日韓関係、問題はどこにあるのか ― 2.「歴史司法化」を超えて (1)新日鉄徴用判決を読む<5>

<5>「日韓併合不法論」の問題

しかし、このような国際社会の状況は、2012年と2018年の判決の際、ほとんど参照されなかったように見える。そういう意味で、この判決はその是非はさておくとしても、<外国を相手にしながら極めて国内的な視座に基づいて下された判決>と見るべきだ。そうである限り、このような判決に基づく考えが国際社会に出会った時(仲裁委員会や司法裁判所)、相手を説得できるとは言いがたい。

にもかかわらずこのような「異見」が国民に向けて発信されることはほとんどない。勝者の声しか伝わらない「判決文」というものの構造上、少数(政府の外交保護権がないとしたのは13名の中の6名なので半分近くだが)の判事たちの意見に注目する者はいないのである。新日鉄判決は、90年代以後から声を発してきた一部の法律家・法学者たちの主張に権威を与え、結果的にメディアの報じる勝者の考えと「異なる」考えは、受け入れないし参考にもしない全体主義的な社会への加速化に一助した。

労働にせよ徴用にせよ、日帝時代の労働者たちのオーラルヒストリーは、厳しい体験の数々で、粛然とさせる。社会の死角地帯に潜む矛盾が現れてその矛盾が生じた被害を救済するための法は、常に遅れを取るものだから、そういう意味では必要ならば新しいシステム=「法」が作られて当然である。
しかし、今回の徴用判決における要求が未払賃金=財産ではなく「慰謝料」であるなら、すなわち日帝時代の動員(を含んだすべての「国民」に対しての義務の負荷)自体を「不法」と見なした上での慰謝料であるなら、その対象は労働者だけではない。「精神的な苦痛」という被害にまつわる要求ならば日本語使用や日本式姓名などのあらゆる強制に対して慰謝料の請求が可能だと強弁することもできる。また、提岩里教会事件、関東大震災による被害者など、いまだに可視化されていない被害者も少なくない。そのような被害者をめぐる歴史清算はいかに可能かを考えるのも残された課題である。

しかも司法府は、「日本人の個人請求権」のことは念頭に置いていないようだ。徴用問題が浮上する中で、「個人請求権は存在する」と主張してきた弁護士側の主張しか報じなかったメディアは、河野外務大臣が「個人請求権は存在する」と述べたことを取り上げ、「表裏不同」(京郷)、「ファクトの吐き出し」(ハンギョレ)、「詭弁」(連合・JTBC)と非難したが、河野外務大臣の発言は「日本人の個人請求権」を念頭に置いてのものだったと見るべきである。原告側の弁護士たちと韓国のメディアの指摘した「(日本官僚)柳井の個人請求権に関連する国会での発言」で、実は柳井が言及したのは「日韓両国の個人請求権」であった。

日韓政府の処理した韓国の個人請求権が有効なら、アメリカが処理した日本の個人請求権も有効である。周知の通り、日本人が朝鮮で所有した土地や炭鉱や会社などは、解放後、アメリカの仲裁を経て朝鮮人の所有となった。にも関わらず、いまだに日本人名義の土地が少なくないということは(2019年2月27日付<民衆の声>)植民地支配の後遺症は韓国だけのものではない、ということを語ってくれる。日韓協定は、朝鮮人だけではなく、日本人の個人請求権も放棄した協定でもあった。

韓国政府は、国際社会では司法による外交や政治への介入に慎重だと指摘する国際法学者たちの助言を傾聴すべきである。日韓会談で「植民地支配」に対する謝罪がきちんと議論されなかったのは、参加国のほとんどが植民地を所有していた連合国が中心であったサンフランシスコ講和条約の限界と言える。講和条約の時代的な限界を見据えることと、当時の補償金に徴用者たちの死亡、行方不明、負傷に対する補償が含まれていたという事実を直視することとは、相矛盾するものではない。
多数の判事たちは日韓会談の過程で韓国が「要求額を満たしていない3億ドルだけ受け取った」ことを、原告側の正当性を裏づける資料として用いたが、80年代以後、全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領が日本に100億ドルを要求し、最終的に40億ドルが再支給されたという事は認識されていなかったようだ。

「司法府」の判決はもちろん尊重されなければならない。だが、歴史問題が政治外交問題と化した以上、「司法府の判断」が絶対的な権威を有する必然性はない。
全国民が注目する問題であるがゆえに、国民大多数の納得も必要である。が、判決の前提であった「日韓併合不法論」は韓国内においても少数の学者による意見に過ぎず、しかも日本に受け入れられにくい論理である。そうである以上、この判決に日本が納得する可能性は皆無に近いと考えなければならない。2018年の判決はそのようなものであった。

判決文には大韓民国の徴用者を含んだ労務者たちに、1970年代に91億ウォンを、2000年代に約5500億ウォンを支給した、という事実も記されている。漏れた人が存在するのであれば当然配慮されなければならないが、そのためにも日本と韓国政府の行ったことは全国民に共有される必要がある。

この問題が仲裁委員会に付され韓国政府がもし国際社会で失敗した場合、韓国政府に与えられる打撃は決して小さくない。前面に出たのは少数であっても、その後の打撃はすべての国民が受けねばならないのである。であれば、すべきことは明確だ。もう一度、事態の原点に立ち戻って考えてみることである。(以上、原文は2019年6月4日。朴裕河ホームページに掲載)

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日韓関係、問題はどこにあるのか ― 2.「歴史司法化」を超えて (1)新日鉄徴用判決を読む<4>

<4>国際法学者の考え

 今回の判決は2012年に原告が敗訴した日本の裁判所と、韓国の下級審で敗訴した訴訟に対して原告勝訴の判決が下されて高等法院に送られて再上告された結果である。つまり、今回の判決と2012年の判決とは、内容的にそれほど変わらない。
 しかし、アカデミズムの方からは2012年判決に対する批判が提起されていた。たとえば、ソウル大の李根寬(イ・グングァン)教授はこの時の判決について、「国内法的な思考をそのまま国際的な次元へ投射」した判決だとして批判する。「釜山高等法院とソウル高等法院が徴用者たちの控訴を承認したのは、外国の判決に対しての承認に関する法理を誤解」した結果だと述べるのである。
 李教授は先述した少数の判事たちと同様に、個人請求権は日韓協定に含まれて消滅したと主張している。会談過程の文書に「被徴用韓国人の補償金」と明記されていると言うのである。
 また、「両国および両国の国民間の請求権(未収金および補償金)は解決」されたとする考えが、協定後の韓国政府の公式解説書、1966年以降の(徴用者などのための)国会立法、2005年に日韓会談文書が公開されてから作った国務総理傘下の官民共同委員会の公式意見において確認され、2009年に日本から受け取った3億ドルに個人請求権が含まれていたので請求権の行使は難しいとする外交部の報道用資料もあるという事実を付け加える。
 判事の多数は、韓国政府が会談過程で「強制動員被害に対する補償」を要求したことを認めつつも、それは「公式見解」ではなく担当者の交渉資料でしかないため、そのような要求が日韓協定に含まれたとは認めがたいと判断した。しかし李教授は、当時の韓国は「生存者、負傷者、死亡者、行方不明者、そして軍人・軍属を含んだ全体的な被徴用者に対する補償を要求」したがゆえに、たとえその資料が参考資料であっても、韓国が「個人の被害に対する賠償を請求権交渉の対象に取り入れたという事実を示す」ものになるとしている。
 また、受領金額の名分をめぐって両国の政府が激しく対立したことを紹介しながら韓国側にとって請求権問題は単なる金銭的な問題ではなく「日韓の間の不幸な過去の清算という、決して譲れない名分と関係することを明らかにしたもの」であり、「この協定において不幸な過去の清算という象徴的な意味は大きく、韓国人の被害に対する補償を含ませることが協定受容における絶対的な条件であった」と言う。まさにその理由で文面が「請求権問題の解決および経済協力」というふうに折衷されたと言うのだ。最後まで日本はその金額が「植民地支配に対する賠償ではない」と主張したがったが、当時受け取った金額を単なる「経済協力資金に決めつけてしまうことは韓国政府が一貫して主張してきた立場と食い違」うだけではなく、植民地支配を否定した「日本の立場を追随する」ことになる、というのが李教授の主張である。
 さらに李教授は、この問題を考える上で大きな参考となる重要な事実を教えてくれる。それは、たとえ日本が「日韓合併不法」を認めなかったとしても、それは請求権問題の解決とは関係ない、ということだ。李教授の言葉に従うなら、「日本は併合の不法性を認めていなかったので、協定で受け取ったお金に賠償的な性格を持つ金額が含まれることにはならない」と考えた判事たちの前提そのものが崩壊してしまう。
 李教授は、「国際関係において片方の国が国際法上の責任を認めない基礎の上で、一定の金額を支給して他方の当事国との紛争を解決する場合はしばしば存在する」とし、国内法においても和解という名のもとで折衷するケースに言及する。日本が併合の不法性を認めているか否かに関係なく(つまり日韓協定を通じて受け取ったお金に賠償の性格があってもなくても)日韓両国の政府は植民地支配問題が「協定対象にされ、解決されたという点においては意思の合致を見せている」と言うのである。すなわち、喧嘩した後に合意にたどり着く場合も、その和解金の意味に関してはそれぞれの当事者が自分の都合のいいように考える場合が多く見られるが、国家間の場合も同様だ、ということになる。
 この判決の要は、「1910年の併合は不法だったのですべての労務動員は基本的に強制かつ不法だ」ということの他に、「1965年の協定において植民地支配による被害は棚上げにされた。よって、賃金問題などが解決されたとしても動員と労働の過程で被った被害に対する「慰謝料」は請求されなかったし補償も行われなかった。したがって、個人請求権は有効である」というところにある。だが李教授は、協定に植民地支配に対する補償のことが文中に明示されていなくてもなかったとしてそのような内容が含まれていると考えるのである。
 李教授は、「人権」に関する認識が強化されつつあるにも触れながら、国家が処理した事柄に対して個人の権利を求める動き自体は必然的な現象だとし、個人請求権の提起そのものには否定的でない。また、国際法はこのような動きに関して国内法の動きに追いついていないところもあるため、国際社会も個人の権利を考慮するように勧告している、という説明も忘れていない。
 しかし同時に、国際社会は「外交的保護権の行使と関連し、まだ国家に相当の裁量権を与えている」と述べる。人権問題はもちろん重要だが、「厳然たる国際社会の現実とかけ離れて先走ってしまう場合は国家間の紛争を頻発させ、当為的立法論を現実的解釈論として誤認させる恐れ」があるとも言うである。
 実際、イギリスやアメリカなど、人権問題に厳しい民主国家においても外交問題に対する「司法自制の原理」が宣言されたと述べて「慎重な態度が必要だ」とするのが、2018年と類似した判決を下した2012年の徴用問題判決に対する李教授の意見である。フランスなどにおいても、特に外交問題に関しては(最終的な判断は司法府が下すが)、大概は伝統的に行政府の意見を照会し、尊重すると言う。「ある一つの国家が外交問題をめぐって二つの声を発してはならない」と考えるためだと言うのである。
 もう一人の国際法学者鄭印燮(チョン・インソップ)教授も、「ある国家が他国との間で、自国民の請求権に影響を与え得る合意にたどり着くことができなければ、国際関係において国家間の外交交渉と妥結は、その存在意義がなくなる。一般的に言って、国家間の合意とは、個人権利をめぐる紛争を最終的に解決するための最後の手段として試みられるもの」だと主張している。

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日韓関係、問題はどこにあるのか ― 2.「歴史司法化」を超えて (1)新日鉄徴用判決を読む<3>

