께 가지고 있는 ‘우리들’이 조심성 없이 추종해서는 안 될 일이다.
나는 ‘식민지 지배’란 안팎으로 헤아릴 수 없이 많은 ‘협력자’를 생산하는 시스템이었다고 생각한다(‘글로벌화’도 그러하다). ‘식민지 지배’를 억지로 추진한 ‘제국 일본’의 폭력성을 빠짐없이 들추어내는 것은 필수다. 그러나 ‘식민자=가해자’, ‘피식민자=피해자’라는 단순한 ‘도식’은 역사의 세세한 부분을 잘 안 보이게 만든다. 이 사실을 재차 강조해 두고 싶다.
지면에 다소 여유가 있어서 마지막으로 나카노 도시오씨가 ‘총정리’에서 발언한 《일본 군인과 ‘위안부’를 공통으로 ‘피해자’로 묶는 인식》에 대해서 약간만 보충을 해 두고자 한다.
나는 ‘제국 일본’의 식민지 지배나 전쟁 수행에 있어서의 ‘가해성’, 특히 그 ‘가학성’에 대해서 눈을 감고자 말하는 것이 결코 아니다. 나는 ‘위안부 제도’는 전장에서의 보다 광범한 ‘전시 폭력’의 일부로서 파악해야 한다고 생각한다.
또한 한반도에서의 ‘식민지 지배’와 관련해서는 3.1 독립운동의 ‘진압’이나 관동대지진 때의 ‘조선인 학살’ 등, ‘민족 정화’와 연결된 폭력의 기억을 어떻게 계승할 것이냐 하는 커다란 문제가 눈앞에 있다(이러한 문제에 대해서도 앞으로 의견 교환의 장이 조직되었으면 좋겠다).
하지만, 설령 그런 문제들과 ‘이어져 있다’고 하더라도, ‘위안부 문제’는 ‘가해의 중층성’이 더해져 문제를 복잡하게 만들고 있다. 또한 이 문제에서는 ‘피해자’측에서 할 수 있었던 대응에도 개별 사례마다 차이가 있다. 『제국의 위안부』는 이 복잡한 구조를 가진 과거에 마주할 때, ‘식민자=가해자’, ‘피식민자=피해자’라는 단순한 ‘도식’에 의거해서만은 진상 규명조차 어렵다고 말하고 있다. 우리들은 이 복잡한 문제를, 오늘날까지 계속되는 ‘식민지주의’, 또는 ‘인종주의’ 문제와 연결지어 한꺼번에 ‘해결’하려고 서두른 나머지, 해당 문제가 안고 있는 고유의 어려움을 외면해야만 한다는 딜레마에 직면했다. 바로 이 사태를 따져 묻고 있는 것이 『제국의 위안부』인 것이다.
‘위안부 문제’에 관한 한, 일본인과 한국인은 각각 ‘가해자성’과 ‘피해자성’을 ‘나누어 가지’고 있다. 물론, 그 정도나 양태는 다르며, 그 차이는 위에서 말한 ‘민족 정화’적인 사고(=인종주의)가 관련되어 있다. 하지만 『제국의 위안부』를 진지하게 받아들인다는 것은, 한일 양국민이 서로 짊어지게 된 ‘가해자성’을 외면하지 않고, 전 위안부 분들 앞에서 함께 자세를 바로 하는 일. 타자의 ‘가해자성’을 고발함으로써 자신의 ‘가해자성’을 탕감하려고 하는 심성에서 자유로워지는 일. ‘자기 면책’의 욕망에서 자유로워지자는 요청에 한일 양국민이 각각의 입장에서 응답하는 일이라고 생각한다. 이 책이 한국어판과 일본어판, 둘로 존재한다는 것의 의미는 거기에 있다.
그리고 ‘가해자성’만을 떠맡는 일이 고통스럽다면, ‘피해자’였을지도 모르는 우리들 자신의 다른 한 측면과 묶는 형태로라도 그 부담을 견뎌낼 것. ‘피해자 의식’을 통한 ‘연대’의 가능성을 배제해서는 안 된다는 나 나름의 주장에 담긴 속뜻이란 그런 것이다.
니시 마사히코
‘위안부’ 강제연행, 박유하 교수의 반론 본문 보기
출처: 한겨레신문
날짜: 2016년 2월 5일
朴裕河*
1. 批判の方式について
1) 虚偽の摘示
2) 内容の誤解と縮小
2. 批判の内容について
1) 軍人と慰安婦
2) 軍人と業者
3) 朝鮮人慰安婦
3. 批判の態度について
1) 表象
2) 曲解
3) 陣営の論理
4) 傲慢
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* 世宗大学国際学部教授。
『ナショナル・アイデンティティとジェンダー―夏目漱石で見た近代』(文学ドンネ、2011);『和解 のために』(根と葉、2005)。
批判の方式について
1) 虚偽の摘示
『歴史問題研究』33号に集談会「若い歴史学者たち、『帝国の慰安婦』を語る」[1]が掲載された。彼らの批判もやはり在日同胞学者、鄭栄桓と同じように誤読と曲解、そして敵意に満ちた内容だったことと、[2]一人の学者の悩みに対する基本的な尊重すら見られない乱暴な言葉が精製されないまま学術誌に掲載されたことに対し、まず先に深い遺憾の意を表する。
批判は全体の文脈を把握して、その中で各記述がどんな脈絡で使われているかを辿りつつ行われなければならない。しかし彼らは、私が本の中で批判した挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)に対しては「脈絡まで」(前掲集談会、561頁。以下頁数のみ記す)辿らなければならないと言いながら私の本に対しては脈絡どころか書かれている内容さえないかのように扱う。彼らの批判が論旨に対する具体的な反論ではなく、印象批評に偏っていることは、彼らが慰安婦問題の研究者ではないため、仕方がないことだが、それならより一層謙虚でなければならなかった。そういった性急さと隠蔽については先に言及した鄭栄桓に対する反論も参照してほしい。[3]
