(コラム)【時論】韓日歴史和解5カ年計画を作ろう[中央日報]

朴裕河(パク・ユハ)/世宗(セジョン)大国際学部教授
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版(2022.05.04)
からの抜粋引用
支援団体と文政権が主張してきた法的責任とは研究がまだ不十分だった時代に導き出された主張だ。法的責任だけが最高の価値であるのではない。1990年代に多数が謝罪する気持ちを持っていた日本国民がいまはそうでないならば日本に対する批判とともにもう慰安婦運動の失敗も振り返らなければならない。支援団体の声に遮られ当事者の声がまともに伝えられないことはもうあってはならない。
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(コラム)【中央時評】コンプレックス民族主義と歴史清算

キム・ギュハン/作家・『鯨がそう言った』発行人
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版(2021.06.29)
からの抜粋引用

「親日派ではなく「日帝加担者」と直して言わなくてはならない。慰安婦に関連した学問的見解のために、正義連とナヌムの家と対立して魔女狩りに遭った朴裕河(パク・ユハ)さんに対して、その団体に対する社会的尊敬が崩壊しても知識社会の再評価がないのは印象的なことだ。朴さんの再評価には自分たちの間違いを認めることが伴うためではないか。議論は事態の構造ではなく個人の倫理次元に留まらなければならない。今では尹美香(ユン・ミヒャン)が新たな魔女であり、過去の魔女である朴裕河は沈黙により排除される。彼らは依然としてハンナ・アーレントに民族裏切り者の烙印を押した「悪の陳腐性」をいう。」

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[関連記事] ニューヨーカー記事とAndrew Gordon教授の「帝国の慰安婦」評価

「慰安婦の真実を追い求めて」
『The New Yorker』2021年2月25日の記事から抜粋引用

「その一方、韓国では日本側の責任軽視の姿勢に対する憤りが募るあまり、朝鮮人の処女達が日本軍によって銃口を突きつけられながら誘拐された、という純粋主義的な説明以外の記述に対して、時に不寛容な状況が生まれていた。同じく2015年には韓国人学者で、従軍慰安婦の徴集において朝鮮人が果たした役割や、「奴隷的な状況」の中で監禁されながらも慰安婦と日本兵との間に時に芽生えた愛情関係について探求した本を出版した朴裕河氏に対して、元慰安婦によって名誉毀損の民事訴訟が起こされ、さらに氏は韓国の検察当局によっても刑事訴追を受けた。この本は、一部の人が主張しているように、日本の責任や慰安婦が受けた残虐な虐待を否定するものではなかった。日米の67人の学者によって発表され、韓国政府による朴氏の起訴に対して「強い驚きと深い憂慮の念」を表明するとともに彼女の著書の研究成果を評価した声明には、ハーバード大の近代日本史家であるゴードン氏も署名している。朴氏は最終的に民事訴訟では敗訴し、元慰安婦に対して賠償金を支払うように命じられた。名誉毀損についての刑事訴訟では彼女の学問の自由に言及した裁判所によって無罪判決を受けたが、その後上級裁判所がこの判決を破棄し罰金を科した。」

 

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(<帝国の慰安婦>と裁判をテーマにした修士論文) <国民感情と歴史問題:『帝国の慰安婦』をめぐる裁判より>より抜粋

(高松好恵修士論文抜粋)

<帝国の慰安婦>について

 

“それは、慰安婦問題をこれまでのように「戦争」に付随する問題ではなく、「帝国」の問題として考えたことです。「慰安婦」を必要とするのは、普段は可視化されない欲望――強者主義的な〈支配欲望〉です。それは、国家間でも、男女間でも作動します。現れる形は均一ではありませんが、それをわたしは本書で「帝国」と呼びました。”[1]

それまで戦争犯罪としてのみ扱われてきた慰安婦問題を朝鮮人慰安婦に限定しつつ植民地支配が引き起こした問題として考え、しかし、これまで日本がその点を認識したことはなかったことを強調し、したがって、それに基づく謝罪と補償が新たに必要、としたのがこの本だった[2]

 

“本書で試みたのは、「朝鮮人慰安婦」として声をあげた女性たちの声にひたすら耳を澄ませることでした。というのも、一九九〇年代に問題となって二〇年以上時間が経つうちに、いつのまにか当事者たちの声はかき消され、日韓両国の政府や市民団体の声ばかりが大きくなった気がしたからです。確かに人前に現れた元「朝鮮人慰安婦」たちは何人もいますが、それでも全体からするとごく少数だったと言えるでしょう。そこで、より多くの人たちの声を集め、改めて聞こうとしたのです。しかし、彼女たちの声を元に「朝鮮人慰安婦」の総体的な像を描きなおす作業は、孤独な作業でもありました。というのも、それは「韓国の常識」や「世界の常識」に異議申し立てをすることだったからです。”[3]

 

“現在まで出ている慰安婦証言集を読む限り、『日本軍に強制連行』されたと話している人たちはむしろ少数である」としながらも、軍による慰安婦の募集要請に関する資料が多く発見されていることから「軍が慰安婦を必要とし、そして募集と移動に関与したことだけはもはや否定できない」とする。”

 

“日本軍の責任は「他国に軍隊を駐屯させ、長い間戦争を遂行することで巨大な需要を作り出したという点」にあるとする。その「〈巨大な需要〉に誘拐やだましの原因を帰せずに、業者のみに問題があるとするのは、問題を矮小化することでしかない」とする。そして、「数百万の軍人の性欲を満足させられる数の「軍専用慰安婦」を発想したこと自体に」軍の問題があり、「強制連行があったか否か以前に」、巨大な需要にこたえるために誘拐やだましが横行しても〈黙認〉してきたことに日本軍の責任があるとする[4]。さらに、軍の問題は戦争を始めた「国家」に責任があるとする。

 

“からゆきさんが「最初から軍人を慰安するために動員された「軍慰安婦」と同じ存在ではない」としながらも、慰安婦の本質は「からゆきさんの後裔」にあるとした。経済・政治的勢力拡張のために移動した男性たちをその地に縛っておくために、からゆきさんが動員されたとしており、「性的慰安を含む〈故郷〉の役割を果たすことで男たちの郷愁を満たし、故郷へと向かう心を抑制する」のが慰安婦の役割であり、「国家とその共犯者たちに身体を管理されながら、本格的に帝国主義に乗り出した国家に協力する存在となっていった」とする。”

 

“「植民地化」とは、「国家(帝国)に対する協力を巡って、構成員の間に致命的な分裂を作る事態」であるとする。”

 

 

“1990年代の「慰安婦問題」の発生後、「「慰安婦」をめぐる韓国における集団記憶を形成し固めてきた」のは挺対協であるとする。挺対協は、韓国内で「「慰安婦」に関する情報提供者として絶対的な中心位置に存在してきた」歴史があり、その「運動は成功し、今や〈強制的に連れていかれて性奴隷となった20万人の少女〉の記憶は、〈世界の記憶〉となった」とする。”

 

“また、挺対協の「アジア太平洋全地域に渡る各国の未婚女性が慰安婦になったが、その中の80%が韓国人未婚女性だった」とする説明では、「だまされて行ったとはいえ、「朝鮮人の未婚女性」が〈帝国支配下の日本国民〉として戦場へと移動させられたこと」がみえにくく、「朝鮮人女性が「日本人」として動員された、日本人女性を代替・補充した存在だったこと、軍人を励まし補助するために動員された存在であること」がみえないとする。”

 

“「植民地だったことが、最初から朝鮮人女性が慰安婦の中に多かった理由」ではなく、「内地という〈中心〉を支える日本のローカル地域になり、改善されることのなかった貧困こそが、戦争遂行のための安い労働力を提供する構造を作」り、「朝鮮を政治的のみならず、経済的にも隷属する、実質的な植民地として、人々を動員しやすくした」とする。朝鮮人女性は、日本語の理解度も他地域の女性に比べて高かったこと、外見も日本人女性に近かったことにふれ「日本人を代替するにもっともふさわしかったからであろう」とする。”

 

“「朝鮮人慰安婦」という存在を作った原因として、「植民地の貧困、人身売買組織が活性化しやすかった植民地朝鮮の社会構造、朝鮮社会の家父長制、家のために自分を犠牲することを厭わなかったジェンダー教育、家の束縛から逃れたかったため」などを列挙しつつも、それらを考慮しても、最も大きな原因は「朝鮮が植民地化した」ことであるとする。だからこそ、「日本軍の強制連行」のみに慰安婦の原因を帰すのは、「朝鮮人慰安婦を多く出した植民地の矛盾をかえって見ないようにするだけ」であるとする。

 

“そして、朴教授は自らのこうした指摘を「慰安婦の悲惨さを軽く扱うためではない」とする。「戦争に動員されたすべての人々の悲劇の中に慰安婦の悲惨さを位置づけてこそ、性までもを動員してしまう〈国家〉の奇怪さが浮き彫りになるから」であり、「それぞれの境遇が必ずしも一つではなかったことを認識して初めて、「慰安婦問題」は見えてくるだろう」とする。”

 