<3>少数の法官の判断

 つまり、「強制された併合」(不法体制)の下で、欺罔や殴打などの暴力的な「不法行為」の伴う労働をさせられたとするのが多数の判事の考えであった。このことに対する補償要求(慰謝料請求)が、1965年の協定の時点ではなされていなかったから、個人請求権も外交的保護権もまだ有効、と考えたわけである。
 しかし、この考えに反対した判事たちの意見も、判決文には書かれている。
 その中の二人は、1965年の日韓協定によって「個人請求権」は消去してもう残っておらず、その後の韓国政府が協定に定められた義務を果たしてもいるので、個人請求権はもはや存在しない、と述べている。この件のために政府が動くこと、つまり国民に対する外交的保護権もないとしていた。
 二人の判事はこの問題が「基本的には請求権協定の解釈をめぐる問題」であることを明示しつつ、条約解釈は、「条約の文言に与えられている通常の意味に基づいて誠実に解釈」されねばならないとしている。意味が曖昧な場合は協定当時の文脈を見るべきとし、請求権協定には明確に「両国および両国国民の財産と両国および両国国民間の請求権に関する問題を解決することを希望」、「完全かつ最終的に解決」、「いかなる主張もできな」いと書かれているので「両国の国民はこれ以上、請求権の行使が不可能」との意味に解釈せねばならない、としているのである。
 「締約国の間においてはもちろんのこと、国民の間においても完全かつ最終的に解決されたと解釈するのが文言の通常の意味に合っており、単に締約国の間で外交的保護権を行使しないことにした、という意味には読めない」とするのが、多数の意見に反対した判事たちの考えだった。
 また、韓国側の条約協定解説に「我々の要求はすべて消滅、韓国人からの各種の請求権などが完全かつ最終的に消滅」したと書かれており、当時の張基榮(チャン・ギヨン)経済企画院長官が「無償3億ドルは被害国民に対しての賠償の性格」と発言し、実際に韓国政府は何度かにわたって補償を実施した、というのが少数判事たちが示す別の根拠である。1965年の協定はすべてのことを一括処理した協定であり、一括処理協定は国際慣習法的な観点から見て一般的なものであるため、国家が補償あるいは賠償を受けたならば、その国家の国民は個人請求権を行使することができず、「請求権協定を憲法や国際法に違反するものとして無効とみなしのでなければ、否応なくその文言と内容に従わなければならない」と言うのである。
 個人請求権そのものが残っていないので訴訟を起こす権利もないとし、徴用者を含む労務者たちに1970年代の91億ウォンの他にも、2005年以後およそ5500億ウォンが支給されたことも少数判事たちは付言している。
 その他、植民地支配に対する慰謝料としての請求権は1965年条約には含まれていなかったのでまだ残っているが、外交保護権は(国家が外交手段で国民の問題を解決せねばならないとする、政府の義務)当時の両国間の合意によって消滅したとする意見を述べた判事も4人いた。
 「大韓民国と日本の両国は、国家間の請求権に関してだけではなく、片方の国民にとっての相手国およびその国民に対しての請求権も協定対象としたことが明白で、請求権協定に対する合意議事録(1)に請求権協定上の請求権の対象に被徴用請求権も含まれるということを明らかにして」おり、「当然<植民地支配の不法性を前提とした賠償>も請求権協定の対象とするものとして相互に認識しているように見える」と判事たちは述べる。
 また2005年に、官民共同委員会も1965年の協定によって受け取った3億ドルには被徴用損賠請求権が含まれていると見なし、政府が「請求権協定から長期間にわたってそれに基づく賠償の後続措置を取っ」たとした強調している。
つまり少数の判事たちは、日韓両国が当時「補償」と「賠償」を区別していなかったと考えていた。ただ、国家間に合意したとしても個人請求権自体が消えるわけではないので、訴訟の権利はまだ有効としていた。
 判決は、個人請求権は有効とする結論を下した。しかし、個人請求権はもう残っていない、もし残っているとしても政府がその権利を保護せねばならない(保護に乗り出ねばならない)ものではないとする意見を持っていた判事は、全13人の中、6人であった。

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日韓関係、問題はどこにあるのか ― 2.「歴史司法化」を超えて (1)新日鉄徴用判決を読む<2>

<2>判事多数の判断–個人請求権は有効だ

 この判決をめぐる主要論点は、植民地支配による被害に対する「個人請求権」がまだ存在するのどうか、という点にあった。
 しかし今回の判決に判事全員が賛成したわけではない。半分以上の判事が個人請求権は有効としたが、その理由を以下のように述べている。
 当時の韓国政府が、「他国の国民を強制的に動員することで被らせた被徴用者の精神的、肉体的な苦痛について言及」(強調筆者)し、「12億2000万ドルの要求額のうち3億6400万ドル(約30%)を強制動員被害補償に当てるものとして算定」するも、それは「大韓民国や日本の公式的な見解ではなく、具体的な協議過程で交渉担当者が口にした言葉に過ぎ」ず、担当者の被徴用者の苦痛に関する言及は、「交渉において有利な位置を確保しようとする目的ゆえの発言に過ぎないものと見なし得る余地が大」きい、と。
 さらに、韓国が12億ドル以上を要求したのに「請求権の協定は3億ドルで妥結」されたので、「このように要求額を満たしていない3億ドルのみ受け取った状況では、強制動員をめぐる慰謝料請求権をも請求権協定の適用対象に含まれるとは言いがたい」としている。日本が「具体的な徴用/徴兵の人数や証拠資料を要求したり、両国の国交が回復された後個別的に解決するための方法を提示するなど、大韓民国の要求にそのまま応じることはできないとする立場を披瀝」して反発していたので、当時の日本が韓国の「被害賠償」要求に応じたとみなすことはできない、としているのである。
(日本は、個別に証拠を探し出して請求権を算定するのは容易ではなく、結局は金額が少なくなるはずだから、有償/無償の経済協力という形で金額を上げるやり方で請求権問題を解決しようとした。)
また、請求権とは「植民地支配の不法性に基づく請求権」であったが、「日韓条約に植民地の不法性は言及されていないので植民地支配による被害に対する賠償」は含まれていないと見なすべきだとしている。つまり、日本からのお金は、文面のみならず実質的にも経済協力資金で、植民地支配に対する賠償性格を持つものではなかった、とするのが判事多数の判断であった。判決は、そのような主張が多数だった結果としてのものだった。

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日韓関係、問題はどこにあるのか ― 2.「歴史司法化」を超えて (1)新日鉄徴用判決を読む<1>

2.「歴史司法化」を超えて

(1)新日鉄徴用判決を読む

<1>判決文の前提―日韓併合不法論

韓国大法院(日本の最高裁判所に当たる)の徴用問題判決に抗議し、仲裁委員会の設置を要求(2019/5/20)した日本に対する非難の声が高い。しかし、2018年10月に出された新日鉄徴用判決を含む朝鮮人徴用問題に対する政府間の協議を2019年1月に要請した日本が、韓国政府からの答えを待たずに仲裁委員会設置の要請に移ったのは、「韓国政府のできることには限界がある」とした李洛淵(イ・ナギョン)総理の発言が原因だった(2019/5/21、河野外務大臣の記者会見)。国内的な対応が困難であれば仲裁委員会の設置に応ずるべき、とした河野外務大臣の指摘は、残念ながら論理的には正しい。
今からでも韓国政府は日本の要請した政府間の協議に応じるべきだ。第三者が介入することになる仲裁委員会が動くことになれば、決して韓国に有利にはならないからである。国際法の専門家による意見に関しても後述するが、韓国の論理と態度は、世界に共有されている普遍性とはかけ離れているように見える。

4ヶ月間も政府が大した動きを見せなかったことの表面的な理由には、「司法に対する尊重」というものがあった。しかし、肝心なのは司法そのものではなく、判決における正当性である。
重要な事案であるだけに大統領は当然この判決を読んだはずだが、だとすれば青瓦台の無対応は(注-2019年6月19日に両国の企業による財団設置を提案。この文の原文は5月に書かれている)単なる「司法府尊重」を超え、「判決内容自体に対する同意」である可能性が高い。実のところ文在寅大統領は、2000年に釜山で起きた三菱重工業に対する初訴訟において、原告側の弁護人をつとめた人でもある。

新日鉄が被告となった徴用判決において、大法院は新日鉄に、徴用「被害者」に対して一億ウォンを賠償すべしとする判決を下ろした。ところで、ここでの一億ウォンとは世間の理解とは違い、未支給賃金に対しての賠償金額ではない。大法院の判事たちが被害者への支給を命じた金額は、「不法な植民地支配および侵略戦争の遂行と直結する日本企業の反人道的な不法行為」に対する「慰謝料」である。
したがってこの判決は、「徴用者たちが日本企業で働いたのに賃金が支払われなかったから、賃金を支給しなさい」とするものではなく、「日本は、自国国民に対して行ったことと同様に朝鮮人を戦争遂行のための労働に動員した。しかし、日韓併合は‘強制的’に行われたものであり、朝鮮が日本になったことはない。よって動員自体が不法になるので、それに対する慰謝料を支払うべき」とする判決である。この判決には「日韓併合は不法である」という思考が前提とされている。

強制的に押し付けられた日韓併合だから不法、とする主張は、ソウル大学の李泰鎭(イ・テジン)教授によって90年代から訴えられた考えである。だが、この主張は、90年代半ばに日本人学者たちとの激しい論争を巻き起こし、未だにアカデミズムにおいては両方の接点は見出せていない。
そのような合併不法論を大法院が採択したことは、その是非はともかくも、学界でなお議論中の主張を定説として採択した、ということになる。言うならば2018年の判決は、アカデミズム内で議論中の事柄であるにも関わらず、一部の学者たちの主張のみを採択して下された判決である。

このことだけでも、以前言及した「歴史の司法化」の孕む問題が見えるはずだが、問題はさらに他のところにもある。よく知られているように、日本は「日韓併合」が合法であったと考えている。「韓国皇帝陛下は,韓国全部に関する一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝陛下に譲与」し、「日本国皇帝陛下は,前条に掲げた譲与を受諾し,かつすべて韓国を日本帝国に併合することを承諾する」という文章ではじまる条約文を用意しただけでなく、日英同盟と桂・テフト協定をもって朝鮮に対する支配権を欧米に認めさせる手続きも忘れなかったからである。
そういうわけで日韓併合の「不法」性を認めない日本が、合併不法性を前提とする判決を受け入れる状況は想定しにくい。日韓併合不法論は、原告側に味方するための決定的な根拠として用いられたはずだがが、この説に頼る限り、いかなる要求にせよ日本の同意を得ることはかえって難しい。そうした構図を、原告側はもちろんのこと、大法院の判事たちは全く考慮していなかったようだ。

判決文を見れば、日本が1938年に「国家総動員法」を制定し、1942年に「朝鮮人内地移入斡旋要綱」で官斡旋によって人手を募集し、1944年には国民徴用令を制定して国家が主導する徴用対象に朝鮮人も含ませたという事実を明記している。言い直せば、時期によって動員の仕方が異なっており、「法」に基づく動員であったことを明示している。にも関わらず、その差異を区別せず、すべてを「不法の植民地支配および侵略戦争の遂行と直結する日本企業の反人道的な不法行為」と規定するのは、他ならぬ「日韓併合不法論」を前提とするからだ。この判決を下した人々は、「日帝時代に朝鮮人は(法的にも)日本人ではなかった」と考えていたことになる。

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日韓関係、問題はどこにあるのか ― 1.歴史の司法化 (4)日本人と天皇―大統領と文喜相国会議長へ

1.歴史の司法化

(4)日本人と天皇―大統領と文喜相国会議長へ

 

慰安婦問題関係者たちは、2000年の女性国際戦犯裁判で裕仁天皇を「有罪」と断罪した。当時弁護士だった朴元淳(パク・ウォンスン)ソウル市長は、そのような判決が下されるように働きかけた「検事」の一人でもある。

明仁天皇を「戦犯の息子」と呼んだ文喜相(ムン・ヒサン)議長の認識がこの裁判の影響を受けたものである可能性は大きい。そうだとしたら、この発言はあの(模擬)「法的判断」が日韓関係を悪化させたケースであろう。