彼らの批判がどれくらい性急な誤読に基づいているかを示す代表的な例を一つだけ先に提示しておこう。私は『帝国の慰安婦』の2部3章、すなわち慰安婦の再現の問題を取り扱った部分でアニメーション『少女物語』の問題と、一人の慰安婦ハルモニの証言が時間が経つにつれて次第に変わっていった事実を指摘したことがある。『少女物語』の場合、ハルモニの証言がアニメーションの中でどのように変形されたかを指摘しただけなので、この部分がハルモニを批判したわけではないということは明らかだ。また、後者に関しても、私は「そのような変化は意識的な嘘というよりは、聞く側の期待がそうさせた側面が大きい」と書いた。続いて「そういった意味において、慰安婦の証言に違いがあるからといって慰安婦たちだけを非難することはできない。また、そのような証言を聞きたがっていたのは、かえって私たちだといわなければならない。(…)被害者であることを確認するための民族言説は表面的な被害認識以外のすべての記憶を抹殺しようとする」[4](以下、「『帝国の慰安婦』、頁数」で本文に記す)と書いた。
そういうふうに、この部分の批判の対象が私たち自らが被害者であることを確認するための民族言説であることを明らかにしつつ、「見たくないものを永遠に見ないで済むようにしてくれる」ことを願う私たちの中の欲求について言及してからこう書いた。「しかし、70歳になるまで過去の自分の姿を直視できないのでならば、それは過去の傷が深いからというよりは、傷を直視して乗り越えようとする勇気が足りないからというしかない。あるいは、私たちがまだありのままの自分を認めて抱きしめる自分への愛より、他者の目に美しく見えることを願う欲求のほうが大きい未成熟の状態に留まっているからとしかいいようがない。もう自分をありのまま受け入れたくないのか」(『帝国の慰安婦』、134)と。
ここで問題にしている対象が慰安婦ではなく、私たちであり、解放後の韓国であることはあまりにも明確な事実だ。しかし若い学者たちは「慰安婦の経験をした人々にこんな反省と批判を強調することは、実は無理があるのに、著者はこの批判を彼女たちに集中させます。例えば<70歳になるまで過去の、(…)未成熟の状態に留まっているからとしかいいようがない>といった表現のようにです。勇気の不足、未成熟などと責め立てています」(550)と非難する。事実、この部分は『帝国の慰安婦』を告発した人たちが最初の告発状で摘示した109ヶ所の中の一つであった。支援団体は以後、私が反駁文を提出したら、指摘内容を半分に減らして、告発趣旨まで変えたが、この部分はそのとき消えた指摘のところだ。若い学者たちの中に訴訟文書の作成に直接関わっていた人がいるかどうかは分からないが、そこで問題とした内容もやはりこの人たち主張と同じだった。
解放後70年という時期にハルモニが70歳であるならば、解放の頃に生まれたという話になる。当然慰安婦の体験をしたはずもない。この集談会はこのような、笑うことすらできない誤読に満ちている。
彼らは『帝国の慰安婦』の33頁に出てくる笑っているイメージの使用を問題にして、写真の位置が意図的(554)であることが明白だとしながら、卑怯だとかいう人身攻撃までためらわないが、33頁はもちろんのこと、32頁にも34頁にも彼らが指摘した、慰安婦の数が20万人より少なくて、相手にした数も少なく、恋愛もするような存在だったといったくだりは、この写真の載っている部分には出てこない。何より、イメージの使用位置は出版社が決める。明らかに私を道徳的に問題のある人だと誣いるための虚偽であり、根拠のない誹謗である。彼らの批判は残念ながら鄭栄桓におとらず悪意的で、その歪曲水準が犯罪的だ。
また、『少女物語』に対する私の指摘をめぐって、私がないことを話したかように誣いるが、私がこのアニメーションを見たときは確実にあった。私は根拠のない批判はしない。また、私は『帝国の慰安婦』の批判に対する反論に「表現の自由」(543)、「学問の自由」(543、572、575)といった単語を使ったことがない。表現の自由という名で擁護しなければならない問題的な記述自体をしなかったから当然のことだ。このように彼らはしてもいない行為をしたかのように語って、虚偽に基づいた誹謗に集中する。
2) 内容の誤解と縮小
彼らはこの本を民族主義に対する批判と見ているが、この本は旧日本帝国に対して韓民族の後裔の一人として責任を問うている本だ。だからあえて民族に対する距離を尋ねるなら、むしろ民族主義的な本だ。挺対協に対する批判は、民族主義批判そのものでなく、民族主義を利用しているか、捕らわれているリベラル左派に対する批判だ。挺対協の代表が日本に右翼を監視するシステムがないといって、日本を変えなければならないと力説したことは、そのような構造と無関係ではない。[5]それは日本のリベラルが夢見ていた日本社会の改革と通じる話だったが、同時に挺対協の運動も慰安婦問題よりリベラルが世の中を変えるような政治的問題に重点が置かれていたということを示す。しかし、自分たちの主張と異なる考え方に対しては、一概に右翼と見做して非難してきたリベラルの運動方式が日本の反発を深化させたと書いたところをもう一度読んでほしい。
したがって、私にこの本の中で民族主義を「ぶち壊す」(578)というような意図がある理由がない。私はすでに民族主義批判を試みたし、もう民族主義批判は私にこれ以上大きな関心事ではない。[6]
繰り返すが、『帝国の慰安婦』は民族主義批判ではなく、帝国主義批判の本だ。2014年秋に出た日本語版が日本で肯定的に受け入れられたのも民族主義を批判したためではなく、彼らの帝国の問題を語ったためだ。私に対して好意的に評価した個人と言論がほとんどリベラル系であったということもそれを証明する。彼らは私の本を正確に読んでくれた。[7]特に日本のリベラルの学者たちがこの本をどのように受け入れたのかについては、最近出てきた論文でよく整理されているので、参照してほしい。[8]20年余りの慰安婦問題史の整理の中で私の本を公正に評価してくれたのが韓国ではなく、日本の方だということは極めて残念である。
したがって、「植民地内部の位階を考慮しないせいで、帝国については語るが、植民地については語れないようです」(551) 「同志的な関係を著者が発見したことは事実だとしても、帝国全体に対する批判に進まなければならなかったですね」(551)といった批判は、彼らが本をまともに読んでいないということを物語っているだけだ。私が慰安婦の「苦痛から顔を背け」(575、576)たという主張も同じだ。