“「性奴隷」というイメージについては植民地の国民として、日本という帝国の国民動員に「抵抗できずに動員されたという点において、まぎれもない日本の奴隷だった」とする。しかし、慰安婦=「性奴隷」という認識が「〈監禁されて軍人たちに無償で性を搾取された〉ということを意味する限り、朝鮮人慰安婦は必ずしもそのような「奴隷」でない」とする。「性奴隷」は「性的酷使以外の経験と記憶を隠蔽してしまう言葉」であることを指摘し、「「被害者」としての記憶以外を隠蔽するのは、慰安婦の全人格を受け入れないことになる」とする。”

 

“「韓国が植民地朝鮮や朝鮮人慰安婦の矛盾をあるがままに直視し、当時の彼らの悩みまで見ない限り、韓国は植民地化されてしまった朝鮮半島をいつまでも許すことができないだろう」とする。それは、「植民地化された時から始まった韓国人の日本への協力――自発的であれ強制的であれ――を他者化し、そのためにできた分「日本は1945年の大日本帝国崩壊後、植民地化に関して実際には韓国に公式に謝罪したことはない」とする。裂をいつまでも治癒できない」、つまりは、「いつまでも日本によってもたらされた〈分裂〉の状態を生きていかなければならないことを意味する」とする。「〈責任〉を負うべき主体を明確にし、その責任を負わせることが運動の目的なら、まずは慰安婦問題をめぐる実態を正確に知る必要がある」とする。”

 

日韓基本条約は「少なくとも人的被害に関しては〈帝国後〉補償ではな」く、「あくまでも〈戦後〉補償でしかなかった」とする。だから、「日韓協定自体を揺るがすのは、あまりにも問題が複雑になる」が、「いま必要なのは、当時の時代的限界を見ることであり、そのうえでその限界を乗り越えられる道を探すことではないだろうか」と問いかける。“

 

“1995年に、戦後初めてアジアを相手とした戦争や植民地支配について公式に謝罪した村山富市首相による「戦後処理問題についても、我が国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私はひき続き誠実に対応してまいります」[5]とした言葉を受けて、「基金」が発足したことを指摘し、「談話の志は果たして引き継がれてきたのだろうか」と疑問を投げかけるも、「いまだ全うされていない」とし、日本政府はこの「「志」の完遂を、めざすべきであろう」とする。

 

“しかし、支援団体を否定しているわけではなく、「当事者主義を取り、誰よりも慰安婦たちの身になって考え行動してきたであろうことは疑いの余地がない」とする。しかし、「正義自体が目的化してしまったために、皮肉にも慰安婦は、そこではすでに当事者でなくなっていた」とする。”

 

“そして、「そのような日本国内の左右の対立こそが、慰安婦問題を解決させなかったもの」とする。韓国においてもまた、「戦時の性暴力と女性の人権を訴え」るはずの挺対協の運動が「「慰安婦問題」自体の解決以上に〈左翼が世界を変える〉政治問題により関心があった」とし、そうした構造が見えてこなかったのは、「冷戦的思考を引きずったものであるにもかかわらず、単に民族と女性の運動に見えた」ことに起因するとする。”

 

“しかし、「日韓や左右の分裂と対立によって生まれる苦痛は、結局のところ、慰安婦たちが受け持つことになる」とする。「日韓政府はただちに、この問題の解決を話し合う国民協議体(当事者や支援者や識者をまじえた)を作るべき」であり、「期間を決めて(半年、長くても一年)ともかくも〈合意〉を導きだすことを約束して対話を始めるのが望ましい」とする。さらに、「日韓のマスコミは、この20年の誤解を正し、お互いへの理解を深められるような記事を書くべき」であるとする。「両国の植民地・帝国経験者たち」、つまり「当事者たちの生存中に」問題を解決する必要があるとし、「日本が、日本人の犠牲を中心においた戦争記憶だけでなく、〈他者の犠牲〉に思いをはせるような、反支配・反帝国の思想を新たに表明することができたら、その世界史的な意義は大きいはず」であるとする。 「民族の違いや貧困という理由だけで他者を支配し、平和な日常を奪ってはならないという新たな価値観を、慰安婦問題の解決に盛り込みたい」とする。“

 

 

<鄭栄桓の朴裕河批判について >

 

“鄭のいう「慰安婦」の本質が〈日本軍に強制的に連れて行かれた少女〉のことであるなら、朴教授はその本質を修正しようとしたのではない。その理由は、第一に朴教授は「日本軍に強制的に連れて行かれた少女」のイメージを否定しているのではない。これについての直接的な言及として、千田による研究を引用し「「日本軍に強制連行」されたと話している人たちはむしろ少数である」と指摘している程度である。第二に、朴教授は「「慰安婦」の本質を見るためには、「朝鮮人慰安婦の苦痛が、日本人娼妓の苦痛と基本的には変わらないという点をまず知る必要がある」と指摘するが、この言葉は、韓国社会において慰安婦の本質であると考えられてきた〈日本軍に強制的に連れて行かれた少女〉の姿さえも包括する、植民地支配の被害者としての慰安婦を朴教授が描き出そうとしていることを示すとみることができる。したがって、少なくとも鄭の指摘する本質の修正にはあたらない。

 

“鄭書は『帝国の慰安婦』をどのようなものとみているのか。鄭は『帝国の慰安婦』の特徴について、「日韓対立を『慰安婦』のイメージの修正により調停し『和解』を図ろうとするところにある」[6]としている。”

 

(鄭のいうような)“ 日本において『帝国の慰安婦』を絶賛する状況が実際にあるとすれば、朴教授を擁護する知識人たちがすべきことは、例えば、日本が元慰安婦に対してこれまで取ってきた措置を細かく検証し、そうした措置では達成されなかった部分を補うような措置、あるいは過去の試みを包括した、より誠意ある対応が実行されるよう政府にも国民にも働きかけることではないだろうか。なぜなら、朴教授は『帝国の慰安婦』全体を通じて、慰安婦問題は植民地支配が引き起こした問題であるとの認識の下、日本に対し植民地支配への反省に基づく謝罪と補償を求めているからである[7]。そして、そのために思念するのも議論するのも実際に実行するのも、日本の側が主体となるべきであると考えていることが読みとれる。”

 

“だからこそ、鄭が『帝国の慰安婦』の絶賛状況を問題視するのであれば、それは結果として日本の側が自らの責任や謝罪および補償について再考する機会を失わせることにすらつながるのである。”

 

“繰り返しになるが、日本の謝罪や補償を求めているという点では、朴教授と鄭は同じである。鄭が日本の知識人たちについて、朴教授が日本を免責した書籍を出し、それにもともと日本の責任を否定する立場の者が呼応したというように考えているのであるとしたら、これも明らかな状況の読み誤りであるといえる。朴教授は、実際に一部の保守派の人間が、この意味で『帝国の慰安婦』を利用したことを指摘もしたが[8]、それも保守派が書籍の内容を理解しなかったために起きたことにすぎない。結局は『帝国の慰安婦』の叙述が明晰さを欠くというのも、根拠のない批判であるとするよりほかにない。”

 

(鄭による)「(b)日本軍には制度を「発想」し、「需要」を作り出した責任だけがある」という指摘は朴教授の論旨からは導き出すことはできない。朴教授は、兵士たちの人間としての自然な性欲を、戦時という特殊な状況の下で慰安所の設置によって解消しようとしたことが日本軍の責任であると述べているのであり、兵士個々人に責任を転嫁したのではない。その慰安所という「発想」も、それに対する「黙認」も、鄭のいう性欲自然主義を「需要」として作り出すに至ったと読みとれるため、兵士たち個人の「性欲」に責任があることにはならないのである。”

 

“本論では『帝国の慰安婦』にいち早く反応し、批判的な検証を試みた書籍として『忘却のための「和解」』を取り上げた。この書籍でなされるすべての指摘を検証することはできないが、恣意的な判断に基づく批判を含んでいると考えざるを得ない。”

 

<裁判について>

 

“第三審においてもし朴教授が有罪とされた場合、韓国社会において確たるものとして築かれてきた「慰安婦」のイメージと対立する別の「慰安婦」イメージを提示することは、犯罪行為として認定されることになる。

 

“(朴裕河は裁判所で)「『帝国の慰安婦』は、慰安婦問題に無関心だった日本に向けて、慰安婦問題を思い起こしてもらい、解決に乗り出すべきだと促すために書き始めた本」であったが、「日本のみならず韓国でもこの問題を考え直すことが急務だと思い、結局先に出したのは韓国語版」となったとする。だからこそ、「当初は日韓両国で同時に出したかった」が、起訴後、和田春樹が「日本で慰安婦問題を喚起させる機能がある」としたことは、「私の努力が無駄ではなかったということを証明」するとする。”

 

“(朴裕河は裁判所で)『帝国の慰安婦』は、民族とジェンダーが錯綜する植民地支配という大きな枠組みで、国家責任を問う道を開いた」とする加納実紀代[9]の発言などを取り上げ、「こうした評価が、『帝国の慰安婦』の日本への批判をきちんと受け止めてのものであることは言うまでもありません」とする。”

 