もっとも、国際女性戦犯法廷は、慰安婦問題が浮上して以降、冷戦崩壊とグローバル化の結果として距離を縮めることができた世界の女性たちが交流の時間と場を増やせた結果として、国境を越えて一つの声を世に出した場だった点において評価できる。しかし、先述したように、「日本人慰安婦」はこの場でも排除されたのであり、そうである限りこの「女性」法廷はその役割を半分しか果せてないことになる。しかも、「法廷」判決としての権威は。慰安婦問題に関する理解をかえって停滞させた。

 

日本と戦争を闘った連合国さえも、裕仁天皇を「戦犯」にはしなかった。軍部と天皇とを分けて考えたからである。ここで、その判決の是非は重要ではない。重要なのは、慰安婦問題に関して十分に理解しないまま、また裕仁天皇を「戦犯」にして処罰する代わりに「象徴」ではあってもなお「天皇」としておいた理由を理解しないまま、50余年後の現代の法官たちが性急な判決を下してしまった、ということである。

 

「処罰」にこだわる人たちは、とかく売春行為を強制した軍人を死刑に処したスマラン事件と比較するが、スマラン事件に対する判決は、国家や軍隊の首長に対してではなく、個人に対するものだった。そして、裕仁天皇が「処罰」されなかったのは、日本国民の動揺に配慮したからである。そこまで連合国は日本のことを理解していた。天皇は、戦争ができないようにした憲法9条と引き換えられ、まさに「平和」を象徴する存在となり、その後の44年間を生きた。

 

しかし、過去の連合国の判断に対する国際女性戦犯裁判の関心は、もっぱら「処罰」に集中された。その判決は、時代的な進歩/革新の様相を呈したが、実際には時代を停滞させた。そして当然の成り行きとして、この判決は慰安婦問題に対する日本の世論を急激に悪化させた。

 

日本の天皇は、日本人にとって政治というより文化である。日本人にとって、国際女性戦犯裁判の判決や文喜相議長の発言は、自らのアイデンティティが否定されたかのように受け止められたのだろう(ただし、文喜相議長の天皇に対する謝罪要求は、支援者たちが主張してきた「法的謝罪」とは対峙する発言でもある。日本はそうしたことも読み取る必要があった)。

 

しかも、天皇でも上皇でも、日本を象徴・代表する者による謝罪があったとしても、慰安婦問題そのものおよび問題の解決過程に対する正しい理解(日本の謝罪など)がない限り、そのことが友好的な日韓関係につながることは望めない。天皇の謝罪で日韓の友愛関係が可能になることを期待するには、誤解と誇張と独善が作り出した相互不信と嫌悪の月日が長すぎる。今のままではたとえ天皇の謝罪があったしても、韓国社会はただ、「一度も謝罪してこなかった厚かましい日本が、国際社会の圧迫に耐えられずようやく屈服した」としかとらえないだろう。

 

この四半世紀の間、歴史問題は法律家・法学者に牛耳られ、法廷は個人の口を塞ぎ政府を操って他国を脅迫する道具と機能するようになった。公正かつ正義の場でなければならない空間、責任を取らされる主体ですら尊敬の念を持つべき空間を、このようなものにしてしまったのは誰なのか?複雑に絡み合う歴史問題を外交・政治問題化し、単純なYes or Noで答えさせるようにしたのは誰なのか?

 

「裁判が(日本企業財産の)差し押え判決を下したのは当然のことだ。日本と韓国政府が司法府の言葉を受け入れれば全ては解決される」(崔鳳泰弁護士)とする主張は、まさに今日の司法の権力化の現場を露にしている。

 

もちろん、その措置が正しければ、司法という権力の使用は尊いものになりうる。しかし、政府が支援者たち及び日本と協議を重ねて作り得た「日韓合意」に、支援者たちはその中身に問題があるとして反対した。発表直後に(合意を)受け止めると話した元慰安婦もいたにも関わらずその声は埋もれてしまい、そうした状況は現在まで続いている。そうした声を出した元慰安婦・家族に対して、単に「懐柔されたに過ぎない」とする視線は、「当事者中心主義」に重きをおきつつも実際には別の「当事者」の声には耳を傾けなかった、この四半世紀の韓国社会を象徴している。

 

日韓合意に関しては後述するが、その是非とは別に、上記のことは記憶されるべきだ。つまり、司法が歴史を動かし管理する主体となり、個人と政府と他国に対しての圧迫道具として使われたが、いざ「当事者」の声は無視された、ということを。

 

したがって私は、大統領と国会議長に提案したい。日韓関係を回復し、長期的な和解平和を志向するのであれば、対話プロジェクトが必要であると。そして、そこで行われる全ての議論をメディアが国民に伝えることでそれぞれの国民がその議論を聞いて考えることができるようにすべきだと。早く接点を作るべき問題は1年単位で、より長い時間を必要とする議題は5年もしくは10年単位で対話を続けながら学者と関係者が議論し、その議論をメディアが報道するようになれば、両国の国民はそれに基づいて考えつつ喧嘩せずに交流することができる。10年、30年、50年、100年が経過した時点において、それまでの論議を整理し、合意された事項を両国の教科書に反映していけば、いつか、日韓両国は歴史認識における接点にたどり着くことができるだろう。もちろんこのようなプロセスに北朝鮮が参加してもいいはずだ。人はこうしたことを百年の計と呼んだ。

 

あわせて政府は、2005年に日韓協定の文書の公開で浮上した、徴用問題は日韓協定をもって解決されたとする民間合同委員会の見解と、その結論に基づいて政府が被害者たちに補償したこともきちんと知らせる必要がある。議論はそこから始められるべきだ。韓国の人々は、この問題を考えるための十分な情報を、未だ得ていない。

 

洪吉童伝の作家は許筠(ホ・ギュン)ではない、ということが最近になってようやく明らかになったことが示すように、歴史理解には時間がかかる。にも関わらず、支援者たちと法廷は歴史問題に関して自分たちの理解と判断のみが正しい、だからそれに従えと、およそ四半世紀にわたって主張してきた。しかも、新たに知った事実をメディアや国民に公に伝えることもしなかった。その結果が、現在の日韓関係である。(以上、原文は2019年5月12日。朴裕河ホームページに掲載)

日韓関係、問題はどこにあるのか ― 1.歴史の司法化 (3)「歴史の司法化」から歴史「対話」へ

1. 歴史の司法化

(3) 「歴史の司法化」から歴史「対話」へ

ところで、今現在、慰安婦問題と同様のことが、徴用問題をめぐって生じようとしている。「徴用」そのものに対する共通の認識すらいまだに定着していない状態なのに(外村大『朝鮮人強制連行』、李宇衍(イ・ウヨン)の論文などが参考されるべきだ)、司法府は歴史学者の学問的な成果を排除し、法律家たちの主張にのみ応えて彼らの肩を持った。慰安婦問題の場合、支援者たちは司法府の権限に頼って行政府を動かし、国民の税金と(政府支援・自治体支援)国民の寄付金を使って国民のほとんどが自分たちと同じように考えるように働きかけた。先述した崔鳳泰弁護士は、昨年10月の大法院の徴用判決が下されるまでの流れの形成に寄与した核心的な人物でありながら、2006年に挺対協とともに、政府が慰安婦問題に取り組まないのは憲法違反だと主張する訴訟を起こした主役でもある。昨年の秋の判決以降、英雄扱いされつつ多くのメディアに登場した彼は、現に「両政府が自国の司法府の意見を受け入れれば、すべての問題は解決」されると主張している。しかし、今必要なのは、この四半世紀における「法」の関与が、歴史問題の解決に果たして役に立ったかどうかをめぐる検証だ。

「法」は、葛藤解決の最終的な手段として機能し、人類の悠久なる慣習および約束の地位を守ってきた。そこで「法」は共同体の全ての構成員が守るべき「ルール」として作動してきてもいる。その結果として、法は時に人権保護の最後の砦にもなる。そういう意味では「法」の介入そのものは、依然として有効だ。

しかし、だからといって歴史問題をめぐる葛藤に対しての最終的な判断主体が、必ずしも法律家や法廷であるべきということになるわけではない。日韓両国はそのことを知っていたはずで、歴史問題をめぐる認識の接点を探るために、歴史共同研究委員会を稼働させたこともある。この試みは失敗に終わったが、学者同士でさえ接点を見出し得なかった問題を法廷に送り出したということは、相手の主張に耳を傾けることや接点を見つけ出すことを放棄して自分の主張だけを対抗的に言い続けることにしたということでしかない(さらに言えば、歴史共同委員会の失敗の原因は人選にもある。言うまでもなく、相手の主張に耳を傾けつつ接点を見出そうとしたり、より鋭い批判でもって議論を続けていくのではなく自分の主張だけを正しいとする人は学者の中にも少なくない)。

さらに、法廷も、歴史問題に関する判断を下す際は学問を参照しないわけにはいかない。結局、その法廷では「学術的」応酬が行われるようになる。だとしたら、歴史をめぐる学術的論争の場を法廷にするべき理由はどこにあるのか。
歴史学者でさえ、自分の思考を動かない正言として発することは不可能だ。学問というものは、常に更新されるべき運命にあるからである。そういう意味では、ある時点における一つの事態に対する認識において当事者と周辺の人の「全員が完全に」一致することは、構造的に不可能だ。可能なのは、関係者大多数の「合意点」を見い出すことでしかない。周知の通り、実際に法廷でも「合意(示談)」という名のもとでの接点探しはよく行われる。

法廷とは、ある事態を前にして、YesかNoかを明確にしなければならない空間である。YesかNoかという問いかけに答えるとは、問題を限りなく単純化させることでもある。単純化が行われる理由は、法廷という空間で重要視されるのはすでに存在する「法」を違反したかどうかだからだ。その法を違反したことが明瞭で「犯罪」と確定できない限り処罰が不可能になる「法」の性格上、そうしたことを避けることはできない。

慰安婦問題に関わってきた者たちも、まさにその理由で、慰安婦の動員および慰安所という場所が「不法」か否かに注目しつつ、「法」を違反したと強調してきた。関係者たちがいつまで経っても「強制連行」と強調する理由はまさにそこにある。
もっとも、最初の頃は関係者たちは、慰安婦動員は軍人による強制動員だと信じていた。だが時間が経つに連れて、動員過程における物理的な強制性を通せないことが分かると、今度は慰安所での生活における強制性の強調に移行した。後述するが、その主張は、もはや成立しない。
もちろんこのことは、慰安婦問題において日本や日本軍の責任がないということではない。

より大きな問題は、そのような「強制性」の強調が、慰安婦問題を国家と国家(民族と民族)との間の問題としてしか理解しないようにしてしまった、という点にある。「日本人慰安婦」の存在が忘れられた理由もここにある。「日本人慰安婦」の存在は、「日本軍(国家)」による強制連行」に対する疑問を起こすほかないものだからだ。慰安婦問題が、関係者たちが強調してきた結果として今や大統領までも口にするようになった「人権」問題ならば、当然「日本人慰安婦」の存在も注目されなければならなかったにも関わらず、彼女たちはこの四半世紀の間、徹底的に忘却されてきた。他ならぬ「人権」問題に直接関わってきた者たちによって、である。

他の理由もあろうが、日本人慰安婦問題が注目されなかった理由は、「慰安婦問題の司法化」にもある。慰安婦問題は民族同士の問題以前に男女問題であり階級問題との認識を全く持っていなかった「法至上主義」は、慰安婦問題をもっぱら<日本軍が「他国」女性を奴隷同様動員した国家間問題>、というふうに理解させた。

もちろん「歴史の司法化」には良い機能もあろう。しかし慰安婦問題の場合、問題そのものに対する理解が不十分なまま過去の「戦争犯罪」としてのみ理解されて問題を複雑にしただけでなく、可視化されなかった「被害者」を排除した。