『帝国の慰安婦』は朝鮮人慰安婦に対する日本軍人の差別と暴行に言及することで軍人と慰安婦間の位階関係、すなわち植民地内部の位階を取り扱ったし(『帝国の慰安婦』、142~164)、慰安婦と帝国、慰安婦とアメリカ、慰安婦と韓国を見ることで、日本はもちろんのこと他の帝国に対する批判も試みた。[9]
「公娼は帝国主義の移動と定着を支えた場所」(『帝国の慰安婦』、277)、「そうして帝国作りに参加した国家はすべて自国の男性たちのために慰安婦を必要とした」(『帝国の慰安婦』、278)、「帝国はそのように祖国を離れた商人たちが(…)言い換えれば、彼らが国家の勢力を拡張し、経済を豊かにする任務を遂行する道から離脱しないように管理する」(『帝国の慰安婦』、279)といった記述は全部その文脈で書かれた。この本の題名が『帝国の慰安婦―植民地支配と記憶の闘い』である理由も、朝鮮人慰安婦とは日本帝国に動員された慰安婦だったことを示すためであった。
すなわち、今まで戦争問題としてのみ理解されてきた慰安婦問題を帝国の問題として理解すべきだということがこの本の趣旨であった。朝鮮人慰安婦とは、朝鮮が植民地になり、日本帝国の一部として包摂されたせいでできた存在であるがゆえに、その帝国の責任を日本国家に問おうとしたのがこの本の目的だった。
言ってみれば、彼らは本の中に明確に存在する帝国批判を看過、もしくは無視した。彼らが『帝国の慰安婦』が植民性批判のないフェミニズムの本で、私が提示した慰安婦像は帝国の責任を消滅させると考えるのもそのような根本的な誤読と曲解がさせることだ。フェミニズムに対する私の立場は夏目漱石という近代日本の知識人の帝国主義的意識を批判した私の他の本を参考にしてほしい。その本が私の原点でもある。[10]私はアジア女性基金が解散した後、慰安婦問題についての関心が極めて少なかった2010年に、その年にしなければならないことは他でもない慰安婦問題の解決だという内容のコラムを共同通信発の記事で日本に向けて書いたこともある。[11]
1) 軍人と慰安婦
批判者たちは『帝国の慰安婦』における慰安所の様子が「あまりにも平和」だといいながら「ロマン化」(553)された再現を試みたという。しかし、こういう指摘はこの本の半分しか読んでいないことを物語っている。慰安婦に対する日本軍の暴行とレイプについて言及したところを再読してほしい[12]。また、再現というのは表現者の主観が入らなければならないが、私は慰安婦の証言集を引用しながら分析し、その結果を客観的に述べただけである。
批判者たちの反発は基本的に慰安婦問題を朝鮮人の女性が日本人の男性に被害を受けたこととして理解することから始まる。むろん、そういう理解は間違っているわけではないが、そういう理解だけでは慰安婦問題をまともに把握したことにはならないというのが私の主張だった。朝鮮人慰安婦問題とは、性差別と階級差別が民族差別以上に直接的な機制になり女性たちを動員した事件だった。
日本軍に犠牲を要求された女性はまず、日本人であった。日本軍は1911年、鎮海に駐屯基地を作るとき、既に軍人専用の遊郭を基地の設計図の中に入れ、日本本土から女性たちを呼び込もうとした[13]。日本軍が慰安婦を必要としたのは遠く離れて来た自国の男性のためであるだけに、自国の女性が一番適切な相手と見なされていたのは当然なことだ。批判者たちは私が日本人慰安婦と朝鮮人慰安婦を「等置」(573)しているといっているが、私は日本人慰安婦と朝鮮人慰安婦の位階についても明確に言及した[14]。慰安所で日本人女性の賃金が最も高かったと述べた理由も彼女たちの間にある位階関係を説明するためであった。
批判者たちは日本軍が朝鮮人慰安婦を保護したとでもいうのかと反発するが、保護は必ずしも搾取の反義語ではない。一方では搾取しながらも、搾取し過ぎる業者や規範にはずれた軍人から慰安婦を「保護」(553)したのは、朝鮮人が日本人の代わりの存在だったからである。言い換えると、朝鮮人慰安婦は朝鮮人だったが、日本の国民でもあったので保護の対象になることができた。
特に憲兵は、軍人と慰安婦と業者の間で彼らみんなを監視し管理する存在だった。「あのね、憲兵隊じゃないと、軍人たちは怖がらないです。憲兵隊じゃなければね。どこか行って酔っぱらってくる奴らもいたからね。そしたら憲兵隊が来て調査しました。憲兵隊でいっぱいになった。そういうのは憲兵隊が処理してたのよ。[15]」という証言を参照してほしい。日本政府が調査しアジア女性基金が発行した5冊の資料集にも、軍人たちの暴行などを軍上層部がどう処理したかをまとめた資料が含まれている[16]。「海南島の慰安所は軍隊が上から一定の指示をした。海南島では最初は、相当の期間中、1割ずつもらった。しかし軍隊の責任者が代わると、収入の6割を女性たちに与えて4割を抱え主が取るように取り決めてくれた[17]」という証言も国家・軍人が慰安婦を保護する面も持っていたということを示唆する。
ところが、私は軍人たちの暴行とレイプの情況がわかる資料を通じて日本軍と朝鮮人慰安婦の関係が明瞭な位階関係だったことも確かに指摘した。したがって、『帝国の慰安婦』に軍人と慰安婦の間の差別性があらわれていないとし、日本の責任を問わなかったという指摘は、指摘者が本を偏った視線で部分的に読んだのをあらわすのみである。私が慰安婦に対して軍需品という表現を用いたのも、軍人にとって慰安婦とは品物に過ぎなかったという意味だった。よって、責任主体の対象から軍を抜いたとしたり責任を「抽象化」(546)したというのは彼らの誤読の結果だ。
批判者たちは慰安婦の恋愛に拒否感をあらわしているが、慰安婦に頼まれてモルヒネとその他の軍用薬品を盗もうとした軍人が発覚され、重営倉30日に処分された事実[18]もあった。むろん、こういう事実を指摘したとしても、男性と女性、もしくは朝鮮人と日本人との差別、位階関係が消えるわけではない。