“朴教授の『帝国の慰安婦』は、何よりもまず「日本に向けられた」書籍である。朴教授の頭の中には常に傷ついた慰安婦の姿があり、彼女たちに対し未だ責任を果たしていない日本へのメッセージが込められた書籍である。これまで「解決のために」行われたはずの措置がその目的を果たせずに終わり、朴教授はその方法に問題があったとしたが、彼女の「既存の「常識」を見直して、それに基づいて「異なる解決法」があるかどうかを考え」[10]るという言及は、慰安婦問題が戦争によって引き起こされたとする通念を見直し、「帝国」に付随する問題であると考えることで新たない解決法を見出す余地が生まれるということである。

だからこそ『帝国の慰安婦』を正確に読んだ者は、日本人であれ韓国人であれ、あるいは第三国の人間であろうとも、日本が未だに果たしていない責任に改めて気付かされ、河野談話やアジア女性基金、さらには日韓合意を経ても、元慰安婦のための措置が必要だということを痛感するはずである。“

 

“つまり、原告側代理人や検察等は、自分たちとはその方法や論拠は違えども、朴教授もまた日本の責任を追及する論旨を展開する立場にあるということに気がついていないということになる。したがって、「日本の責任を免罪する意図がある」という非難はやはり誤読によるものでしかないが、裁判を通していろいろな資料を提示されれば、彼らの「誤読」はより浮き彫りになるはずである。”

 

“つまり、彼らは『帝国の慰安婦』の論旨を実は正確に捉えていながら、それを意図的に歪曲したということになろう。そして、意図的な歪曲を行わざるを得なかったのは、朴教授の元慰安婦への名誉毀損の罪を成立させることによって、元慰安婦と朴教授との関係を完全に断ち切り、元慰安婦らを支援団体のこれまで築いてきた「慰安婦」イメージの中に留め、また、日本の責任を追及する運動の力を維持するためであるといえる。したがって、朴教授の民事裁判の敗訴は、結果として司法によって意図的な歪曲が守られてしまったことになり、想像以上に重い問題であるといえよう。”

 

“支援団体の築いた「慰安婦」イメージとは「強制的に連れて行かれた少女」であるが、朴教授はこれを否定しているのではなく、「慰安婦」といえば「強制的に連れて行かれた少女」というように、慰安婦を代表するイメージとして成立していること、さらに言えば、もともとは慰安婦の中でも一部のものでしかなかった記憶が、韓国国民に受け入れられ公的記憶にさえなり得たことを問題視しているのである。

そしてこれこそが、支援団体や原告側代理人、検察が見過ごすことのできなかった記述である。慰安婦イメージを「強制的に連れていかれた少女」として定着させることで、その悲惨さを強調し(もちろん悲惨であったことは間違いないが)、ひいては植民地支配を受けた韓国という国自体の悲惨さを物語る象徴の役割を慰安婦に与えた。しかし、ただでさえ慰安婦の中では少数派であった「強制的に連れていかれた少女」は、象徴の役割を与えられたことによって、強制的に連れていかれた少女ですらなくなったのである。朴教授がソウルの日本大使館前の少女像に〈まったき被害者〉のみが表象されているとするのはこうした理由からである。そしてそのような指摘は、支援団体の運動の根拠そのものが揺らぎかねない指摘であり、彼らは当事者の名前のみを借りて裁判を起こしたが、結果として運動そのものに当事者がいなかったともいえる状況も明らかになったといえよう。“

 

“学問の自由を阻害する判決であることも間違いないが、何より司法が「慰安婦」の認識を決定づけるような判断をしたという点に着目すべきであろう。”

 

 

“繰り返しになるが、朴教授の『帝国の慰安婦』での指摘は、挺対協の側に立てば自らの運動の根拠が脅かされるものであった。『帝国の慰安婦』が裁判の俎上に載せられたことで、そこで展開される論の根幹であった多様な慰安婦の存在は、今後韓国では再び認知される可能性は限りなく小さくなった。なぜなら、朴教授は民事裁判の判決によってこれにかかわる記述を削除させられたからである”

 

 

“『帝国の慰安婦』の内容は本論第2章において示したとおりであるが、これを正確に読むことができれば挺対協が構築してきた「強制連行によって連れていかれた少女」イメージに固執しなくとも、日本の責任を追及することは可能であると理解できるであろう。”

 

“つまり、日本国民の間には、韓国が謝罪や補償を何度も繰り返し要求してくるというとらえ方が浸透している。(それは韓国国民の間で、慰安婦が「強制的に連れていかれた少女」と理解されている状況と非常によく似ているとみることもできるのであるが)、そうした認識が、韓国に対するいわゆる「呆れ」となって現れるのであり、もはや挺対協が声高に日本の謝罪や補償、そして真相究明を求めたところで、大多数の日本人、そして日本政府にとっては意味をなしていないとさえいえよう。”

 

“では、挺対協の運動がもはや意味をなさないというのであれば、朴教授が提供した解決方法はどのように考えることができるであろうか。朴教授は、これまで慰安婦問題の議論において当事者が主体的にかかわることができなかった状況を危惧しており、『帝国の慰安婦』においては「日韓政府はただちに、この問題の解決を話し合う国民協議体(当事者や支援者や識者をまじえた)を作るべき」であり、「期間を決めて(半年、長くても一年)ともかくも〈合意〉を導きだすことを約束して対話を始めるのが望ましい」とする。これからなされるべき解決に向けての議論には、当事者が加わるべきであるとする考え方である。”

 

 

“そういった意味でも、慰安婦問題が「帝国」による支配の枠組みの中で起きたこととらえ、さらに韓国が解放後も帝国と切っても切り離せない関係の中で国家を構築してきたことを指摘した朴教授の論旨が理解されたときに初めて、日本への責任追及も意味を成すのである。朴教授は、これまで韓国の支援団体によってなされてきた運動以上に、日本政府や日本国民に対し重くのしかかるような指摘をしているのである。”

 

[1] 朴裕河(2014)『帝国の慰安婦』朝日新聞出版、10頁。以下、引用に当たっては原著である韓国版を(韓)、日本版を(日)との表記を題名に添える。

[2] 朴裕河(2016年10月4日)「慰安婦問題との出会い、『帝国の慰安婦まで』<http://www.huffingtonpost.jp/park-yuha/meeting-with-former-comfort-women_b_12303834.html>(参照2017年11月13日)

[3] 『帝国の慰安婦』(日)、10頁。

[4] 本論第2章で取り上げた「軍慰安所従業婦等募集に関する件」から、朴教授がここで指摘する日本軍による黙認を読みとることができる。

[5] 「村山談話」の一部。「これらの国々」とは、談話のこれより前の部分で「近隣アジア諸国」と表現した部分を指す。

[6] 鄭書、8頁。

[7] 本論2-3参照。

[8] 朴裕河「[裁判関連]『帝国の慰安婦』刑事訴訟 最終陳述」<https://parkyuha.org/archives/5737>(参照2017年12月29日)

[9] 敬和学園大学教授

[10] 朴裕河「[裁判関連]『帝国の慰安婦』刑事訴訟 最終陳述」<https://parkyuha.org/archives/5737>(参照2017年12月29日)

 

【原文情報】

「国民感情と歴史問題:『帝国の慰安婦』をめぐる裁判より」

著者:高松好恵

東京外国語大学大学院 博士前期課程 総合国際学研究科世界言語社会専攻・国際社会コース修了

問い合わせ [email protected]

<帝国の慰安婦 関連記事>ジェンダー平等のテーマ中途半端に

ジェンダー平等のテーマ中途半端に 水無田 気流

 従軍慰安婦を国家主義や植民主義における女性搾取という普遍的問題から問う研究書に、韓国の世宗大学教授・朴裕河『帝国の慰安婦ー植民地支配と記憶の闘い』がある。同書をめぐっては、元慰安婦らの名誉が傷つけられたとしてソウル高裁が朴に有罪の判決を出した。同書は日本の責任を問う一方で、女性たちを収奪した責任の一端を朝鮮の民間業者にも見る点などが削除を要請された。まさに「表現の自由」が争われた事例といえる。
朴は、森崎和江の『からゆきさん』を引き、こう述べる。韓国併合以前から、朝鮮半島に渡って来た日本人男性の相手をするため、困窮の末や騙されて身売りされてきた日本人女性(=からゆきさん)はいた。彼女たちを、国家権力と民間業者は黙認してきたが、その意味で「『慰安婦』の前身は、『からゆきさん』、つまり日本人女性たちである」と。
からゆきさんと慰安婦をつなぐ線は、日韓の国際政治の現状を超え、深く苦しい女性搾取の歴史と戦争の暴虐性にたどり着く。

東京新聞(夕刊) 「社会時評」 2019年9月24日

<帝国の慰安婦 関連記事> 映画「主戦場」 慰安婦語る口調、言葉より雄弁

映画「主戦場」 慰安婦語る口調、言葉より雄弁 池澤夏樹

(主戦場を)「見終わった方にぼくは朴裕河著『帝国の慰安婦』を読むことをお勧めする。「主戦場」は映画としてよくできているがあくまでもレポートであって、論理の骨格に欠ける。それを補うのにこの本は役に立つ。両国と諸勢力を公平に扱って、感情的になりがちな議論の温度を下げ、明晰な構図を与えてくれる。」