徴用問題の判決をめぐって大統領と外交部が、司法府の決定なので関与できないとしているのは、このような過程を認知していないゆえのことだ。同時に、大統領本人が弁護士として「歴史の司法化」に関与したことがあるゆえのことである可能性も高い(先述した崔鳳泰弁護士によれば、文大統領は2000年に釜山で提起された最初の徴用者訴訟に原告側弁護人として参加した)。

しかし、四半世紀にわたる「歴史の司法化」の過程と結果を、今からでも検証する必要がある。そうでなければ、「歴史の司法化」はさらなる矛盾を生み出し、現在だけではなく、次世代の平和をまで脅かすだろう。その兆しはすでに見えはじめている。

ある事態をめぐる正義を見極める能力は法官たちの専有物ではない。いや、司法がかえって暴力と化した歴史は遠いところにあるわけではない。冷戦時代の人革党事件はそうしたことを象徴する事態だった。

「歴史の司法化」の歳月を振り返らなければならない。支援者たちの主張通り、当事者主義が肝心ならばなおさら、「歴史の司法化」の主役だった代理人・代弁者ではなく、当事者自身の声が聞き取れるような通路が必要だ。私たちがその声を今だ聞き取れていない「当事者」は、実は少なくない。

司法の場は、対立する意見の中、片方の肩を持つことで複雑な事柄を単純化し、それ以上考えさせない。「法」は、歴史問題を扱うのに最適の道具ではないのである。

何よりも、歴史問題が政治かつ外交問題となって国民全体の問題となった以上、その解決は、当事者にとっては言うまでもなく、国民も納得できるものでなければならない。接点にたどり着くための全過程は、内部/外部に向けてそれぞれの接点を見い出すための努力であるべきだ。もちろん、自分と異なる意見を力ずくで抑圧するやり方も退けられるべきだ。そのすべての過程は、同時代のみならず次世代のためのものでなければならない。

日韓関係、問題はどこにあるのか ― 1.歴史の司法化(2) 「法的謝罪」の主張と「訴訟」の武器化

1.歴史の司法化

(2)「法的謝罪」の主張と「訴訟」の武器化

慰安婦問題や徴用問題を政治外交の問題にしたのは他ならぬ支援者たち、特に「法」の専門家の法律家・法学者たちであった。長い年月にわたって、日本のすべき謝罪とは「法的謝罪」であるという主張を展開したのも、その理論的な根拠を提供してきたのも、法律家・法学者たちである。

しかし、ある時代の歴史によって巻き起こされた問題への謝罪が、なぜ「法的」謝罪でなければならないのかに関する議論は今までなかった。詳しくは後述するが、彼らの主張通り、「強制連行―国家責任」であるとしても、それに対する責任を負う仕方がなぜ「法」に基づくものでなければならないのかをめぐってはきちんとした社会的な議論がなかったのである。

90年代以後、日本は幾度かにわたって謝罪と補償を行い、慰安婦ハルモニたちの声と支援者たちの要求に応じたが、そんな謝罪は無意味であり、国会で「賠償」法を制定して謝罪・補償しなければならないとするのが「法的謝罪」の中身である。

ところで、日本の一部の国会議員は1990年代から2000年代初頭にかけて、そのような賠償法を制定するための努力を惜しまなかった。だが、「国家による強制連行でもないのになんで国家犯罪なのか」という反発に会い、結局その努力は挫折した。

であれば、そのような反発の生じた原因を分析するのが手順であろう。しかし、関係者たちはこの反発に耳を傾けたり分析しようとはしなかった。自分たちの主張を省みて日本を動かすため的を射た批判の模索、もしくは新たな接点探しではなく、内容をすり変えた「強制連行」の主張と、「罪の意識も責任意識もない」日本に向けての糾弾、そして訴訟があっただけだ。

2015年末の「日韓合意」に支援者たちが反対した理由はただ一つ、それが「法的」謝罪ではなかったという点にある。そのような主張の問題点に関してはすでに述べたこともあるが、本論の後半でもう一度具体的に述べる。

実のところ、「慰安婦は売春婦だと書いた」とする、文を捻じ曲げた主張も私に対する告訴の表面的な理由に過ぎず、告発者たちが『帝国の慰安婦』を訴えたのは、「朴裕河の活動が私たちの慰安婦問題解決のための運動を邪魔する」という理由からであった。このことは『帝国の慰安婦』に対する告訴状に明記されている。付け加えておくと、そのようなとんでもない主張が盛り込まれている報告書を作ったのはなんとロースクールの学生たちであり、そのような読みのほうへ誘導したのは慰安婦居住施設ナヌムの家の弁護士であった。

慰安婦支援者たちが政府を訴えて勝訴し、政府を動かしたということに関しては先述したが、問題の解決手段として司法府や国際裁判所をすぐさま利用するのは韓国だけのことではないようだ。このような現象について「政治の司法化」「外交の司法化」とする人もいる。だが、より深刻なのは「歴史の司法化」現象だ。

20世紀末に生じ、21世紀に引き継がれた慰安婦問題の中心にいたのは、歴史学者以上に法律家・法学者たちであった。

実際に、慰安婦問題をめぐる議論でよく使われる論理作りでは、歴史学者より法律家の役割が大きかった。その先頭に立った者が、戸塚悦郎という日本人弁護士である。彼は80年代から人権問題を国連にアピールする活動を展開したが、その経験をもとに、国際社会へのアピールを心がけていた挺対協を積極的に手伝った。彼によると、今ではすっかり定着した「性奴隷」という言葉を造ったのも彼である。

90年代以後、挺対協も国連に向けて情熱的に活動したが、クマラスワミ報告書(クマラスワミも法学者である)やマクドゥーガル報告書の提出を可能にしたのは、戸塚のような日本人弁護士たちであるとしても過言ではない。日本では弁護士協会が団体レベルで早くからこの問題に向き合っていた。慰安婦問題や徴用問題などの「被害者」問題に早くから関わってきた崔鳳泰(チェ・ボンテ)弁護士は、彼が被害者問題に関わったきっかけは、日本留学時代に日本人弁護士たちがこの問題に情熱的に取り組んでいる様子を目にしたからだ、と述べている。このような彼の言葉にもそうした状況が象徴的に現れているのである。

慰安婦問題が台頭して間もない頃の1994年に国際法律家委員会が報告書を提出したのも、日本の法律家たちの努力の賜物なのであろう。そういう意味で、国際社会が慰安婦問題を見る視座作りに決定的な役割を果たしたのは、歴史家や証言者以上に、法学者・法律家たちだ。

法律家たちを歴史問題に積極的に関与するようにしたのは、「東京裁判」もしくは「ニュルンベルク裁判」であった。つまり、過去の歴史に生じた問題が法廷で「処罰」されたということを知っている者らが、新たに向き合うようになった過去の問題に対しても、かつての問題と同じ問題と受け止め。似たようなやり方で「処罰」しようとしたわけである。

国連報告書は、慰安婦問題を「戦争」中の敵対国家の間で生じた事柄、つまり「戦争犯罪」としてしか理解していない。報告書は慰安婦問題を、同時代に発生したアフリカ・東ヨーロッパの内戦における部族レイプや拉致などの被害と似通うものとして理解していたのである。

もっとも、それは挺対協をはじめとする支援者たちが、慰安婦問題をそうした問題と同様の問題であるかのようにアピールした結果であるはずで、国連人権委員会や国際法律家委員会はそのような意見をそのまま受け入れ、同時代の悲劇と慰安婦問題を同一視した。

同じ時期に、慰安婦動員は公娼制を利用した間接的な動員であったとする研究はすでに存在し、発表されてもいた(金富子、宋連玉、山下英愛など)。しかしこのような「学問」の内容が、問題を理解するための参考資料として国連に提出されてはいなかったのだろう。慰安所には朝鮮人・台湾人だけではなく日本人も多く存在し、むしろ日本人女性たちが慰安婦制度の中心であったという事実が強調されたことも、言うまでもなく、ない。

既存の学者たちは1932年の上海に初の慰安所が設けられたと説明するが、日清戦争の際の朝鮮半島には軍人のための日本人女性たちがすでに入っていた。日露戦争の後、1910年に作られた鎭海の日本軍基地が「慰安」を求めたのは、朝鮮ではなく日本居住の女性たちであった。

日本と朝鮮は「戦争」ではなく「植民地化」を媒介とする関係であった。結果、この時期の朝鮮は「日本帝国」の治下に置かれていたがゆえに、日本と国家単位の敵として戦った中国とは、満州国を除けば、立ち位置は根本的に異なる。したがって、朝鮮人慰安婦問題は「戦争」ではなく「朝鮮の植民地化」という視座から考察しなければならない問題であった。私が『帝国の慰安婦―植民地支配と記憶の闘争』というタイトルであえて「帝国」「植民地支配」という語を用いた理由もそこにある。相互の関係を見極めなければ、正確な批判が不可能だからだ。正確な批判のみが解決を可能にする、というのが『帝国の慰安婦』の主張でもあった。

『帝国の慰安婦』が出てから、20年以上「戦争犯罪」という言葉しか使わなかった研究者・活動家たちは、「戦争責任」の代わりに「植民地支配責任」という言葉を用いるようになった。にもかかわらず、彼/
彼女らは 『帝国の慰安婦』を法廷に送り出した者たちに同調して今でも『帝国の慰安婦』を非難している。

90年代以後、日韓の葛藤をめぐる問題において、もちろん「法」関係者たちは善意と情熱をもって解決に取り組んだ。その努力は高く評価されなければならない。
しかし、そうした主張と活動は、残念ながら四半世紀以上過ぎても解決をもたらしていない。司法府が彼/彼女らの味方となり政府まで動き出したにもかかわらず、である。善意から関わったはずだが、その過程は慰安婦問題に対する世間の誤解と対立を増幅させ、結果的に葛藤を維持させた。

日韓関係、問題はどこにあるのか ― 1.歴史の司法化 (1)はじめに

1.歴史の司法化

(1)はじめに

日韓関係が瀕死状態だ。1965年に国交を回復して以降、「史上最悪」という表現を使う専門家も少なくない。毎年開いてきた日韓経済人会議が延期され、今のような状況が続く限り、6月に日本で開催されるG20会議で日韓首脳会談が開かれる可能性も大きくはない。

ところが、韓国人の多くはそのような状況をそれほど深刻とは考えない。「悪いのは日本」、と考えるからだ。だから言いたいことを包み隠さず言うようになった日本の態度を居直りとだけ思っている。日韓関係が良くないのは、日本の政治家が国内政治に利用するからだと話した大統領の認識もまた、こうした認識と大差ないようだ。

しかし、このような認識は間違っている。大統領も今では、日韓関係の回復を望んでいるようだが、分析が正しくないのに正しい方策を見出せるはずがない。

私は6年前、『帝国の慰安婦 ― 植民地支配と記憶の闘い』という本で、現在のような状況が起こり得ることを予告したことがある。私の問題提起は、自分たちの運動と研究の妨げになると考えた人たちによって法廷に押し込められる事態を迎えたが、その本はひたすら今日のような日が来ないことを願いながら書いた本だった。今の日韓関係は端的に、私の口を塞ごうとした人々とその周辺にいる者たちが作ったものだ。

昨年の秋に新日鉄住金(現日本製鉄)の徴用工判決が出た後、日韓関係は、以前に比べて極端に軋んでいるが、そのような葛藤の根源には、慰安婦問題がある。日本が以前に比べて性急に、時に感情をストレートに語るようになったことも、すべて慰安婦問題のためといっても過言ではない。もちろん韓国も、慰安婦問題が続いた四半世紀もの間、繰り返し聞かされた「謝罪しない日本」観が定着してしまったせいで、不信感を募らせてきた。つまり今の日韓関係を難しくしているのは、それぞれの問題以前に、葛藤の歳月を経て積み重なってきた不信とあきらめの方である。G20が日本で開かれるというのに最も近い国である韓国との首脳会談の日程を日本がいまだ組まないのも、その結果だ。