彼らは私が言及したケースを例外に見なしたがっているが、こういう情況が例外ではなかったという証拠はどこにもない。かえって、例外に考えたがっている心理は慰安婦の体験を疎外させることだ。聞き手のそういう心理こそがまさに「私は満州のことを誰にも話さない。恥ずかしくて……。家にああいうふうに来て質問したら、やられたことだけ話してあげるのよ。[19]」といったような反応を助長したことでもあった。
「慰安所から出て朝鮮人軍属と一緒に軍指定の鉄工所を経営」[20]し、「手榴弾のような武器も製造して修理もする軍需工場を経営しながら軍属として月給」をもらった経験がある人の口述を記録した人は「書類にはこの部分が漏れていることを確認」したと書いた。可視化された数字や事例だけが全てではないのだ。
私が用いた同志的な関係という概念はこういう重層的な構図を表現した単語だった。日本帝国が戦争を進めることによって、植民地だった朝鮮はその構図の中に入ってしまった。その情況を、私は国民動員として見なした。また、戦争対象国との関係で日本人と朝鮮人は同じ日本人として存在したということが同志的な関係の1次的な意味だった。実際に慰安婦ハルモニの中では慰安婦とは軍人の面倒を見るものだったと証言した人もいた[21]。2015年8月に出た一資料には慰安婦が軍属だったとまで書かれている[22]。もちろん、そういう情況を見ることが直ちに「同じ位置」(550)や「同等性」(551)を主張することになるわけではない。
「正式な看護師は数人しかいなくて私たちのような人が多かった。患者からは臭いもしていて(…)私たちはそういう患者の面倒を見る仕事をした。患者たちに食事のときに梅干し一個と重湯一茶碗を持っていって渡し、口を怪我して食べられない患者には横にさせたまま口を開けさせて飲ましたりもした」(強制連行された朝鮮人慰安婦たち1,178)との情況はかえって慰安婦たちが国防婦人会員の勤労挺身隊と同じ役割まで要求されていたことを明確にあらわしている記述だ。同志的な関係であることをいった理由の一つは朝鮮人日本軍と似たような枠で理解するとき、補償要求が逆に可能になるからでもあった。私は「強制徴用された人たちを排除」(558)したどころか、むしろその概念を慰安婦問題解決に適用しようとした。物理的な強制連行という理解を中心に不法性だけを主張してきた支援団体や研究者たちのやり方に問いをかけ、私のやり方を提案したのだ。
批判者たちは「他のところは別として日本は北朝鮮と韓国には(補償)しないと。台湾までもそうしなければ。そこでも姓も名前も日本式に直されたからね。私たちは国のために行かなければいけないといわれ日本人扱いされていたのよ。こういうふうにして連れて行ったから必ず補償しないと。しかし、中国、フィリピンはみんな営業用で稼ぎに行ったんだよ。だからそちらはしなくていい。」[23]という声に耳を済ませなければならない。私が同志的な関係という単語に含ませた1次的な意味はそういうことだった。また、強制連行と主張している支援団体を批判していた慰安婦の存在も振り返らなければならない[24]。彼女たちは例外的な存在ではなかった。したがって、支援団体や学者たちによって排除される理由はない。
2)軍人と業者
彼らは業者に対する私の指摘に反発しながら、抱え主を「発見してそれに意味を与えることが果たして正当なのか」(546)と非難するが、私はすでに10年前の著書で業者に対して指摘したことがある。25従って業者という存在は、私にとって全く新しい存在ではない。にもかかわらず再び言及した理由は、慰安婦問題で国家の搾取に覆われて見えていなかった、帝国主義に加担した業者の搾取に対して述べたかったからだ。
また私は、業者を朝鮮人のみだとは規定していない。特に強調はしなかったが、動員される現場にはほとんど日本人と韓国人が一緒に現れたという事実を確かに指摘した。特に規模が大きかった遊郭などは、却って日本人の業者の方が多かっただろうと推定する。26 だが、前線に出て行ったり、規模が小さかったりした業者の中には朝鮮人が多かったと見られるため、「日本人抱え主の比率は50%以上」(547)という断定に同意することは難しい。朝鮮人慰安婦の方が多かったなら、彼らを管理する者は朝鮮人業者が多かったという推定の方が合理的だ。
業者について述べた理由は日本の責任を弱めさせるためではなく、慰安婦の自由を拘束したのは「服は良い物を着せる。なぜかといえば、それは借金。あれが金で着させて借金を返せと。しょっちゅうやっている」27 という証言が示しているように業者たちだったからだ。「金山は客を逃すと言って、私たちを外に出られなくした」(強制的に連れていかれた朝鮮人軍慰安婦1,203)というように、業者が慰安婦を直接監禁して強制労働を課していた状況が、今日に続くことでもあるからだ。慰安婦の問題とは、実は業者の経済/利潤の問題でもあるという事実、つまりこれらを搾取した者の存在まで見なくては慰安婦問題の全貌を見ることはできないというのが、私が業者の存在を強調した理由だ。
女性たちを満州に連れていく業者と女性を中心人物として登場させている、チェ・ミョンイクの小説『張三李四』にも業者が登場して「満州や北支で金を稼ぐには、娘っ子を使った商売が一番みたいだな」と言っており、「営業するには満州かね、北支かね」といった質問に「行かなかったところはないさ。最初の4~5年は前線をついて回ったけど、あんまりにも大変なんで、それからは大連に落ち着いていた。新京に来てからは子どもたちに全て任せて、俺は去年で辞めた」「本当のこと言うと、金を稼ぐならあれほどの稼業はないぜ。何てったって女の子たちの管理の大変なこと。2~30人も抱えてりゃ、あらゆることが起きる…。それでもどうかすると、病にかかるのはお決まりのこと、そんでも人間だから、病気なら薬を飲ませないわけにはいかないけど、そうすると金はかかるし営業はできない。まぐれで治ればいいけど、ぽっくり死にでもしたら千ウォンほどの葬儀代まで持ってかれる」「病で死んだ子たちも、死にたくて死んだわけじゃないだろうし、それならマシな方だろう。勝手に惚れやがって生きるだの死ぬだの言っていたと思ったら、情死するか逃げ出すのがお決まり…」という言葉で、当時の時代的な状況の一端を見せている。この朝鮮人業者は汽車の中、人々の面前で人身売買してきた女性を殴打するほど苛酷だった。28