朝日新聞コラム 「終わりと始まり」 2019年7月3日

日韓関係、問題はどこにあるのか ― 2.「歴史司法化」を超えて (1)新日鉄徴用判決を読む<5>

<5>「日韓併合不法論」の問題

しかし、このような国際社会の状況は、2012年と2018年の判決の際、ほとんど参照されなかったように見える。そういう意味で、この判決はその是非はさておくとしても、<外国を相手にしながら極めて国内的な視座に基づいて下された判決>と見るべきだ。そうである限り、このような判決に基づく考えが国際社会に出会った時(仲裁委員会や司法裁判所)、相手を説得できるとは言いがたい。

にもかかわらずこのような「異見」が国民に向けて発信されることはほとんどない。勝者の声しか伝わらない「判決文」というものの構造上、少数(政府の外交保護権がないとしたのは13名の中の6名なので半分近くだが)の判事たちの意見に注目する者はいないのである。新日鉄判決は、90年代以後から声を発してきた一部の法律家・法学者たちの主張に権威を与え、結果的にメディアの報じる勝者の考えと「異なる」考えは、受け入れないし参考にもしない全体主義的な社会への加速化に一助した。

労働にせよ徴用にせよ、日帝時代の労働者たちのオーラルヒストリーは、厳しい体験の数々で、粛然とさせる。社会の死角地帯に潜む矛盾が現れてその矛盾が生じた被害を救済するための法は、常に遅れを取るものだから、そういう意味では必要ならば新しいシステム=「法」が作られて当然である。
しかし、今回の徴用判決における要求が未払賃金=財産ではなく「慰謝料」であるなら、すなわち日帝時代の動員(を含んだすべての「国民」に対しての義務の負荷)自体を「不法」と見なした上での慰謝料であるなら、その対象は労働者だけではない。「精神的な苦痛」という被害にまつわる要求ならば日本語使用や日本式姓名などのあらゆる強制に対して慰謝料の請求が可能だと強弁することもできる。また、提岩里教会事件、関東大震災による被害者など、いまだに可視化されていない被害者も少なくない。そのような被害者をめぐる歴史清算はいかに可能かを考えるのも残された課題である。

しかも司法府は、「日本人の個人請求権」のことは念頭に置いていないようだ。徴用問題が浮上する中で、「個人請求権は存在する」と主張してきた弁護士側の主張しか報じなかったメディアは、河野外務大臣が「個人請求権は存在する」と述べたことを取り上げ、「表裏不同」(京郷)、「ファクトの吐き出し」(ハンギョレ)、「詭弁」(連合・JTBC)と非難したが、河野外務大臣の発言は「日本人の個人請求権」を念頭に置いてのものだったと見るべきである。原告側の弁護士たちと韓国のメディアの指摘した「(日本官僚)柳井の個人請求権に関連する国会での発言」で、実は柳井が言及したのは「日韓両国の個人請求権」であった。

日韓政府の処理した韓国の個人請求権が有効なら、アメリカが処理した日本の個人請求権も有効である。周知の通り、日本人が朝鮮で所有した土地や炭鉱や会社などは、解放後、アメリカの仲裁を経て朝鮮人の所有となった。にも関わらず、いまだに日本人名義の土地が少なくないということは(2019年2月27日付<民衆の声>)植民地支配の後遺症は韓国だけのものではない、ということを語ってくれる。日韓協定は、朝鮮人だけではなく、日本人の個人請求権も放棄した協定でもあった。

韓国政府は、国際社会では司法による外交や政治への介入に慎重だと指摘する国際法学者たちの助言を傾聴すべきである。日韓会談で「植民地支配」に対する謝罪がきちんと議論されなかったのは、参加国のほとんどが植民地を所有していた連合国が中心であったサンフランシスコ講和条約の限界と言える。講和条約の時代的な限界を見据えることと、当時の補償金に徴用者たちの死亡、行方不明、負傷に対する補償が含まれていたという事実を直視することとは、相矛盾するものではない。
多数の判事たちは日韓会談の過程で韓国が「要求額を満たしていない3億ドルだけ受け取った」ことを、原告側の正当性を裏づける資料として用いたが、80年代以後、全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領が日本に100億ドルを要求し、最終的に40億ドルが再支給されたという事は認識されていなかったようだ。

「司法府」の判決はもちろん尊重されなければならない。だが、歴史問題が政治外交問題と化した以上、「司法府の判断」が絶対的な権威を有する必然性はない。
全国民が注目する問題であるがゆえに、国民大多数の納得も必要である。が、判決の前提であった「日韓併合不法論」は韓国内においても少数の学者による意見に過ぎず、しかも日本に受け入れられにくい論理である。そうである以上、この判決に日本が納得する可能性は皆無に近いと考えなければならない。2018年の判決はそのようなものであった。

判決文には大韓民国の徴用者を含んだ労務者たちに、1970年代に91億ウォンを、2000年代に約5500億ウォンを支給した、という事実も記されている。漏れた人が存在するのであれば当然配慮されなければならないが、そのためにも日本と韓国政府の行ったことは全国民に共有される必要がある。

この問題が仲裁委員会に付され韓国政府がもし国際社会で失敗した場合、韓国政府に与えられる打撃は決して小さくない。前面に出たのは少数であっても、その後の打撃はすべての国民が受けねばならないのである。であれば、すべきことは明確だ。もう一度、事態の原点に立ち戻って考えてみることである。(以上、原文は2019年6月4日。朴裕河ホームページに掲載)

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日韓関係、問題はどこにあるのか ― 2.「歴史司法化」を超えて (1)新日鉄徴用判決を読む<4>

<4>国際法学者の考え

 今回の判決は2012年に原告が敗訴した日本の裁判所と、韓国の下級審で敗訴した訴訟に対して原告勝訴の判決が下されて高等法院に送られて再上告された結果である。つまり、今回の判決と2012年の判決とは、内容的にそれほど変わらない。
 しかし、アカデミズムの方からは2012年判決に対する批判が提起されていた。たとえば、ソウル大の李根寬(イ・グングァン)教授はこの時の判決について、「国内法的な思考をそのまま国際的な次元へ投射」した判決だとして批判する。「釜山高等法院とソウル高等法院が徴用者たちの控訴を承認したのは、外国の判決に対しての承認に関する法理を誤解」した結果だと述べるのである。
 李教授は先述した少数の判事たちと同様に、個人請求権は日韓協定に含まれて消滅したと主張している。会談過程の文書に「被徴用韓国人の補償金」と明記されていると言うのである。
 また、「両国および両国の国民間の請求権(未収金および補償金)は解決」されたとする考えが、協定後の韓国政府の公式解説書、1966年以降の(徴用者などのための)国会立法、2005年に日韓会談文書が公開されてから作った国務総理傘下の官民共同委員会の公式意見において確認され、2009年に日本から受け取った3億ドルに個人請求権が含まれていたので請求権の行使は難しいとする外交部の報道用資料もあるという事実を付け加える。
 判事の多数は、韓国政府が会談過程で「強制動員被害に対する補償」を要求したことを認めつつも、それは「公式見解」ではなく担当者の交渉資料でしかないため、そのような要求が日韓協定に含まれたとは認めがたいと判断した。しかし李教授は、当時の韓国は「生存者、負傷者、死亡者、行方不明者、そして軍人・軍属を含んだ全体的な被徴用者に対する補償を要求」したがゆえに、たとえその資料が参考資料であっても、韓国が「個人の被害に対する賠償を請求権交渉の対象に取り入れたという事実を示す」ものになるとしている。
 また、受領金額の名分をめぐって両国の政府が激しく対立したことを紹介しながら韓国側にとって請求権問題は単なる金銭的な問題ではなく「日韓の間の不幸な過去の清算という、決して譲れない名分と関係することを明らかにしたもの」であり、「この協定において不幸な過去の清算という象徴的な意味は大きく、韓国人の被害に対する補償を含ませることが協定受容における絶対的な条件であった」と言う。まさにその理由で文面が「請求権問題の解決および経済協力」というふうに折衷されたと言うのだ。最後まで日本はその金額が「植民地支配に対する賠償ではない」と主張したがったが、当時受け取った金額を単なる「経済協力資金に決めつけてしまうことは韓国政府が一貫して主張してきた立場と食い違」うだけではなく、植民地支配を否定した「日本の立場を追随する」ことになる、というのが李教授の主張である。
 さらに李教授は、この問題を考える上で大きな参考となる重要な事実を教えてくれる。それは、たとえ日本が「日韓合併不法」を認めなかったとしても、それは請求権問題の解決とは関係ない、ということだ。李教授の言葉に従うなら、「日本は併合の不法性を認めていなかったので、協定で受け取ったお金に賠償的な性格を持つ金額が含まれることにはならない」と考えた判事たちの前提そのものが崩壊してしまう。
 李教授は、「国際関係において片方の国が国際法上の責任を認めない基礎の上で、一定の金額を支給して他方の当事国との紛争を解決する場合はしばしば存在する」とし、国内法においても和解という名のもとで折衷するケースに言及する。日本が併合の不法性を認めているか否かに関係なく(つまり日韓協定を通じて受け取ったお金に賠償の性格があってもなくても)日韓両国の政府は植民地支配問題が「協定対象にされ、解決されたという点においては意思の合致を見せている」と言うのである。すなわち、喧嘩した後に合意にたどり着く場合も、その和解金の意味に関してはそれぞれの当事者が自分の都合のいいように考える場合が多く見られるが、国家間の場合も同様だ、ということになる。
 この判決の要は、「1910年の併合は不法だったのですべての労務動員は基本的に強制かつ不法だ」ということの他に、「1965年の協定において植民地支配による被害は棚上げにされた。よって、賃金問題などが解決されたとしても動員と労働の過程で被った被害に対する「慰謝料」は請求されなかったし補償も行われなかった。したがって、個人請求権は有効である」というところにある。だが李教授は、協定に植民地支配に対する補償のことが文中に明示されていなくてもなかったとしてそのような内容が含まれていると考えるのである。
 李教授は、「人権」に関する認識が強化されつつあるにも触れながら、国家が処理した事柄に対して個人の権利を求める動き自体は必然的な現象だとし、個人請求権の提起そのものには否定的でない。また、国際法はこのような動きに関して国内法の動きに追いついていないところもあるため、国際社会も個人の権利を考慮するように勧告している、という説明も忘れていない。
 しかし同時に、国際社会は「外交的保護権の行使と関連し、まだ国家に相当の裁量権を与えている」と述べる。人権問題はもちろん重要だが、「厳然たる国際社会の現実とかけ離れて先走ってしまう場合は国家間の紛争を頻発させ、当為的立法論を現実的解釈論として誤認させる恐れ」があるとも言うである。
 実際、イギリスやアメリカなど、人権問題に厳しい民主国家においても外交問題に対する「司法自制の原理」が宣言されたと述べて「慎重な態度が必要だ」とするのが、2018年と類似した判決を下した2012年の徴用問題判決に対する李教授の意見である。フランスなどにおいても、特に外交問題に関しては(最終的な判断は司法府が下すが)、大概は伝統的に行政府の意見を照会し、尊重すると言う。「ある一つの国家が外交問題をめぐって二つの声を発してはならない」と考えるためだと言うのである。
 もう一人の国際法学者鄭印燮(チョン・インソップ)教授も、「ある国家が他国との間で、自国民の請求権に影響を与え得る合意にたどり着くことができなければ、国際関係において国家間の外交交渉と妥結は、その存在意義がなくなる。一般的に言って、国家間の合意とは、個人権利をめぐる紛争を最終的に解決するための最後の手段として試みられるもの」だと主張している。