いわゆる「日韓関係」の専門家と、慰安婦問題や徴用工問題の専門家、運動家たちの間には実は接点がほとんどない。前者は一般に、「国益」を語りつつ「未来へ行こう」と話し、後者は「国益よりも個人」としながら「被害者」の名前で自分たちの主張を繰り広げる。その両方が出会うことはほとんどないのも、問題の解決を妨げる理由の一つである。大統領が就任初期とは異なり、日韓関係の改善を望む発言や行動をとるようになったにも関わらず実質的な変化がないのは、実際の政策は後者によって動かされているからでもある。大統領の発言はその両方が共存しつつ分裂している状況を示す。

日韓葛藤を生じさせているそれぞれの問題は、表面から見えるよりもはるかに複雑で難しい。しかし、政治経済の問題を前面に出して考えてきた人々はそれらの各問題自体には大きな関心がなく、その結果としてそれらの問題に関する発言権を片一方の人たちに独占させている。またそのような意見が正しいかどうかを問うような、調査と取材によって「発言の独占」状況を打破しようとするようなメディアもない。メディアのほとんどは、ただともに嘆息するか、後者と同じ声になって「運動」に参加する。日韓が対立する問題が、多くのメディアの参加のおかげで全国民が知っている問題になっていながら、いざその内容に関してはちゃんとした知識は増えず、認識も千編一律的な理由もそこにある。

その意味では最近、元ソウル大教授イ・ヨンフン(李榮薰)教授が情熱的に慰安婦問題について論じているのは望ましい。おそらくリベラル側の人々は李教授の講座を日本の右翼と同一視して見ない可能性が高いが、長い間慰安婦問題をめぐる言説を主導してきた人たちは、李教授の講義に答える義務がある。日本との接点を見つけることは、韓国内部の接点を見つけることでなければならない。

90年代には慰安婦問題に対する国民の関心は大きくなかった。そして、日本に対して柔軟な姿勢を取った金大中時代を迎え、2000年代初頭には国交正常化以来最高といえるほど日韓関係は良かった。そして盧武鉉政府時代に日韓協定文書公開訴訟で敗訴した韓国政府が文書を公開し、個人に支払われるべき補償金を日本政府から受けとった事実が明らかになると、韓国政府は、もう一度法を作って「強制動員」被害者たちに補償した。徴兵/徴用者はいうまでもなく、元「慰安婦」もその対象となった。

ところが、一部の元慰安婦と支援者たちは、同じ頃に、今度は外交部を相手に別の訴訟を起こす。「政府が慰安婦問題の解決に出ないのは違憲」という訴訟である。5年が過ぎた2011年の夏、韓国外交部は敗訴し、同年冬には、いわゆる「水曜デモ」1000回を迎えて日本大使館の前に慰安婦少女像が建つようになる。

90年代に発生しながら国民的な関心を受けてはいなかった慰安婦問題が、全国民の関心を集めて運動の流れが変わったのはこの時からだ。この頃から、いわゆる「平和ナビ(蝶)」と呼ばれる大学生組織ポスターが多くの大学に貼られ始め、ソウル市の後援で様々なイベントを企画して水曜集会に参加するようになり、程なく中・高校や小学生までが集会に参加するようになった。

敗訴した外交部は、自分たちの(非)行動が「違憲」にならないよう慰安婦問題に積極的に関与し始めたが、関与の方法と内容は、脈絡上全て支援団体の主張に沿ったものだった。そうして慰安婦問題は、本格的に「外交」の問題となり、「政治」の問題となった。
ところで、政府を相手に訴訟までして慰安婦問題を「外交」問題にしてきた支援者が、今では、慰安婦問題は「政治/外交問題ではなく人権問題」と主張する。政治経済中心の国家間の問題などではない、歴史の中で疎外された「人間」の問題だというのだ。だからこそ政府が、優先的に取り組んで解決しなければならないという主張である。

言葉自体は正しい主張だが、その主張は、慰安婦問題を先頭に立って「政治/外交」の問題にしてきたのが他ならない運動家や弁護士など、支援者自身だったことを隠蔽する。

藤原 帰一、「厳しさ増す日韓関係 − 映し鏡の犠牲者意識」[朝日新聞夕刊『時事小言』2019.2.20]

厳しさ増す日韓関係 − 映し鏡の犠牲者意識

東京大学政策ビジョン研究センターセンター長/法学政治学研究科教授
藤原 帰一

2019/2/25

 

<一部引用>

「『帝国の慰安婦』は慰安婦自身の言葉を踏まえてこの問題の抱える多面的で時には矛盾する側面を解き明かした著作であるが、著者の朴裕河(パクユハ)は慰安婦の名誉を毀損(きそん)したとして起訴され、ソウル高裁は歴史を歪(ゆが)め被害に苦痛を与えたとの理由から有罪判決を下した。
朴は慰安婦を連れ去った中間業者に注目してはいるが軍の役割は否定しておらず、むしろ女性をモノに還元してしまう男性のための社会を告発しており、慰安婦の存在を否定する議論とはまるで違う。朴の示した単純化のできない多面的な歴史認識は、韓国国民の共有する、明確な信念としての歴史と相容(あいい)れないものであるかのようだ。」

<일부인용(한국어 번역)>
” <제국의 위안부>는 위안부 자신의 말을 바탕으로 이 문제가 안고 있는 다면적이면서 때로 모순적인 측면을 풀어낸 저작인데, 저자인 박유하는 위안부의 명예를 훼손했다면서 기소되었고, 서울고등법원은 역사를 왜곡하고 피해자에게 고통을 주었다는 이유로 유죄판결을 내렸다.
박유하는 위안부를 데려간 중간업자에게 주목하면서도 군의 역할을 부정하지는 않으며 오히려 여성을 물건취급한 남성(을 위한)사회를 고발하고 있으니, 위안부의 존재를 부정하는 논리와는 전혀 다르다. 박유하가 보여준 단순화시킬 수 없는 다면적 역사인식은, 한국 국민들이 공유하는 명확한 신념으로서의 역사와 공존할 수 없다는 듯 하다. “

朝日デジタル:(時事小言)厳しさ増す日韓関係 映し鏡の犠牲者意識 藤原帰一 2019年2月20日16時30分

日韓関係は国交樹立以来もっとも厳しい情勢を迎えた。まず、2018年10月、韓国最高裁は元徴用工による訴えを認め、新日鉄住金に損害賠償を命じた。1965年の日韓請求権協定で最終的に解決したとされた請求権に関する合意は個人の賠償請求権に及ばないという判断である。
 翌月、韓国政府は慰安婦財団の解散を発表した。2015年に当時の朴槿恵(パククネ)政権が安倍政権と結んだ日韓慰安婦合意によって生存している被害者への支払いを行う財団であり、かつて村山政権の下で設立されたアジア女性基金が民間の募金に多くを頼ったのと異なり、日本政府の拠出によるものだった。この財団の解散により、日韓慰安婦合意は事実上破棄されたことになる。
 事態はさらにエスカレートする。12月には海上自衛隊の哨戒機がレーダー照射を受けたと日本政府が発表し、照射は行っていないと主張する韓国国防省と対立した。最近では、韓国の国会議長文喜相(ムンヒサン)が慰安婦問題解決のために天皇陛下は謝罪すべきだと発言し、批判を受けた後も発言撤回を拒んだ。
     *
 どうしてこんなことになるのか。日本で広く行われる解釈は、韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領が左派のポピュリストであり、反日感情を煽(あお)ることで政権を支えているというものだ。確かに韓国政治における左派は、朝鮮半島における南北対話と並んで慰安婦問題を筆頭とする歴史問題を重視しており、文在寅大統領は金大中(キムデジュン)、盧武鉉(ノムヒョン)につながる左派に属している。だが、文在寅政権が煽ったから問題が生まれたというだけでは、なぜ韓国で反日感情が強いのかという問いが残される。
 国際的には徴用工と慰安婦について韓国政府の主張に賛同する声が多いといっていい。私も慰安婦は性犯罪であり、売春一般と慰安婦を同視する議論は暴論に過ぎないと考える一人だが、それでも日韓両国における歴史の言説の極度な違いにはたじろいでしまう。
 『帝国の慰安婦』(朝日新聞出版)は慰安婦自身の言葉を踏まえてこの問題の抱える多面的で時には矛盾する側面を解き明かした著作であるが、著者の朴裕河(パクユハ)は慰安婦の名誉を毀損(きそん)したとして起訴され、ソウル高裁は歴史を歪(ゆが)め被害者に苦痛を与えたとの理由から有罪判決を下した。朴は慰安婦を連れ去った中間業者に注目してはいるが軍の役割は否定しておらず、むしろ女性をモノに還元してしまう男性のための社会を告発しており、慰安婦の存在を否定する議論とはまるで違う。朴の示した単純化のできない多面的な歴史認識は、韓国国民の共有する、明確な信念としての歴史と相容(あいい)れないものであるかのようだ。
 日韓の歴史問題を論じた木村幹は、歴史認識問題は沈静化するどころか1990年代に入って悪化したと指摘し、この問題は過去の事実ばかりでなく現在の政治、ポピュリズムの台頭とナショナリズムの高揚のなかで捉えなければならないと主張した(『日韓歴史認識問題とは何か』、ミネルヴァ書房)。木村は韓国政治の展開を振り返りつつ日本における「新しい歴史教科書をつくる会」の活動にも触れ、ポピュリズムを韓国だけの現象とは見ていない。
     *
 やるせない思いに襲われる。日本の犠牲者という認識を韓国国民が共有し、その韓国の訴えが国際合意を踏みにじる行いとして日本で伝えられるとき、「われわれ」は「やつら」の犠牲者だという認識が両国で加速し、鏡で映し合うように犠牲者意識とナショナリズムが高揚してしまう。
 韓国で語られる歴史が「正しい」わけではない。それでもここで問いかけたいことがある。植民地支配のもとに置かれた朝鮮半島の社会、そして戦時に動員された労働者や女性が強いられた経験について、日本でどこまで知られているのか、ということだ。
 日本の朝鮮半島支配を正当化し、徴用工は強制的に動員されていない、慰安婦は売春婦だなどと切って捨てる人が日本国民の多数だとは私は信じない。だが、そのような言説が日本で行われていることは事実であり、さらに植民地支配と戦時動員という過去を見ようとせず、知らないことのなかに自分たちを置いている日本国民が少なくないことも否定できない。これでは、過去を知らない責任を問われても仕方ない。
 歴史問題では謝罪の有無が繰り返し議論されてきた。日本政府が謝罪を行ったと私は考えるが、何が起こったのかを知らなくても謝罪はできる。謝る前に必要なのは、何が起こったのかを知ることだ。自分たちを支える国民意識に引きこもって日韓両国民が非難を繰り返すとき、ナショナリズムと結びついて単純化された国民の歴史から自分たちを解放する必要は大きい。 =敬称略 (国際政治学者)

(HUFFPOST寄稿)不信と諦めを乗り越えて「日韓協議体」を

朴 裕河パク・ユハ 韓国・世宗大教授

これ以上手遅れにならないうちに、いったい何が問題だったのか、この四半世紀の葛藤から振り返る必要がある。

日韓関係が最悪の方向へとエスカレートしている。

帝国・植民地時代が残した様々な問題が90年代以降本格的に提起されて以降、日本と韓国の両政府は初期には比較的協調していた。

政府間協調が軋みだしたのは、90年代後半に元「慰安婦」を対象に日本政府が主導して民間基金の形で作った<アジア女性基金>が、慰安婦支援団体の強い反対を受けて受け入れられず、韓国政府が元「慰安婦」たちに補償金給付を実施して以来のことである(それでもこの時は60人あまりの元慰安婦たちが、補償金とともに日本の総理の謝罪の手紙を受け取った)。

それでも2002年にワールドカップ大会を日韓両国が共同開催できたのは、当時はまだ政府間の協調機能が生きていたということである。金大中元大統領という、日本でも尊敬されていた存在がまだいたからかもしれない。