当時、誘拐魔と呼ばれたハ・ユンミョンの行為と少しも変わらない「抱え主の涙も人情もない行為」に対しては当時の警察も怒りを感じており、又売りした所に照会して最後まで救い出す方針で努力」していたことがわかる。警察は「女性が凶悪な抱え主の手から再び北支に売り飛ばされる前に、それこそ危機一髪」直前に救助したこともあった。つまり、植民地の警察は抱え主の犯罪行為を取り締まっていた。この事実は、国家と業者の関係が少なくとも犯罪行為においては共犯でなかったということを示している。29
まだ明らかにはされていないが、慰安所に継続して女性を供給していた大規模な業者は、少なからぬ富を築いたと推定することができる。そうした経済的な搾取者の責任を問うべき理由は、慰安婦問題が下位に置かれた民族、性、階級の問題という事実は共有されながらも、未だ貧困層を搾取した中産階級の責任は問われたことがないからだ。また、私が業者について再び論じた理由は本にも書いたように、支援団体が解決の方法として法的責任を主張してきており、その主体に国家のみを想定してきたためだ。私は法的責任を問える根拠が犯罪にあるとするならば、当時からすでに犯罪視されていた業者にまず問うべきであると考えただけだ。それは「責任を抽象化」(546) することではなく、責任問題を鮮明にすることだ。構造全体を見てこそ、再発を防ぐことができるからでもある。
1937年に上海派遣軍が慰安所の設置を決定し、西日本各地の遊郭に協力を要請した30 時、最初はこの話に誰一人として応じなかった。その内にある遊郭が協力し、その後、他の遊郭の主人たちも加担するようになった。一方では「朝鮮人が引率してきたため、無理な点もあった。徐州戦の時は華北から軍について来たが、武漢攻略戦で華北から移動した第2軍と行動を共にした者、第11軍について入城した者、上海から来た者など、その経路は様々だったが、開場当初から武漢の兵站が呼んだ所は一ヵ所もなかった。韓国で慰安所を開設したいという彼らの希望によって、積慶里に収容したのだった」31という状況もあった。日本人だろうが朝鮮人だろうが、国家政策に積極的に協力した彼らがいたからこそ、慰安所が可能だったのだ。
そうした彼らの責任を問う理由は、日本国家という大悪の責任を問うことが、小悪の責任を見落とすことになってはならないと考えるからだ。小さな悪、協力した悪に対する考察と告発なくして、国家の横暴に対する加担と協力を防ぐことはできない。私が業者の問題を提起した理由は、まさにそこにあった。
3) 朝鮮人慰安婦
彼らは私の問題提起が、慰安婦に対する認識を80年代に立ち戻らせたものにすぎないと言っている。しかし、このような指摘は「韓国人は常に貧しいから、綺麗な娘たちが了解得て働きに行くのよ。その時、50ウォンや100ウォンもらったら期限は5年にするとか、3年にするとかして。戦争や日本人にやられた人は実際に多かったからね。お金稼ぐために行く人は多かった」[25]という証言、慰安婦本人ですら認識できていた構造に耳を塞ぐことになる。植民地化は経済的搾取構造の中におかれることであり、政治的支配はそのような差別・搾取構造を容易にするためのものでもあった。
「特要員と呼ばれる娘子軍、つまり海軍用慰安婦には大阪の飛田、松島の遊郭とその周りの私娼、神戸の福原遊郭からの女が多かった」と証言した日本人業者が朝鮮人慰安婦の存在を認めなかった[26]という事実は、朝鮮人慰安婦が任務を果たし得たとしても、真の日本人として認められることの難しさ、つまり差別の本質的な様相をあらわしている。言い換えると、「特要隊の女は朝鮮と沖縄の人だけで、内地の人はいなかった」[27]という事実を直視せずに、朝鮮人慰安婦に、既存の理解とは別の意味において、最も苦しい仕事が要求されていたという事実も理解することはできない。
慰安婦体験は同じ時期、同じ場所でのものですら同一ではない。たとえば、どのような服を着ていたか、という質問に対してある慰安婦は「そのころは服なんか持ってませんでした。でも、中には日本のキモノ着てる女もいたね。年上の女たち、彼女らは日本語も勉強したからできるし、その人たちは日本語できるからヘイタイサンに好かれたね、言葉通じるから。私たちアホみたいな子たちはね、まだ若かったし何が何かよく分かんなくて、こうしてって言われたらこうして、ああしてって言われたらああして、だから何の楽しみもなくただただ生きてて、解放だって言われて死ぬ思いで出てきた。みんな出てきたでしょう、私たち30人くらい一斉に出てきたけど、あの人たちどこ行ったんだろう、日本に行ったかどうか。日本に行った人は多かった、日本のほうに」[28]と答えている。
支援団体が主張してきたような虐殺とは違った場面にも注目しなければならないはずであろうが、上記の引用から分かるように、彼女たちと日本軍との関係が年齢、日本語の熟練度、そして性格によっても異なっていたという点には一層注目しなければならない。慰安婦の証言集には本人の体験も記述するが、このように他の慰安婦についても記述する。若い学者たちの反発は、このような多様性から目をそらすことにしかならない。慰安婦たちはありのままのことを語り、それがありのままに証言集に掲載されたが、そのような多様な声が一つとなって再現された結果が、現在の慰安婦像である。そのような問題の過程を批判し、結果を見ようと言ったのが私の本であった。