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日韓関係、問題はどこにあるのか ― 2.「歴史司法化」を超えて (1)新日鉄徴用判決を読む<3>

<3>少数の法官の判断

 つまり、「強制された併合」(不法体制)の下で、欺罔や殴打などの暴力的な「不法行為」の伴う労働をさせられたとするのが多数の判事の考えであった。このことに対する補償要求(慰謝料請求)が、1965年の協定の時点ではなされていなかったから、個人請求権も外交的保護権もまだ有効、と考えたわけである。
 しかし、この考えに反対した判事たちの意見も、判決文には書かれている。
 その中の二人は、1965年の日韓協定によって「個人請求権」は消去してもう残っておらず、その後の韓国政府が協定に定められた義務を果たしてもいるので、個人請求権はもはや存在しない、と述べている。この件のために政府が動くこと、つまり国民に対する外交的保護権もないとしていた。
 二人の判事はこの問題が「基本的には請求権協定の解釈をめぐる問題」であることを明示しつつ、条約解釈は、「条約の文言に与えられている通常の意味に基づいて誠実に解釈」されねばならないとしている。意味が曖昧な場合は協定当時の文脈を見るべきとし、請求権協定には明確に「両国および両国国民の財産と両国および両国国民間の請求権に関する問題を解決することを希望」、「完全かつ最終的に解決」、「いかなる主張もできな」いと書かれているので「両国の国民はこれ以上、請求権の行使が不可能」との意味に解釈せねばならない、としているのである。
 「締約国の間においてはもちろんのこと、国民の間においても完全かつ最終的に解決されたと解釈するのが文言の通常の意味に合っており、単に締約国の間で外交的保護権を行使しないことにした、という意味には読めない」とするのが、多数の意見に反対した判事たちの考えだった。
 また、韓国側の条約協定解説に「我々の要求はすべて消滅、韓国人からの各種の請求権などが完全かつ最終的に消滅」したと書かれており、当時の張基榮(チャン・ギヨン)経済企画院長官が「無償3億ドルは被害国民に対しての賠償の性格」と発言し、実際に韓国政府は何度かにわたって補償を実施した、というのが少数判事たちが示す別の根拠である。1965年の協定はすべてのことを一括処理した協定であり、一括処理協定は国際慣習法的な観点から見て一般的なものであるため、国家が補償あるいは賠償を受けたならば、その国家の国民は個人請求権を行使することができず、「請求権協定を憲法や国際法に違反するものとして無効とみなしのでなければ、否応なくその文言と内容に従わなければならない」と言うのである。
 個人請求権そのものが残っていないので訴訟を起こす権利もないとし、徴用者を含む労務者たちに1970年代の91億ウォンの他にも、2005年以後およそ5500億ウォンが支給されたことも少数判事たちは付言している。
 その他、植民地支配に対する慰謝料としての請求権は1965年条約には含まれていなかったのでまだ残っているが、外交保護権は(国家が外交手段で国民の問題を解決せねばならないとする、政府の義務)当時の両国間の合意によって消滅したとする意見を述べた判事も4人いた。
 「大韓民国と日本の両国は、国家間の請求権に関してだけではなく、片方の国民にとっての相手国およびその国民に対しての請求権も協定対象としたことが明白で、請求権協定に対する合意議事録(1)に請求権協定上の請求権の対象に被徴用請求権も含まれるということを明らかにして」おり、「当然<植民地支配の不法性を前提とした賠償>も請求権協定の対象とするものとして相互に認識しているように見える」と判事たちは述べる。
 また2005年に、官民共同委員会も1965年の協定によって受け取った3億ドルには被徴用損賠請求権が含まれていると見なし、政府が「請求権協定から長期間にわたってそれに基づく賠償の後続措置を取っ」たとした強調している。
つまり少数の判事たちは、日韓両国が当時「補償」と「賠償」を区別していなかったと考えていた。ただ、国家間に合意したとしても個人請求権自体が消えるわけではないので、訴訟の権利はまだ有効としていた。
 判決は、個人請求権は有効とする結論を下した。しかし、個人請求権はもう残っていない、もし残っているとしても政府がその権利を保護せねばならない(保護に乗り出ねばならない)ものではないとする意見を持っていた判事は、全13人の中、6人であった。

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日韓関係、問題はどこにあるのか ― 2.「歴史司法化」を超えて (1)新日鉄徴用判決を読む<2>

<2>判事多数の判断–個人請求権は有効だ

 この判決をめぐる主要論点は、植民地支配による被害に対する「個人請求権」がまだ存在するのどうか、という点にあった。
 しかし今回の判決に判事全員が賛成したわけではない。半分以上の判事が個人請求権は有効としたが、その理由を以下のように述べている。
 当時の韓国政府が、「他国の国民を強制的に動員することで被らせた被徴用者の精神的、肉体的な苦痛について言及」(強調筆者)し、「12億2000万ドルの要求額のうち3億6400万ドル(約30%)を強制動員被害補償に当てるものとして算定」するも、それは「大韓民国や日本の公式的な見解ではなく、具体的な協議過程で交渉担当者が口にした言葉に過ぎ」ず、担当者の被徴用者の苦痛に関する言及は、「交渉において有利な位置を確保しようとする目的ゆえの発言に過ぎないものと見なし得る余地が大」きい、と。
 さらに、韓国が12億ドル以上を要求したのに「請求権の協定は3億ドルで妥結」されたので、「このように要求額を満たしていない3億ドルのみ受け取った状況では、強制動員をめぐる慰謝料請求権をも請求権協定の適用対象に含まれるとは言いがたい」としている。日本が「具体的な徴用/徴兵の人数や証拠資料を要求したり、両国の国交が回復された後個別的に解決するための方法を提示するなど、大韓民国の要求にそのまま応じることはできないとする立場を披瀝」して反発していたので、当時の日本が韓国の「被害賠償」要求に応じたとみなすことはできない、としているのである。
(日本は、個別に証拠を探し出して請求権を算定するのは容易ではなく、結局は金額が少なくなるはずだから、有償/無償の経済協力という形で金額を上げるやり方で請求権問題を解決しようとした。)
また、請求権とは「植民地支配の不法性に基づく請求権」であったが、「日韓条約に植民地の不法性は言及されていないので植民地支配による被害に対する賠償」は含まれていないと見なすべきだとしている。つまり、日本からのお金は、文面のみならず実質的にも経済協力資金で、植民地支配に対する賠償性格を持つものではなかった、とするのが判事多数の判断であった。判決は、そのような主張が多数だった結果としてのものだった。

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日韓関係、問題はどこにあるのか ― 2.「歴史司法化」を超えて (1)新日鉄徴用判決を読む<1>