2005年にも独島(竹島)問題が一触即発の事態を招いたが、両国の平和を維持すべく努力した人たちが当時はいて、事態は一段落した。平和な解決の背後には思慮深く有能な外交官たちがいた。

反復的に葛藤を引き起こしながらもなんとか平和を維持した日韓の間に、微細な亀裂が入り始めたのは2011年末、駐韓日本大使館の前に「慰安婦」を象徴する少女像が建てられてからのことだ。諦めの声がその頃から日本側から聞こえ始めたのである。「私は韓国が好きなのに、韓国はいつまでも日本を憎んでいる」といった声を、経験を積んだ政治家から若い学生までが発するようになっていた。彼らは、「韓国とどのようにつきあえばいいのか分からなくなった」と、悲しみあるいは怒りを込めて言ったものである。

しかし、韓国にはそうした日本の声があまり伝わらなかった。たまにそうした諦めの感情が伝わっても、90年代と2000年代を通して被害者支援団体が強調してきた「謝罪しない日本・厚かましい日本」のイメージを内面化してきた多くの韓国人たちは、反省もしないくせに、とか、日本との関係などどうなってもかまわないといった「プライド」高い態度を貫き通した。

日本は多くの努力を払ったが、植民地支配という過去が作った必然的な「感情」についてもう少し理解しようとする努力をしなかったし、韓国は現代日本が過去清算をめぐってどのような努力をしてきたのかを、見ようともしなければ評価もしなかった。相手と正面から向き合おうとする思慮深い態度を持つ人々が両方で減っている今日の状況はその結果である。

しかし知るべきは、現在両国民が相手について持っている認識の多くが、学者や支援団体など当事者周辺にいる人々、あるいはごく一部の歴史学者や法学者が作ったものだということである。メディアは、そのなかから自分の気に入った認識を争うように拡散したが、その競争は左右の闘争、言い換えると冷戦体制終息後のアイデンティティ闘争でもあった。

たとえば、現在問題視されている徴用工裁判の判決は、一部のリベラル系の学者が90年代以降ずっと主張してきた考え方に基づく判決である。つまり、1910年の日韓併合は不法行為によるものだったとする「日韓併合不法論」、1965年日韓協定を破棄すべきだとする論、そして慰安婦問題など過去の「国民」動員問題の解決策として、日本が法的に賠償し責任を負うべきだとする論を、最近の判決は深く反映している。もちろん、並行して韓国で現在行われている、過去の裁判所と政府関係者たちに対する再審—捜査・取り調べ・処罰もまた同様である。近い過去の判決が徹底的に右派の考え方によるものならば、現在行われていることは左派的考え方によるものである。

問題は、「左派」なのか「右派」なのか自体にあるのではない。その考え方が(1)学問的に正しいのか、(2)未だ議論が続いている諸説(学問)のうちの一つを司法が無批判的に使っていいのか、(3)左派と右派が混ざっている「国民」を代表する政府が、そうした司法判断をそのまま受け入れていいのか、にある。そして私は、今の韓国政府が過去の政府の愚行を引き継がないことを願っている。

先般の徴用工判決の核心は、賠償金の要求が過去の虐待と差別への「慰謝料」であるということにある。日本が今回の判決をただ批判しているのは、ここのところをきちんと理解していないからのように見える。判決文の趣旨は(中には様々な意見があったことも記しておきたい)自ら明記しているように、植民地支配がもたらした、そしていまだ日本において十分に認識されているとは言えない、帝国統治下におかれていた人たちの精神的・物理的な苦痛に対する賠償金の要求だった。そしてそうした要求自体は、冷戦体制の頃はまだ可能ではなかったという意味で、時代的な要求でもある。

しかし、であるならば、「植民地支配』に対する謝罪要求を、徴用者など日本帝国時代に「国民」として動員された人々が(時代によって状況は異なるが、大きな枠組みではそう考えるべきだ)代表すべきかとなると、それはもう少し議論を必要とするだろう。

「植民地支配」による差別が作った最大の被害者は、「帝国の国民」とみなされて動員された人々以上に、「帝国の国民」のはずが突然「帝国を脅かす敵」とみなされ、道ばたで殺害された関東大震災の被害者だと私は考える。あるいは、物理的な苦痛と無関係でも、総体的な精神的苦痛を受けていた全ての被支配者たちであろう。そこで私は、そうした過去に対する謝罪の心を込めて、植民地支配に対する総体的な謝罪を、日本の国会が国会決議という形で表すのがいいと数年前から主張してきた。「国会」こそ、「国民」の代表だからである。

もっとも、「被害」とは主観的なものでもあって、他者がその大きさを断定していいことではない。大事なのは、どのような被害でも尊重されるべきだということ、そして私たちはそのとき、今は声を出せない死者たちも思い起こさねばならないということである。

同時に、個人の被害が政治・外交問題となり、「国民」の問題となった以上、「国民的合意」を作り出せる時間と努力の枠組みを作らないといけない。それこそが、「国民」を代表する「政府」の役割であろう。朴槿恵政権が作った日韓合意は、両国の外交官たちの努力の賜物だったが、事態に対する正しい理解に基づく「国民的合意」がいまだ存在しないという点を見落としていた。そういう意味では、長い歳月をかけて自分たちの考えを「国民の常識」化することに成功した支援団体の反発が、政府を動かして日韓合意を揺るがし、「和解・癒やし財団」解散という事態をもたらしたのは予想可能なことだった。

日韓両国は過去において、日韓歴史共同委員会を作って接点作りを試みたが失敗した。その失敗は、相手の意見に耳を傾けるよりも自己主張が勝った結果であろう。そもそも、「学問」の領域にあることをめぐって政治的な接点を作るのは初めから無理な試みだったというべきかもしれない。「学問」は動き続けるものだからである。

しかし、「政治」の領域は時に接点を必要とする。集団の問題を扱う共同体領域にあってはなおさらである。共同体とは、個人がそれぞれ歩み寄ることを約束した空間だからでもある。

したがって提案したい。もう一度、過去の歴史がもたらしたいくつかの問題を議論する日韓協議体を作ろうと。そして政府と学者が共に、これまでの不和を乗り越える知恵を見いだそうと。メディアには、議論を傾聴して、問題の論点がどこにあるのか、それぞれの問題とどのように向き合うべきかをめぐって国民的合意を作ってほしい。それだけが、わずか数人の主張がメディアを通して全国民の認識になってしまうような、これまでの構造をゆるがすことを可能にするだろう。

重要なのは、結果以上に対話自体である。対話が続く限り、過去の不幸な時間は克服可能だ。これ以上手遅れにならないうちに、いったい何が問題だったのか、この四半世紀の葛藤から振り返る必要がある。問題はつねに、足下にある。

私は2013年に日韓協議体の形成を提案したことがある。今もう一度、同じことを提案したい。両国の政府と、相手の主張を傾聴するような日韓の学者と、その他の関係者たちが共に議論できる機構を、両国政府が作ってほしい。

「和解・癒やし財団」が残した資金と、韓国政府が新たに設けた資金を合わせて、その対話やその他の和解のための事業に使えるのなら望ましいことだろう。葛藤が残した遺産でも、時に新しい未来を作れるということを、両国政府が次世代に示してくれることを願いたい。

2019・1・11

(この文を韓国語で書いて発表した1月8日の次の日に、日本政府が徴用工判決に関する協議を求めてきたというニュースを見た。韓国政府が日本と対話を始め、徴用工判決以外の問題も、それぞれ議論できる枠組みを作ることを期待したい。)

(インタビュー記事)「韓国のドレフュスか、ハイデガーか」

 [クォン・ジェヒョンの心中一言]
韓国のドレフュスか、ハイデガーか

『帝国の慰安婦』以後を扱った本二冊を同時に刊行した朴裕河世宗大教授

 朴裕河・世宗大日本語・日本文学科教授(61)はたいそう有名になった。慰安婦ハルモニたちの名誉を毀損したという訴訟のおかげだ。これによって朴教授を、「日本の右翼の手先」として有名な嫌韓作家、呉善花と同列に置く人々がいるほどだ。だが、そのような判断の根拠がきちんと示されることはほとんどない。訴訟の直接の対象とされた朴教授の著書、『帝国の慰安婦』を読んだ人の多くは、「いや、この本の何が問題なんだ?」という反応を見せる。

 彼女に対するこうした反応は、少し大げさに言えば、「韓国のドレフュス」か、「韓国のハイデガー」かに二分される。ドレフュスは、フランス人の集団的反ユダヤ主義の犠牲になって軍法会議にかけられ、有罪判決を受けることになったフランスの陸軍大尉だ。その不条理さを告発したエミール・ゾラの「私は告発する」で有名になった人物だ。ハイデガーは、二十世紀を代表するドイツの哲学者だが、ナチスドイツ治下でナチズムに免罪符を与えたと批判されている。師や同僚の多くが、ユダヤ人だという理由で迫害されている状況下でナチ党に入党し、ナチズムを擁護する発言を繰り返したからだ。

 朴教授が先月2冊の本を同時に出した。『「帝国の慰安婦」、法廷での1460日』と『「帝国の慰安婦」、知識人を語る』だ。前者は、2014年6月に提訴されたあと、最高裁の上告審が進行中の現在まで、4年間にわたる法廷闘争の記録だ。後者は、その法廷闘争の間、自らに向けられた数多くの知識人による批判と攻撃に対する反論である。論争の発端となった『帝国の慰安婦』を正しく理解しないまま性急に断罪する雰囲気の中で、彼女の抗弁を読む人はどれぐらいいるだろうか。

 なので、じかに会って抗弁の機会を提供することにした。本の出版後、英国のオックスフォード大学招請の講演のための二週間のイギリス訪問から帰国した7月11日、ソウル忠正路の東亜日報本社でお会いした。風邪気味でインタビューが一日延期されたので、まず健康状態をうかがうと、意外にも「なんとか頑張っています」という言葉が返ってきた。

闘争の二つの記録

 「最初は本当に大変でしたが、以前に比べればずいぶんマシになりました。 売国奴と決め付けられ、あらゆる個人攻撃を受けたので、本当に孤独で辛かったですが、私の本を読んだ一般の方々がまず手を差し伸べ、励ましてくれたことで元気づけられました。私の本を誤読している学者や専門家を見て絶望的な気持ちになりましたが、むしろ一般読者のほうが私の本を偏見なく理解してくれているのを見て、希望を持つようになりました」 

 朴教授が『帝国の慰安婦』を刊行したのは2013年7月。当初、何の反応も示さなかった慰安婦支援団体は、その10か月後の2014年6月、9人のハルモニの名で、名誉毀損の訴訟を起こした。 2017年1月の刑事裁判一審判決は無罪。しかし原告側が控訴し、その年の10月27日、二審で1000万ウォンの罰金という有罪判決が下された。その三日後に朴教授は最高裁に上告、現在最高裁の判決を待っているところだ。

 「一審の裁判官は、私の本はもちろん私が提出した膨大な資料をていねいに読みこんで判決を下してくれたので感動しました。ところが五十代の高裁判事たちは検察の主張をそのまま受け入れたのです。最高裁に上告すると普通一年ぐらいかかるそうですが、私の事件を担当する判事の任期が今年の夏に切れ、新しい判事が着任するうえに、難しい事件ほど先延ばしにされるといいますから、今年中に判決が出るのは難しいでしょう。損害賠償を求める民事訴訟も進行中ですが、刑事訴訟が終わるまで中断状態です」