私は「愛と平和と同志が一緒にいたとしても、慰安所が地獄に等しい体験であった点に変わりはない」、「たとえ自発的に望んだとしても、彼女たちに人から醜業と呼ばれていた仕事を選択させたのは、彼女たちの意思とは無関係の、社会的構造であった。彼女たちはただ貧しかったり、植民地の女だったり、家父長制における女性であったりしたために、自立を可能にしてくれる別の仕事のための別の教育(文化資本)を受ける機会が得られなかっただけであった」、「彼女たちがそのような醜業に自発的に向かったとしたら、その表面的な自発性を引き出したのはいかなるものであったかということについて考えなければならない。それは、男性であり、軍隊であり、国家であった。そして日本帝国であった。つまり、慰安婦とは、あくまでも国家と男性、そして隔離された男性集団を作り出す戦争というものが必要としたために生じた存在である。慰安婦における自発性とは、本人は意識していなかったにせよ、国家と男性と家父長制からの差別(選別)が作り出した自発性にすぎない。そして、彼女たちは、爆弾の炸裂する最前線ですら、暴力にさらされながら兵士たちの欲求をみたしてあげなければならなかった」と、『帝国の慰安婦』に明記している。日本へ責任を問うた理由も、朝鮮人慰安婦の本質を上のように規定したからである。若い学者たちから言われたような本だったら、責任を問う理由などない。
1) 表象
彼らは、私の提示したことが慰安婦の「代弁」(555)を自任したことであり、「本当」(555)の姿を見せようとしている本であるかのように言っているが、私はそう書いたことがない。私は、見えない様相を見ようと言っただけで、その理由はすでに述べた通りである。「真実は存在しない」(587)といえばよかったのではと、彼らは言っているが、それこそ私が言おうとしたことである。相反する二つの像は、両方とも真実であっても、一方だけにこだわる限り、結局いずれも真実ではなくなるというのが私の主張であった。
にもかかわらず、たとえば笑顔の慰安婦写真を活用したことを批判しながら、私は卑怯(554)だと言っている。しかし、写真説明に書かれているように、その笑顔から「望郷の念」(『帝国の慰安婦』、33)を読み取った日本人記者の眼差しも見せようとしたものであった。雑誌に掲載しながら私の使った、記者の説明付きの原本を使わず、写真だけ取り上げて私のモラルを読者に非難させようとした行為こそ卑怯なことに他ならない。
彼らが単に写真を「見心地悪い」(554)と感じるのは、期待し希望する女性(慰安婦)像とかけ離れているためであろうが、それは彼らの内部における女性嫌悪が呼び起こすことであろう。彼らが、私の引用して記述した惨酷な慰安婦像については触れず、自発性・売春と思われる資料にのみ注目するのも同じ所以である。言い換えると、既存の理解におさまらない慰安婦像に対して不愉快な感情を持って否定することこそ、ありのままの慰安婦像を否定し「排除」(557)することに他ならない。そのような行為こそ、結果的には慰安婦たちの尊厳と名誉を毀損することである。
軍人との楽しかった思い出を語るハルモニをめぐって、あえて軍人の「いじめ」(568)であったと述べるのも似たような感情がさせることであろう。彼らは、私が慰安婦について「暴力的に」(572)記述したと言っているが、当事者の感情を無視するような断定こそ、彼らの言っている「権力」(568)行使である。基金を受けた慰安婦たちが、ただ「焦り」(561)のせいで「揺れ」(561)てしまったとする断定も同じである。彼らは基金を受けて涙を流した慰安婦たちの存在を、知ろうともせず、排除する。支援団体がそうしたように。
彼らとしては、お父さんのほうを一層恨んでいるという慰安婦の発言や、慰安婦は「軍人の面倒をみる者」という慰安婦自らの証言も受け入れたくないだろうが、このような例を「誇張」(558)や「破片」(569)化と見なしたがっている心理こそ、彼らの内部に存在している排除の欲望がさせることである。
彼らの慰安婦排除は、「解決という前提を先に用意していること自体も間違」った(587)という言葉から見ても明らかである。補償と解決を願っている慰安婦たちを「暴力的」に無視しながら、彼らはむしろ私を「権力」と名付け、弱者を侮辱する強者と表象する。
2) 曲解
私が日韓の和解を「万能薬」(565)とみなしており、和解に「執着」(565)したあまり「個人を韓国と日本の和解のために動員」(551)し、(朴裕河が)「和解が実現するだろうと思う瞬間は大統領と総理が会う瞬間です。」(551)という憶測までをも彼らが厭わないのは、恐らく徐京植ら在日韓国人の知識人の『和解のために』批判を安易に借用した結果であろう。[29] しかし私が10年前に『和解のために』を書いたのは、彼らの言動からも分かるように日本に対する我々の態度から韓国社会の深刻な問題が浮き彫りになっており、それに伴う社会的な消耗が少なくなかったからだ。和解をして終わらせようということではなく、和解のために議論の地平を共有しようと言っているのであって、そのために我が社会に足りなかった情報と認識の補充を試みたのであった。
日韓の和解に関心を持ち始めたのは、実は私たちの中にある葛藤や分裂、左右・南北対立への関心からだった。もし私の関心が日韓和解にのみあったなら、米軍基地についてはふれなかったであろう。私が目指しているのは東アジアの和解であり、当然南北の和解も含まれている。日本についてのみ言及しているのは、私が語れるほど理解している対象が日本だけであるからだ。
3) 陣営の論理
彼らは、挺対協が私を告発していないとしてその自制心を褒めたたえていたが、実は挺対協も告発を検討していた。[30]
挺対協に対する私の批判は、民族主義への批判ではなく、前述のように彼らにも現れている当事者の排除に対してであった。元慰安婦のハルモニたちの中には国民基金の存在さえ知らない方もいるし、挺対協が主張してきた法的責任そのものを認識していなかったり否定するハルモニたちもいる。[31]