2.「歴史司法化」を超えて

(1)新日鉄徴用判決を読む

<1>判決文の前提―日韓併合不法論

韓国大法院(日本の最高裁判所に当たる)の徴用問題判決に抗議し、仲裁委員会の設置を要求(2019/5/20)した日本に対する非難の声が高い。しかし、2018年10月に出された新日鉄徴用判決を含む朝鮮人徴用問題に対する政府間の協議を2019年1月に要請した日本が、韓国政府からの答えを待たずに仲裁委員会設置の要請に移ったのは、「韓国政府のできることには限界がある」とした李洛淵(イ・ナギョン)総理の発言が原因だった(2019/5/21、河野外務大臣の記者会見)。国内的な対応が困難であれば仲裁委員会の設置に応ずるべき、とした河野外務大臣の指摘は、残念ながら論理的には正しい。
今からでも韓国政府は日本の要請した政府間の協議に応じるべきだ。第三者が介入することになる仲裁委員会が動くことになれば、決して韓国に有利にはならないからである。国際法の専門家による意見に関しても後述するが、韓国の論理と態度は、世界に共有されている普遍性とはかけ離れているように見える。

4ヶ月間も政府が大した動きを見せなかったことの表面的な理由には、「司法に対する尊重」というものがあった。しかし、肝心なのは司法そのものではなく、判決における正当性である。
重要な事案であるだけに大統領は当然この判決を読んだはずだが、だとすれば青瓦台の無対応は(注-2019年6月19日に両国の企業による財団設置を提案。この文の原文は5月に書かれている)単なる「司法府尊重」を超え、「判決内容自体に対する同意」である可能性が高い。実のところ文在寅大統領は、2000年に釜山で起きた三菱重工業に対する初訴訟において、原告側の弁護人をつとめた人でもある。

新日鉄が被告となった徴用判決において、大法院は新日鉄に、徴用「被害者」に対して一億ウォンを賠償すべしとする判決を下ろした。ところで、ここでの一億ウォンとは世間の理解とは違い、未支給賃金に対しての賠償金額ではない。大法院の判事たちが被害者への支給を命じた金額は、「不法な植民地支配および侵略戦争の遂行と直結する日本企業の反人道的な不法行為」に対する「慰謝料」である。
したがってこの判決は、「徴用者たちが日本企業で働いたのに賃金が支払われなかったから、賃金を支給しなさい」とするものではなく、「日本は、自国国民に対して行ったことと同様に朝鮮人を戦争遂行のための労働に動員した。しかし、日韓併合は‘強制的’に行われたものであり、朝鮮が日本になったことはない。よって動員自体が不法になるので、それに対する慰謝料を支払うべき」とする判決である。この判決には「日韓併合は不法である」という思考が前提とされている。

強制的に押し付けられた日韓併合だから不法、とする主張は、ソウル大学の李泰鎭(イ・テジン)教授によって90年代から訴えられた考えである。だが、この主張は、90年代半ばに日本人学者たちとの激しい論争を巻き起こし、未だにアカデミズムにおいては両方の接点は見出せていない。
そのような合併不法論を大法院が採択したことは、その是非はともかくも、学界でなお議論中の主張を定説として採択した、ということになる。言うならば2018年の判決は、アカデミズム内で議論中の事柄であるにも関わらず、一部の学者たちの主張のみを採択して下された判決である。

このことだけでも、以前言及した「歴史の司法化」の孕む問題が見えるはずだが、問題はさらに他のところにもある。よく知られているように、日本は「日韓併合」が合法であったと考えている。「韓国皇帝陛下は,韓国全部に関する一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝陛下に譲与」し、「日本国皇帝陛下は,前条に掲げた譲与を受諾し,かつすべて韓国を日本帝国に併合することを承諾する」という文章ではじまる条約文を用意しただけでなく、日英同盟と桂・テフト協定をもって朝鮮に対する支配権を欧米に認めさせる手続きも忘れなかったからである。
そういうわけで日韓併合の「不法」性を認めない日本が、合併不法性を前提とする判決を受け入れる状況は想定しにくい。日韓併合不法論は、原告側に味方するための決定的な根拠として用いられたはずだがが、この説に頼る限り、いかなる要求にせよ日本の同意を得ることはかえって難しい。そうした構図を、原告側はもちろんのこと、大法院の判事たちは全く考慮していなかったようだ。

判決文を見れば、日本が1938年に「国家総動員法」を制定し、1942年に「朝鮮人内地移入斡旋要綱」で官斡旋によって人手を募集し、1944年には国民徴用令を制定して国家が主導する徴用対象に朝鮮人も含ませたという事実を明記している。言い直せば、時期によって動員の仕方が異なっており、「法」に基づく動員であったことを明示している。にも関わらず、その差異を区別せず、すべてを「不法の植民地支配および侵略戦争の遂行と直結する日本企業の反人道的な不法行為」と規定するのは、他ならぬ「日韓併合不法論」を前提とするからだ。この判決を下した人々は、「日帝時代に朝鮮人は(法的にも)日本人ではなかった」と考えていたことになる。

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日韓関係、問題はどこにあるのか ― 1.歴史の司法化 (4)日本人と天皇―大統領と文喜相国会議長へ

1.歴史の司法化

(4)日本人と天皇―大統領と文喜相国会議長へ

 

慰安婦問題関係者たちは、2000年の女性国際戦犯裁判で裕仁天皇を「有罪」と断罪した。当時弁護士だった朴元淳(パク・ウォンスン)ソウル市長は、そのような判決が下されるように働きかけた「検事」の一人でもある。

明仁天皇を「戦犯の息子」と呼んだ文喜相(ムン・ヒサン)議長の認識がこの裁判の影響を受けたものである可能性は大きい。そうだとしたら、この発言はあの(模擬)「法的判断」が日韓関係を悪化させたケースであろう。

もっとも、国際女性戦犯法廷は、慰安婦問題が浮上して以降、冷戦崩壊とグローバル化の結果として距離を縮めることができた世界の女性たちが交流の時間と場を増やせた結果として、国境を越えて一つの声を世に出した場だった点において評価できる。しかし、先述したように、「日本人慰安婦」はこの場でも排除されたのであり、そうである限りこの「女性」法廷はその役割を半分しか果せてないことになる。しかも、「法廷」判決としての権威は。慰安婦問題に関する理解をかえって停滞させた。

 

日本と戦争を闘った連合国さえも、裕仁天皇を「戦犯」にはしなかった。軍部と天皇とを分けて考えたからである。ここで、その判決の是非は重要ではない。重要なのは、慰安婦問題に関して十分に理解しないまま、また裕仁天皇を「戦犯」にして処罰する代わりに「象徴」ではあってもなお「天皇」としておいた理由を理解しないまま、50余年後の現代の法官たちが性急な判決を下してしまった、ということである。

 

「処罰」にこだわる人たちは、とかく売春行為を強制した軍人を死刑に処したスマラン事件と比較するが、スマラン事件に対する判決は、国家や軍隊の首長に対してではなく、個人に対するものだった。そして、裕仁天皇が「処罰」されなかったのは、日本国民の動揺に配慮したからである。そこまで連合国は日本のことを理解していた。天皇は、戦争ができないようにした憲法9条と引き換えられ、まさに「平和」を象徴する存在となり、その後の44年間を生きた。

 

しかし、過去の連合国の判断に対する国際女性戦犯裁判の関心は、もっぱら「処罰」に集中された。その判決は、時代的な進歩/革新の様相を呈したが、実際には時代を停滞させた。そして当然の成り行きとして、この判決は慰安婦問題に対する日本の世論を急激に悪化させた。

 

日本の天皇は、日本人にとって政治というより文化である。日本人にとって、国際女性戦犯裁判の判決や文喜相議長の発言は、自らのアイデンティティが否定されたかのように受け止められたのだろう(ただし、文喜相議長の天皇に対する謝罪要求は、支援者たちが主張してきた「法的謝罪」とは対峙する発言でもある。日本はそうしたことも読み取る必要があった)。

 

しかも、天皇でも上皇でも、日本を象徴・代表する者による謝罪があったとしても、慰安婦問題そのものおよび問題の解決過程に対する正しい理解(日本の謝罪など)がない限り、そのことが友好的な日韓関係につながることは望めない。天皇の謝罪で日韓の友愛関係が可能になることを期待するには、誤解と誇張と独善が作り出した相互不信と嫌悪の月日が長すぎる。今のままではたとえ天皇の謝罪があったしても、韓国社会はただ、「一度も謝罪してこなかった厚かましい日本が、国際社会の圧迫に耐えられずようやく屈服した」としかとらえないだろう。

 

この四半世紀の間、歴史問題は法律家・法学者に牛耳られ、法廷は個人の口を塞ぎ政府を操って他国を脅迫する道具と機能するようになった。公正かつ正義の場でなければならない空間、責任を取らされる主体ですら尊敬の念を持つべき空間を、このようなものにしてしまったのは誰なのか?複雑に絡み合う歴史問題を外交・政治問題化し、単純なYes or Noで答えさせるようにしたのは誰なのか?