 彼女に、なぜ一冊ではなく二冊に分けて本を出すのか尋ねた。学問の領域で扱われるべきものが法廷に持ち出されたアイロニーに対する朴裕河らしい対応だった。

 「一冊は裁判記録が中心です。私が訴訟に巻き込まれたのが、本の内容のせいではなく、支援団体が私を社会的に葬るためであったということを、法廷闘争の記録を使って示そうと思いました。私の訴訟が、本の刊行直後ではなく、一年近く経ってからなされた理由は何なのか。本を出した後、謝罪と補償についての当事者たちの意見を聞くために、ハルモニたちにもう一度会うと、慰安婦支援団体が警戒し始めました。私が一部のハルモニとの深い対話を通じて2014年4月に「慰安婦問題、第三の声」というシンポジウムを開催したのが、決定的でした。第三の声を代弁した最も重要な人物であるペ・チュンヒハルモニがその年の6月9日に亡くなられると、その一週間後の6月16日に訴訟が起こされたというのは、はたして偶然でしょうか?」 

 もう一冊は、法廷の外で繰り広げられた学者や専門家たちの批判に対する反論だ。2008年、『和解のために』(2005年刊)について、「右翼勢力とは違うとはいえ、植民地支配の責任を負うまいとする日本のリベラルの代弁者」と批判した「在日知識人」徐京植、訴訟の一週間前、「ファシストは和解ではなく断罪の対象」という批判を発表した朴露子、一審の裁判が行われている最中に、『誰のための和解か:「帝国の慰安婦」の反歴史性』を刊行した鄭栄桓…。

 「私を本当に苦しめたのは、訴訟を起こした支援団体と検察ではなく、学者仲間と信じていた、それも進歩的知識人を自認していた者たちが、私に向けて放った非難の矢でした。彼らは私の文章の趣旨を捻じ曲げたうえで滅多切りにしたのです。そのうえ、彼らが私に対する批判として書いた文が検察によって証拠資料として提出されるに及んで、学問的な批判は裁判が終わった後にしてくれと頼んだのですが、無駄でした。なので裁判中に必死の思いで書かざるをえなかった反論の文もあり、当時はきちんと対応できなかったので、時間の余裕ができたときに追加で書いたものもあります」

案山子論法の打破

 朴教授への非難は、ほとんどがが文章全体の趣旨を変え「彼女の文はこういう意味」だといって恣意的に解釈したという点で、典型的な案山子論法(訳注:相手の意見を歪めたうえで反論する誤った論法。ストローマン論法)だ。「朴裕河がこう言った」と批判を加えれば、メディアと大衆を通じて拡大再生産された。朴教授はこれについて「私はそのように言っていない」というふうにネガティブな対応をしてきた。記者は、そのようなやり方では彼女に押し付けられた「緋文字」を取り除くのは難しいと思ったので、案山子の論点に対する直接的な反論を求めた。

朴裕河は「慰安婦は本質的に売春婦」と言ったのか

 「本の中で「からゆきさんの末裔というのが慰安婦の本質」と書いた小見出しに対する歪曲です。からゆきさんは、「外国に出稼ぎに行く女性」を意味する日本語です。貧しい地域の若い女性を、ほかの人が行きたがらない海外へ送り、辛い仕事を押し付けたことを美化する用語です。その役割が植民地朝鮮の貧しい女性に押し付けられたという意味で書いたのです。ところが、からゆきさんのほとんどが売春婦であって、慰安婦の本質が売春にあると曲解したのです。本の中でも書いたように、そこで私が言う本質とは、「国家間の移動がより容易になった近代において、帝国主義の勢力拡大のために海外に送られた男性たちを、現地に縛りつけておくために動員された者たち」というものでした。からゆきさんの話を持ち出したのは、朝鮮人慰安婦が民族的差別の結果ではなく、貧しい日本人に加えられていた差別が植民地朝鮮人に投影されたということを言うためであり、それが国家による階級的搾取だったという点を指摘するためだったのです」 

朴裕河は「慰安婦は日本軍と同志的関係にあった」と言ったのか

 「そのような表現を使ったのは事実です。しかし、これは帝国主義日本によって、日本人として動員された植民地朝鮮の女性の認識が、当時の日本の敵国だった中国、オランダの女性の認識と同じではありえないことを説明したものです。中国、東南アジア、西洋の慰安婦が、意のままに強姦したり殺したりしてもいい「戦利品」だったとすれば、日本、朝鮮、台湾から動員された慰安婦は、日本軍が敗北の瞬間まで保護しようとした「軍需品」だったという違いが存在します。これは朝鮮人慰安婦もまた、戦場でまもなく死ぬことになる日本軍兵士―ここには朝鮮人兵士も含まれていました―に対し同病相憐むという感情を抱く余地があったことを、さまざまな証言が裏付けているためです。これは貶めるための表現ではなく、同志的な関係を強要した帝国主義的構造の問題を批判するために使ったものです」

朴裕河は「日本軍慰安婦の強制連行はなかった」と言ったのか

 「日本軍が直接的におこなった強制連行の証拠は、朝鮮人に関する限り存在しないと指摘したことはその通りでです。今まで日本軍によるものとして知られている事例について、私は軍属待遇を受け、日本の軍服が支給されることもあった民間人の業者たちではなかったかと考えています。また、幼すぎたり、騙されて連れてこられたと訴える女性たちを送り返した事例がいくつも見られることから、国家が直接的に少女たちを強制連行したという主張は成立しにくいです。しかし、民間人の業者や抱え主が表に出ていたとしても、慰安所というシステムを維持し、管理した主体が日本軍だったという事実のために、究極的な責任を免れることはできないという点は、はっきりと指摘しています。「結果的に、日本は自分たちの手を汚さずに、植民地人たちに不法行為を全面的に担わせ、同族に対する加害者に仕立て上げた」という点で、植民地支配の構造的な責任を免れることができないということも明確にしました」

なぜ魔女狩りの対象になったのか

 このように朴教授に対する非難の多くは、歪曲と曲解から出発している。では、いったいなぜ彼女はこんなにも激しい魔女狩りの対象になったのだろうか。

 「1990年代以降、韓国で進歩的知識人と活動家が独占してきた日本観に亀裂を入れたためではないかと思います。過去の歴史について謝罪しない日本を絶対悪と想定し、そのような日本との関係回復を妥協、屈従とみなす民族主義左派の見方に対し、貧しい女性を対象とした階級搾取と、男性の性搾取として眺める必要があるという私の主張が、ひどく気に障ったようです。進歩的と言うけれども、彼らの多くは娼婦と貞淑な女性を峻別する家父長的ジェンダーの規範に浸かっています。そのため、往々にして慰安婦を穢れのない無垢な少女として理想化することにこだわります。そんな家父長的民族主義の見方から、無力だったために娘や妹を守れなかったというのは許せても、金のために娘や妹を売り渡したという自我像を受け入れるのは難しかったのではないかと思います。したがって、均一な民族主義的自我観に亀裂を入れる私に、いかなる手段を使ってでも罰を与えなければならないと考えたのではないかと思います」 

 『帝国の慰安婦』は、二つの固定観念の打破を狙った本である。一つは、日本軍慰安婦を「日本軍の軍靴に踏みにじられた十五歳の少女」としてのみ記憶に刻もうとする韓国人の集団無意識である。未成年の慰安婦も存在したことは事実だ。しかし、複数の資料が、二十歳以上の大人の女性が多かったことを示している。また、日本軍によって強制連行されたものよりも朝鮮人業者に騙されたり、父親または兄によって売られたケースが多かった。それにもかかわらず少女像にこだわる理由は、日本に対する憎悪を強めることで、自分の娘や妹を売り渡したわれわれの罪の意識を薄めようとする集団的無意識のためではないかという疑問を投げかけたのだ。

 もう一つは、慰安婦問題について、日本の謝罪と補償がないと思っている韓国人の記憶の問題だった。大部分の韓国人は、これが理由で日本に強い反感をもっているが、逆に多くの日本人は、贖罪の気持ち(つぐない)を込めて誠意を示したにもかかわらず、無視されたと感じている。1993年、慰安婦の強制動員を認めて謝罪と反省の意を表した河野談話と、1995年、村山内閣が日本政府のお金と国民募金によって立ち上げた「女性のためのアジア平和国民基金」がその証左だ。韓国では当時、これを低く評価して門前払いにした。しかし、安倍内閣の発足以来、河野談話を発表した河野洋平官房長官(当時)と村山富市元総理に対する評価が上昇したのを見ると、「完璧ではなかったとはいえ、あのときに謝罪と補償を受け入れておけばなあ」という気もする。

 朴教授は、「日本が誤りを犯したのは確かだが、謝罪と補償のために努力したのも事実だ。だが、こうした事実がきちんと知られていないことが、私たちの怒りを招いた面もある」と述べ、「きちんと知ること、正確な批判」によって、慰安婦問題の解決を図るべきだと提案した。これは慰安婦問題を利用してヘゲモニーを掌握してきた「進歩的知識人勢力」の目に、脅威と映った可能性が大きい。

 「私も進歩的知識のグループに属していると考えていましたので、民族主義的な感性にとらわれた一元的な見方から抜け出し、階級搾取とフェミニズムの観点からも、この問題を眺めてみようという私の主張が、これほどの拒否反応を引き起こすとは思いませんでした。むしろ彼らは、私の後ろに、韓米日三角同盟を維持するために韓日間の和解と協力が必要な新自由主義勢力が隠れていると言って攻撃します。韓日和解という目的のために、牽強付会の本を書いたというのです。そんな発想こそ、学問が中立を守るべき対象ではなく、政治や運動の論理のために従属させるべき対象という、彼らの無意識が露呈したものだと思います。慰安婦問題をどう解決していくかが重要なのではなく、韓国が正しく、支援団体が正しいということを立証しようという目的意識がまさっているということを露呈していると思います」 

怒りを乗り越え、雅量を

 米国政治哲学の碩学であるマーサ・ヌスバウム・シカゴ大教授は最近、韓国で翻訳された『怒りと許し』という本の中で、怒りと許しの感情の下に潜む不純さを批判した。怒りは、大部分、被害者を考慮したものではなく、加害者を標的にしており、加害者に屈辱を味わわせたいという加虐性の爪を隠していると告発した。また、われわれがしばしば目にする「許しのドラマ」にも、相手を侮辱する加虐性が隠れていると告発した。つまり、加害者が過ちを告白して懺悔の涙を流せば、被害者は加害者を許すというドラマにも、加害者の屈辱を見て満足するナルシシズムが潜んでいるというのだ。

 アヌスバウム教授は、このような怒りと許しの悪感情に陥らないためには、怒りは、過去志向的な因果応報の感情から抜け出し、未来志向的な制度改善を目指すべきであり、許しも、相手を無条件に受け入れる雅量と愛へと発展しなければならないと忠告している。

 これを韓国社会にあてはめると、韓国の右派と左派の過去指向的な怒りと、条件付きの許しの対外的対象が相互に交錯するということに気づく。韓国の右派が、「ああ、どうしてあの日を忘れることができよう」という歌を歌って、相手に屈辱を味わわせないかぎり、決して許しなどありえないと、歯ぎしりをする対象が北朝鮮であるとすれば、韓国左派が、歴史的正義の実現のために、ぜひ国家による謝罪をさせなければならないと執着する対象は日本だ。韓国の左派は、南北首脳会談と米朝首脳会談の過程で、未来志向的な南北関係を作るために、怒りの噴出を抑制し、雅量を通じて北朝鮮を武装解除させる道を模索する必要があると力説する。一方、未来志向の韓日関係のために、韓国が過去の歴史に対する怒りを鎮め、まず雅量を示す必要があるという声には、まるで無反応だ。