若い学者たちは、「ばあさんたちは殆どが亡くなっている。なのに、募金は受け取るな、それれは汚い金だ、それをもらったらファニャンニョン(訳注:売女、汚れた女)だ、こんな聞くに堪えないことばかり言っていたよ。」(強制的に連れていかれた朝鮮軍慰安婦たち5、117)、「今、挺対協は1億5千万ウォンを要求している。そんなんじゃ、千年の時間が掛かっちゃうかもしれない。年老いたおばあさんたちは、1億5千万ウォンなんてどこに使うんだ? 私たちは年取って死んでいく。どこからでもいいから、くれるお金をもらって使って死ぬと。多くはこうなんだ。別の思惑があるわけではない。おばあさんたちの要求も無理ではないし。また、挺対協は(国民基金を与えないように)日本に噂を広げているみたい。だから、基金をくれるなということなんだ。」(強制的に連れていかれた朝鮮軍慰安婦たち5、116)といった昔からの愚痴にも耳を傾けてほしい。
挺対協の運動方式の強制連行された少女を強調する[32]ような少女に対する執着は、慰安婦の間で違いを産み、売春への差別を助長する。それは元慰安婦たちが声をあげられるようにしてくれた、すなわち、社会の冷たい視線から守り、堂々と行動できるようにしてくれた挺対協の元々の趣旨からもかけ離れていることだ。しかし、挺対協は相変わらず売春とは一線を画したがっており、もはや挺対協と意を共にしていた日本人学者たちもこれに対する疑問を抱くようになった。[33]
挺対協は今も慰安婦の人たちは殆んど死亡したと言っているが、実際には慰安婦の殆どは中国人が攻めてきたため、抱え主と一緒に家から追い出されて、捕虜になって収容所に入れられ、朝鮮には戻りたくなかったが、「慰安婦がいっぱい」(強制的に連れていかれた朝鮮軍慰安婦たち1、69)乗せられた船に乗って帰国したと、慰安婦たちは証言する。彼女たちは「女性だけでも500人あまりいた」収容所にいたが、「大体1000人」(強制的に連れていかれた朝鮮軍慰安婦たち1、208)は乗っていた引揚船に乗って韓国に戻った。
彼らの考え方は、私の女性主義が「現政権の女性家族部と同じような立場に留まっている」(549)と言ったり、ニューライトを引き合いに出すことからも分かるように、陣営の論理にとらわれている。私の「ポジションが曖昧」(548)だと言っている若い学者たちに、小説家の慎重かつ繊細なアプローチの姿勢[34]を見習うことを勧める。
4) 傲慢
彼らはこの本を大衆向けの本だと規定しながら、もう一方では一般の人に向けて執筆したことを問題視している。私があえてこの本を学術書という形にしなかったのは、一般の人々が慰安婦問題をきちんと理解してこそこの問題が解決できると考えたからだ。すなわち、この問題において既存の権力を持っていない人々に向けて、言葉をかけるために、一般の人向けに書いたものであって、実際、これに応えてくれたのもマスコミと一般市民だった。[35]
ところが、彼らはただ学会誌に発表していないという理由だけで大衆向けの本だという。しかし、この本は、学際的な研究をまとめた本であり、[36]したがって一つの学問の枠組みで判断される学会誌に投稿する理由はない。何より、最初から一冊の本として書いたものだった。この本が「学会のこれまでの研究を抱擁しようとしない」(581)というが、慰安婦問題を考察する上で必要なものは十分に言及している。特定の学界で認められようとするものではないので、すべての先行研究が言及されなければならないわけでもない。特に「学会を批判しようとする意図」(581)を持ったことはないが、国レベルの問題になっているにも関わらず、韓国人の慰安婦問題研究者が極めて少ないという現状が残念に思えたのは事実である。慰安婦研究はその90パーセント以上が日本人によるものだ。20年以上問題視されてきたのに、韓国人による研究は決して多くなかった。だから、韓国人であり文学研究者であったからこそ見ることができた部分をまとめてみたのである。慰安婦問題に対する韓国の認識が一つではないのも、私の責任ではなく、支援団体や当該学会の責任ではないだろうか。学会で認められた人身売買の実態や業者、日本が行ったことを関係者が公に知らせなかったがゆえに、韓国では慰安婦問題への大衆的な理解が同じではない状況が生じた。私の本が専門家向けなのか、大衆向けなのか「どんな地点に立っているのか中途半端」(580)であるものに見えたのであれば、その責任は私にではなく、関係者に問うべきである。
拒否感(549)から出発した彼らの批判は、私が恣意的な解釈に基づき、慰安婦を「意図的」(554)に利用していて、そのための「安全装置」(544)を使っており、「卑怯」だとまで言っている。それだけでなく「初の試みでもないし、ユニークなものでもないし、だからといってきちんとやっているもの」(566)でもない「大衆向けの本」(561,572、581)というふうに私の本を全否定した挙句、私に「自らを顧みる」よう(571)説教までしている。私に対する呼称も「この人」(547)「自分」(559)という言葉を使う彼らの傲慢に、それでも応答する理由は、遅ればせながら彼らの今後の研究姿勢にプラスになってほしいと思ったからだ。
誤解と偏見なしに読んでもらえば、そして示された資料に謙虚に向き合ってもらえば、『帝国の慰安婦』は、元慰安婦の名誉を棄損するどころか、元慰安婦を売春婦と呼ぶ人々に向けて売春を再意味化した本である事実、それによって元慰安婦の名誉を傷つけてきた人々に対する批判を試みた本であること、また、慰安婦問題における搾取の問題を問う本であることが分かるだろう。「著者のやり方は間違っている」(584)と一言でこき下ろす彼らの傲慢から私は「若い歴史学者たち」の知的危機を見た。覇気はいいが、傲慢は、知を成熟させる前に疲弊させる。(『歴史問題研究』34号、2015・10、古川綾子訳)
[1] 『歴史問題研究』33号、2015。
[2] 鄭栄桓、「日本軍「慰安婦」問題と1965年体制の再審判」、『歴史批評』111、2015。
[3] 朴裕河、「日本軍慰安婦問題と1965年体制」、『歴史批評』112、2015。
[4] 朴裕河、『帝国の慰安婦』、根と葉、2015、133~134頁。
[5] ユン・ミヒャン代表東京YMCA講演、2012.6.9.