 

「裁判が(日本企業財産の)差し押え判決を下したのは当然のことだ。日本と韓国政府が司法府の言葉を受け入れれば全ては解決される」(崔鳳泰弁護士)とする主張は、まさに今日の司法の権力化の現場を露にしている。

 

もちろん、その措置が正しければ、司法という権力の使用は尊いものになりうる。しかし、政府が支援者たち及び日本と協議を重ねて作り得た「日韓合意」に、支援者たちはその中身に問題があるとして反対した。発表直後に(合意を)受け止めると話した元慰安婦もいたにも関わらずその声は埋もれてしまい、そうした状況は現在まで続いている。そうした声を出した元慰安婦・家族に対して、単に「懐柔されたに過ぎない」とする視線は、「当事者中心主義」に重きをおきつつも実際には別の「当事者」の声には耳を傾けなかった、この四半世紀の韓国社会を象徴している。

 

日韓合意に関しては後述するが、その是非とは別に、上記のことは記憶されるべきだ。つまり、司法が歴史を動かし管理する主体となり、個人と政府と他国に対しての圧迫道具として使われたが、いざ「当事者」の声は無視された、ということを。

 

したがって私は、大統領と国会議長に提案したい。日韓関係を回復し、長期的な和解平和を志向するのであれば、対話プロジェクトが必要であると。そして、そこで行われる全ての議論をメディアが国民に伝えることでそれぞれの国民がその議論を聞いて考えることができるようにすべきだと。早く接点を作るべき問題は1年単位で、より長い時間を必要とする議題は5年もしくは10年単位で対話を続けながら学者と関係者が議論し、その議論をメディアが報道するようになれば、両国の国民はそれに基づいて考えつつ喧嘩せずに交流することができる。10年、30年、50年、100年が経過した時点において、それまでの論議を整理し、合意された事項を両国の教科書に反映していけば、いつか、日韓両国は歴史認識における接点にたどり着くことができるだろう。もちろんこのようなプロセスに北朝鮮が参加してもいいはずだ。人はこうしたことを百年の計と呼んだ。

 

あわせて政府は、2005年に日韓協定の文書の公開で浮上した、徴用問題は日韓協定をもって解決されたとする民間合同委員会の見解と、その結論に基づいて政府が被害者たちに補償したこともきちんと知らせる必要がある。議論はそこから始められるべきだ。韓国の人々は、この問題を考えるための十分な情報を、未だ得ていない。

 

洪吉童伝の作家は許筠(ホ・ギュン)ではない、ということが最近になってようやく明らかになったことが示すように、歴史理解には時間がかかる。にも関わらず、支援者たちと法廷は歴史問題に関して自分たちの理解と判断のみが正しい、だからそれに従えと、およそ四半世紀にわたって主張してきた。しかも、新たに知った事実をメディアや国民に公に伝えることもしなかった。その結果が、現在の日韓関係である。(以上、原文は2019年5月12日。朴裕河ホームページに掲載)

日韓関係、問題はどこにあるのか ― 1.歴史の司法化 (3)「歴史の司法化」から歴史「対話」へ

1. 歴史の司法化

(3) 「歴史の司法化」から歴史「対話」へ

ところで、今現在、慰安婦問題と同様のことが、徴用問題をめぐって生じようとしている。「徴用」そのものに対する共通の認識すらいまだに定着していない状態なのに(外村大『朝鮮人強制連行』、李宇衍(イ・ウヨン)の論文などが参考されるべきだ)、司法府は歴史学者の学問的な成果を排除し、法律家たちの主張にのみ応えて彼らの肩を持った。慰安婦問題の場合、支援者たちは司法府の権限に頼って行政府を動かし、国民の税金と(政府支援・自治体支援)国民の寄付金を使って国民のほとんどが自分たちと同じように考えるように働きかけた。先述した崔鳳泰弁護士は、昨年10月の大法院の徴用判決が下されるまでの流れの形成に寄与した核心的な人物でありながら、2006年に挺対協とともに、政府が慰安婦問題に取り組まないのは憲法違反だと主張する訴訟を起こした主役でもある。昨年の秋の判決以降、英雄扱いされつつ多くのメディアに登場した彼は、現に「両政府が自国の司法府の意見を受け入れれば、すべての問題は解決」されると主張している。しかし、今必要なのは、この四半世紀における「法」の関与が、歴史問題の解決に果たして役に立ったかどうかをめぐる検証だ。

「法」は、葛藤解決の最終的な手段として機能し、人類の悠久なる慣習および約束の地位を守ってきた。そこで「法」は共同体の全ての構成員が守るべき「ルール」として作動してきてもいる。その結果として、法は時に人権保護の最後の砦にもなる。そういう意味では「法」の介入そのものは、依然として有効だ。

しかし、だからといって歴史問題をめぐる葛藤に対しての最終的な判断主体が、必ずしも法律家や法廷であるべきということになるわけではない。日韓両国はそのことを知っていたはずで、歴史問題をめぐる認識の接点を探るために、歴史共同研究委員会を稼働させたこともある。この試みは失敗に終わったが、学者同士でさえ接点を見出し得なかった問題を法廷に送り出したということは、相手の主張に耳を傾けることや接点を見つけ出すことを放棄して自分の主張だけを対抗的に言い続けることにしたということでしかない(さらに言えば、歴史共同委員会の失敗の原因は人選にもある。言うまでもなく、相手の主張に耳を傾けつつ接点を見出そうとしたり、より鋭い批判でもって議論を続けていくのではなく自分の主張だけを正しいとする人は学者の中にも少なくない)。

さらに、法廷も、歴史問題に関する判断を下す際は学問を参照しないわけにはいかない。結局、その法廷では「学術的」応酬が行われるようになる。だとしたら、歴史をめぐる学術的論争の場を法廷にするべき理由はどこにあるのか。
歴史学者でさえ、自分の思考を動かない正言として発することは不可能だ。学問というものは、常に更新されるべき運命にあるからである。そういう意味では、ある時点における一つの事態に対する認識において当事者と周辺の人の「全員が完全に」一致することは、構造的に不可能だ。可能なのは、関係者大多数の「合意点」を見い出すことでしかない。周知の通り、実際に法廷でも「合意(示談)」という名のもとでの接点探しはよく行われる。

法廷とは、ある事態を前にして、YesかNoかを明確にしなければならない空間である。YesかNoかという問いかけに答えるとは、問題を限りなく単純化させることでもある。単純化が行われる理由は、法廷という空間で重要視されるのはすでに存在する「法」を違反したかどうかだからだ。その法を違反したことが明瞭で「犯罪」と確定できない限り処罰が不可能になる「法」の性格上、そうしたことを避けることはできない。

慰安婦問題に関わってきた者たちも、まさにその理由で、慰安婦の動員および慰安所という場所が「不法」か否かに注目しつつ、「法」を違反したと強調してきた。関係者たちがいつまで経っても「強制連行」と強調する理由はまさにそこにある。
もっとも、最初の頃は関係者たちは、慰安婦動員は軍人による強制動員だと信じていた。だが時間が経つに連れて、動員過程における物理的な強制性を通せないことが分かると、今度は慰安所での生活における強制性の強調に移行した。後述するが、その主張は、もはや成立しない。
もちろんこのことは、慰安婦問題において日本や日本軍の責任がないということではない。

より大きな問題は、そのような「強制性」の強調が、慰安婦問題を国家と国家(民族と民族)との間の問題としてしか理解しないようにしてしまった、という点にある。「日本人慰安婦」の存在が忘れられた理由もここにある。「日本人慰安婦」の存在は、「日本軍(国家)」による強制連行」に対する疑問を起こすほかないものだからだ。慰安婦問題が、関係者たちが強調してきた結果として今や大統領までも口にするようになった「人権」問題ならば、当然「日本人慰安婦」の存在も注目されなければならなかったにも関わらず、彼女たちはこの四半世紀の間、徹底的に忘却されてきた。他ならぬ「人権」問題に直接関わってきた者たちによって、である。

他の理由もあろうが、日本人慰安婦問題が注目されなかった理由は、「慰安婦問題の司法化」にもある。慰安婦問題は民族同士の問題以前に男女問題であり階級問題との認識を全く持っていなかった「法至上主義」は、慰安婦問題をもっぱら<日本軍が「他国」女性を奴隷同様動員した国家間問題>、というふうに理解させた。

もちろん「歴史の司法化」には良い機能もあろう。しかし慰安婦問題の場合、問題そのものに対する理解が不十分なまま過去の「戦争犯罪」としてのみ理解されて問題を複雑にしただけでなく、可視化されなかった「被害者」を排除した。

徴用問題の判決をめぐって大統領と外交部が、司法府の決定なので関与できないとしているのは、このような過程を認知していないゆえのことだ。同時に、大統領本人が弁護士として「歴史の司法化」に関与したことがあるゆえのことである可能性も高い(先述した崔鳳泰弁護士によれば、文大統領は2000年に釜山で提起された最初の徴用者訴訟に原告側弁護人として参加した)。

しかし、四半世紀にわたる「歴史の司法化」の過程と結果を、今からでも検証する必要がある。そうでなければ、「歴史の司法化」はさらなる矛盾を生み出し、現在だけではなく、次世代の平和をまで脅かすだろう。その兆しはすでに見えはじめている。