 「被害者の怒りは、ある意味、当然だろうと思います。問題は、韓国では、被害の経験が他の被害者に対する理解へと発展せず、「私の被害のほうが大きくて、つらい」というような主張ばかりがなされるようで、残念に思うことが多いです。被害の経験が、加害者に向けた鬱憤と他者の拒否にしかならないとしたら、何の意味があるでしょうか。被害の経験が、他の被害者への共感と理解へと発展するときに、人類社会の次元で意味があるのではないでしょうか。すべての民族主義は、受難を経るのが当たり前なのに、韓国人の受難だけが、いっそう大きくてつらいと、退行的反応を見せる時が多いように思います。「私たちのほうがまず日本を許したら、日本が変化するのではないか」という言葉を、亡くなったペ・チュンヒハルモニから聞きました。口では当事者主義というけれど、慰安婦ハルモニの中に、すでにそんな気持ちをもった方もいらっしゃったということを、私たちは知らなかったではありませんか。日本がアジア女性基金を作った当時、謝罪の気持ちがあると答えた日本人が大多数でしたが、その気持ちが受け入れられなかったため、20年後の今、嫌韓社会になってしまったという事実を知るべきです。慰安婦活動家の中には「天皇をひざまづかせるのが私たちの目標だ」と話す人もいます。結局、当事者たちの心の癒しと両国国民の間の互恵が私たちの目標なのであれば、相手に屈辱を与えることが果たして正しい道なのかと問うべき時が来ているのではないでしょうか」 

 筆者は、記事の冒頭で朴教授が韓国のドレフュスか、韓国のハイデガーかと問うた。もちろん大げさな問いではあるが、筆者は、彼女がドレフュスでもハイデガーでもないことを願う。韓国社会では当たり前になっている通念に対し問題提起をしたといって、知識人の良心を監獄に閉じ込めるほど、韓国社会が野蛮でないように、『帝国の慰安婦』というタイトルにおいて、「帝国」が帝国主義日本を批判するためにつけたことに気づけないほど愚かだとは思いもしないからだ。


(『週刊東亜』2018年7月17日)

A plea to participate in the Comfort Women of Empire litigation support

On October 27, 2017, the Seoul High Court ruled in favor of the prosecution which had alleged Professor Park Yuha in her recent work Comfort Women of Empire had impugned the honor of the former comfort women, and as a consequence found her liable for the sum of one million won. The decision represented an absolute shock for all people both within and outside of Korea who believed the country to be one which respected and upheld academic freedom of expression. The first trial, conducted at the Eastern District Court in Seoul, over the course of a year weighed up the academic and historical evidence and found Professor Park innocent of the charges brought by the prosecution and representatives of a group of former comfort women. We cannot escape the sense of profound disquiet at the seeming ease with which the second trial overturned the verdict of the lower court and returned a verdict of guilt.

All the evidence presented by the prosecution at the second trial as evidence of defamation in the book Comfort Women of Empire, had in the first court case been examined by the Eastern District Court which acquitted Professor Park of the charges of defaming the former comfort women. Simultaneously, given the historical issues surrounding the comfort women are a matter of deep and passionate public concern, the opinion of the court gave broad assurance of the willingness to uphold and protect freedom of academic expression. This judgement, which symbolized both the rationality and publicness of the Korean judicial authorities, was however completely overturned at the time of the second trial.

Turning to the verdict itself, the basis of the conviction can be summarized into two parts. First, that the author presented “false fact,” and secondly that there was “deliberation” behind the motive to defame the former comfort women. The Seoul High Court accepted the view of the prosecution that the author’s perception of the comfort women was “false” on the ground that it diverged from the “correct” view held in certain circles of domestic Korean and international society. Moreover, as to the criterion of “willfulness” introduced in the court verdict this was based on the determination Professor Park Yuha wrote her work with the awareness it would have the “effect” of lowering the social evaluation of the comfort women.

Inescapably, this decision represents a disquieting stance towards academic research. In relation to the historical issues surrounding the comfort women, the decision of the court introduced a criterion of “correctness” and “falsity” that is sure to hinder active scholarly research into an issue at the heart of Japanese and Korean contemporary disputation. Moreover, treating Professor Park’s work as defamatory, regardless of whether the book itself is defamatory per se, but as a consequence of the “effect” which would occur when one reads the text with a specific political or ideological purpose, is exaggerated. We have little recourse but to question whether in fact the verdict of the second trial will have a chilling effect on academic activities into issues which touch on sensitive societal and national questions.

Still regardless of the so-called pros or cons of the work Comfort Women of Empire, we strongly believe that the judgement of the Seoul High Court in the second trial represents a profound threat to the freedoms of the Korean academic and cultural worlds. Through its rendering of a guilty verdict, the judiciary set forth a criterion by which Korean scholarly and cultural worlds must hew only to the historical perception sanctioned as “right” by mainstream groups in Korean society.

As long as scholarly work that differs from the interests and position of mainstream social groups are subject to punishment, the text of the Korean constitution guaranteeing academic freedom is little more than rhetoric. Before the verdict of the second trial, many felt ideological control had disappeared with the demise of the military dictatorship, yet now one cannot escape the sense that ideological control has again been resurrected as a means to enforce a uniform and unvarying interpretation of history.

As a result of the decision of the High Court, the road before Professor Park is indeed steep. By the same token, the road before Koreans struggling to express views different from those “deemed to be correct” is unquestionably also steep. When criminal charges were first filed against Professor Park, many in society, as well as academic circles in Korea, Japan, and the West, aware of the seriousness of the situation, called for the judiciary to render a considered judgement. The decision of the first trial confirmed that such efforts were not in vain.

The erroneousness of the conviction handed down at the time of the second trial illustrates indisputably the continued existence and working of state power and societal interests intolerant of “different” opinions which they instead seek to suppress. The occasion of this verdict is the time to express the will of citizen groups to oppose this state of affairs.
Therefore, we are beginning with a drive for donations to support Professor Park Yuha’s case. Although we hold differing views of the problems of history and politics, our fundamental aim in launching of this drive is the defense of the principle of academic freedom, and with it the right to express unpopular opinions even on sensitive national and social issues in Korean society. We sincerely wish for scholars and cultural figures from across the world to participate in our endeavor to ensure that in the future, no one will face conviction and criminal charges for the simple fact of “holding and speaking differing views.”

December 7, 2017
Comfort Women of Empire Litigation Support Group

Participant
강신표 Shin-pyo Kang (Inje University, Professor Emeritus)
강운구 Kang Woongu (Photographer)
고영범 Young B. Oh (Playwright)
고종석 Koh Jongsok (Author)
김경옥 kim kyungok (Critic)
김성희 Seonghee KIM (Kaywon University of Art & Design)
김영규 Kim YoungQ (Inha University, Professor Emeritus)
김영용 KIm YoungYong (CEO of The Korea Economic Daily, Retired)
김용균 Yong Kyun Kim (Ehwa Womans University)
김용운 Yong-Woon Kim (Hanyang University)
김우창 Kim Uchang (Korea University)
김원우 Kim Wonwoo (Author)
김택수 Taik Soo Kim (CEO of Publisher The Orijin)
김철 Kim Chul (Yonsei University, Professor Emeritus)
남기정 Nam Kijeong (Seoul National University)
라종일 Ra Jongyil (Former South Korea Ambassador)
박경수 Park Kyungsoo (Kangneung-Wonju national University)
박삼헌 Park Samheon (Konkuk University)
배수아 Bae Suah (Author)
서현석 Seo Hyun-Suk (Yonsei University)
신형기 Shin Hyung Ki (Yonsei University)
안병직 Byong Jick Ahn (Seoul National University, Professor Emeritus)
유 준 Yoo Jun (Yonsei University)
윤성호 Yoon Songho (Dongseo University)
윤해동 Hae-Dong Yun (Hanyang University)
이강민 Kangmin Yi (Hanyang University)
경순 Kyung Soon (Film director)
이경훈 Lee Kyounghoon (Yonsei University)
이대근 Dae-Keun LEE (Sungkyunkwan University, Professor Emeritus)
이순재 Lee, Soon-Jae (Sejong University)
이영훈 Lee Younghun (Seoul National University, Retired/Naksungdae Institute of Economic research)
이제하 Je Ha Lee (Author)
정종주 JEONG Jong-joo (CEO of Publisher Of puripari)
조관자 Jo Gwanja (Seoul National University)
조석주 Seok-ju Cho (Sungkyunkwan University)
조용래 Cho Yongrea (The Kukmin Daily Executive Editor)
최규승 Choi Kyu Seung (Poet)
최범 Choi Bum (Critic)
황영식 Hwang Youngsik (Chief editorial writer)
황종연 Jongyon Hwang (Donguk University)
황호찬 Ho Chan Hwang (Sejong University)
김학성 HAK SUNG KIM (Dabud Law Office)
김향훈 Kim HyangHoon (Law Firm Centro)
이성문 LEE SEONG MUN (Law Firm Myongdo)
이동직 Dong Jik Lee (law Firm Sinwon)
이민석 Minseok Lee (Minseok Lee law Office)
최명규 Choi Myung Kyu (Choi Myung Kyu Law Office)
허중혁 Hur ZungHyuk (Hur ZungHyuk Law Office)
홍세욱 Hong Sae Uk (Law Firm H’s)
한정호 Han Jung-Ho (Chungbuk University)
50 Participants

浅野豊美 Asano Toyomi (Waseda University)
天江喜七郎 Amae Kishichiro (Diplomat, Retired)
岩崎稔 Iawasaki Minoru (Tokyo University of Foreign Studies)
池田香代子 Ikeda Kayoko (Translator)
上野千鶴子 Ueno Chizuko (Tokyo University, Professor Emeritus)
大江健三郎Oe Kenzaburo (Author)
小倉紀蔵 Ogura Kizo (Kyoto University)
尾山令仁 Oyama Reiji (Pastor, Theologian)
加納実紀代 Kano Mikiyo (Keiwagakuen University, retired)
清眞人 Kiyoshi Mahito (Kinki University, retired)
金枓哲 KIM Doo-Chul (Okyama University)
熊木勉 Kumaki Tsutomu (Tenri University)
古城佳子 Kojo Yoshiko(Tokyo University)
小森陽一 Komori Yoichi (Tokyo University)
佐藤時啓 Sato Tokihiro (Tokyo University of Arts, Photographer)
篠崎美生子 Shiozaki Mioko (Keisen Woman University)
竹内栄美子 Takeuchi Emiko (Meiji University)
東郷和彦 Togo Kazuhiko (Kyotosagyo University)
東郷克美 Togo Katsumi (Waseda Universuty)
成田龍一 Narita Ryuichi (Nihon Woman University)
中川成美 Nakagawa Shigemi (Riteumeika University)
中沢けい Nakazawa Kei (Hosei University/Author)
西成彦 Nishi Masahiko (Riteumeika University)
西田勝 Nishida Masaru (Literary Critic)
朴晋暎 Area Park (Photographer)
朴貞蘭 Park Jeongran (Oita Prefectural College of Arts and Culture)
深川由起子 Fukagawa Yukiko (Waseda University)
藤井貞和 Fujii Sadakazu (Tokyo University, Professor Emeritus)
和田春樹 Wada Haruki (Tokyo University, Professor Emeritus)
Gregory Clark (International University of Japan, Professor Emeritus)
四方田犬彦 Yomota Inuhiko (Film history, Comparative Literature)
千田有紀 Senda Yuki (Musasi University)
榎本隆司 Enomoto Takashi (Professor Emeritus, Waseda University)
33 Participants

Andrew Gordon (Harvard University)
Brett de Bary (Cornell University)
Bruce Cumings (Chicago University)
Chizuko Allen (Hawaii University)
Daqing Yang (George Washington University)
Jin-Kyung Lee (University of California San Diego)
John Treat (Yale University)
Mark Selden (Cornell University)
Michael K. Bourdaghs (University of Chicago)
Miyong Kim (University of Texas at Austin)
Noam Chomsky (MIT)
Sakai Naoki (Cornell University)
Sheldon Garon (Princeton University)
Tomi Suzuki (Columbia University)
Thomas Berger (Boston University)
William W. Grimes (Boston University)
Sejin Park (Adelaide University, retired, Australia)
Alexander Bukh (Wellington Victoria University, New Zealand)
Reiko Abe Auestad (Oslo University, Norway)
Amae Yoshihisa (Chang Jung Christian University, Taiwan)
20 Participants

103 Participants

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[email protected]

 

[email protected] (Voices of Reconciliation and Peace in East Asia)