[6] 朴裕河、『反日民族主義を越えて』、社会評論、2004; 朴裕河、『ナショナル・アイデンティティとジェンダー』、文学ドンネ、2011.
[7] 朴裕河、前掲書、2015、462~464頁。
[8] 岩崎稔・長志珠絵、「「慰安婦」問題が照らし出す日本の戦後」、『記憶と認識の中のアジア太平洋戦争』、岩波書店、2015。この文章の翻訳文をフェイスブック2015年10月30日の「ノート」に掲載した(http://www.facebook.com/parkyuha)。
[9] 朴裕河、「第4部 帝国と冷戦を乗り越えて」、前掲書、2015、第1章。
[10] 朴裕河、『ナショナル・アイデンティティとジェンダー』、文学ドンネ、2011(原本である日本語版は2007年出版)。
[11] 朴裕河、「現論 慰安婦問題で対話を」、『岐阜新聞』外、2010.2.20.
[12] 朴裕河、前掲書(2015)、142-162頁
[13] 竹国友康『ある日韓歴史の旅』朝日新聞出版社、1991、119-120頁、1911年に作成された遊郭の設計図は日本軍によるものであり、女性の斡旋を依頼した相手が「東京業者」にだけ集中されていたという事実を明らかにしている。
[14] 朴裕河、前掲書(2015)、158頁とその他
[15] 対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲者等支援委員会『聞こえますか』2013、110頁
[16] 女性のためのアジア平和国民基金編『政府調査従軍慰安婦関係資料集成』1−5、1998
[17] 韓国挺身隊問題対策協議会『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』1、ハンウル、1993、281頁
[18] 中支那派遣憲兵隊『陸軍軍人軍属非行表』1941.11、注釈16の文献2
[19] 韓国挺身隊問題対策協議会『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』4、プルビット、2001、207頁
[20] 韓国挺身隊問題対策協議会『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』3、ハンウル、1999、262頁
[21] ペ・チュンヒ(ハルモニ)のインタビュー、2014.4
[22] 波佐場清『「慰安婦は軍属」—辻政信が明言』2015.8.3(huffingtonpost blog : http://www.huffingtonpost.jp/kiyoshi-hasaba/comfort-wemen_b_7922754.html)
[23] 韓国挺身隊問題対策協議会『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』5、プルビット、2001、116頁
[24] ペ・チュンヒ(ハルモニ)の電話録音記録、2013.12.18.
25朴裕河,『和解のために-教科書・慰安婦・靖国・独島』根と葉,2005
26西野瑠美子,『日本人‘慰安婦’-愛国心と人身売買と』,現代書館,2015.
27対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会,前の本,p177.
28チェ・ミョンイク『雨降る道』,『チェ・ミョンイク短編選』,文化と知性社,2004, p233~235
29『毎日申報』1941.3.21, 日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会, 『戦時体制期の朝鮮の社会性と女性動員』
30長沢健一,『武漢慰安所』,図書出版社,1983(翻訳は朴裕河)
31上記の本
[25] 韓国挺身隊問題対策協議会、『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』5、1999、118頁。
[26] 西野瑠美子、前掲書。
[27] 城田すずこ、『マリアの賛歌』、かにた出版部、1971、166頁。
[28] 対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会、前掲書、115頁。
[29] 朴裕河、「『右傾化』の原因を先に考えなければ―徐京植教授の『日本のリベラル』批判、異議あり」『教授新聞』2011.4.18.
[30] 発刊当時の挺対協関係者のFacebookや民弁(民主社会のための弁護士の会)所属の弁護士からの伝言によるもの。
[31] インタビュー動画を撮影しているが、本人が公開を望まないため、詳細は省略する(2014.2)
[32] 挺対協が監修したとされるアングレーム国際漫画祭資料集『散らない花』(女性家族部、2014.6)は、オオカミに囲まれた少女(156頁)など、脅威や恐怖などのイメージとともに日本軍に連れていかれる(133頁)という物理的な強制連行が中心となっている。ソウル市が後援した挺対協主催のイベントポスターには「朝鮮の少女20万人、日本軍によって殆どの人が虐殺され、朝鮮に生きて戻れた少女は2万人あまり、被害者として登録しているハルモニは243人」と書かれている(2014.3)。
[33] 2015年9月にDMZ映画祭に出品された、キョンスン監督の映画『レッドマリア2』で長井和は、2014年の夏のシンポジウムで挺対協元代表が朝鮮人は「売春」ではないとして日本人慰安婦と区別しようとしていたと言い、難色を示した。
[34] 2015年9月13日、コ・ジョンソクはツイッターで「朴裕河と李栄薫は、本人たちはどう考えているか分からないが、全く違う。二人を区別することが出来ず、一概に非難するのは韓国民主主義の水準の表れであり、朴裕河の繊細さに対して李栄薫の社会的ダーウィニズムと一緒くたにして賛美するのは韓国ニューライトの水準の表れだ。哀しきかな!」と書いている。
[35] 2013年8月発刊以降、『京郷新聞』を筆頭に『プレシアン』『韓国日報』など、少なくないマスコミが本書のレビューを掲載した。また、告発直後にFacebookで出会った顔も知らない市民たちから擁護や支持をいただき、その出会いがきっかけとなり小さな平和市民団体を発足させるに至った。この過程はリベラルの問題をリベラル側の市民たちが認識し共有していく過程であった。
[36] 蔣正一、「原点を直視すること、または複雑性に向き合って」、『東アジア和解と平和のための第3の声討論会』、』2005.2.
역사문제연구 33, 2015에 대한 반론 본문 다운로드