ある事態をめぐる正義を見極める能力は法官たちの専有物ではない。いや、司法がかえって暴力と化した歴史は遠いところにあるわけではない。冷戦時代の人革党事件はそうしたことを象徴する事態だった。

「歴史の司法化」の歳月を振り返らなければならない。支援者たちの主張通り、当事者主義が肝心ならばなおさら、「歴史の司法化」の主役だった代理人・代弁者ではなく、当事者自身の声が聞き取れるような通路が必要だ。私たちがその声を今だ聞き取れていない「当事者」は、実は少なくない。

司法の場は、対立する意見の中、片方の肩を持つことで複雑な事柄を単純化し、それ以上考えさせない。「法」は、歴史問題を扱うのに最適の道具ではないのである。

何よりも、歴史問題が政治かつ外交問題となって国民全体の問題となった以上、その解決は、当事者にとっては言うまでもなく、国民も納得できるものでなければならない。接点にたどり着くための全過程は、内部/外部に向けてそれぞれの接点を見い出すための努力であるべきだ。もちろん、自分と異なる意見を力ずくで抑圧するやり方も退けられるべきだ。そのすべての過程は、同時代のみならず次世代のためのものでなければならない。

日韓関係、問題はどこにあるのか ― 1.歴史の司法化(2) 「法的謝罪」の主張と「訴訟」の武器化

1.歴史の司法化

(2)「法的謝罪」の主張と「訴訟」の武器化

慰安婦問題や徴用問題を政治外交の問題にしたのは他ならぬ支援者たち、特に「法」の専門家の法律家・法学者たちであった。長い年月にわたって、日本のすべき謝罪とは「法的謝罪」であるという主張を展開したのも、その理論的な根拠を提供してきたのも、法律家・法学者たちである。

しかし、ある時代の歴史によって巻き起こされた問題への謝罪が、なぜ「法的」謝罪でなければならないのかに関する議論は今までなかった。詳しくは後述するが、彼らの主張通り、「強制連行―国家責任」であるとしても、それに対する責任を負う仕方がなぜ「法」に基づくものでなければならないのかをめぐってはきちんとした社会的な議論がなかったのである。

90年代以後、日本は幾度かにわたって謝罪と補償を行い、慰安婦ハルモニたちの声と支援者たちの要求に応じたが、そんな謝罪は無意味であり、国会で「賠償」法を制定して謝罪・補償しなければならないとするのが「法的謝罪」の中身である。

ところで、日本の一部の国会議員は1990年代から2000年代初頭にかけて、そのような賠償法を制定するための努力を惜しまなかった。だが、「国家による強制連行でもないのになんで国家犯罪なのか」という反発に会い、結局その努力は挫折した。

であれば、そのような反発の生じた原因を分析するのが手順であろう。しかし、関係者たちはこの反発に耳を傾けたり分析しようとはしなかった。自分たちの主張を省みて日本を動かすため的を射た批判の模索、もしくは新たな接点探しではなく、内容をすり変えた「強制連行」の主張と、「罪の意識も責任意識もない」日本に向けての糾弾、そして訴訟があっただけだ。

2015年末の「日韓合意」に支援者たちが反対した理由はただ一つ、それが「法的」謝罪ではなかったという点にある。そのような主張の問題点に関してはすでに述べたこともあるが、本論の後半でもう一度具体的に述べる。

実のところ、「慰安婦は売春婦だと書いた」とする、文を捻じ曲げた主張も私に対する告訴の表面的な理由に過ぎず、告発者たちが『帝国の慰安婦』を訴えたのは、「朴裕河の活動が私たちの慰安婦問題解決のための運動を邪魔する」という理由からであった。このことは『帝国の慰安婦』に対する告訴状に明記されている。付け加えておくと、そのようなとんでもない主張が盛り込まれている報告書を作ったのはなんとロースクールの学生たちであり、そのような読みのほうへ誘導したのは慰安婦居住施設ナヌムの家の弁護士であった。

慰安婦支援者たちが政府を訴えて勝訴し、政府を動かしたということに関しては先述したが、問題の解決手段として司法府や国際裁判所をすぐさま利用するのは韓国だけのことではないようだ。このような現象について「政治の司法化」「外交の司法化」とする人もいる。だが、より深刻なのは「歴史の司法化」現象だ。

20世紀末に生じ、21世紀に引き継がれた慰安婦問題の中心にいたのは、歴史学者以上に法律家・法学者たちであった。

実際に、慰安婦問題をめぐる議論でよく使われる論理作りでは、歴史学者より法律家の役割が大きかった。その先頭に立った者が、戸塚悦郎という日本人弁護士である。彼は80年代から人権問題を国連にアピールする活動を展開したが、その経験をもとに、国際社会へのアピールを心がけていた挺対協を積極的に手伝った。彼によると、今ではすっかり定着した「性奴隷」という言葉を造ったのも彼である。

90年代以後、挺対協も国連に向けて情熱的に活動したが、クマラスワミ報告書(クマラスワミも法学者である)やマクドゥーガル報告書の提出を可能にしたのは、戸塚のような日本人弁護士たちであるとしても過言ではない。日本では弁護士協会が団体レベルで早くからこの問題に向き合っていた。慰安婦問題や徴用問題などの「被害者」問題に早くから関わってきた崔鳳泰(チェ・ボンテ)弁護士は、彼が被害者問題に関わったきっかけは、日本留学時代に日本人弁護士たちがこの問題に情熱的に取り組んでいる様子を目にしたからだ、と述べている。このような彼の言葉にもそうした状況が象徴的に現れているのである。

慰安婦問題が台頭して間もない頃の1994年に国際法律家委員会が報告書を提出したのも、日本の法律家たちの努力の賜物なのであろう。そういう意味で、国際社会が慰安婦問題を見る視座作りに決定的な役割を果たしたのは、歴史家や証言者以上に、法学者・法律家たちだ。

法律家たちを歴史問題に積極的に関与するようにしたのは、「東京裁判」もしくは「ニュルンベルク裁判」であった。つまり、過去の歴史に生じた問題が法廷で「処罰」されたということを知っている者らが、新たに向き合うようになった過去の問題に対しても、かつての問題と同じ問題と受け止め。似たようなやり方で「処罰」しようとしたわけである。

国連報告書は、慰安婦問題を「戦争」中の敵対国家の間で生じた事柄、つまり「戦争犯罪」としてしか理解していない。報告書は慰安婦問題を、同時代に発生したアフリカ・東ヨーロッパの内戦における部族レイプや拉致などの被害と似通うものとして理解していたのである。

もっとも、それは挺対協をはじめとする支援者たちが、慰安婦問題をそうした問題と同様の問題であるかのようにアピールした結果であるはずで、国連人権委員会や国際法律家委員会はそのような意見をそのまま受け入れ、同時代の悲劇と慰安婦問題を同一視した。

同じ時期に、慰安婦動員は公娼制を利用した間接的な動員であったとする研究はすでに存在し、発表されてもいた(金富子、宋連玉、山下英愛など)。しかしこのような「学問」の内容が、問題を理解するための参考資料として国連に提出されてはいなかったのだろう。慰安所には朝鮮人・台湾人だけではなく日本人も多く存在し、むしろ日本人女性たちが慰安婦制度の中心であったという事実が強調されたことも、言うまでもなく、ない。

既存の学者たちは1932年の上海に初の慰安所が設けられたと説明するが、日清戦争の際の朝鮮半島には軍人のための日本人女性たちがすでに入っていた。日露戦争の後、1910年に作られた鎭海の日本軍基地が「慰安」を求めたのは、朝鮮ではなく日本居住の女性たちであった。

日本と朝鮮は「戦争」ではなく「植民地化」を媒介とする関係であった。結果、この時期の朝鮮は「日本帝国」の治下に置かれていたがゆえに、日本と国家単位の敵として戦った中国とは、満州国を除けば、立ち位置は根本的に異なる。したがって、朝鮮人慰安婦問題は「戦争」ではなく「朝鮮の植民地化」という視座から考察しなければならない問題であった。私が『帝国の慰安婦―植民地支配と記憶の闘争』というタイトルであえて「帝国」「植民地支配」という語を用いた理由もそこにある。相互の関係を見極めなければ、正確な批判が不可能だからだ。正確な批判のみが解決を可能にする、というのが『帝国の慰安婦』の主張でもあった。

『帝国の慰安婦』が出てから、20年以上「戦争犯罪」という言葉しか使わなかった研究者・活動家たちは、「戦争責任」の代わりに「植民地支配責任」という言葉を用いるようになった。にもかかわらず、彼/
彼女らは 『帝国の慰安婦』を法廷に送り出した者たちに同調して今でも『帝国の慰安婦』を非難している。

90年代以後、日韓の葛藤をめぐる問題において、もちろん「法」関係者たちは善意と情熱をもって解決に取り組んだ。その努力は高く評価されなければならない。
しかし、そうした主張と活動は、残念ながら四半世紀以上過ぎても解決をもたらしていない。司法府が彼/彼女らの味方となり政府まで動き出したにもかかわらず、である。善意から関わったはずだが、その過程は慰安婦問題に対する世間の誤解と対立を増幅させ、結果的に葛藤を維持させた。